262 あれから3年 (その2)

旧高田の松原に凛とそびえ立つ奇跡の一本松を見た後、カトリック大船渡教会へ向かった。なぜ、大船渡教会かと言えば、私の師である鷺沼教会の松尾神父が信者の皆様と大震災後にボランティアとして訪れた教会だからである。松尾神父は、ここ大船渡教会で新約聖書をケセン(気仙)語に翻訳した山浦医師に会っている。ちなみに、この大船渡教会は遠野教会から分離独立するときに山浦さんが、ご自身が保有する土地建物を提供している。山浦さんは、大船渡医師会長として地元の名士であるだけでなく、新約聖書翻訳ではローマ教皇から感謝状も頂いている国際的にも名の知れた大変敬虔な信徒である。

大船渡教会を訪れたいと思った、もう一つの理由は、大船渡教会の後背地に建つ「海の星幼稚園」が会社の同僚である池田佳代子さんが通った幼稚園であることと、その幼稚園の建物の設計デザインは池田さんのお父上によるものだったこともある。そして、最後の理由は、今回、大船渡の大震災犠牲者追悼式に出席するにあたり、被災者への義捐金を大船渡教会に寄付するためであった。元来、私は、使い方がよくわからない団体へ寄付をすることには納得がいかない。3年前の大震災直後にも、少しまとまったお金を鷺沼教会からカトリック仙台教会へ直接送ってもらった経緯がある。

まず、大船渡教会に着いて驚いた。この教会は津波浸水域の直ぐ脇の高台に建っている、本当に可愛らしい小さな教会だった。神父様にお会いするために、入り口を開けると、玄関で下足を脱ぐ畳敷きの聖堂が目の前に現れ、また、これには大変驚いた。畳敷きの聖堂をもった教会など日本全国探しても、多分、ここだけだろうに。そして、私の前に現れたフィリピン人の神父様は、大変、気さくな方で、畳敷きの聖堂と外国人神父様のお姿を、ぜひ記念に写真に収めたいという私の希望に素直に応じて下さった。喪服姿の私を見た神父様は、「ここでも13時から追悼式を行いますが、参加されますか?」とお誘い頂いたが、13時半から、大船渡市の追悼式に参加する予定だったので丁重にお断りをした。

神父さまとお別れしした後、後背地の海の星幼稚園に向かった。この幼稚園は、教会よりさらに高台に建つ2階建ての立派な建物で、教会とは大違いのスケールである。さすが、池田さんのお父上が設計されただけあって、夢のあるとてもモダンな建物であった。高台だけあって幼稚園の庭からも大船渡湾が一望できる。池田佳代子さんからは幼稚園に上がらせてもらって、その景観を楽しんでくださいと言われたが、まだお昼の12時で、たぶん、園児たちがお昼を食べているのであろう、園児の大きな声が庭にまで響いていた。そんな中、こんな喪服姿で幼稚園に上がって行ったら、ちょっと怪しすぎるので、大変残念ではあったが断念をした。

しかし、ここで、私は考え込んでしまった。今は、お昼の12時、園児達が楽しく昼食を食べている。3年前のあの日、あの時、午後2時46分、幼稚園の園児たちは、まだ帰宅の途についてはいなかったのだろうか? この地は、高台で、大船渡でも一番安全な所である。もし、まだ園児たちが、この幼稚園に残っていたとして、先生達は、自宅に帰すために父兄を呼んだのだろうか? 父兄の皆様は、園児を自宅に連れ戻したのだろうか? もちろん、私は、その真実を知る由もない。しかし、間違いなく、親も子も、自宅に帰るよりも、この高台の幼稚園に、そのまま居残ることが一番安全だったことに間違いはない。

