315  記憶に残る感動的なパーティー

 昨日、7月14日。富士通総研の同僚が、『感謝の会』と称して、私の退職記念パーティーを開いてくれた。それこそ、私の方が感謝しなければならないのに、申しわけなく思う次第で、大変恐縮しながら参加させて頂いたわけだが、その会の企画や、醸し出す雰囲気には本当に心底感動をした。

 もちろん、参加者の過半数が女性だということもあった。プロのピアニストを兼ねる女性コンサルタントがピアノの生演奏をしてくれたことも大きな要因であっただろう。底抜けに明るい、仮装した女性メンバーの替え歌ショーも貢献したに違いない。しかし、それだけでは説明出来ない何とも言えない雰囲気があった。皆、ニコニコの笑顔なのに、何となく、その目が潤んでいる。感涙し、ハンケチで目を拭う女性もいた。私が見送って頂いた後で、ホテルの宴会主任を務める男性が、こんなに感動したパーティーは、今まで経験したことがないと潤んだ目で語ったということも、後で聞いた。

 パーティーには参加されなかったが、4人の方から、その思いを綴ったレターを送って頂いた。それぞれのレターを読み上げる4人の朗読者が、卓越した技量を持っていたのかも知れない。そうでないと、あれほど多くの方々が、感涙に咽ぶはずがない。それでは、4人の方のレターを、以下に、ご紹介したい。

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伊東さん

ご無沙汰しております。伊東さんに今差し上げる言葉は、この言葉しかないと思っています。45年間という長きにわたり、富士通グループに多大な貢献をされてきたことに対する感謝の言葉です。「本当にありがとうございました。」

伊東さんは、私が富士通に入社し(1979年)、周辺機事業部に配属(川崎工場、中13番館、3階)となった時、同じ職場(OCR開発)の先輩でした。私が伊東さんと同じ高校(平塚江南高校)の出身であったことから、伊東さんは先輩/後輩という関係をとても大切にされながら、親身になって私と接してくださいました。仕事のことはもちろんですが、私的な事に於いても、良き先輩としてアドバイスをいただき、今の私があるのは伊東さんのおかげであり、いわば「私の恩師」といっても過言ではありません。

 ですので、2番目の言葉は、公私共々、数えきれない程、お世話になったことに対する私からの感謝の言葉です。「新入社員の頃から今に至まで、いろいろとお世話になり、本当にありがとうございました。」

伊東さんにお世話になったことを少し紹介します。

 同じ職場でしたので、一緒によく飲みに連れていってくださったことは言うまでもありませんが、夜遅くなったときは、私が平塚まで帰ることを心配して、「家(ウチ)に泊まっていけば?」と、何度も仰ってくださったのを覚えています。「本当に泊めて貰っても大丈夫なのかな?奥さんに迷惑にならないのかな?」という心配もあり、最初は遠慮していました。でも、あまりにも何度も仰ってくださるので、断ってばかりでは失礼かと思い、伊東さんのご自宅に泊めていただきました。

 ご自宅に入ると、とても素敵な美人の奥様が快く迎えてくださり、それまで心配していたことは、私の取り越し苦労だったと理解した次第です。でも、今思うと、「きっと、伊東さんは、美人の奥様を、いろいろな人に自慢したかったんだろう」と思います。(失礼なことを言ってスミマセン)

 もう一つ、紹介させて下さい。今の私があるのは「伊東さんのおかげです」と先ほど言いましたが、その理由の一つを紹介します。

 それは、私が11年目の時です。OCRの新機種開発のレビュー会議を開催していた時に、突然、伊東さんから呼び出されました。何かまずいことでもしてしまったのかな?と不安な気持ちで伊東さんの席に着くと、こう言われました。「米国(アメリカ)に行ってくれないか」と。
 
