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479  湯山一郎さんを悼む

2024年3月3日 日曜日

一昨日、湯山さんのケアを最後まで続けてこられた方から湯山さん御逝去のお手紙を頂いた。今年1月13日に横浜市役所で行われた孫娘のコンサートを聴きに来られた湯山さんの姿が最後となってしまった。当日の湯山さんは、田園調布のご自宅から横浜市役所の駐車場まで自ら運転してのご参加だった。お手紙によれば、1月末になって急に容体が悪くなり、2月14日に亡くなられたとのこと。2月16日には葬儀を行い静岡県のお母様が葬られた墓所に納骨されたとのことだった。

私が湯山さんを孫娘のコンサートに招待したのは、かつて湯山さんは「子供たちのための音楽会」を主催されており、孫娘が未だ小学生の頃に聴きに行かせたことがあったからだ。当日、湯山さんは孫娘の席まで来てくださり励ましの言葉をかけて下さった。その甲斐も会って、一昨年、孫娘は毎日新聞社主催の日本学生音楽コンクールバイオリンの部高校生部門で一位を取ることが出来た。横浜市は、このコンクールの協賛をしており、今回は一位の受賞者の披露会が市役所のホールで開催された。

昨年、12月に新横浜で開催された大学のクラス会で、筆談で話をされるほど元気だった湯山さんは、「これが最後になるかも知れないが、頑張って聴きに行くよ」と言って下さった。湯山さんは、2019年に咽頭癌を宣告されてから、東大病院で何度も手術を繰り返し、皆が驚くほど頑張っていた。私は、今年1月のコンサートだけでなく5月に開催される、孫娘の初めてのソロコンサートにぜひ湯山さんを招待したいと思い、パンフレットとチケットをお送りした。今回のお手紙は、最後まで湯山さんを看取って下さった方が送り状の私の住所宛にお手紙を下さったというわけだ。

湯山さんは、先に亡くなった中西宏明さんと同じく、現役合格が85%というベビーブーム生まれという私たちの学年の中では数少ない浪人合格組だった。しかし、湯山さんも中西さんも、なんと最初から現役合格など全く目指していなかった。湯山さんは、東大合格者数日本一の日比谷高校で、東大受験不合格者は4年生として都内最強塾としての日比谷高校の中で東大受験の面倒を見る制度が出来ていた。一方、中西さんも現役受験生としては文二で不合格になった翌年には、何と理系に転換して理一で合格している。こんな剛毅な二人は、いつも私たちの兄貴分として人生全般の指導者であった。

東大紛争で7ヶ月間も授業がなかった私たちの学生生活は、かなり危ういものだった。そんな中で、私たちは、田園調布の湯山さんのお宅に皆んなで集まって徹夜で麻雀をしながら議論する日々も多かった。湯山さんのご両親には随分ご迷惑をおかけしたと、優しいご両親に、心から感謝している。そんな中で、湯山さんは就職先としてNHKの技術研究所を選ばれた。湯山さんのお父上も私たち東大電気電子の先輩で沖電機に勤められていた。「父親と競合する企業に就職するのもどうかな?と思って公営企業を選んだ」と言っていた。

湯山さんのNHKにおける最初の勤務地は神戸放送局で、業務は生駒山の放送アンテナの保守業務だったと思う。私は、湯山さんの勤務地に遊びに行ったことがある。NHKの独身寮が八尾市にあり、そこまで案内してくれた記憶がある。放送アンテナがある生駒山山頂は奈良県生駒市と大阪府東大阪市の県境にある。湯山さんが、いつも誇りにしていた一人息子、湯山壮一郎氏は東大を卒業後、財務省に入省し、現在は奈良県に出向し副知事を勤めておられるのも何かの縁だろう。昨年末、私が「立派な息子さんだね」と言った時も湯山さんは大変嬉しそうだった。そういえば、湯山家は、親子三代の東大卒となる大変立派な家系であった。

NHK技研(放送技術研究所)での湯山さんの業績は、NHKが世界で最初に開発したHDTV(ハイビジョン)の実用化だった。この大事業を見事に成し遂げられた湯山さんは、博士号を取得されて宇都宮大学教授に就任し、日本の若手研究者の育成に尽力された。2019年に咽頭癌を発症した直後に湯山さんは自身の音声を録音し、手術で声帯が使えなくなった後に、自ら入力したテキストを自身の声で発生する仕掛けを作って話ができる道具として使っていた。専門の映像技術だけでなく音声技術についても自作することに挑戦していたことに対して心から敬意を表したい。

湯山さんが2019年に癌を発症した後に、日本の病院はコロナ禍で多くの機能不全に陥った。それでも湯山さんは、自ら運転し東大病院に通院し、何度も入院・手術を繰り返してきた。そうした中で、エジプトのシナイ山に登頂したり、ヒマラヤへの航空機観光など海外への冒険旅行も果敢に挑戦されていた。そう言えば、湯山さんは、先日まで日経新聞に私の履歴書を投稿されていた医師で登山家の今井通子さんとも友人だと言っていたような気がする。一体、どれだけ広い人脈をお持ちだったのだろうか?本当は、もっと長生きして頂き、いろいろな話も聞きたかった。しかし、湯山さんは、与えられた条件の中で精一杯の生き方をされていたと思う。心から「ご苦労様でした」と申し上げたい。