212 あれから2年 (その5)

昨日、私の手元に厚さ1インチ、786ページにも及ぶ「東日本大震災 仙台市記録誌」が届いた。届けてくれたのは、この分厚い資料編纂に初めから完成まで携わった、当社の公共分野で仕事をしている女性コンサルタントである。この資料は、彼女と富士通本社の男性社員と3名の仙台市職員を含む、合計5名で、昨年の5月から11か月の時間をかけて作られた。ボリュームも多いが、内容も充実しているので大変読みがいがある。永年、公共分野で仕事をしてきた彼女は、大船渡の出身で、幸い、実家と家族は無事だったが、友人や知り合いには津波の犠牲になった方もいる。とりわけ、彼女の母親は、陸前高田の出身で、そこで暮らしていた母親の姉妹2人、つまり彼女の叔母達は、このたびの津波の犠牲者となった。震災直後、彼女は母親と共に、何日も陸前高田の遺体安置所を探し回ったという。

そうしたこともあって、この仕事が決まると同時に、彼女は東京のアパートを引き払い仙台市に移り住んだ。平日は仙台市役所で震災記録誌編纂の仕事をしながら、休日はレンタカーを借りて大船渡や陸前高田に向かい、これまで公共分野で仕事をしてきたコンサルタントとしての知見を活かしたボランティアとしての活動を行っていた。そうした不断の努力が実って、こんなに立派な記録誌が出来た。やはり、お天道様は、どこかで、こうした地道な努力を見守っているものである。3月18日に行われた、奥山仙台市長から山本富士通社長への感謝状贈呈の記者会見の場で、彼女は奥山市長と山本社長と3人で記念写真に収まっている。

そんな彼女の汗と涙と努力の結晶を頂き、いかに分厚い資料とはいえ、そのまま長い間、積読にしておくわけにはいかないので、他の仕事は放り出して、夕方までに786ページを一気に読み終えた。仙台市の副市長から局長、局次長までの幹部社員全員から聞き取り調査を行って仕上がった、この資料の中身は大変濃いものがある。一気にざっと読んだだけではあるが、この中で、特に印象に残ったいくつかの点について、ご紹介をしたい。

まず、冒頭の記述で「完全な防災の限界」として「今回の津波による各地の被害をみると、従来から津波の被害を体験していた地域での防波堤や防潮堤などの構造物は、今回の巨大な津波の前に簡単に飲み込まれた。自然の猛威に対して、構造物による制御には限界があることが明らかになり、自然と対峙する完全な防災ではなく、自らの命を守るため『逃げる』ことなど、減災の視点の重要性を再認識した」とある。そう『防災』という考え方は、自然の猛威に対する人間の驕りや無知から来ていると指摘している。今回の大災害を経験した人々の生々しい声である。我々は『防災』などという言葉を安易に使ってはいけないのかも知れない。

震災直後から数日間は、食料配給も困難を極めたようであるが、今、振り返ってみて、このたびは問題にはならなかったが、アレルギー対応や宗教食の問題も考えるべきであったと反省をされている。また、こうした大災害時には仙台市は仙台市民のことだけを考えていれば良いと言うわけには行かない。仙台市以外に居住する仙台市への昼間流入人口は、12万人も居て、その人数には山形市2,000人、福島市1,500人など他県の地域からの流入も含まれている。そして、このたびは原発事故もあり、福島県から仙台市内に移動してきた被災者がかなりの多人数いて、その人たちのケアも仙台市民と同様に行う必要があった。

もちろん仙台市には外国からも来ており、市内に居住する外国人登録者は1万人にも及ぶ。半数が中国、4分の1が韓国で、その他は欧米からである。そのため、外国人被災者への情報提供、アンケート及び罹災申請用紙など、各種届出用紙も中国語と英語版を用意している。それにしても、罹災証明申請から交付までの手続きは外国人でなくても日本人でさえも大変なものである。この記録誌に掲載されている申請から交付までのフローチャートを見ると合計20ステップ以上あり、見ているだけで頭がクラクラしてくる。これを、あの混乱の中で、被災者と市役所職員が、共に行ったのである。