カトリック大船渡教会を後にして、大船渡市主催の追悼式が行われる大船渡市民会館リアスホールに向かった。大震災の直前に建てられた、この市民会館も大変モダンで立派な建物であった。市民会館の入口には、「気仙」の云われを解説する碑が建てられていた。「気仙」は西暦820年の続日本書記に現れてから1200年も歴史を持つ由緒ある地名であることが記されている。山浦先生があれほどに「ケセン語」を重要視されているのも、私は、この碑を見てよく理解できた。そして、この気仙地区とは、実は、今の岩手県大船渡市、陸前高田市と、宮城県の気仙沼市を包含していたのである。

そう気仙地区という1200年も続いた伝統ある一つの文化が、江戸時代から明治の廃藩置県のドサクサで岩手県と宮城県に分断されてしまったのだ。その口惜しさが、この大船渡市民会館の玄関の碑に表されている。そういえば、あのコソボ紛争で、セルビアがコソボを攻めたてたことが世界中の非難を浴びたが、実はコソボはセルビアにとって歴史ある古都であり、日本の京都のような存在だったと言う。こうした話は、世界中にあり、あのウクライナでも同じことが起きている。ロシアに編入されようとしているクリミア半島は、もともとはトルコ系であるタタール人の国だった。

こうした歴史ある気仙地域をまとめているのが地元メディア、鈴木社長率いる、東海新報である。東海新報は、大船渡市、陸前高田市、気仙郡住田町を一つにまとめた気仙地区の意見を代表する地元の新聞社である。鈴木社長によれば、カキの養殖を最優先に考えた、岩手県大船渡市が設計した通水管付防波堤は気仙沼市から見ると羨望の的だと言う。カキ養殖のことは全く無視して、ただ堅固な防波堤だけに拘る宮城県の方針には、気仙沼のカキ養殖業者は全く納得がいっていない。国連から世界を代表する森の擁護者として表彰され、国際的にも環境保護者として高名な畠山さんも宮城県の方針には憂いている。

ともあれ、大船渡市の犠牲者追悼式は始まった。ここで、富士通の岩手支店長である太田さんに出会ったことは大変嬉しかった。太田さんは、3日前の3月8日の陸前高田市の追悼式にも参列している。昨年の陸前高田市の追悼式は、12時から始まる一般参加者が長蛇の列で、ご焼香に1時間半も要したというのに、今年は、太田さんのグループ以外、一般参列者が殆ど居なかったというのが大変ショックだったという。3年目を迎え、いろいろな所で風化が進んでいる中、太田支店長は、この3月11日前後だけでなく、日常的に岩手県の各被災地を頻繁に訪れて復興状況を、こまめにモニタリングしておられる。会社の業務からという義務感を超えた、太田支店長の日頃のご努力には、ただただ感服せざるを得ない。

追悼式の後は、東海新報の鈴木社長を含む、大船渡市の地元経済界の名士たちを交えての懇談会に参加させて頂いた。懇談会の場所は大津波でお店を流され、高台にようやく再建された「いろは寿司」であった。事前にGoogleで「いろは寿司」の場所を調べた私は、「同じ電話番号で二か所にお店があるのはどうしてなのだろうか?」と訝っていたが、Googleには、流されたお店も登録されていたのだった。この晩も、相変わらず、無線操縦のヘリコプターで被災地の定点観測を続けておられる東海新報の鈴木社長が一番雄弁で楽しいお話をされていた。

「中国製の無線操縦ヘリコプターが、この前、墜落しましてね、今、修理中なんですよ。私は、今回、こうした被災地の定点観測に対して政府の補助金が出るのを知りましてね、初めて申請書を書きましたよ。お蔭で、今度のヘリコプターは、ドイツ製の高級機を買います。もう、私も年なので、若い社員に無線操縦のやり方を教え込んでいます。これから、どんどん、被災地の復興情報を発信していきますよ!」と鈴木社長。もう70歳をとっくに超えておられるのだろうに、とにかく気持ちが若い。東北の大震災、復興に貢献しているのは、若い人達ばかりではない。高齢者だって、立派に、お役にたてるのだ。

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