267  デジタル・ラーニング (その2)

大規模オンライン公開講座(MOOC)の草分けと言えば、何と言ってもサルマン・カーン率いるカーン・アカデミーが現在でも圧倒的な地位を誇っている。ビル・ゲイツ財団とGoogleの強力な資金援助の元で、相変わらず無料の講座を続けているが、その手法は、当初のYouTubeビデオの単純集合から抜け出して最先端のテクノロジーを駆使するようになっている。

そうした慈善事業をビジネスにしようと起業したのが、スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンス出身の教授たちによって創設されたコーセラCoursera)とユダシティー(Udacity)である。このたび、私達は、そのスタンフォード大学のデジタル・ラーニングフォーラムの教授たちと多くの実りある議論が出来た。彼らが、オンラインのデジタル・ラーニングをビジネスにしようとした動機は、このままでは大学が崩壊するという危機感からであった。高等教育は国や社会にとって欠くべからざる人材を育成する上で重要ではあるものの、年々費用が高騰し続けている。

一方、国家や地方財政は、今以上に高等教育に予算を割くことが出来なくなっているし、私立大学も授業料の値上げ既に一杯一杯だ。カーンアカデミーのような慈善事業も、寄付金が枯渇すればもはや成立しない。何とか、この難題を民間の力で効率よく進められないかというのが、彼らが設定したテーマであった。その転換点が2012年だったと言う。米国、シリコンバレーを中心に、この2012年に、二つの大きな変化が起きた。

一つは、多くのコンピュータ・サイエンスの研究者が、教育分野に注目し始めたということである。ロボット、人工知能、自然言語処理、データサイエンス、コンピュータ・セキュリティと言った、あらゆる分野のコンピュータ・サイエンティストが教育分野に集まってきた。もう一つは、この年を境にして、多くのファンドに教育産業に対して投資をしようという機運が現れたことだと言う。今や、Ed-Tech(教育テクノロジー)に投資ポートフォリオを持たないベンチャーキャピタルファンドにお金は集まらないことにまでなっている。

もともと、大学の教授や研究者たちの、第一義の目的は「研究」であった。「教育」は、その次で、「まあ、仕方がないからやるか!」と言った程度の動機づけしかなかった教授や研究者が殆どだった。しかし、ある時から、特にコンピュータ・サイエンスの研究者達にとって「教育」は第一級の研究対象となった。そして研究対象が足元にあり、勝手知ったる自分の庭の中でいろいろな実験が出来る。しかも、こうした研究に投資ファンドからお金が付くようになった。うまくやれば、自分も起業家として創業できる。これではやる気がでるのは当たり前だ。

つまり、コンピュータ・サイエンスを最大限使い、教育の最大効率化を図ろうとするのが「デジタル・ラーニング」である。当然、MOOCも、このデジタル・ラーニングの研究対象に入る。無料か?有料か?と言うのは二次的な問題にしか過ぎない。お金を取るにしても、オンライン授業や講義に、取るだけの価値がなくてはならない。そして、その価値とは授業を終了したことが社会的に認知され、自分が望む職を得たり、あるいは昇給、昇進できなければ、授業料を支払う意味がない。

そのことに早くから目をつけたUdemy社は、企業向けの特定分野のスキル教育に事業をフォーカスした。Dennis Yang President & COOは私たちのインタビューに自信を持って答えてくれた。「企業価値は人的資本(Human Capital)で決まるから企業は教育に惜しみなく金を使う。但し、教育の分野は企業にとって役に立つスキルに限られている。それでも、その分野はプログラミングから交渉術まで、実に幅広い。今、Udemyの顧客はアメリカの代表的な大手企業である。ここまで来ればコンテンツは自動的に集まってくる。毎月、1000本以上のコンテンツが応募されるので、我々は、慎重に評価し、それを望む企業に提供している。」Udemyは、GEのジャック・ウエルチを始めとする著名なアメリカの経営者を宣伝用教員として使い、Udemyにコンテンツを提供してきた多くの大学の先生たちに年収1億円以上の収入をもたらしたと宣伝しているのは、実に巧みな経営手法である。

こうしてシリコンバレーでは、多くのスタートアップが、今、教育産業として起業している。確かに、あらゆる産業のなかで、雁字搦めの規制で教育と医療は最も遅れた分野だったかも知れない。だからこそ、成長余力があると見たのだろう。そして、この教育産業に参入するのはスタートアップだけでなく、ベンチャーキャピタルまでもが参加し始めてきている。スポーツカー志向の電気自動車であるステラモーターへの投資で大儲けしたドレイパーキャピタルは、とうとうシリコンバレーに大学まで作ってしまった。この大学は8週間で授業料は9000ドル。ここで、ドレイパーファンドは、自分達が投資すべき起業家を育てようというのである。

大学が人材育成機関として困難な立場に追い込まれるほどに、その隙間で新たな教育事業を起こそうという人達が増えてくる。そんな中で、衝撃的なニュースが走った。サンノゼ州立大学ではユダシティーのMOOCを授業の一部として採用していたが、このほど、あまりにドロップアウト率が高いので、今後はMOOCを使わない方針を決定したと言う。これを受けてユダシティーもMOOC事業から撤退し、Udemyのように特定の顧客企業へスキル教育を主体としたサービス提供を行う事業モデルに転換したというのである。

元々、MOOCはドロップアウト率が高く、これを補うために従来型の授業も交えて行うべきだと言われてきたが、そうした補完授業を可能とする大学で、MOOCの高いドロップアウト率が改善されなかったということには、それぞれの立場から、いろいろな意見がある。それはMOOCの宿命で仕方がないのだという意見もある中で、それを何とか防げないかという研究に着手されている先生にも、このたびはお会いした。コンピュータ・サイエンスは、こうした人間の学習意欲や向上心まで分析して、その答えを見つけようとしている。「デジタル・ラーニング」は、人間の深層心理まで含めて研究対象としているのだ。

 

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