335 光り輝く女性たちの物語 (10)

東日本大震災が起きてから半年後の、2011年9月、私は石巻市立開北小学校隣の仮設住宅の脇に建設されたプレハブ造りの在宅医療施設「祐ホームクリニック」を訪問させて頂いた。この施設は、史上最年少の32歳で天皇陛下の侍医となられ、その後、東京都文京区に在宅医療施設を設立された武藤真祐医師が設立されたものである。生憎、武藤先生は往診に出ておられて不在だったが、代わりに応対されたのが、これから紹介する園田 愛さんである。

愛さんは、武藤先生が設立された医療法人「鉄祐会」の事務局長として、その経営を一手に掌握されている主であった。しかし、初めてお会いした愛さんは、女優で言えば永作博美さんを細身にして長身に引き伸ばした、優しくて可憐な女性であった。この方が、あのエネルギッシュな武藤先生の銃後を守っている女傑なのだとは、俄かに信じ難かったが、その後、現在に至るまで、武藤先生の輝かしい活動範囲の拡大にも、十分耐える医療法人としての組織をしっかりと取りまとめておられる、愛さんの経営能力は実に立派なものである。

この愛さんの、可憐で、おしとやかな外観と、多くの苦難をも乗り越えてきた堅実な経営実績とに、私は大きなギャップを感じていたので、この度、思い切ってインタビューをお願いし、快く引き受けて頂いた。まず、最初に愛さんから伺ったお話は、「私は、博多生まれです。博多で有名な山笠を支えているのは『山のぼせ』と言われる山笠に命をかけた男衆と、それを陰から支える『御寮人さん』と呼ばれる女衆です。私の役割は、ちょうど『御寮人さん』ですね」。この言葉こそが、まさに、愛さんの、今の生き様を物語る全てである。

愛さんは、博多生まれの博多育ちで、お父上や兄上と同じ、第二次大戦後、米国プロテスタントが設立した西南学院大学を卒業されている。ちなみに、お父上は長崎出身で既に洗礼を受けられたクリスチャンである。『愛』という名も、お父上が聖書から取られた名前だという。私もキリスト教徒の端くれであるが、キリスト教における『愛』は、教義の根幹であり、非常に幅広く、そして深い意味がある。

愛さんは、大学を卒業すると地元福岡に本社がある大手医療サポート企業であり、東証一部上場企業である総合メディカルにコンサルタントとして入社する。ここで10年近く勤めた後、同社の東京への本格進出に伴い、女性として始めての東京転勤を受け、上京することになった。東京に出てきた愛さんは、コンサルタントとしてではなく、自分も当事者として医療の課題解決に取り組みたいと、ビジネススクールに通い始める。そして卒業後スクールからの縁あって、当時医療ビジネスに本格参入を果たしたリクルート社に転社する。ご存知の方も多いと思うが、リクルート社は非常にユニークな企業で、入社から4年以内に起業か、キャリアアップのための転職を全社員に勧めている。

リクルート社の事業開発室、医療チームに配属された愛さんも、その例にならって4年ほどで退社することになる。しかし、このリクルート社で学んだことは沢山あった。リクルート社の仲間は、一人ひとりが腕に覚えがあり自分の力を信じていること、そして「チームで勝つ」との文化のもと、「自分たちが社会を変えていく」と心底信じ熱中するカルチャーがあった。リクルート社の社員なら全員が口ずさむ「自ら機会を創りだし機会によって自らを変えよ」は、まさにチャレンジ精神溢れるリクルートのカルチャーを示すものであり。リクルート社で得た教訓は、その後の人生に大いに役立ったという。このリクルート社を辞めるきっかけこそが、まさに武藤先生との出会いであった。

愛さんと武藤先生との出会いは、2006年であった。天皇陛下の侍医を退任した後の自らの進むべき方向性を検討しておられた武藤先生は、ある時参加した勉強会で愛さんと名刺交換をする。医療コンサルタントの出身と自らを紹介した愛さんに、武藤先生は、「貴女がやっているコンサルタントって、どんな仕事なの?」と聞かれたそうである。その時の意見交換が、その後の人生に大きな影響を与え合うとは思いもよらなかったであろう。そしてその後、武藤先生は海外留学をしてMBAの資格を取ろうとも考えておられたそうだが、世界的なコンサルティング・ファームであるマッキンゼー社で働くことを決断されたのだという。

その武藤先生が勤務するマッキンゼー社が、当時のヘルスケア・イシューを取りまとめたものを、愛さんが手にする機会があった。取りまとめを行ったチーム・リーダーのインタビューにはこう書いてあった。「本質的な日本の医療の医療課題をまとめた。しかしその多くは従来からすでに指摘をされていることである。批判し、評論するだけでは何も変わらない。誰かが、リーダーシップをとって自ら実践してみない限り何も変わらない。日本の医療の最大の課題はリーダー不在であることだ」。愛さんはそれを見て、当事者として大いに衝撃を受けたという。

