452   鎌倉殿の13人

今日からNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まった。初回の今日、早くも我が祖先とされる伊東祐親が登場した。伊東祐親は親平家の東方豪族として平清盛の信頼が厚く伊豆に流された源頼朝の監視を任されたが、頼朝を匿い旗揚げに貢献した鎌倉幕府初代執権北条時宗の岳父でもあった。つまり鎌倉幕府二代目の執権北条義時や頼朝の妻である北条政子の祖父でもある。元々、伊東祐親は伊豆の伊東庄を収める工藤家の一族だったが、一族間の紛争もあり頼朝の指示を受けた工藤祐経からの襲撃を受けた。祐親は、なんとか一命を取り止めたが、嫡男である伊東祐泰は命を落とす。

頼朝挙兵から13年後の建久4年(1193年)に伊東祐親の孫である曾我祐成、時到兄弟は父、伊東祐泰の仇である工藤祐経の仇討ちを果たす。これが江戸時代から脈々と歌舞伎で演じられている日本三大仇討ちの一つに数えられる「曾我物語」である。歌舞伎で見ると、この仇討ちは頼朝が主宰する富士野の狩の陣で行われたが、この舞台の工藤祐経の陣には「庵木瓜」の家紋がある。私は、テレビでこの芝居を見ると、まだ子供ながらに「この家紋はお爺ちゃんの家で行われる葬式で提灯に書いてあった模様だな」と思っていた。

それだけのことならば、この話は、ここで終わりである。私は、富士通に入社して3年目にある方の紹介で見合いをした。このある方というのが、当時、毎日新聞社会部長だった山崎宗次さんだった。山崎さんは早稲田大学政経学部を卒業後、毎日新聞に入社されて社会部に配属され長年警視庁詰めの事件記者をされていた。この当時の山崎さんをモデルにしたのが、あのNHKの大人気番組「事件記者」である。このドラマの中で園井啓介が演じる主役「山ちゃん」が実は山崎さんだった。

山崎さんは、多忙な中、マスコミ志望者向けの文章教室「山崎塾」を開いており、ここから多数の新聞記者が輩出したこともあり新聞業界では著名な人である。この塾で教えている文章術は「カンカラ作文術」と呼ばれているが、これは「カンカラコモデケア」の頭文字を持つ7つの要素を文章に折り込むことで人の感情をグラグラと揺さぶる文章を作る必殺技のことを言う。まず「カン/感動」で書き手が心動かされた経験を盛り込むと読者も引き込まれると言うこと。次に「カラ/カラフル」で五感の情報を混ぜると具体的な情景を想像できて記憶に残りやすい。また「コ/今日性」は旬な話題を入れると新鮮さを感じさせる。その他「モ/物語性」、「デ/データ」、「ケ/決意」、「ア/明るさ」などが挙げられている。

山崎さんは、超多忙な生活の中で、マスコミ志望の大学生たちに無償で文章術を教えていただけでなく、当時、皇太子妃だった美智子妃殿下に毎月世の中で起きていることについて上奏されていた。こんな山崎さんと私の接点は、山崎さんのお姉さんである小泉晴子さん(小泉石油社長夫人)と私の母が茶道の友人だったからだ。山崎さんは、ご自身と同じ早稲田大学政経学部の後輩で、山崎塾で学び、毎日新聞に入社した私の義兄(結婚後義兄となった)から仲人を頼まれた。義兄は、私と同い年で毎日新聞に入社すると直ぐに山形支局に配属された。着任と同時に5歳年上の山形新聞の黒澤洋介記者と一緒にサツ回りをするなど、地元での人脈作りに勤しんだ。黒澤洋介氏は、その後、山形新聞の社長、会長を歴任し、文字通り山形メディア業界のドンとして君臨され、私も黒澤氏の後援で山形新聞主催の講演会で何度か講演をさせて頂いた。

