今回は、フリーアナウンサーとして広範囲に活躍されている、香月よう子さんの物語である。私と、よう子さんとは、長くFacebook上での友達として交信し、今回、生のよう子さんとお会いするのは初めてである。よう子さんが、いつも日常的な話題をウイットが効いた形でFacebookに投稿されている記事は、大変評価が高い。最近の投稿では、中学生に成ったばかりの息子さんと一緒に世界ロボット選手権に出場するため、親子で米国アーカンソー州へ出かけた記事が掲載され、非日常的なテーマでも話題を集めている。
そんな、よう子さんは、フリーアナウンサーとして、既に10,000人以上の方にインタビューをされている。つまり、今回、私はプロのインタビュアーをインタビューするわけだから、普段以上に緊張した。しかし、プロのインタビュアーとしてのよう子さんは、私がインタビューしやすいように、上手に、お答え頂くと同時に、しっかり、私をインタビューされていたのである。やはり、プロのインタビュアーは、何と言っても聞き上手なのだ。
お爺様と、お父様の2代に渡って朝日新聞の記者をされるなど、ジャーナリスト一家に育ち、都立西高校では放送部、中央大学では放送研究会に所属した、よう子さんが、現在、フリーアナウンサーとして幅広く活躍されているのは、至極当然な歩みであり、それだけを聞けば、まさに順風満帆な人生の軌跡でしかない。もし、そうであるならば、ここで取り上げる価値のある特別な物語にはならない。これから語る、よう子さんの物語は、長く回り道をして、ようやく現在の姿に辿り着いた「クローニン全集」である。
1989年、日本経済のバブル絶頂期の大学を卒業した、よう子さんは、本当はラジオのパーソナリティの仕事をしたかったのだが、なり方がわからなくて、当時、華やかに輝いていた西武百貨店に入社し、西武百貨店の関西進出のシンボルである、大阪ロイヤルホテル内の富裕層向けブランドショップ西武PISAに勤務することになった。なにしろバブルの絶頂期であり、店には3億円のダイヤまで陳列されていて、もちろん、直ぐに売れた。さらに、700万円もするKelly bagなど店頭に並べる前に完売してしまったというから今では考えられないほど凄い。
東京育ちの、よう子さんは、初めて親元を離れて大阪で花の独身生活を満喫していた。ミナミで深夜まで飲んだ時には、帰りのタクシーがつかまらずに、もう一軒、もう一軒とハシゴをしているうちに朝が明けていることもあった。しかし、翌年、前代未聞のバブルが弾けると世の中は一変した。よう子さんも、私が目指していたのは、こんな生活じゃないと気づく。その時に、よう子さんの頭に閃いたのは、ファッションショーでこなした司会の評判がすこぶる良かったこと。それで、よう子さんは、西武百貨店を辞めて、本当は自分が一番やりたかったアナウンサーを目指すことにした。
そして、よう子さんは、せっかく大阪に来たのだから、大阪でアナウンサーとしての道を開こうと考える。いろいろなアルバイトをしながら、アナウンサーの勉強をし、アナウンサーとしての就活を3年間にわたって続けることになる。時は、バブルが完全に弾けた1995年、よう子さんは26歳になった。今も花形の職業となった「女子アナ」は、当時から既に、人気の職業であった。フリーアナンウンサーとして、どこかの事務所と契約するにしても、まず、その前に履歴書には「局アナ」としてのキャリアがないと話にならなかったのである。
すっかり途方に暮れた、よう子さんは、生まれ故郷の東京に戻って、再挑戦することとした。ある時、大手から独立をした新しいプロダクションが立ち上がることを知る。よう子さんは、早速、赤坂にある事務所に電話をして応募に必要な書類や資料を聞いて郵送しようと思ったのだが、これまでも書類審査では、全て門前払いだったという悪夢を思い出して事務所に直接持参することにした。
事務所に到着すると、運良く事務所の社長に会えたので、よう子さんは、思い切って、その場で発声テストをしてもらうことにした。この社長さんが、大変優しい方で、よう子さんの声を聞いた後に、東京FMのオーデションを紹介して下さった。そして、よう子さんは見事合格。遂に、念願のラジオパーソナリティとしての第一歩を手にしたのである。こうなると、元々素質に恵まれていた、よう子さんは、あちこちから声がかかり、シンポジウムのコーディネーターやモデレータなど多彩な仕事をこなすようになる。冒頭紹介したように、10,000人以上の方々とのインタビューやトークショウ、結婚披露宴の司会だけでも600回以上もこなしている。
