富士通の社長、会長を務められた関澤 義氏(以降 関澤さんと呼ばせて頂きます)が1月20日に89歳で亡くなられた。心からご冥福をお祈り申し上げます。関澤さんは、昭和29年、私が小学校1年生の時に富士通(当時の富士通信機製造株式会社)に入社され、私とは16歳も違う。従って、上司と部下の関係になったことは一度もない雲の上の方であり、同じ大学の同じ学科卒業の先輩、後輩という以外に、個人的には何の関わりもない。
だから、思い出と言っても、ちょっとした機会に立ち話をする程度の断片的なものの積み重ねでしかない。それでも、その考え方には、いつも感銘を受けるだけの深みがあった。関澤さんは、大学を卒業後、富士通の通信事業部門に入られて交換機のエンジニアとして会社生活をスタートされた。関澤さんが、ある時、私に「富士通の通信部門には、伝送、交換、無線と3つの事業があるんだけど、昔から伝送一流、交換二流、無線は三流と言われててね。交換は、ずっと冷や飯を食わされてきたんだよ」と言われた。
コンピューター部門で働いていた私には何のことだか、さっぱりわからなかったが、後になって、同期で入社した伝送部門のTOPだった大槻さんが交換部門のTOPだった関澤さんより1年早く取締役になられたことが、どうも無念だったらしいということがわかった。そこまで負けず嫌いの関澤さんだが、社長に就任された後は、通信部門で長年のライバルだった大槻さんに副社長としてコンピューター製品部門を全て一任されたのは何とも清々しい。
私と関澤さんの初めての出会いは、私が入社してすぐのことだった。関澤さんは、事業部門から富士通研究所に移られた。武蔵中原にあった富士通研究所は電電公社の通信技術の研究部門である武蔵野通研と深い関係にあり、富士通研究所の社長も代々電電公社からの天下りだったことから「中原通研」と呼ばれていた。研究所における関澤さんの主たる役割は、光通信技術の開発だったが、兼務として富士通研究所で初めて設立されたコンピュータ関連の研究部門である電子研究部も掌管されることになった。
何しろ、当時IBMを必死に追いかけているコンピューター部門としては、研究所と付き合っている暇などないという感じで、研究所はとりつく暇もなかった。そこで、研究所は文字認識を中心としたパターン認識の研究を電子研究部の最初のテーマに決めた。その当時、私は文字認識装置(OCR)の開発に従事していたので、恐れながら、まだ新入社員に毛が生えたレベルにも関わらず、関澤さんにパターン認識の講義をすることになった。関澤さんは、そんな生意気な社員の言うことに、逐一、丁寧に頷かれていたことが今でも印象に残っている。
当時、研究所の中では、関澤さんは近い将来、研究所の社長になられるのではないかと噂されていた。富士通研究所で初めての生え抜きの社長誕生に対する研究員の期待は大きかったのかも知れない。しかし、そうした研究員の期待とは裏腹に関澤さんは交換機事業本部に復帰される。その当時、交換機はリレー式からトランジスタを用いた電子交換機に変貌しつつあった。電子交換機は構造的にもコンピューターと同じである。関澤さんは、その交換機のソフトウエア事業部長に就任された。この辺から、コンピューター部門のソフトウエア事業部長を経験された後に社長に就任した山本卓眞さんは、関澤さんを将来の社長候補として考えていたのかも知れない。
入社3年目で結婚した私は、ベビーブーム世代だったため住む家がなかなか見つからず、田園都市線青葉台にある会社の新婚者向け借り上げ社宅のお世話になった。毎朝、田園都市線の青葉台駅から溝の口駅まで行き、溝の口駅で南武線に乗り換えて武蔵中原駅まで通っていた。その青葉台駅で、しばしば関澤さんにお会いして、仕事とは関係ない無駄話までする仲になった。関澤さんの年代でも家探しには結構苦労されたらしい。それで、当時の富士通は社員のために土地分譲まで行っていたようだ。
富士通が土地分譲を行った溝の口駅から近い菅生地区には、今でも関澤さんと年代が近い多くの方々が住んでいる。関澤さんは、私に「皆と一緒に近くに住むのが嫌でね、青葉台に家を建てたんだ。でも、その分、大変な苦労したんだよ。当時、田園都市線は溝の口駅止まりでね。長津田駅から246号線で溝の口駅まで行くバスで毎日通ったんだよ。これは、やはり失敗したかなと思ったね。」何とも、そんなに苦労してまでも群れることが嫌いな関澤さんらしいなと思った。
