明日は8月6日、広島に原爆が投下されて70年目にあたる。なぜ、あのような非人道的な爆撃が行われたのだろうか? 多分、あのような悲劇は広島・長崎の後に人類が経験することは二度とないだろう。2007年、ドイツのハイリゲンダムで行われたG8サミットに安倍総理大臣に同行し、ベルリンを訪れた時に、公務が終わった後、ポツダムを訪れてガイドから聞いた話は、今でも悔しくて忘れられない。
原爆を投下した当事者である、アメリカの言い分では、日本に対して、無条件降伏を迫ったポツダム宣言を早く受諾させるために、広島・長崎への原爆投下はやむを得ない手段だったと言われている。しかし、私が、ポツダムを訪れて聞いた話は、アメリカの言い分に対して全く納得のいかないストーリーだった。
ポツダム宮殿は、ベルリンから車で1時間ほどの距離にある質素な館で、いわばベルリンの奥座敷とも言える。米英連合軍よりも、いち早くベルリンを陥落させたソ連は、米英との戦争終結後の会談に供するために、このポツダム宮殿を無傷のまま占領した。その上、宮殿内の全ての部屋に盗聴器を据え付け、一番大きな部屋をソ連の拠点として占有した。即ち、このポツダム会談を話し合う場所は、最初から圧倒的にソ連優位に設定されていたのである。
米、英、仏、ソ連、中国の連合国と言っても、フランスはドイツ占領から、ようやく解放されたばかりで、連合国の一員として、ポツダムで対等に議論できるだけの立場にはなかった。中国の蒋介石総統も中国国内での共産党との対峙で、とてもポツダムに来る余裕などなかった。さらに、英国のチャーチル首相は、ポツダム会談直前の選挙で破れてしまい、その後の混乱で、英国はポツダムに代表すら送ることが出来なくなった。
このように私に話してくれるガイドは、日本語が堪能なドイツ人女性である。彼女は東ドイツ生まれで、フンボルト大学で首席をとるほどの秀才であった。当時の東独の独裁者ホーネッカー書記長から日本への留学を命じられる。留学先はホーネッカー書記長と親しかった松前重義氏が創立した東海大学だった。留学を終えて、日本から帰国した彼女は、居住先の東ベルリンから両親を残して西ベルリンへ逃亡する。それは、ベルリンの壁が崩壊する2年前のことであった。
この東独生まれの女性ガイドの話を続けると。ソ連が全て準備万端整えたポツダム宮殿に、後からやって来た米国は、既に、その時点で圧倒的に劣勢にあった。ポツダム会談は、ソ連の絶対的優位の中で、アメリカとの2国間会談として行われた。ドイツは、既に降伏し、連合国の敵は日本しか居なかったわけだが、米ソ両国にとって、もはや日本の敗戦は疑いも無い既成事実であった。従って、ポツダム会談は、戦後世界の地図を米ソ両国で、どう塗り替えて行くかという議論でしかなかったというのである。
こうした状況のなかで、アメリカが日本に原子爆弾を投下したことは、日本の降伏を早めるということよりも、ソ連に対して、戦後世界はアメリカが支配するのだという示威行動であったというのである。ポツダムの会議場所は、アメリカに、そう決断させるほど、アメリカにとって惨めな場所だったという。全ての部屋にソ連の盗聴器が設置されている中で、アメリカの交渉団は、筆談でしか議論することが出来なかった。ましてや、本国との交信など、まるで不可能で、この時点でアメリカの最大の敵は、もはや日本ではなくソ連だったというのである。
こうした状況の中で、アメリカは日本に、広島、長崎と二カ所も原爆を投下した。一つは海に面した平野に、もう一つは湾が入りくんだ丘陵地帯に投下した。一つはウラニウム型原爆で、もう一つはプルトニウム型原爆を投下した。来るべきソ連との戦いに備えて、緻密な計画の元に、日本で実践的な核実験を行ったというのである。このポツダムの語り部は、日本と同じく、先の戦争で敗れたドイツの出身でもあるからだろう。また、日本に留学し、日本人の情緒を身につけたことにもよるだろう。私たち日本人でさえ、直言しづらいことを率直に言ってくれた。
私は、このドイツ人女性のガイドの話を聞いて、本当に悔しかった。確かに、日本もアジアの諸国に酷いことをした。まさに、狂気の沙汰であった。あの広大な中国全土に戦線を広げて、一体、どうするつもりだったのだろう。私には、全く理解出来ない。それでも、原子爆弾の殺傷力を生身の人間で試すというのは、全く許しがたい。3歳くらいだったろうか、父親の肩に乗って、生まれて最初に見た映画は、広島原爆投下後の実写フィルムだった。身体中、焼け爛れて手足から皮膚が垂れ下がったまま歩いている姿を見た時、私が突然泣き出したので、父親は直にも外に出たという。
毎年、8月になると、この映画の場面を鮮明に思い出す。いかなる戦争にも、それを正当化する論理はない。いつも、防衛論の話で、勇ましいことを言っている人の殆どは、もう戦争に兵士として狩り出される可能性がない年齢の人たちである。それは、あまりにも無責任だろう。