302 老いるということ(その1)

私には、湘南平塚で一人暮らしをしている90歳の母親が居る。15年前に夫を亡くした母だが、持ち前の気丈な性格で、これまでは、その一人暮らしを全く惨めには感じさせなかった。戦争中に、東京中野から相模原上溝に疎開していた母は、JR横浜線の淵野辺、矢部、相模原と3つの駅を敷地の中に抱える広大な相模陸軍造兵廠で経理の仕事をしていた。珠算が得意で、陸軍の全国珠算競技大会で二位となって頂いた銀メダルを、いつも大事そうに持っていた。

暗算が得意で、子供の時に一緒にスーパーに買い物に付いて行くと、レジに並ぶ時には、母は既に合計支払い金額を計算済みだった。昔のレジは、バーコードなどなく、オペレーターが一つ一つ値段を手入力していたので、間違いもあった。数字にめっぽう強い母は、機械にも強く、90歳になる直前まで、パソコンやFAXも平気で使いこなしていた。海外出張が多かった私は、母への連絡は、いつも携帯メールだったが、母は、それを単に読むだけでなく、返事も直に返して来た。

そんな母でも、さすがに90歳を超えると、認知症の症状が少しずつ顕著になってきた。この少しずつという所が、極めて厄介である。同じ話を何度も繰り返すのは、まだ良いにしても、話が、どこまでが本当で、どこまでが妄想かが、よくわからない。うっかり真に受けて、そのまま対応しようものなら、こちらが大恥をかいてしまう。だから、まずは冷静に話を聞いて、事実を自分の目で確認してから対応をとることにしている。

こうした認知症の症状が出て来たお年寄りを詐欺の罠に陥れることなど、赤子の手を捻るより簡単だ。マスコミが、オレオレ詐欺や、振込詐欺に騙されないようにキャンペーンを催しているが、一向に効果がないのも当然である。もはや、警戒心など全くなくなってしまった高齢者に、いくら念をおして説得しても、それは無駄である。そして、そんなオレオレ詐欺が、とうとう私の母にも襲いかかって来た。

それは、突然、母から私に電話がかかって来た。どうも、医者をしている末弟からの電話らしいというのである。どういう内容かと言えば、「患者さんの所へ往診に行ったら、近く予定している手術費用を前受金として預かった。その預かり金を入れたカバンを喫茶店に置き忘れたが、戻ってみたが、見つからない。しかし、そのお金は病院に渡さなければならない。今から、病院の人が取りに行くから、その人にお金を渡して欲しい。」というものだった。

母に言わせると、電話から聞こえる声が、末弟とそっくりなだけでなく、語り口も全く同じだったという。早速、私は、弟の携帯電話へ確認してみたが、当然のことだが、全く身に覚えがないという。それで、直に、平塚警察署へ電話をして、実家に見に行ってもらうことをお願いしたら、快く了解して頂いた。お巡りさんは、その後、しばらく実家の前で怪しい者が来ないか見張っていて下さっていたようである。この時の、平塚警察署の迅速な対応には心から感謝をしている。

さて、このオレオレ詐欺の犯人は、末弟が医者であることを知っていたし、彼の口調まで知っていた模様であることを考えると、彼らは攻撃する相手を良く調べた上で犯行に及んでいる。しかし、母が、おかしいと気付いて私に電話してきたのは、弟は、確かに医師ではあるが、長らく大手生命保険会社の審査医を務めており、今は、患者を全く診ていないからだ。軽度の認知症ということもあるのだろうが、そうした思考能力は未だ完全には壊れていない。だからこそ、言い分はしっかり聞いてあげないと結果として大きな後悔を招く。

一つだけ幸いなことは、この事件から、母は、もはや自分で金銭管理をすることを断念した。日本の高齢者の平均寿命から平均健康年齢を引いた期間、即ち、殆ど寝たきりの期間は、男性が7年で女性が12年だそうだ。そうだとすると、母は来年から身体を壊して寝たきりになったとして、12年間で102歳になるまで介護が必要と言う事になる。そのためには、お金は幾らあっても足りないかもしれない。

弟二人に断ったうえで、母の預金通帳、キャッシュカード、銀行印の全てを、平塚駅前に母が所有する貸金庫に保管することにした。これ以降、隔週、母を慰問する際に、2週間の生活に必要な最低限の現金を母の財布に入れている。認知症は高齢化によって遅かれ早かれ、誰でもなるものだ。程度の差こそあれ、既に、認知症に罹っている高齢者に対して、オレオレ詐欺にかからないよう注意すること自体が全く無駄な事だ。そんな詐欺に引っかかる前に、高齢者の金銭管理は、信頼できる代理人に任せた方が良い。

コメントは受け付けていません。