447    中西宏明さんを悼む(2)

スタンフォード大学で修士号を収めた中西さんは、大みか工場に復帰して毎日の業務に勤しみ、いよいよ副工場長にまで上り詰めた。日立は工場が、完結した一つの事業体であり、工場長と言えば子会社の社長みたいなものである。その副工場長と言えば大したものである。中西さんは、その大みか工場の副工場長からお茶の水にあった日立の本社に転籍し、企画部門に勤務することになった。その当時の中西さんとの会話では「会社から100億円預かった。これから新規事業の開発に取り組む」という張り切った声が今でも忘れられない。

その後、中西さんは、海外事業へと進む。同じ時期に、私も海外事業を担務していたこともあり、成田空港で同じ飛行機に乗ることも何度もあった。私も、中西さんも、いつも一人。搭乗する列に並ぶ中で、交わす言葉は、ほんの少しだけだった。「前回は、南アフリカ。今度はヨーロッパ。いずれもボイラーの売り込み。日本のボイラーは横に置くけど、欧米のボイラーは縦に置く。所変われば品変わる。」と、いつも他愛のない会話だった。

その中西さんが、最初に就いた地域責任者は中国総代表だった。以来、中西さんは、中国に対して「中国は、どうあろうと未来永劫、日本の隣国だ」との特別な思いがあり、中国では官民ともに多くの知己を得た。リンパ腫が発見される直前、ワシントンから東京へ帰国した中西さんを中国政府の高官が、早速訪問したのも理解できる。しかし、それほど敬意を評していた中国に対しても「とうとう中国での新幹線ビジネスは、モーターだけになった」とこぼしていたのも印象的だった。

中国の次は、ロンドン駐在となって欧州総代表になられた。英国は、金融事業で生業を立てている国で、インフラ構築には全く関心のない国である。送電線も通信線も地下埋設されているが、その地下道もローマ帝国時代に建設された水道設備を、今も使っている。それで、英国が深刻な電力不足に陥っていることを何とか救えないかと中西さんは原発設備の商談を英国政府に持ち込んだのだと思われる。さらに、欧州の鉄道網はドイツのシーメンスとフランスのアルストムが独占しており、日立が欧州で進出できる可能性があるのは英国だけだった。こうして、英国の原発と鉄道の商談成立は中西さんの欧州総代表時代の大きな功績となった。

しかし、2010年に中西さんが日立の社長に就任された直後、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を契機に世界の原発ビジネスは大きな変化を生じてくる。原発は、従来以上に事故防止のために必要な費用が膨らみ、運転収益が当初の見込みから大幅に減少した。英国原発ビジネスについても、日立社内の取締役会で社外取締役を中心に反対意見が強まる中で、中西さんの動向が注目されていた。そんな中で、私は中西さんに「どうするの?英国原発は」と尋ねると、中西さんは「今のマスコミ報道には頭に来てる。私は、日本政府にお伺いを立てているわけではない。政府系金融機関から支援をお願いしているので、官邸には交渉経緯を報告する義務はある。しかし、この問題は、日立と英国政府の問題だ。だから、最後に決めるのは日本政府ではなくて日立だ」と言い切った。

中西さんは欧州総代表として勤務した経験からも、日立の将来の姿をシーメンスに重ねていたと私は思っている。かつて、ジャック・ウエルチによって理想的なエクセレントカンパニーに仕立てられたGEは、所詮、金融会社になっただけだった。やはり金融業と製造業の両立は難しい。GEがリーマンショック以降、アメリカを代表するクオリティの高い企業を示すダウ工業株30種から転落したのも必然だった。私も、シーメンスとの共同事業に10年も参加したお陰で、シーメンスの幹部とは大変親しくお付き合いさせて頂いた。シーメンスは、常に事業の入れ替えを行なっており、祖業である通信ビジネスまでノキアに売却した。今も、引き続き経済合理性を最重要視するシーメンスは、GE以上にエクセレントな企業である。

中西さんは、日本の経営者としては珍しく、経済合理性を非常に重要視していた。日立の祖業である火力発電事業を三菱重工に売却したのも、そうした考えからだった。この祖業の売却は、当然、日立社内の猛反対に会った。その当時の中西さんの言葉では「東日本大震災以降、日本の電力会社は体力を失った。コスト意識が従来に比べて全く違う。これからは日本の電力会社の設備投資も、価格が安い韓国や中国との真っ向勝負になる」と言っていた。超超臨界圧で石炭をガス化して発電する設備で世界一の燃焼効率を誇っていた三菱重工に売却する方が日立の火力発電事業の生き残り戦略として正しいと考えられたに違いない。

さらに、シーメンスが原発事業から撤退したのを、中西さんは、本当は羨ましく思っていたのではないかと思われる。しかし、福島第一原発の事故で、日立は東芝やGEとともに当事者となった。現在も廃炉に向けて2,000人もの日立社員が働いている。そうした中で、中西さんは、原発事業からの撤退は許されないと考えたに違いない。それでも、従来のような大規模な原発設備は災害に対して脆弱であり、今後の原発は全電源喪失にも耐えられる水中格納型の小型原子炉に限定すべきだとの考えを持っていたように思う。「これからは大規模集中発電設備に頼らない、小型の分散電源方式にしなくてはいけない」と中西さんは常々語られていた。

そのために、中西さんは、日立がこれから貢献すべき事業は、発電設備というよりも、再生エネルギー発電も含めた分散電源に適合した送電設備であり、それに深く関わるべきだと考えられた。実は、日本の電力会社は世界で類を見ないほど、高品質の電力を供給しているため相互融通の送電網に対して50Hz-60Hz変換以外は、何の工夫も入らないで接続できる。しかし、欧州や中国のように広域で信頼性のない発電設備を相互融通するには、高圧直流送電技術を使うのが一般的である。ところが、日本でも太陽光や風力を使う発電設備が増えてくると、お日様任せ、風任せで、頼りない発電設備を相互融通できる直流送電設備が何としても必要となってくる。

この点に関して、中西さんは「実は、日本には直流送電の技術がないんだよ。だから、スイスのABBを買った」と言われた。実に、7,800億円もかけて日立がABBを買収したのは、日本の送電網を大転換するという中西さんの夢があった。実は、日立は、風力発電設備(風車)の製造事業からも撤退している。もう、風車の製造では、三菱重工と合弁会社を設立した世界一の風力発電設備会社であるデンマークのヴェスタスやシーメンスには、どうあがいても勝ち目がないと踏んだからだ。しかし、送電線の設備なら、日立には、日本に地の利があるし、日本中の送電設備を変えていくには、今後、100年近く事業が続くと考えたに違いない。

こうして、日立の大改革に目処をつけて、大みか工場時代から長い間信頼関係にあった東原氏に日立の未来を託した中西さんは、次に、日本の大改革へと経団連会長として、仕事を進めることになる。実は、中西さんも「家内は、最後まで経団連会長に就任するのは猛反対だった」と言っていた。これまで長い付き合いがある私にも、なぜ中西さんが、経団連会長の職にこだわるのかが理解できなかった。中西さんは、これまでの経団連会長というような予定調和を目指す仕事よりも、むしろ、周囲からの支持が得られにくいようなリスクの高い直言を若い時からしばしば行われてきた。それが一度、日立の社長レースに敗れた一因かも知れないと私は今も考えている。中西さんの父親は中堅企業のオーナー経営者であり「いざと言う時は、親父の跡を継げばいいか」というような覚悟が中西さんにはあったからかも知れない。

 

 

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