早速武藤先生に連絡をとり「我々のリーダーシップの欠如と指摘されている。しかし、ヘルスケアの業界には医療機関にも民間企業にも多くの志ある人達がいる。小さな歩みでもいいのでそういった人たちと切磋琢磨をしてリーダーシップを磨いて行く場があるといいのではないか」。武藤先生は「私もまさにそう思っていた。やろう」といい、あっという間に仲間を集め、NPO法人を立ち上げられた。これがヘルスケアリーダーシップ研究会(通称IHL。理事長武藤真祐)である。各界の著名なリーダーがボランティアで力を貸す魅力的なプログラムが用意されたこの研究会には、すでに300人以上が参加をし、今尚発展を続けている。

このIHLが、愛さんの大きな転機となった。IHLがバイブルとする書籍「リーダーシップの旅~見えないものを見る」(著者:野田智義)には、リーダーシップの歩みをこう記している。
 Lead the self
 Lead the people
 Lead the society
まずは、自らが何を成したいのか、自らの内なる声が全ての源泉であること、そしてそれに確信を持ったら恐れずに自ら一歩踏み出すこと、そして人たちに伝え共感の輪が広がり仲間とともに歩く後ろに、社会の変革がもたらされる、という思想である。IHLで愛さんは毎月仲間と志をぶつけあい「あなたは何をするのか」と自らに問い続けた。そしてついにリクルート社を辞め、起業を思い立つ。

当時、不祥事等により社会的信頼が損なわれ疲弊感があった医療現場の人たちがもっと活性化し、人たちを救うという尊い医療という仕事に誇りとやりがいを持って臨めるような医療現場であるよう、医療機関をサポートしたいというプランであった。愛さんは、早速、武藤先生にこのことを相談する。話を聴き終えた武藤先生は「いいね。私もこれからの日本の超高齢社会の課題解決となりうる在宅医療に取り組もうと思っている。その時には私が最初のクライアントになるよ」と言われたという。そして、その想いを愛さんに語られた。聞き終えた愛さんは「ぜひ私も手伝わせてほしい」と申し出、会社に辞表を出した。そして、その日から愛さんは武藤先生が理想とする在宅医療の実践の場の創出に動き始める。そしてリクルート社を退職して2ヶ月後の2010年1月、東京都文京区に武藤先生を院長に、愛さんを事務局長とした「祐ホームクリニック」が開業した。

開業後の武藤先生の献身的な働きは瞬く間に地域に支持され、診療所は順調な滑り出しを果たした。しかし運命が変わったのが、およそ1年後の2011年3月11日、あの東日本大震災が起きたことだった。その中で、仙台に次いで、宮城県第二の都市であった石巻市は立派な市民病院が津波で壊滅し、沿岸部の開業医も診療所が流され医療は壊滅状態であった。東京での開業から一年余りであったが、「この地は超高齢社会の縮図だ。我々も行動する」とし、武藤先生は石巻にも在宅医療を提供することを決断された。

とはいえ、武藤先生は東京にも患者がいる。石巻には、医師がいない、スタッフがいない、診療しようにも土地や建物がない、地縁や信頼もない、そして(避難所が閉鎖され在宅医療が必要となる時まで)時間がない、とないない尽くしであったが、数々の軌跡のような人々のサポートがあり、震災から6ヶ月後の2011年9月に「祐ホームクリニック石巻」がオープンした。愛さんは「医療は地域に根付くものであり、誰かがそこにいなくてはならない」とためらわずに居住を決意、浸水後かろうじて残った家屋を借りて移り住んだ。そしてこの時点から、2014年3月までの2年7ケ月間の長期に渡って、この石巻祐ホームクリニックの経営を現地で陣頭指揮したのが、愛さんであった。

祐ホームクリニックの開業が決まると、まず相談を受けたのが避難所閉鎖後、仮設住宅に移った後の医療的サポートが必要な高齢者、そして、たった一つ残った基幹病院である石巻赤十字病院を退院されるターミナルの患者であった。既存の医療施設が壊滅的な被害を受けた上に、地震や津波で夥しい負傷者がでたことで地域の病床は全く足りず、石巻日赤病院には廊下にまでベッドが溢れている状況であった。従来なら、もう少し入院をしてもらった患者も退院を余儀なくされる。こうした患者の自宅療養をサポートする受け皿になったのが祐ホームクリニックだったのだ。

