3年前は仙台市、一昨年は大船渡市、昨年は石巻市が主宰する追悼式に参列させて頂いたが、今年は5年目という節目の年なので、どこも混雑することも考えられ、昨日3月10日に石巻を訪問した。昨年、45年の会社人生をリタイアして自由人になったので、好きな時間に好きな所に行けるわけだが、その分、全て、自分で手配しなくてはならない。秘書の仕事の大変さを改めて理解すると共に、これまでの苦労に感謝する日々である。
今回は、震災以来、初めて仙石線を使って電車で行くことにした。震災直後は、新幹線で古川まで行き、そこから石巻線で山側から石巻駅にたどり着いた。その時に見た、石巻線沿線の風景は、震災前と何も変化がなく、どこが被災したのか全く分からないほどだった。しかし、石巻駅から、それほど遠くない日和山公園の高台から見下ろす市街地の景色は、想像を超えるほど悲惨なものだった。今回も、先ず最初に訪れる予定の場所は、この日和山公園である。
石巻駅を降りると、幸い、数台のタクシーが客待ちをしていたので、早速乗り込み、運転手さんに「複数箇所行きたいんだけど?」と言うと、「じゃあ、貸切にすっか?」と提案があり、それでお願いすることにした。「お客さん、今日で良かったよ。明日は、5年目の区切りだから、こんな余裕はないな。今日だって、午前中はNHKの記者を乗せて、あちこち下見をして来たんだから」。幸いなことに、この運転手さんは大変話し好きで、ガイドの役もこなしてくれる。車は、かなりのオンボロだったが「震災で石巻の180台のタクシーが流されたんだ。この車も福岡で廃車予定のものを譲ってもらったんだ」と説明されると文句も言えない。
日和山公園から見える景色は、ガレキがすっかり片づけられた4年前から、殆ど変わっていない。ダンプカーやブルトーザーの台数が、少し減ったくらいだろうか? 日和山公園から下って、津波で引き寄せられた船や車が起こした火災で全焼した門脇小学校跡地へ向かう途中で、運転手さんは「この辺は、来るたびに道が変わっているんだ」という。運転手さんは、地震発生直後に、この門脇小学校裏の高台に避難していて、夜中じゅう、ガレキが燃えさかる炎の向こうから、沢山の悲鳴が聞こえたのだと話す。そして明け方になると、その悲鳴は全く聞こえなくなった。しかし、あれから5年経った今でも、暗い夜道でタクシーを走らせていると、どこからともなく、あの時の悲鳴が聞こえることがあると言う。
それでも、石巻市は仙台に次ぐ宮城県第二の都市、しかも、海から内陸に少し入った中心市街地での津波被害は浸水程度で済んでいて、5年経った今では、かなりの賑わいを見せている。石巻のシンボルとも言える日本製紙の工場は奇跡の復活を果たし、高い煙突は、勢いよく白い煙を吐いている。運転手さんは、今回は、ぜひ日本有数の規模を誇る、新設された石巻魚市場を見て欲しいと言う。震災前にも、日本3位の規模を誇った石巻魚市場は、全く新しく建設され、昨年9月世界最大級の魚市場として開場した。全長880メートルの加工場ビルは10隻以上の漁船が接岸できる埠頭に建っている。漁船から、直接、魚を加工場に搬入できる設備は、まさに圧巻である。
石巻魚市場という石巻復興の新たなシンボルを見て安心した後に、私は、今回、どうしても旧大川小学校に行ってみたいと運転手さんにお願いしてみたが、どうも良い返事が返ってこない。そう、石巻市は周辺の町村を合併し広大な地域を包含していて、同じ石巻市とはいえ、旧大川小学校は、とんでもなく遠いのだ。これまで何回も石巻市に来ていながら、旧大川小学校への訪問は、時間がかかるという理由で、なんども断られてきた。現在、旧大川小学校については、保存か取り壊しかの議論もある中で、今回は、どうしても行きたいと運転手さんに懇願してみたら「少し、飛ばして行ってみるか? 帰りは、仙石東北ラインの快速で帰ればいい。1時間で仙台に着くから」と承服してくれた。
大川小学校は、やはり遠かった。ダンプカーとすれ違うのが怖いほど運転手さんは飛ばすのだが、なかなか着く様子がない。その内に、ようやく広大な河岸を擁する北上川の河口が見えてきた。もう少し経つと、この広大な北上川河原の茅場を野焼きするのだと言う。多くの人が、この野焼きを見に来るほど壮大な光景だと言う。ここ北上川河口の茅は良質で知られ、飛騨白川郷の茅葺きにも供されている。そして、この広い川幅に長い鉄橋がかかっている。ここで、運転手さんが口を開いた。「この鉄橋は、津波で破壊されたんですよ。真ん中で折れたんです。大川小学校の生徒たちは、この鉄橋を渡って向こう岸に行くよう先生から指示されたんです。でも、渡っている途中で、津波が見えたので引き返したんです。しかし、間に合わず津波に巻き込まれて、この北上川に沿って流れている用水路に落ちてしまった。何で、向こう岸に行こうとしたのかなあ」
鉄橋を過ぎると、直ぐに大川小学校に着いた。震災の前日なのに多くの方が訪れて、慰霊碑に手を合わせている。それにしても、この大川小学校の建物は、とてもモダンなデザインである。ここに通っていた生徒さんたちにとって、この建物は、きっと自慢の小学校だったに違いない。この大川小学校の建物の周囲を見ていくうちに、私は、この建物の端が、直ぐ、小高い裏山への斜面へ繋がっていることに気がついた。確かに、老人にはキツイ急斜面ではあるが、元気な子供には遊ぶのにも格好の斜面である。生命に関わる事態であれば、先生が生徒に登れと命じても全くおかしくない。「どうして、この裏山に登らなかったのだろう」と私は運転手さんに尋ねた。運転手さんは「いやあ、登ったんだ。でも、登り始めるのが遅すぎたんだ。斜面の途中で津波が来て、引き波で子供たちは引きずり降ろされたんだ」
続いて、この運転手さんは「いやあ。誰が悪いんだとか、誰の責任だとかいう問題じゃないと思うな。人間は、目の前に、今までに考えてみたこともない事が突然起きると、どうして良いか分からなくなってしまうんだな。それで、結果として、全くトンチンカンな事をしてしまう。だから、大地震が起きたら、大津波が来たら、どうすべきか普段から考えておくことだな。世の中は、いつも、起きて欲しくないことが起きるんだ。願っていることは、さっぱり叶わないのにな。皮肉なもんだ。」 確かに、この運転手さんの言う通り、大川小学校の先生たちだって自分が信じる最善の道を選んだに違いない。それでも、私は、慰霊碑に手を合わせながら、何とかならなかったのかという無念さを拭い去ることは出来なかった。
あの日から5年経って、石巻市内を巡って言えることは、沿岸部は、未だに何もないゴーストタウンのままで、内陸部では、未だに多くの方が仮設住宅で暮らしている。復興は、未だ、緒についたばかりとも言える。しかし、これは単に時間軸だけの話なのだろうか? これから世界経済は深く長期の停滞期に入る。その中で、日本経済だけが、例外であり得るはずがない。大金を投じて腕力で経済を再生させるという劇薬は副作用ばかりで、きっと大きな効能はないだろう。被災地以外の全国の各地域が、どんどん被災地化している中で、本当に意味のある再生投資とは何なのか、東日本大震災の被災地の実態をよく見て、もっと掘り下げた議論をしてみる必要があるだろう。