92 スパコン「京」誕生物語 (その1)

昨日、米国シアトルで開催中のスーパーコンピューター学会SC11にて発表された世界スパコンランキングTOP500の中で、日本の「京」が、今年の6月に引き続き第一位に輝いた。性能も、その名のとおり毎秒1京回以上の演算能力を発揮、命名に恥じない性能を出すことができた。今でこそ、多くの国民の方々に祝福される快挙となったが、ここまでに至る道は苦難の歴史であった。毎年、米国で開かられるSCXXには、そう何年前からだろうか? SC06、SC07からSC09位まで毎年参加してきたが、かつて、NECが開発した地球シミュレーターで世界を驚かせた日本の勢いは既になく、IBM、クレイなど米国勢一辺倒の中で大変寂しい思いをした記憶がある。

そんな中で、もう一度、日本勢として世界一のスーパーコンピューター開発に挑戦してみようという機運を最初に作られたのは財務大臣、科学技術庁長官を務められた尾身幸次先生であった。尾身先生は、NPO法人STSフォーラムを主催していることで、世界中の研究者に、その名が知られている。STSフォーラムとは、The Science and Technology in Society (STS) forumのことで、毎年、世界中から5,000人もの第一級の研究者、科学者、経営者、政治家が京都に集まって議論をする日本最大の国際科学技術フォーラムである。その主催者が尾身先生で、政権交代後も開会式には総理が出席し、開会の辞を述べる慣わしである。

その尾身先生のお考えに賛同したのが、富士通の社長、会長を務めた、秋草富士通相談役であり、私は、まず、秋草さんによって、この世界に引き込まれた。最初は、あちこち、一緒に同行して下さったが、途中からは「もう、お前、一人でやれ」という感じで任された。尾身先生は、「再度、スパコンで世界一を!」という意志は、お持ちだったが、富士通は全く信用していなかった。やはり、巨額の損失を覚悟して「地球シミュレーター」の開発を請け負ったNECの方を信頼していたのだ。「富士通は採算が合わないと見たら、きっと逃げる」と思われたのだろう。事実、地球シミュレータープロジェクトでは、富士通は逃げた。そして、今回の「京」プロジェクトでも、富士通は結果的に巨額の損失を出した。しかし、この損失は「投機」ではなく「投資」であると私は考えている。それは富士通自身への将来の投資だけでなく、日本の科学技術発展への投資でもある。そういう綺麗ごとが言えるのも、こうした一時的な損失に耐えられるだけの財務状況があっての話であり、やはり健全な経営があってこその社会貢献である。

これから、尾身先生をはじめ、何人かの恩人の方々を、ご紹介したいと思っているが、この「次世代スーパーコンピューター」開発プロジェクトは、最初から苦難の歴史であった。それは、この国家プロジェクトが関係者に対して何の利権も生まないばかりか、世界一を奪取するという目標のリスクが大きすぎて、政治家は自らの政治生命に関わるリスクがあり、官僚も出世の階段を踏み外す恐れがあることから、殆ど誰も積極的には賛成をしなかった。それは、富士通社内でも同様である、こんなに損失を出してまで、「何で世界一でないといけないのか?」という議論は、後に有名になる「事業仕分け会議」だけでなく、富士通社内の経営会議でもあった話である。

思えば、このスパコン「京」が誕生するまで、随分と時間がかかったものである。どうやら、このスパコン開発計画が国家プロジェクトになりそうだとの感覚を私が持ったのは、小泉政権の時だった。当時、富士通の会長だった秋草さんと二人で、首相官邸に行き、細田官房長官に国家プロジェクト立ち上げの、お願いに行ったときに、「これは本当に始まるかも知れない」という感触を漸く持つことができた。細田さんは、政界きってのIT通で、ご自身でパソコンを自作されるほどのパソコン・オタクである。だから、「スパコンの話はわかりました。総理とも良く相談してみます」とすぐに同意を頂いた。

むしろ細田さんからは、「これからも、ずっと日本でパソコンを作り続けてくださいね」と、逆に、お願いをされた。富士通のパソコンの主力工場は島根県斐川町にあり、正確に言えば、細田さんの選挙区ではないのだが、隣の出雲市は細田さんの選挙区である。その出雲市から富士通のパソコン工場に通っている方が数多くいらっしゃるのだった。ここで、私は、細田さんに、「島根県の方々には車通勤の利点を活かして、大変、変則的な勤務体系をお願いしており、それを快く受け入れて頂いて感謝しています。」とお答えした。細田さんは「工場を日本に据え置くために企業と地元の従業員が、どのように協力しあっていけば良いか、よく話し合って下さい。」と言われた。政治家の方々の最大の関心事は、やはり雇用の問題である。

首相官邸に行ったのは、この時が最初で最後である。官房長官室は首相の執務室の隣で、大変立派な部屋だった。二階の長官室から階段を降りてくると十数人の官邸記者クラブの人たちに取り囲まれ「今日は、何の用ですか?」と詰問された記憶がある。もちろん、「今日は、パソコンの話です。」とお答えをした。嘘でも何でもない、真実である。首相官邸と名のつく場所には、この日以外には、インドのマンモハン・シン首相に、当時の甘利経産相と「デリー・ムンバイ産業回廊」の話で会いに行ったときしかない。二重三重にもボディー・チェックがあり、厳しいのはどこも同じだ。

細田さんは、自民党IT議連の幹事長をやっておられたが、その時の事務局長が、現在、自民党政調会長をされている茂木先生だった。スパコン・プロジェクトでは、茂木先生にも大変、お世話になった。茂木先生は、私たちが作成した資料に、ただ口頭で批評されるのではなくて、実際に赤鉛筆で修正をされるのだから凄い。さすが、元マッキンゼーの第一級のコンサルタントである。東大からハーバード大学を卒業されて入社したマッキンゼーで茂木さんが最初に手掛けた仕事が「NTT分割」だというのだから、何とも言いようがない。私は、何度も議員会館にお邪魔して茂木先生の指導を受けたが、これほど優秀なコンサルタントは日本には居ないのではと思うほどだった。

そして、この「京」は10ペタ・フロップスの性能を意味するわけだが、これを命名したのは、もちろん政治家である。確か、財務官僚出身の後藤先生だったと思う。私は、最後まで、この10ペタという目標に抵抗し続けたのだが、「京」と命名されて観念をした。私たちが、完全にコミットできるのは1ペタで、多分出来るだろうと思っている性能も、せいぜい5-7ペタが限界で10ペタは、ちょっと、どう見ても無理と主張し続けていたのだった。それを私たちに説得したのが理研の姫野先生で、「富士通は7ペタで結構、NECが3ペタを受け持つので、両社合わせて10ペタにしましょう。」と何だか玉虫色の決着だった。それでも、私たちは、NECが3ペタを受け持ってくれるのなら、何とか頑張れば出来るかも知れないと思い決断に踏み切った。

しかし、何が起きるかわからないものである。NECが途中で撤退したのだ。NECの開発者の方々は、さぞかし無念だったと思う。富士通の社内でさえ、「こんなにリスクが大きくて採算に合わないプロジェクトは撤退したらどうか? NECの経営判断は極めて正しい。」という人たちの数も決して少なくはなかったからだ。しかし、私たちは焦った。「富士通単独で、どうやって10ペタ出すんだよ?」という不安で一杯だったからだ。

(続く)

 

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