こうした患者を次々と受け入れながら、武藤先生は、東京のクリニックもある中、週の半分は石巻で診療を行った。毎週欠かさずどんなに忙しくても石巻に通い続けた。残りの日々の診療を守るのは、日本全国だけでなく世界中から日本人医師であった。こうした方々のご協力を得て、3年間の間、医師不在の状態を1日も作らなかったことは「患者さんとの約束を果たせたことであり、本当に誇らしく思えた」と愛さんはいう。しかし、こうした善意の医師の方々の中には、最先端の医療現場に携わる優秀な方々でありながら、在宅医療は始めての体験という医師も多かった。

そして実は石巻では従来から在宅医療が盛んな地ではなかったこともありスタッフも全員が在宅医療は始めてであった。自らも被災しながら、慣れない在宅医療診療所で多くの患者を受け入れていくという激務は、身体的にも精神的にもスタッフたちも応えたのだろう、最初に入職したスタッフは程なく辞めていった。「この時は本当に苦しかった。患者さんが何より優先であり、スタッフも被災者として苦しんでいたことへのケアができなかった。もしも、私が災害医療の勉強をしていたら、支援者のプロテクト、支援者の支援もやれただろう。負荷をかけてしまった」と愛さんは振り返る。しかし患者さんは待ってくれない。穴を埋めるように、自らも往診車を運転しながら、昼夜を問わず、慣れない臨床現場に出ることもしばしばであった。

祐ホームクリニック石巻が開業した1ヶ月後、在宅医療を核とした被災住民の支援活動を立ち上げた。団体名を「石巻医療圏 健康・生活復興協議会」とし、代表を武藤先生、副代表を愛さん、そして二人を陰日向で支えた富士通株式会社の生川慎二氏が努めた。「医療を始めたばかりで支援活動もやるのか」と思われるかもしれない。しかし医療や介護といった健康支援は、その背景にある生活が何とかなっていてこそ提供できる。生活自体が崩壊している中、その回復が急務であったのだ。

そして、何より「見過ごせない実態があった」と愛さんは言う。被災地では被災者は避難所におり、その後仮設住宅に移ったとされており、物資や情報、ボランティアの多くはそこに届けられた。しかし実は、地域には津波の甚大な被害を受けながらもなお、自宅で過ごす方が数万人規模でいることが感じ取れた。これは行政や報道ではわからない、地域を歩いてわかったことである。愛さんたちは強力なボランティアとともに、ゼンリン地図のコピーを片手に、1軒1軒自宅を訪ねていった。

そして戸別訪問の中で、持病や服薬のなど体の状況、睡眠や食事の状況、家族や生活のこと、そして心の状態を丹念に聞いていった。そして持ち帰った情報は医療の専門家がチェックし、問題がある場合には、医療や福祉、住宅などの生活支援の支援チームに支援を要請していった。このような活動は最初5人くらいで1軒1軒と始めたが、最終的には2年間かけて1万世帯を訪問し3000人をサポートする活動となった。関わった人も延20,000人ほどに登るという。

こうした多くのボランティアの方々には、旅費、宿泊費、食費までも自前で賄って頂いたが、それでも拠点の土地代、家賃、暖房費、ガソリン代など経費は想定外にかかり、月末には銀行の口座残高が10万円を切ることもあった。愛さんは、一人通帳を見ながら心中穏やかでなかったが「できるだけニコニコとしているようにしました。一番大変なのは外を歩き毎日住民の方々の苦難を聞き続けるスタッフですから」と笑う。

被災地で働くということは、被災者の方々と同じ暮らしをするということでもある。愛さんが、何とか奇跡的に借りられた木造アパートも、敷地には半年以上も流された船が放置されていた。当然、家も浸水しているのでカビが生える。木造アパートの壁に、フワーッと浮いてくる白い粉の正体がカビだということを「カビの研究」に地域を訪れた研究者に教わった。それ以降、家に帰ると、室内のあちこちを、毎日、毎日、丁寧に拭いたのだが、一度水に浸かった木材は、なかなか乾燥してくれない。そのうちに、洋服がかび、靴がかび、食事をしようとしたら、箸やコースターまでカビていた。そこで初めて、咳が止まらないのは、カビのせいかと気がついた。

一方、仕事の方は、昼も夜もない在宅医療と被災者支援団体の現地責任者として、文字通り、24時間365日、常に緊張している中で、愛さんは、上手に気を抜いたり、リラックスすることすら出来なくなっていった。このままでは、自分が壊れていくと思った愛さんは、ヘルスケアリーダーシップ研究会でお世話になっていたBBT(ビジネスブレークスルー)大学院学科長の門永宗之助先生から「勉強してみないか?」と薦められてBBTで学ぶことにした。2014年3月には無事に卒業、大前研一学長からMBA証書を頂くことになった。このBBT大学院のオンラインコミュニティこそが、愛さんにとって「精神を立て直す大事な時間」であった。

