254 サルマン・カーンの凄さ

無償オンライン公開授業(MOOC)に関して調べていると、必ず、バングラディッシュ系アメリカ人であるサルマン・カーンという人物が登場してくるので、彼の著作「世界は一つの教室『学び×テクノロジー』が起こすイノベーション」を読んでみた。サルマン・カーンがバングラディッシュ系アメリカ人という意味は、彼がバングラディッシュから米国に移住してきた両親からアメリカで生まれたという意味である。

私達が一般に『インド人』と呼んでいる人たちは、実はインド国籍を持つ人だけでなく、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ国籍を持つ人達を含めている場合が多い。英国ロンドンには多くのインド人が住んでいると言われているが、実際には、その殆どがバングラディッシュ人である。中東のカタール、アブダビ、ドバイに暮らす多くのインド系の人達も殆どバングラディッシュ人である。

なぜ、多くのバングラディッシュ人が出稼ぎのために国を出ているかと言えば、インド系4か国の中で最も貧しい国であることと、インド系特有の優秀な才能に恵まれていることにある。国土の半分近くが海抜ゼロメートルにあり、豊富な降雨量に恵まれていながら、いつも洪水に襲われて飲める水がない。日本を中心とする先進国の援助で掘られた夥しい数の井戸から汲み上げられた水はバングラディッシュ全域に深刻なヒ素中毒を引き起こした。だから、多くの優秀なバングラディッシュ人が国を捨てて米国やヨーロッパへと移住する。

サルマン・カーンの両親も医師である。何不自由なく育ったサルマン・カーンは得意な数理系の才能を活かしてヘッジファンドで働いていた。既に結婚していたが、夫人は医師として自立した生計を得ており、彼が働かなくても食べていけた。そんな生活のなかで、同じくバングラディッシュから米国に移住してきた、12歳の従妹がサルマン・カーンの人生を変えた。彼女は小学校低学年から得意だった数学が高学年になって突然学校の授業についていけなくなったのである。

数学は、物理、化学、最近では物理や化学と同じジャンルになった生物まで含めて全ての理科系の学問の基礎となっているので、数学で落ちこぼれた学生は文科系に進学せざるを得ない。サルマン・カーンは電話やメールを使って、遠隔地から従妹の家庭教師を引き受けた。その結果、従妹は、たった一つ、ポンドやオンス、マイルやヤードと言った単位に関して理解出来ていなかったために数学の問題が出来なかったことが判明した。そのことに気付いたサルマン・カーンは度量衡に関する単位について従妹に丁寧に説明してやると、彼女は以前のように数学でクラスのトップに帰りづいた。その後、順調に優秀な成績で進学をして、現在は、医学系の大学生となっている。サルマン・カーンは、ここで、現代の教育システムは何かがおかしいのではないか疑問を持つようになった。

たった一度、病気で欠席したか、体調が悪く集中できなかったか、その時の授業が頭に入らないで、つまらないことで躓いたら、その子は、もう二度と救済されることはない。落ちこぼれの烙印を押されてしまう。何で、授業は、その子が理解できなかった所まで戻れないのだろうか?とサルマン・カーンは思ったわけである。その解決策として、授業をビデオで作成すれば、よく理解できなかった子供は、もう一度やり直しが出来るではないかとサルマン・カーンは考えた。

それで、まず最初は数学の授業から作り始めた。もともと教育が本職ではないので、仕事が終わって帰宅したあと、自宅でパソコンとビデオカメラを使って作り始めたのだが、自分自身の映像がビデオに入ることは避けた。生徒は、先生の顔がチラチラ出てくるとそれだけで集中が途切れることが分かっていたからだ。先生の顔は、数学の問題とは全く関連性がない。教材も、非常にプリミティブに黒板にチョークで書いていく様子をビデオで撮った。極めて稚拙なコンテンツであったが、サルマン・カーンは、その授業内容をYouTubeで公開したのだ。

これが全米で大ヒットとなった。分かり易いと評判になったのだ。しかも、当時のYouTubeは、まだ能力が不足していたので、投稿は10分に制限されていたので、1時間の授業は6つのコマに分割せざるを得なかった。これが、もう一つの大ヒットの要因である。その後、大脳生理学者と一緒にある実験を行った。つまり、10分の授業ビデオを6コマ分連続して受講させた生徒の理解度を分析したのである。生徒が最も理解していたのは、なんと最後の10分ではなくて最初の10分だったのだ。

生徒が授業を真剣に学ぶことが出来る集中度は10分以上続かないことがわかったのだ。その10分を過ぎると、もう頭が次の授業を受け入れることを拒否し始めるのである。そうだとすると、一般的に学校で行われている60分-90分の授業と言うのは一体何の意味があるのかということである。

受講者が数万人を超えた時点で、サルマン・カーンは、本職のヘッジファンドを辞めて自分の貯金を切り崩して、カーン・アカデミーを立ち上げる。授業は無料、世界中どこからでもインターネット経由で受講することが出来る。しかも10分単位で分割されていて、理解できない場合には反復したり、別なコースを経由して、先に進めるようになっている。これを見て感動したビル・ゲーツはサルマン・カーンを自宅に呼んでビル・マリンダ・ゲーツ財団から巨額の支援を行うことを約束した。今では、一期に全世界から150万人が受講し、理科系科目だけでなく歴史や哲学など3000科目ものコースが用意されている。

この本で、サルマン・カーンは、彼が始めた無料オンライン公開授業(MOOC)から見て、現代の教育制度、そのものがおかしいのではないかと疑問を呈している。彼は、この現代の教育制度をプロイセン方式と呼ぶ。20世紀に急速に台頭したドイツ帝国が富国強兵のために始めた教育制度がプロイセン方式だと言うのである。その本質は選別と洗脳にあると言う。国家にとって必要な人材を効率よく育成するためには、必要のない人材を容赦なく振り落す必要があった。つまり、一度躓いた学生を救済している暇はないのだという。

教える側にとって効率が良い教育制度とは、生徒を一か所に集めて、標準化された教材とカリキュラムを用いて教えることだとサルマン・カーンは言う。しかし、本来の教育は徒弟制度のように1対1で、教わる側の生徒の能力に応じた教え方、授業の進め方をすべきだという。先生中心ではなくて生徒中心の教育制度への転換がコンピュータやインターネットを用いて可能になるとすれば、これは教育の大革命が起きることになる。バングラディッシュから米国にやってきた天才、サルマン・カーンは、この革命を、たった一人で始めたのだから凄い。

MITやハーバード大学、スタンフォード大学など世界をリードする大学が、このカーン・アカデミーを放っておくはずがない。日本の大学関係者の間では、MITは何の目的で無料オンライン公開授業(MOOC)を始めたのか?と訝るむきも多いと聞く。飯吉透、梅田望夫 共著 「ウエブで学ぶ オープンエデュケーションと知の革命」の中で、お二人が仰っておられるのは、「アメリカ人というのは、いたずら心がある。この先、どうなるかわからないが、とりあえずやってみよう。こうしたフロンティア精神が、今の突出したアメリカを創り出したのだ」という。

飯吉先生の解説によれば、現在、ウエブ教育の元祖と言われるMITのOCW(オープンコースウエア)は、多くの先進的なアメリカの大学が『OCWはビジネスにはならない』と結論づけたところで、「よし、もう他の大学は誰もOCWをやって来ない」ということで本格的にOCWを始めたのだと言う。サルマン・カーンも凄いが、やはりMITも凄い。いたずら心が世界を変える。

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