その当時、私の妻の父である櫻井新蔵は、山形県の企業局長から特別職である企業管理者に就任していた。山形市緑町には県知事公舎の他、副知事、企業管理者、警察本部長の官舎が同じ街区に建っていて、その並びには、第一勧銀山形支店長の社宅もあった。岳父である櫻井新蔵は幼少より学んだ梅若流謡曲の師範で、県知事の安孫子(後に自治大臣に就任)さんや、副知事をされていた渡さんに謡曲を教えており、ご近所で日常的にも深いお付き合いをしていた。そんな中で、義兄はある日、取材で第一勧銀の支店長宅を訪問した。そこで、義兄は妻の一つ年上の姉を紹介されることになる。当時、大阪で開催された国際万博の日本政府館では日本全国各都道府県から1名ずつ公開オーディションで選ばれた女性をコンパニオンとして採用していた。妻の姉は「大阪万博・ミス山形」として選ばれた近所でも評判の美人だった。

義兄は実際の仲人である第一勧銀支店長には感謝しながらも、結婚式の仲人には自分の恩人である山崎さんご夫妻に依頼した。そして、山崎さんご夫婦は、無事、その仲人の役を果たす中で、義兄の相手の女性の妹さん(後に私の妻となる女性)を大変気に入られて「妹さんに誰か良いお相手を見つけましょう」と妻の両親に約束した。そんなことで、私に見合いの紹介が回ってきたのだが、何しろ超多忙な山崎さんの日程調整が全くつかず、結局5月の連休明けに山崎さんの奥様の万里子さんと二人で山形へ向かうことになった。

当時は特急電車でも上野から山形まで5時間以上かかっただろうか。二人だけで、この時間を、どう過ごそうかと言う悩みは直ぐに吹っ飛んだ。お互いに、それほど年も違わないこともあったのかも知れないが、万里子さんは気さくに身の上話から始まって色々なお話をして下さった。鎌倉時代から続く名跡である二宮の知足寺に生まれた万里子さんは、小学校4年生の時に、その旺盛な好奇心からかアメリカで一人暮らしをしている叔母の元へ行ってみたいと思い立った。そして、それを実行した。叔母の庇護の元で、サンフランシスコで成人になるまでアメリカの教育を受け、成人してから叔母と共に二宮へ帰ってきた。当然、万里子さんは完璧なバイリンガルだった。

山形に着くと、妻と妻の両親が山形市内の料亭で待っていた。こちらは、仲人の万里子さんと私の二人、なんだか少し変な形だったが、万里子さんのリードで会話はスムースに進んだ。特急電車の中での長時間の会話で私の性格を全て掌握し切った万里子さんのなせる技だった。さすが、山崎さんの奥様である。一方、私の独身時代は5月の連休は毎年八方山荘でスキー合宿をしており、そこから降りてきたままだったので、妻から見ると色黒で精悍に見えたのかも知れない。そういうこともあって、お互いに結婚することになり、山形で行われた結納の儀には、私の両親と山崎さんご夫妻も揃って出席して無事に執り行うことになった。

地元山形と東京で2度の結婚式も無事終了して、私たち夫婦は仲人を務めて頂いたお礼に二宮の山崎さんのお宅に伺った。山崎さんのご自宅は、万里子さんの実家である知足寺のお隣にあった。多忙で留守がちな新聞記者の奥方としては、実家が直ぐ近くにあるのはとても心強かったことだろう。帰ろうとした時に、万里子さんから「うちのお寺を見て行かない」とお誘いを受けたので、私たちは開山800年の名跡を案内して頂くことにした。そこで驚いたのは、この知足寺が曽我兄弟のために作られたお寺だったと言うことだった。

工藤祐経の仇討ちを果たした後に、頼朝から処刑を命じられた曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、鎌倉幕府二代目の執権となった北条義時や尼将軍と言われた北条政子と同じく、伊東祐親を祖父とする「またいとこ」である。頼朝の死後、まもなくして、義時と政子は曾我兄弟の姉である花月尼に曾我兄弟の菩提寺を開基することを許すばかりか手厚い支援も行った。万里子さんの案内で「庵木瓜」の家紋がついた曾我兄弟のお墓を見た時に「私の結婚はご先祖様の導きだったのか」と不思議な縁を感じざるを得なかった。今日から始まった「鎌倉殿の13人」は、今後、どういう展開を見せるのか分からないが、鎌倉時代における東国武士は決して源氏の一枚岩ではなく、北条氏のような平家の武士たちも鎌倉幕府の運営に大きな役割を担っていたと言うことなのだろうか。

 

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