これで勉強することの素晴らしさを知った愛さんは、石巻から東京に戻ると、東京医科歯科大学大学院に進学する。1年間の夜間通学にて医療経営管理学修士を取得し、MBAでは学べなかった非営利経営について学ぶことができた。その意味では、石巻の現場でも多くのことを学ぶことができたという。その一つに「ソーシャルワーカー」という仕事に関することであった。愛さん自身も、東京の医療現場にいるときには、ソーシャルワーカーとは、病院の退院窓口か行政にいる人との認識しかなかった。実際に、そういう働き方が多いのも事実である。

しかし、愛さんが被災地で見た「ソーシャルワーカー」の存在は全く違っていた。愛さんは、ソーシャルワーカーを「人が自分で暮らしていけるようサポートする人達」と解釈している。対象は老若男女で、領域は「医療や福祉」と一言片付けられない、身体の問題、精神の問題、高齢者の問題、お金の問題、家族間(引きこもり、DV、グリーフケア、薬物を含む)の問題と、ありとあらゆることを解決の対象としていて、医療機関、行政機関、学校や町内会長、個人のお宅までノックして入っていく姿を見て、愛さんは本当に感動したと熱っぽく語る。こうした石巻で見たソーシャルワーカーの活躍を、いろいろな場で語る愛さんは、3年連続でソーシャルワーカー全国大会に招待され講演を頼まれている。

今、石巻の祐ホームクリニックは石巻赤十字病院の近くに立派な建物を構えて、石巻赤十字病院の緩和ケア部長であった日下潔医師を院長に迎え、順調な運営ができるようになった。振り返ってみるとここまで来るのは本当に大変だったと愛さんは言う。最初は、こんな大変な所に来るのは、パフォーマンス、売名行為ではないかと疑心暗鬼の目で見られることもしばしばで、本当に辛かったと言う。2年くらい経ってからか、どうやら本気でこの地の医療を担う意思があるらしいと信用してくれるようになった。被災地支援、それも医療というのは、中途半端なことでは済まない。だからこそ、こうして得られた信頼関係を、今後とも失わないようすることが大事だと愛さんは言う。

こうした苦難の道を乗り越えてきた愛さんは、今、次のステップを歩みつつある。つまり、医療とITの融合を事業として行おうというのだ。医療法人「鉄祐会」の事務局長である愛さんは、新事業に取り組む会社の社長を兼務、同社の特別顧問には武藤先生が名を連ねる。「『超高齢社会の新しい社会システムの創造』は、当初からの武藤さんと共有しているビジョン。医療法人と事業会社の二人三脚で価値創造したい」という。

「石巻での活動はある意味「官を補完する民の役割」を示した」と愛さんはいう。石巻での支援活動はともすれば「それは行政の役割でしょう」と言われたが、膨大な課題に対峙するにはあまりに不足していた官の機能を民間が補完する形で新しい官民連携の形を作ったのである。それと同様に、医療ももっと、民間のサービスと連携をすることで、今よりももっともっと人々の健康をサポートするという機能発揮がなされるとよいと考えている。

医療は診察室や病院の中だけで提供されるのではなく、人々がもっと上手く自分たちの生活の中で健康に向かう自分自身の力を引き出す、もしくは知らず知らずに引き出されるような寄り添い方をするのが、これからの超高齢社会を限られた社会資源で乗り越えていく一つの道ではないかと考えているのだ。医療分野でのこのような取り組みは、兎角補助金事業でなされがちだが「何かを始めたら続ける責任が発生する。医療や被災地支援活動で安易に辞めることの罪を、身を持って叩きこまれた」愛さんは、「自主的に運用できる事業でなければ継続はない」と言い切る。

武藤先生は、現場での実体験を踏まえて、日本の医療を変えるためのリーダーシップを、いろいろな場で発揮されている。その守備範囲は、もはや日本を超えてシンガポールまでに及んでいる。シンガポールは、日本に続いて急速に少子高齢化が進行しており、特に高齢者向けの医療システムの大幅な変革を考えている。武藤先生は、シンガポールにあるINSEADでEMBAを取得された縁もあってシンガポール政府の肝いりで、現地に在宅医療のクリニックと訪問看護ステーションを設立された。

こうしてみると、武藤先生は、まさに山笠の「山のぼせ」であり、自らの信じる道をひたすら歩み続けておられる。そして、愛さんは、その「山のぼせ」を支える「御寮人さん」として、社会の変化に合わせて医療を進化させることに取りくんでいる、光り輝く女性の一人である。

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