今から10年ほど前に「デジタル技術は教育分野に対して何が出来るか?」を調査するため、英国と米国を訪問した。最初に訪れた英国教育省では英国政府の公立小中学校での教育方針を聞いた。彼らは、小中学校で学ぶべき必須科目を英語、数学、科学の三科目に定めたという。英国では貴族や富裕層は私立学校に進学するので、例えばロンドンの公立の小中学校は両親が異国から移住してきた子供たちが半数近くもいる。この子達は、大学に進学する比率も低く、その後に就職活動でも苦労している。そうした事情を考えて英国教育省は公立の初等中等教育において重要なことは、高等教育を受けるための準備ではなく、お金を稼ぐために必要な技術を早くから学ぶことだと考えていた。
英国では、こうした公立の小学校で1年生からプログラミング教育を実施していた。私が見学したのは小学校3年生の授業だったが、希望した生徒たちが放課後にスクラッチという言語を使ってゲーム・プログラムを作っていた。彼らは、中学に進学すると、さらに高度なデジタル教育を受ける。中学校では「Art & Technology」という科目があり、この授業では三次元CADを使って住居を設計させている。ここでは基本構造だけでなく、壁などの内装や家具まで設計する。生徒たちは、設計が完了するとVRでお互いに内見して他の生徒が設計した家の中を皆で評価し合うというらしい。英国では、こうした先進的なデジタル教育を10年以上前から行なっていた。
一方、アメリカではMITで20年以上もK12(初等中等教育)の研究をされているラーソン先生が「子供達に一番必要な教育は数学と科学だ」と仰っていた。先生は、それは決して子供たちを将来、研究者やエンジニアにするためではなくて、「子供達にとっては多くの知識を蓄えるより頭に汗をかいて考えること(クリティカル・シンキング)が一番重要なのだ。最悪、きちんと理解できなくても良い。それでも一生懸命考えるということが重要なのだ」と仰っていた。そのアメリカでスタンフォード大学の先生たちは「今、アメリカの大学教育は危機に瀕している。こんなに高額の授業料では、どんなに優秀な才能がある学生でも、お金がない人は大学の授業を受けられないと言った。
当時のスタンフォード大学の教授たちは「私たちはデジタル技術を駆使してオンラインで多数の人たちに大学の教育を受けられる仕組みを作りたいと考えている」と仰っていた。同じ頃、MITが始めたMOOC(Massive Open Online Courses)は、その後の日本でもJMOOCとして多くの授業を無料で受講できる仕組みができあがった。しかし、この仕組みの最大の問題点は途中で脱落する学生が非常に多いということと、授業をきちんと終了した生徒を試験で評価して資格を与えるという2点で大きな課題があった。スタンフォードの先生たちは、AIを使って生徒の理解度を評価して、理解できなかった生徒たちに対して、もっと優しい説明を施す方法とか、きちんと理解した生徒に対してAI技術で試験と採点を行い、資格取得の証明書を発行する仕組みを作り上げようと考えていた。
そうした中で、現在、生成AI(ChatGPT)の出現で大きな反響が起きている。このChatGPTの評価はいろいろあるが、私は、現在の性能でも十分に凄いと思っている。現在のChatGPTのレベルでも質問をきちんとすれば、優れた回答を返してくるからだ。さらに、このAIという研究分野は2012年にディープラーニング(深層学習)が実用化されて以来、たった10年で、ここまで発達してきた。今後の生成AIの進化は、私たちの想像を絶するレベルで向上すると考えており、私たちは、その後に向けて何を備えておかなければならないかを考える必要がある。これまでの10年間のAIの技術進化は特に「認識」という分野で進化してきた。一般的に知られている分野では顔認証といった画像認識や人の声を理解できる音声認識である。
こうした応用は、どちらかと言えば、いわゆる理系の仕事に関する処理を自動で行うAIであり、文系の仕事に対しては大きな脅威が起きるようには思われて来なかった。それでも、AIはこれまで弁護士が行なっていた契約書のチェックとか、会計士が行なっていた不正経理のチェックまで行えるようになると、少し危機感を覚える職業は出てきたわけだが、今回の生成AI(ChatGPT)のように人間と会話をして質問に答えて回答も出すようなAIを見せられると、もはや全く様子が変わってくる。つまり、人間同士の会話で行なっていた従来の作業をAIがこなすことが実証されたからだ。
つまり、この生成AIは、極めて特殊な分野ではなく、ごく普通の仕事まで適用分野を拡張してきたことを示している。これまではAIに仕事をさせるために人間がデーターを集めて学習させるという仕事が人間には未だ残されていた。しかし、この生成AIは既に膨大な量の知識やデータを保有していて学習が済んでいることが凄い。このChatGPTはOpen AIというアメリカの会社が開発しており、学習したデータベースの殆どが英語ベースの知識で日本語ベースは1割にも満たないと思われるのに、この精度で答えを出してくる。Open AI社は既にGPT4を開発済みと言われており、ChatGPT(GPT3.5)の100倍から1000倍以上での学習データを基礎としていると言われているので、近い将来マイクロソフトがOffice(Word ,Excel ,PowerPoint)にGPT4を使ってくると、これらはとてつもないツールとなる。
そうなると、「AIに何ができるか?」というより、「人間に残されている仕事には何があるか?」というテーマが切実な問題となってくる。コロナ禍後のアメリカでは、既にAIのために職を奪われつつある仕事が増えてきている。そして、こうした職業の多くが高学歴の人たちだけができる仕事と言われて来た職業である。さらに、現在アメリカの最先端IT企業であるBigTechの新規採用者の中で大学卒業者の割合が減ってきた。つまり、このAI時代には、大学へ行かなかった人々、あるいは大学を中退した人々でも優れたデジタル技術を持っていれば、あのBigTechが積極的に採用しているという事実がある。これは一体何を意味しているのだろうか? AIが進展してくると、これまで大学で学んできた知識や技術が必要なくなってきたか?あるいは、それだけの知識ではもはや間に合わない時代になったということなのかも知れない。
今年の早稲田大学の入学式で田中総長が述べたことは、「早稲田大学に入学した学生は、文系、理系に関わらず、英語、数学、デジタルの各技術を皆が学んでほしい。大学は、そのためのカリキュラムや制度を用意している」と語られた。田中総長が仰りたかったことは、AIがどんどん進展する社会においてお金を稼ぐためには、これまで学校で学んできた分野だけでなく新たに数学やデジタル技術を皆が学ばないとダメだし、学校を卒業してからも新たなデジタル技術を学び続けないと仕事がなくなっていくことに早く気が付かないといけないという意味だろう。
英国の教育省や、MITやスタンフォード大学の先生たちが言っていた初等中等教育や大学教育の必須科目の見直しは、これからのAI時代を迎えるために絶対に必要なことであろう。そして、今、アメリカではコロナ禍後も増え続けている職業として「看護」、「介護」、「保育」というAIでは簡単には代替出来ない「人と人の関係性」を重視する職業が注目を浴びている。つまり、これからの職業は「AIを使う職業」と「AIには出来ない職業」に2分されてくるのではないか。この2つの職業のどちらも重要であり、子供たちや青年、そして中高年に対して「今後必要な教育とは、どんな教育か?」を私たちはこれから直ぐにでも見直していかなければならないと思う。