 「米国(アメリカ)?」という言葉に最初はびっくりしましたが、私に対する期待を、伊東さんが、きちんと説明してくださったことで、自分の人生経験/職場経験をステップアップする大きなチャンスであると理解し、快く引き受けさせて頂きました。

 米国での仕事、生活は、かけがえのない貴重な経験となりました。日本に戻ってからも、海外経験を活かした仕事に就かせていただいたことで、今の自分があると思っています。本当に、ありがとうございました。

 伊東さんに感謝することを書き始めると、まだまだ、いろんなことが頭の中に浮かんできます。仕事だけでなく、私事でも紹介したいことが山ほどあります。でも、長くなるので、この辺で留めさせて下さい。

 最後になりますが、「伊東さん、本当にお世話になりました。」「近くに住んでいるのだから遊びに来いよ」と何度も仰っていただきながら遊びにいけていませんが、いつかその時が来ること、楽しみにしています。いろんな楽しいお話を、また聞かせて下さい。

 これからも3つの会社で社外取締役としてご活躍されるとのこと、くれぐれも、お身体を大切にして下さい。

  磯部 祐司(富士通コピューターテクノロジーズ 執行役員)

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伊東 千秋さん

富士通での45年間にわたるご活躍、本当にご苦労様でした。

 伊東さんは富士通でのTOWNS開発時代から大変お世話になりました仲間の一人です。私はTOWNSの経験から、1997年に米国シリコンバレーに赴任しました。

 翌年1998年に伊東さんも当時のFPC(Fujitsu PC Corporation)の再建のため、CEOとして赴任されました。Googleが生まれ、Appleが崩壊の危機にあり、「ドットコム会社」と呼ばれるIT関連ベンチャーが設立され続けたインターネットバブル始まりの時代です。

 このような時代のため、ご赴任後は重要な人材の引き抜きにも苦労されていました。更にFPC再建の為に相当規模のレイオフも実施されました。その時には、私のオフィスがあった別のロケーションの建家に伊東さんが雲隠れするために逃げて来ました。

 皆さん、何故だと思いますか? 私がある時に「この提案で富士通幹部を説得出来なく厳しく叱責され、本当に悩んでいる」と米国滞在の大先輩に相談した際に、「そんなの小さい問題だ!命に危険はないのだから」と彼に一蹴されました。正に、伊東さんは米国流の体を張った経営を実践されていたのです。

 米国滞在中はApple本社のあるクパチーノの由緒あるアパートで一人暮らしをされ、週末には真っ青な空と太陽のもとで、ゴルフも楽しまれていたと伺いました。富士通の大先輩が発起人となり発足したSVC(Silicon Valley Club)と呼ぶ日系企業の経営幹部の親睦ゴルフコミュニティにも富士通代表として参加されていました。この会は20年近くも続き、先月は222回の例会を迎えることができました。伊東さんは、このゴルフコンペで、元気よくクリークを飛び越えようとして、一度プレイ中に骨折されたと伺いました。
日本に深くは報告されなかったと思いますが。
 
 大変な重圧での経営任務をこなしながら、持ち前の「好奇心」と鋭い「感性」からシリコンバレーで起こるイノベーションをいつも、注視し、体感されていたと思います。富士通に帰任後は皆様ご存知のように経営幹部の一人として、多大な貢献をされたことは言うまでもありません。

 この旺盛な好奇心から、2007年に久しぶりにシリコンバレーの現場を視察に来られました。その後、2013年、2014年、2015年と毎年視察に来られた際にはアレンジをさせて頂きました。いつもいつも、伊東さんの豊かな感性からの直感的とも言える鋭い洞察力には本当に学ばさせて頂いております。シリコンバレーを案内しながらシリコンバレーを伊東さんから多くを学びました。大変感謝しております。
 
 また、我が家にも訪問して頂いたり、家内を一緒に食事に誘って頂いた際には、家内は伊東さんの人柄をこのように話していました。「伊東さんは女性に対する気遣いのある方です。奥様含めて女性に感謝し、リスペクトしてくれる姿勢は、オレオレが中心の日本の男性の中では、珍しく大変素晴らしい!」と私をじっと見つめながら力説していました。私はドキッとしました。今回の会も伊東さんは多くの女性に囲まれていると想像します。