関澤さんと一緒に仕事をしたことは一度もないが、一緒に行動したことは一度だけある。東大電気電子工学科卒業生のリクルートである。関澤さんが団長で、私たち新入社員が手下となって、学科の学生を呼び込み、本郷赤門近くの梅寿司に四十人くらいの学生を集めてご馳走して入社を説得した。当時は、クレジットカードなどないので、人事部から大枚の現金を預かって結構派手な宴会を催したのだが、成果は今ひとつだった。しかし、たった一人だけ途轍もなく優秀な社員の採用には成功した。その学生が、後々、私が専務、副社長時代にスピーチライターとして、お世話になる磯村さんだった。
関澤さんが社長に就任して、まもなく、たまたま廊下でお会いしたので、「社長、ご就任おめでとうございます」と挨拶したら、関澤さんが立ち止まって私に仰った「伊東くんさ、この会社には5万人の社員がいるんだよ(当時は5万人だった)。こんなに大きな船の舵なんて簡単には切れないよ。5万人が、皆、それぞれ違うことを考えているんだからさ」。相変わらず、冷静で、ニヒルな社長である。それでも、これまでプロダクト中心だった会社をソフトウエア・サービス企業への転換を必死になって進められた。
そして、関澤さんは、相当なパソコンオタクで、かつて、富士通が世界に誇るマルチメディアパソコンFM-TOWNSの開発は関澤社長直轄プロジェクトとしてスタートしたらしい。そんなことも知らないで、私はパターン認識の研究開発業務から、FM-TOWNSの開発部長に任命された。世界初のCD-ROM搭載、音声や画像を自由に扱うことができるマルチメディアパソコンは世界中で評価された。そして、世界中、どこへ行っても「このパソコンがIBM-PC互換仕様で出来ていたら世界を制覇できたのに本当に残念だね」と言われた。しかし、それは、仕方がなかった。富士通はメインフレームにおいてIBMとの長い係争を経験していたので、パソコンの開発においては、あらゆる点でIBM-PCと仕様を異なるものにせざるを得なかったからだ。きっと、関澤さんも、もう少しだったのにと残念だったと思われたことだろう。
その後、関澤さんが進められようとした改革に「成果主義」がある。関澤さんは、グローバルには当たり前の会社経営のあり方が、当時の日本で、これほど世間から非難されることになろうとは想像だにされなかっただろう。関澤さんが、社長を退任されると同時に、私は、アメリカへ子会社のCEOとして赴任した。アメリカでは、学歴、性別、年齢に関係なく、全て仕事の「成果」で評価する。3年間で大赤字から脱却した会社の社員構成はマイノリティーと女性が中心となって活躍する会社となっていた。純粋に能力本位で採用し、仕事の成果で評価したら、たまたま、そうなっただけで、最初から、そういう社員構成を目指していたわけではない。ひょっとすると、関澤さんが、目指していた会社とは、そんな会社だったのかも知れない。
そして、東日本大震災が起きた2011年以降、私は、福島県立会津大学復興支援センターのアドバイザリーボードに就任した。今年も継続して任命されているので、かれこれ10年も続けさせて頂いていることになる。会津大学は日本で唯一の公立のIT専門大学で、教授陣は世界中から集められ、大学院の授業は全て英語で行われている。そして、この会津大学復興支援センターはITの力で震災復興に貢献する目的で設立され、これまで数多くの成果を出している。
さて、この会津大学も、どうやら関澤さんが深く関係しているらしいことが後でわかった。色々な方から伺うと、関澤さんは会津大学の設立に多大な尽力をされたらしい。関澤さんのお祖父さんは会津藩の高官で会津戦争に負けた後に青森の斗南藩へ移封された。今も、お祖父さんのお墓は、青森市の三内丸山遺跡に隣接する丸山霊園にある。同じく、この会津で白虎隊兵士だった山川健次郎は、この斗南藩から米国に留学して東京帝国大学総長に二度選ばれ、九州帝国大学の初代総長にも就任している。
山川健次郎は、会津藩が滅びた原因の一つに、藩における理系教育の欠如があったとの反省を踏まえて自らも物理学を専攻し、明治政府に対しても事実に基づく現実主義の政治を訴えたという。今でも、東大安田講堂の裏には山川総長の石碑があるが、関澤さんの生き方の中には、この山川健次郎の生き様が反映されているようにも見える。それで、自分のルーツである会津に日本一のIT専門大学を作りたいという志があったのだろう。今後とも、会津大学のアドバイザーとして、関澤さんのご遺志に少しでも貢献できればと考えている。