2021年7月1日、日立製作所の社長・会長、日本経団連の会長を勤められた中西宏明さんが逝去されたとの報道を聞き身体中から力が抜けた。これから日本を再び成長軌道に乗せることができる数少ないリーダーだったのに本当に残念でならない。中西さんは、今年、5月に会長職から退かれて体調が戻り、6月には時々出社されるほどまで回復されたが、突然容態が急変され6月27日にお亡くなりになられた。ご家族だけで、6月29日にお通夜、6月30日に御葬儀を執り行われてからの公表だった。経団連会長職に就くことに最後まで猛反対されていた奥様が「これからは私だけの中西」と仰っている姿が目に浮かぶ。
中西さんには、もう何年にもわたって、東大電気電子工学科の同級生たちと毎年ゴルフコンペを付き合って頂いていた。ビジネスの世界では、これまで何度も窮地を凌いでこられた中西さんのことだから、今回も、きっと元気になって、また、ご一緒できることを信じていたのに残念でならない。とうとう最後になってしまった、2018年6月のコンペは、経団連会長就任祝いも兼ねて行われ、見事、中西さんが優勝された。歴代の経団連会長には、必ず、警護のSPが就く慣わしとなっているのに、どうも見当たらないので「中西さん、今日、SPは居ないの?」と尋ねると「総理みたいに10人も付けば安心だろうけど、一人付いたから大丈夫ということはないでしょ。だから、お断りした」とあっけらかんと笑っている。中西さんらしいなと思った。
その次の年の2019年6月にも、中西さんには我々ゴルフ仲間のために貴重な時間を予定して頂いたが、三週間ほど前に体調不良で参加できないとの連絡があった。5月の連休直後にお会いした時は、少し疲れた様子だったが「連休中はワシントンに缶詰だった。それで日本に帰ってきたら、今度は、中国の高官からどうしても会いたいと言われて」と相変わらずの活躍だった。まさに、米中問題の渦中に置かれている様子だったので、体調不良も、そうした激務から生じた過労なのかと思っていた。その直後に、「急性リンパ腫で入院」との報道があり、本当に驚いた。普通の人の何十倍も濃い仕事をこなされてきたので、これまで累積していた疲れが一挙に出たに違いない。
マスコミでは、いつも中西さんが過激な発言をされているように報じられているが、ロンドンに駐在され欧州総代表、米国シリコンバレーに駐在され米国総代表を務められた中西さんから見れば、欧米では当たり前に行われていることを発言されていただけである。新卒一括採用、年功序列、終身雇用は、世界で日本だけの固有の人事制度なので、グローバルカンパニーを目指す日立のリーダーとしては、当然、世界の中で日本だけ異なる人事制度に固執するわけにはいかない。何しろ競争相手は世界中の企業なのだから、同じ条件で戦わなくては勝ち目がないからだ。現に、日本国内においてすらも、一流と言われている日本企業が、外資系企業から優秀な人材を、どんどん引き抜かれている。もはや、ピカピカのタレント社員は平等・公平な処遇では決して満足はしない。
それでも、中西さんは、一生懸命頑張っている人間には優しかった。その反面、偉そうなことを言っていながら、さっぱり働かない人間には厳しかったかも知れない。私が、初めて中西さんと行動を共にしたのは大学3年生の時の「北アルプス縦走」だった。高校時代から山歩きをされていた中西さんがリーダーで、電気電子工学科で同期の友人数名と、中西さんの婚約者だった明美さんもご一緒だった。一方、私は、高校時代に突然発症した関節リューマチがようやく寛解したばかりで、そのようにタフな計画に同行できるか自信がなかった。何しろ、高校時代3年間は学校の階段の登り下りにも苦労し、体育の時間は殆ど見学だったからだ。中西さんは、そんな薄弱な私に気を使ってくれて、とにかく一番弱い者にペースを合わせて進んでくれた。その時、私は、「この人は優しい人だな」と思った。
