382 元東芝社長 西田 厚聰氏を悼む

今日、児玉博氏が書かれた「テヘランからきた男:西田厚聰と東芝壊滅」を読んだ。この本の中で、以前から西田氏と知己があった児玉氏の書きぶりは、死の2ヶ月前のインタビューも含めて、基本的には好意的な姿勢に満ちていた。私は、以前から経営者の実績は、その個人の力量よりも「運」に左右されると思っている。西田さんの場合も、東日本大震災による福島第一原発事故が、その運命を大きく変えたことは間違いない。西田さんが、東芝社内で、どのように行動されたかは、この著作以上に知る由もないが、私が直接相対した西田さんの印象は、この本の著者である児玉氏以上に尊敬に満ちたものであった。

富士通の取締役を務められ、富士通総研の理事長でもあった野中郁次郎先生は、この西田さんをとても高く評価されていた。野中先生は、西田さんの東大大学院時代の論文を評価されていて「このように立派な政治哲学を持っている人が経営に携わることは、とても素晴らしい」とベタ褒めであった。さらに、野中先生は「富士通の社員の究極の目標は社長になることだろうが、東芝は違う、社長になった後で、どのように社会に役立てるかまで考えている。その両社の違いは極めて大きい」と常々言っておられた。

私が、最初に西田さんにお会いしたのは、マイクロソフトがAppleのiPadの10年以上も前にタブレットPC発表のため、ニューヨークのタイムズスクエア近くのホテルで記者会見を行った時である。記者会見の中央にはマイクロソフトのビルゲーツCEOが立ち、両隣にHPのカーリー・フィオリーナCEOと東芝の西田パソコン事業本部長が立った。フィオリーナCEOの隣には、私が立ち、西田さんの隣には台湾のACERの創業者スタン・シーCEOが立った。この時の写真は、今でも私の宝物である。

この記者会見では、壇上のメンバーは、それぞれオープン・リマークスを述べて、その後、それぞれ記者からの質問に答えるという段取りだった。私は、米国駐在時代から特別な訓練を受けていたので、こうしたイベントには慣れていたが、西田さんの応対も日本人離れしていいて本当に堂に行っていた。私は、この時、初めて西田さんとお会いしたが、「この方は、只者じゃないな」と思った。さすが、東芝のダイナブックブランドを世界に広めた方だと心から敬意を評したものである。

次に、西田さんにお会いしたのは、西田さんが東芝の社長に内定した直後に、伊豆の川奈で一緒にゴルフをした時である。この時は、多分、インテルジャパン主催で、インテルジャパンの吉田社長も一緒だったと思う。私もアメリカから帰国した直後でゴルフも、今より遥かに上手だったろう。420ヤードの長いミドルホールで、私が、たまたま2オンした時に、西田さんは本当に悔しがった。信じられないほど悔しがるのである。この方は、仕事も遊びも全て真剣にされるのだなと思った。

あまりにも西田さんが一途で真剣なので、少しからかってやろうという悪戯心が私に湧いてきた。私は、半年ほど前に日立の社長に就任した古川さん(同じ学科の1年先輩で友達付き合いをさせて頂いていた)のことを持ち出して、「西田さん、古川さんは社長になられて、藤沢から新宿に引っ越されましたよ。やはり、社会インフラを商う会社の社長は都内に住まないとダメなのでないですか?」とからかい半分で尋ねて見た。私は、西田さんが横浜の港南区に住んでいたのを知っていたからだ。

「そんなことは必要ないよ。私は、毎日、横浜の自宅を5時に出て、湾岸高速を飛ばして芝浦の本社には5時半に着いている。都内に住んでいたって、そんなに早くは着けないだろう。」と真剣に怒って言い返してくる。失礼な言い方だが、こうした西田さんの対応が、とても可愛らしかった。本当に真面目な方なのだなとつくづく思う一コマだった。このように、西田さんは真面目で、ストイックで、何事も真剣なのだ。いつだったか、幕張の展示会で、たまたま偶然、車が同時に会場に到着したことがあった。その時の西田さんは、誰も従えることなく、走り足で、次々と他社のブースを真剣に見て回っていた。この方は、大変、せっかちな方でもあった。

次にお会いしたのは、経団連だった。私は、経団連の産業政策部会の部会長を命じられた。この部会は、日本の26業種のナンバー1企業によって構成され、なおかつ各企業から特別に選ばれた優秀な方々が出席されていた。例えば、電力業界では東電の西澤常務(東日本大震災後に社長に就任)、銀行業界では三井住友銀行の車谷専務(欧州最大の英投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズの日本法人会長)など、錚々たるメンバーで構成されていた。この経団連産業政策部会の上部組織が、産業問題委員会で、その委員長が西田さんだった。つまり、私は、経団連で西田さんの直接の部下になった。

この産業政策部会でまとめた答申書は、西田委員長の承認をへて、経団連会長に手渡されて、政府に答申される手順となっていた。この時、私は産業政策部会長として産業問題委員会に出席するわけだが、一応主催者側なので、議事次第(案)を全て手元に持っている。驚いたのは、西田さんが委員長として冒頭にお話しする内容である。何も資料をご覧にならずに、出席メンバーの方々を直接ご覧になって、ごく自然にお話しなさるのだが、内容は、事務局が作成した原稿と一字一句全く違わない。なんと、全て暗記なさっていたのである。このような真剣に対応する方には、私は初めて出会った。

次に西田さんにお会いしたのは、東芝本社で、富士通のハードディスクを東芝の売却する時の交渉だった。冒頭、西田さんは「富士通には半導体で一度騙されているから、だから私は富士通を信用していないのですよ。土壇場で、方針を変えるからね。」と仰った。そこで、私は「半導体のことは、何があったのか私は一切知りません。今回は、真摯にお話を進めて行きたいと思っています」とお話すると、西田さんは「わかりました」と仰って下さった。その後、東芝のHDD部隊と富士通のHDD部隊が統合された結果、その統合部門の長には、西田さんの指示もあって、富士通側のヘッドが着いた。彼は、その後、東芝の上席常務にまで上り詰めた。西田さんは、極めて公平な人事をされたものと私は後で感動した。

繰り返しになるが、私は、東芝の中で、西田さんを含めて、一体何があったのかは知る由も無い。しかし、個人的な付き合いの中で知る限りにおいて、西田さんは、誠実で、ストイックで、熱血漢な方だった。多分、命を削ってまで、東芝の再生を願って尽くしてこられたのだろうと思う。今回の死因となった胆管癌も、実は20年以上も前にドイツに駐在中に、その前兆があって、現地で大手術を受けられたと、児玉氏の著作を読んで初めて知った。あらためて、同じ時代を共に生きた素晴らしい仲間として、心からご冥福をお祈りしたい。合掌。

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