263 あれから3年 (その3)

広大な旧陸前高田市街を高台に建つキャピタルホテル1000の部屋から眺めると本当になにもない。これを見て、「大震災から3年も経つのに、まだこの状況か!」と思うかも知れない。でも、2年前の旧高田の松原には見上げるほどの高さのガレキ山脈が何本も走っていた。まだ、本物が生き残っていた奇跡の一本松もガレキの山の向こうにひっそりと隠れていた。どのように計算したのかわからないが、三陸沿岸のガレキの山を整理するには、何十年もかかると言われたにも関わらず、今は、もうどこにもガレキの山はない。言い方を変えれば、たった3年で見事に片づけられた。

お隣、大船渡市にある太平洋セメントも立派に操業をしているし、石巻市の日本製紙も大震災前より活気のある工場となっている。大震災から半年後に見た日本製紙の工場は無残にも廃墟となっていた。この大工場が、元の敷地に、たった1年で見事に甦るとは誰が想像しただろうか? この大震災で大きな被害を蒙った海岸沿いの敷地に工場を再建するのは、経済合理性だけから考えたらあり得なかったであろう。そこには日本製紙の経営陣が永年世話になった石巻市民との絆こそが最重要だと考えたのかも知れない。

しかし、もっと冷静に考えて見れば、30年で償却する工場建物や設備ならば、1000年に一度の大震災が再び起きるまでに、30回も立て直しができるという見方もできる。大津波が襲ってきた時の、従業員の避難がきちんと出来る安全策があれば、1000年に一度の確率で工場が破壊されることは、それほど大したことではないのかも知れない。そんな考え方もあったのか、大船渡市の水産物加工関連企業は、市の再建計画が発表される前に、自分たちの考えで、どんどん浸水域となった同じ敷地に工場を再建してしまったのだ。だから、街には活気が戻っている。

それは決して、「1000年に一度の災害が怖くて仕事が出来るか!」という、やけっぱちの気持ちだけばかりではない。ビジネスは一度途絶えたら、再び、元に戻すのは至難の業である。大船渡の大手水産加工会社である森下水産でさえも、国内の大手量販店向けの販路は、大震災後、たった半年休業しただけで、殆どが中国産へ置き換えられてしまったという。それでも、森下水産は、大船渡の工場が休業中、小規模ながら青森の工場で代替生産していたのにも関わらず、失った販路を、元の規模に取り戻すには、また何十年もかかるだろうと言う。

「二度と、こうした災害を起こさせない街づくりを!」という正論を唱えている間に、被災地の人々の生業は、休業している間にも、どんどん失われていく。なかなか進まない仮設住宅からの脱出も、ようやく被災者向け公営住宅が建設されて一安心かと思えば、独居老人向けの1DKばかりが高い倍率で、子供も一緒に住める家族向け3DKは、殆ど申し込みがないのだという。一家の大黒柱であるお父さんの仕事が地元にはもうないからである。

それでも、三陸の海は再び穏やかさを取り戻し、リアス式海岸の奥深い湾には、カキの養殖イカダが沢山浮かんでいる。この三陸の一番の生業である、水産業は少しずつではあるが勢いを取り戻している。いや、あの大津波で防波堤が破壊された結果、湾内に澱んだヘドロが津波の戻り波で一掃されて綺麗になり、これまでより何倍も牡蠣の育ちが早くなったという朗報さえある。

そうした三陸の水産業者が、今、一番望んでいることは、地元を守る巨大な防波堤ではなくて、福島第一原発の汚染水を海に流さないための万全の設備である。今でも、風評被害で苦しんでいるのに、万が一、汚染水の漏えいが深刻になったら、もはや、遠い将来にわたって、三陸の水産業は壊滅的な打撃を蒙るだろうと心配する。大津波は、来たら逃げれば良い。しかし、放射能による海水の汚染からは、どうやっても逃げられないからだ。

もはやガレキが片づけられた石巻や陸前高田の旧市街地には、人の姿も含めて、本当に何もない。しかし、この風景は、今、日本中の、どこにでもある景色のようでもある。そこそこに住宅が建っていても、歩いている人の姿が全く見られない、ゴーストタウンのような町が、日本中に沢山ある。それは、決して、東京から遠く離れた東北や九州ばかりではない。私が育った、神奈川湘南の地方都市ですら、程度の差こそあれ、似たようなもので、昔の活気は全く感じられない。

東日本大震災の被災地が持つ課題は、「地方」と呼ばれる日本中の各地域が抱える問題と全く同じではないかという気がして来る。少子高齢化という未曽有の大災害が日本中を襲っている。東北の被災地は、今回の大震災によって、その未曽有の大災害が加速されただけだとも考えられる。そのように考えれば、被災地の現在の問題は、日本全国民、自分達の問題でもある。

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