よう子さんが、インタビューをされた方の中には、元聖路加病院院長の日野原重明氏、ノーベル賞受賞者の小柴昌俊先生、建築家の安藤忠雄氏など蒼々たる方々がおられるわけだが、よう子さんの凄いところは、こうした貴重な出会いを、これから紹介する社会貢献活動に次々と活かしていくところである。余談ではあるが、ご主人との出会いも仕事を通じてだった。大阪に本社があるイベント企業の東京支社に勤務しているご主人が、女性のフリーアナウンサーを探していて、よう子さんと出会うことになった。よう子さんは、仕事柄、大阪の芸能プロダクションの幹部と会うことも多いのだが、大阪の業界に詳しい、ご主人が、事前に、アドバイスをくれることが大変助かっているという。
フリーアナウンサーとして活躍している、よう子さんの関心事の一つが教育分野にあった。特に、自分で考え、新しいものを生み出す力が必要とされる時代に、前時代的な教育を施す学校教育に対して何とかしなければならないと思っていた。そんなことを考えているとき、ある方の講演会で出会ったソニーの方より紹介されたのが「きてきて先生プロジェクト」だった。NHKで放映されている「ようこそ先輩 課外授業」を思い浮かべていただくと想像がつくと思われるが、一芸に秀でた「ホンモノ先生」が学校へいって授業をする市民団体だ。リクルートにいた藤崎慎一氏(現株式会社地域活性プランニング代表取締役)により立ち上げられ、リクルートが受託した地域活性事業のひとつとして、静岡県伊東市の小学校10校に「ホンモノ先生」を派遣した。
よう子さんの思いは、地域(地縁血縁団体だけでなく企業や大学も含む)と学校が連携し、社会総がかりで子どもを育てることにより、学校を核として地域コミュニティを再生したいということである。言い換えれば、子どもがしっかり根をはれる場を作るということでもある。そのためには、それぞれをつなぐコーディネーターも必要だし、外部講師や外部プログラムをきちんとカリキュラムに組み込める教員を増やす必要もある。外部講師がやってきてただお話をするだけであれば、たった一回限りのイベント授業になってしまう。
そうではなく、本当に子どもが自分の力で考え、生きていけるようになるために子どもが担任の先生と考え、変容していける授業を作らねばならない。そのために外部の講師やプログラムを有効に活用できる教員やコーディネーターを育て、さらに、良質な外部の講師やプログラこうした活動は厚生省健康回復都市事業の一環として伊東市の小学校10校を手始めに、これまでに200校、1,000人以上の外部講師と子供との出会いを作ってきた。現在、よう子さんは、一般社団法人きてきて先生プロジェクトの代表理事を務めている。
よう子さんは、東京FM以外でも、青葉区の地域コミュニティFMであるFMサルースも定番の番組を持っていた。その番組で、よう子さんが知り合ったのが、たまプラーザ駅近くで産婦人科を開業されている桜井明弘医師だった。これまで、3万人以上の不妊治療患者を診察してこられた経験を生かして、女性の生き方、ワークスタイル、食事などに対して高い見識を持っておられる先生である。
よう子さんは、中学生になる優秀な息子さんがおられるが、その前後の、お子さん達を流産で失っている。息子さんは、まさに奇跡の子だったのだ。こうした実体験を踏まえて、桜井先生の考え方に共鳴し、桜井先生が代表で、よう子さんが事務局長を務める一般社団法人子宮美人化計画を立ち上げた。ちょっと、ドキッとする名前のせいもあるのか、現在、中央官庁や企業、団体などから、多くの問い合わせを受けている。このプロジェクトは、仕事か出産かで悩む女性に対して、多様なワークスタイル、ライフスタイルを身体的、心理的、社会的見地から提案をしている。
桜井先生は、「2007年に開業した当時、一番多かったのが40代前半の患者さん。彼女たちはバブル絶頂期を経験して、仕事も遊びも満喫。でも、その後に不妊という現実が待っていた。初めてお金で手に入らないものがあることを知ったんです。今まで、誰も教えてくれなかった。そう泣き崩れる女性を数え切れないほど見てきました。」と語る。まさに、よう子さんと同期の女性たちである。この女性達も含めて、多くの女性たちに、どのような救いの手を差し伸べられるかが、このプロジェクトの大きな目的である。
こうして、よう子さんの半生を伺ってみると、順調でなかったからこそ、そして、回り道をしたからこそ、得たものが大きいように見える。だからこそ、苦しんでいる人々に共感を持てるのであろう。フリーアナウンサーとして、数多くの司会やコーディネーターをこなしている、よう子さんだが、この役目は、無事に次第が進行して時間通りに終われば良いというものではない。聴衆の方々に何を感じてもらい、何を考えてもらうかという大切な役割がある。きっと、いろいろな社会貢献を手がけているからこそ、そうした難しい仕事が出来るのにちがいない。よう子さんは、まさに、日本が誇る、光り輝く女性の一人である。