この罹災証明の手続きのピークは震災から半年後の2011年6月で週2万件である。その後、収斂するまでには次の年の3月まで、ほぼ1年間、毎月3,000件もの申請が続く。震災発生から最初の3か月は、それどころではないというのが実態だったのだろう。しかし、罹災証明がないと、被災者は一銭の義捐金すら支給されないのである。この大混乱を、さらに追い打ちをかけたのは高速道路無料通行用の罹災証明であった。6月から始まった、この制度は、12月に制度改正により罹災証明が不要となるまで、一般家屋の罹災証明の件数とほぼ同じ数の申請がなされ市役所窓口の大混乱を助長した。なぜ、最初から罹災証明なしの完全無料化が出来なかったのかと市役所側は悔しがる。災害現場を知らない、永田町、霞が関の思いつき政策の結果である。

住宅問題の解決に仙台市が行った民間貸家の借り上げ施策は、大変大きな効果をあげた。仮設住宅よりスピードも速く、住み心地も遥かに良い。今、日本全国の地方都市には膨大な数の空き家がある。ここをうまく利用しない手はないのだが、今回、仙台市の反省としては、災害が起きる前から、災害時に備えて、こうした施策のための事務手続きを標準化しておくべきだったという反省である。

市役所として、一番、想定の範囲を超えたのは遺体の数であった。棺に関しては、災害直後に若林区荒浜で200体以上の遺体が見られると言う情報で、すぐさま1,000柱を手配したため間に合ったが、課題は遺体安置所のスペースと火葬の能力、及び身元が確認できない遺体の安置方法であった。取りあえず、身元不明遺体は一時土葬するという手段を取った。火葬も他県の14施設の応援も仰いだほか、身元不明遺体確認用のDNA鑑定作業は全国の警察の応援を仰いでいる。ご遺体に関する何もかもが、通常のスケールを大幅に超えているので、作業が全て間に合わない。この災害が、仮に、夏場に起きていたら、どうなっただろうかと記録誌には書かれている。

一般的に、こうした災害に於いて、高齢者の問題は多く語られるが、それと同様に、子供の問題、そしてペットの問題も非常に重要であると記録誌には書かれている。子供達においては、心のケアが特に重要で、命が助かっても、あのような恐ろしい状況を目の前で見た子供たちの心は、そう簡単には癒えることはない。仙台市動物管理センターにおける記録を見ると、犬は、382頭保護されて、192頭が飼い主に変換、173頭が譲渡され、実に95%の犬が救われている。ところが、ネコは1,152頭保護されていて、元の飼い主に変換されたのは、たった9頭で、譲渡されたネコは379頭。返還譲渡率は、犬の3分の一で、33%にしかならない。私は、会社の同僚で仙台の被災ネコを2頭ずつ引き取った人を2人知っている。彼らは、実に良いことをしたわけである。

その他、ゴミ処理の問題、ガレキ処理の問題、上水道、ガスなどのインフラ復旧の問題など、後世に役立つ、多くの記述があるが、紹介は、またの機会にしたい。さて、私は、この記録誌の中で、今回の災害とは全く関係がない、一つの情報に注目した。仙台市の製造業の動向に対する記述である。仙台市は、今回の大震災が起きる前から、ほぼ10年間の製造業統計を示している。仙台市は東北の中でも企業誘致には成功している自治体に入る。まず生産高についてみるとリーマンショック直後の2008年から2009年までは落ち込んでいるが、その後、2010年から順調に増加傾向にある。今回の大震災で、一時下がったが、それでも昨年後半から元に戻っている。

問題は、このグラフに書かれている、もう一つの指標である付加価値生産高だ。生産高は、この10年間で大幅に増加しているのに、付加価値生産高は、この10年間全く変わっていない。つまり、生産高が増加しても付加価値高は増えていないのである。こうした統計を、あまり今まで見たことがなかったが、多分、この傾向は、仙台市のみならず、日本全国で起きているのではないかと推測する。生産高での世界一の製造大国は中国であるが、付加価値生産高で見た世界一の製造大国はアメリカである。モノづくり大国を目指す日本は、このどちらを目指すのか? それによって国の在り方が変わってくる。この仙台市の震災記録誌は、私に、もう一つ大事なことを教えてくれた。

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