437   1970年 あれから半世紀

今年2020年は、私が大学を卒業した1970年から数えて50周年にあたる。大学の同じ学科(東大電気・電子工学科)の同級生、数名と、昨年から50周年記念同窓会を開くべく準備を進めてきた。その同窓会は、アメリカに在住している2名を含めて、この10月に開催の予定だった。しかし、COVID-19禍が収束しない中で、早々と1年延期を決めた。まるで東京オリンピックのようである。

元々、同窓会の開催に合わせて文集を発行しようと言うことになり、現在までに40名を超える寄稿が集まっている。全体が90名だから、ほぼ半数の方々の協力が得られたことになる。同窓会の開催は来年に延期になったが、せっかくだから文集の発行は、今年中に行おうと言うことになり幹事が奮闘中である。昨今、時代はペーパレスなので、ネットを通じて寄稿された文書をネット上で編集し文集化する予定と聞いている。従って、字数は制限なしで、写真添付もOKだ。

経団連会長の中西宏明さんも、闘病中の病室から寄稿して下さった。東大病院の高層階の病室から、昔の学舎である工学部3号館が望めると書いてあった。その後、回復されて退院、今では時々TVでお姿を拝見する。外見的には往時の元気な姿とは少し違うが、発言は滑舌もしっかりしていて、内容も従来通り手厳しい。来年に延期された同窓会には、元の元気な姿で参加されるよう心から願っている。昨年の5月に中西さん発病のニュースが流れた日、2週間後には、いつもの同級生たちと一緒にゴルフをする予定だったので、本当に驚いた。

さて、今から50年前の1970年3月31日、私たちは学科の事務室へ行き、学生証と引き換えに卒業証書を交付された。次の学年は、6月に卒業が延期されたのに、私たちは、3月31日に卒業式もない卒業をした。翌4月1日は、それぞれ新たな任地で入社式を迎えたのだ。噂によれば、この学年は一刻も早く大学から追い出さないと、再び紛争を起こしかねないと言う大学当局の懸念があったからだと言う。だから私たちは、前の年、1969年中に7ヶ月間の授業休止があったにも関わらず、予定通り卒業ができた。

1969年は、本当に激動の時代だった。1970年の安保改定を控えて、学生たちは、皆、不安定な心境だった。思えば、私たちが東大紛争の中で議論していた話の中心は70年安保の問題ではなかったような気がする。当時はアメリカではベトナム戦争反対で多数の学生が蜂起。フランスではカルチェラタンで多くの大学生が騒乱を起こしていた。世界中の学生が、不安定な心境のなかで様々な主張を繰り返していた。アメリカ、ヨーロッパ、日本の学生に共通することは、皆、その国々のベビーブーム世代だと言うことだ。

その後、良くも悪くも世界中で、ベビーブーム世代が新たな時代を築くことになった。戦争を知らない世代は、戦争で抑圧されてきた大人たちが、頼りなくて、物足りなかったに違いない。きっと、何で自分の意見を、もっとはっきり主張しないのだという不満だったのだろう。未曾有の受験戦争を勝ち抜いて、ようやく合格した東大という大学が、こんな大学だったのかという幻滅があったのかも知れない。私も、これ以上長く大学に残るよりは早く実社会に出て研鑽を積む方が得策だと思っていた。

大学を卒業して四半世紀。1995年に開催された卒業25周年同窓会は、先生方もお招きして伊豆の川奈でかなり豪勢な会合だった。東大紛争で、私たちが困らせた先生方が、この同窓会で、どのようなご発言をされるのか戦々恐々の心境でもあった。ところが、その発言は驚きのものであった。「君たちが、みんな揃って東大を壊せと言った。こいつらは馬鹿じゃないかと、正直、その時は怒り心頭に発した。でも、今、考えると君たちの言っていたことは正しかった。あの時、一度、東大を壊して、一から作り直していたら、今頃は世界有数の大学になっていただろうに」と。私は、この発言を聞いて、「なんだ、先生たちも同じ思いだったのか!」と何だかモヤモヤしたものが吹っ切れた。

そして、いよいよ今年は卒業50周年だ。私も、今日で73歳を迎える。今や、中西さん以外は、殆どの方は現役を退いてリタイア生活を送っている。地域で頼りにされる自治会長を長年続けている人もいれば、ボランティアで恵まれない子供たちに勉強を教えている方もおられる。あるいは、地域の老人会で歌を教えてカラオケ同好会を主宰されている方もいる。また、地元の教会で司祭を助けて教会の運営に携わっている方もいる。それぞれ、いろいろな第二の人生を送っている。

そういう意味で、私はなんとも中途半端である。中西さんのように現役で活躍できているわけでもないし、リタイア生活を満喫しているわけでもない。現在、三社から社外取締役を仰せつかっている。これも、いつまで依頼されるか分からないが、許されるものであれば続けたいと思っている。昔と違って、今の社外取締役には緊張感がある。会社側もきちんと情報開示しているので知らなかったという言い逃れは出来ない。どこの会社も、そうだと思われるが、業績が順調に伸びている時もあれば、突然、苦境に陥ることもある。そうした時に、正しく責任ある意見が述べられているのか? いつも大変な緊張感に襲われる。

また、取締役会がない時は、日本全国で講演行脚をしていたが、流石に、このコロナ禍で、全て中止、あるいは延期になってしまった。先月くらいから、ようやく少しづつ再開されつつある。この講演活動というのも、実は病みつきになる。「ぜひ先生に」などと依頼されれば、その気になるし。「好評でした」と言われれば、また、一層やるに気なる。好評ではなかった時は、何も言われないので、分かりようがないから、いつも自分の話は好評なのだと勘違いして、また依頼されれば、二つ返事で了解する。

講演活動をやっていて、一番苦労するのがネタ探しである。そして、それは楽しみでもある。とにかく、できるだけ多くの本を読み、多くの雑誌に目を通す。さらに多くの人と会い、話をすることだ。できれば自分とは意見の違う人が良い。特に、注意を喚起するのは、世の中で一般的に言われている話とは違う話題である。好奇心というより、捻くれ精神だろうか。そんな訳はないだろうと思うところから出発する。それを裏付ける証拠を見つけ出せると何とも楽しい。

実は、私にも、悩ましい問題がある。社外取締役と講師が、私の第二の人生だとするならば、それも、いつまで続けられるものではない。さて、その後の、第三の人生はどう生きるか? 今日、73歳となり、2回目の高齢者運転講習を受講してきた。次の高齢者運転講習には認知症検査も追加される。人生100年時代と言われているが、さて、これから、どんな人生を送るべきかについて真剣に考え続けている。

 

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