 最後に、もう一人米国の女性からのメッセージ、「伊東さん、本当にご苦労様でした。私もここシリコンバレーで30年以上も頑張っております。時々は顔を見せに来てくださいね。これからますます人生を楽しんでください。またお会いする日まで。」(サンノゼ八町女将 リンダ)

 伊東さん、次のミッションは日本と日本の若者を元気にする事です。これからも、ご指導の程、よろしくお願いします。

 松本 均(前米国富士通研究所所長、現イグゼクティブフェロー)

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伊東 千秋様

 このたび、富士通グループを卒業され新たな人生に船出されることに対し、まずは、これまでのご尽力に心より感謝申し上げます。

 伊東さんには、本当に永い間、お世話になりました。

 私の富士通時代40年の半分以上は、伊東さんと何らかの関係があり、大先輩でした。一緒に仕事を始めたのは、伊東さんがFM-TOWNSの開発で、私がOASYSの開発をしていた時代からですが、それ以前に今の組織で言うプロダクト部門の色んな会議でたまに同席となった時の、伊東さんの情報通と卓越した理論に接し、富士通にも優れた論客がいるものだといつも感心していました。

 ノートPCの開発時代には、事業部長、開発部長の関係で二人三脚で数々の新商品にチャレンジし、よく販売部門とも喧嘩をしました。また、海外展開も大きなテーマで、よく海外、特にアメリカに一緒に行きました。アメリカでのパソコン販売がなかなか旨くいかず、色々な事件がありましたが最後には、伊東さんが自ら社長として乗り込んで行かれ、日本からのダイレクト輸送などのアイデアで何とか立ち直せて来られました。

 それ以降は、携帯を始めいろいろなビジネスの再建に携われて、とんとん拍子に出世街道を歩まれ、プロダクトの総帥として我々を引っ張って頂きました。今、思うに私の現在は、伊東さんの後を追いかけ、伊東さんの歩んで来られた道をなぞって来たと言っても過言ではありません。まだまだ、教えて頂くことはたくさん有ると思います。社会人の上司、人生の先輩として、これからもご指導を宜しくお願いします。

 最後になりますが、これからは無理をなさらず、健康に気を付けられてご自愛なされ、人生を謳歌されることを心よりお祈りしています。 追記:伊東さんのホールインワンには、驚かされました。たまには、ゴルフに昔の仲間と行きましょう。

山本 正巳 (富士通株式会社 代表取締役会長)

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千秋さま

 初めての出会いは、42年前。山形でのお見合いの席でした。スキーで真っ黒に日焼けして、やたら動作が機敏で、機関銃のように話すさまに、あっけにとられてしまいました。思い描いていた『白馬の王子様』とは、少し違っていましたが、暖かいハートと居心地のよい雰囲気にすっかり魅了されてしまいました。二人で歩んで来た道は、波瀾万丈に満ち、喧嘩をする余裕もありませんでしたね。夫というよりは、戦友そのものでした。

 田舎でのんびり育って来た私に、イライラすることもあったと思いますが、何かしらいい所を見つけて褒めて下さったこと。どれだけ勇気を頂いたかわかりません。私がひどく落ち込んでいた時、ゴリラの真似をして笑わせてくれたこと。本当に困っている時には、側にいてくれたこと。随分、足を引っ張ってしまいました。

 最後の仕事場として、富士通総研で有終の美を飾れたこと、皆さまに、主人と共に感謝申し上げます。富士通総研での主人は水を得た魚のように生き生きとして一番楽しそうでした。いろいろご配慮頂き、お引き立て下さってありがとうございました。皆さまが、お幸せになれますように、お祈り申し上げます。

伊東 友子

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