そして、なんと言っても、一番忘れられないのは、東大紛争と 70年安保騒動だ。1968年10月21日 国際反戦デー、いわゆる「新宿騒乱事件」の日に、中西さんから「デモに行こう」と誘われた。とにかく、同級生の皆と一緒に夕方早稲田大学構内に集まった。それから、都内をデモ行進し国会議事堂の近くに来たら、ヘルメットを被った人たちが「国会突入!」と叫んでいる。「そんな話は聞いてないよ!」と思ったが、もうだめだ。学生たちの国会突入を防ごうと機動隊が我々に本気で攻撃を仕掛けてくる。もう逃げるしかない。皆で、全力疾走で逃げた。銀座あたりまで逃げただろうか? 私は、裸足で走っていることに気がついた。そこから本郷の下宿まで裸足で歩いて帰った。
東大紛争で7ヶ月間のロックアウト期間中も中西さんは、クラスのリーダーだった。先生と生徒たちの間を取り持って、何度も集会を開き何時間も議論をする場を作ってくれた。それは、先生たちも大変だったに違いない。何しろ、学生たちにしても、何で、自分たちが、こんなに怒っているのか、よく理解できていなかったからだ。私も、中西さんも、卒業と同時に、私は富士通に、中西さんは日立に就職した。二人とも、神奈川県の出身なので、日立には好感を持っていた。日立のコンピューター部門は、ハードウエアが神奈川工場、秦野工場、ソフトウエアが戸塚工場、周辺機が小田原工場と全て神奈川県に集中していたからだ。
それでも、私は、日立は日本一博士号を持っている社員が多いので、学部卒では希望する職場には行けないだろうと思ったのと、卒論の研究室にて、たまたま見学にこられた池田さん(その当時、私は知らなかったが、富士通では天才技術者との異名をとるカリスマ経営者)から直接リクルートされたこともあり、富士通を選んだ。私が想像していたとおりか、それとも中西さんが、あえて望んだのか?はわからないが、中西さんの最初の勤務地はプロセス制御機器を開発する茨城県の大みか工場だった。しかし、それが中西さんの将来の運命を決定することになった。
当時の大みか工場長は、その後、日立製作所の社長となる三田勝茂さんだったからだ。中西さんは、若い時に、この三田工場長の薫陶を受けて育った。この三田さんと、富士通で社長・会長を務められた山本卓眞氏は、戦時中、千葉市に設立された東大第二工学部電気工学科の同級生である。この第二工学部は、戦後の日本経済を牽引された立派な経営者を数多く輩出している。ちなみに、日立製作所の三田勝茂社長と富士通の山本卓眞社長は、官公庁向けシステム販売会社FHLを合弁で設立している。
中西さんは、仕事に励む一方で、英語を猛烈に勉強した。後に中西さんの後継者となる東原さんも、この大みか工場時代に上司だった中西さんから英語のレポートを義務付けられたと述べている。この中西さんの英語への情熱には、一つの目的があった。それは、会社派遣の留学制度を使ってアメリカへ勉強に行くことである。その甲斐もあり、中西さんは、見事、社内の競争に勝ち抜き、スタンフォード大学への留学を果たした。しかし、当時の日立の制度では、米国留学といっても期間は1年で、「まあ、せいぜい聴講生として勉強して来い」という程度のものだった。
ところが、妻子を連れてアメリカに渡った中西さんは、想像を絶するほどの猛勉強をして、普通なら2年かかるところを、たった1年で修士論文を完成させて、スタンフォード大学の修士号を取得してしまった。中西さんは、受験勉強は卒業してからという気風の都立小山台高校で高校生活を送っていたせいか、最初の東大受験では文科二類(経済学部)を受験して失敗、次の年は、理系に転換し、理科一類(理学部、工学部)を受験して見事合格した。中西さんの学年は120万人、その次の私たちの学年はベビーブームで250万人もいる。私たちが受験する前の東大は、現役40%、浪人60%の比率だったのが、私たちの学年では、現役80%、浪人20%と圧倒的に現役が多かった。中西さんは、その数少ない20%の中で見事リベンジを果たした。その不屈の精神は生涯衰えることがなかった。