2021年6月3日 稗田康夫さんが、肺がんのため、73歳でご逝去された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。1970年東大電気電子工学科卒業の同級生だった、稗田さんを追悼する意味で、私の思い出をほんの少しだけ語る。
1995年から1996年にかけて、首都圏で東大入学を目指す受験生で稗田康夫さんの名前を知らない人はおそらく誰もいない。当時、東大の学生たちが組織していた東大学生文化指導会が主催する「東大学力コンクール」、いわゆる「東大学コン」は東大へ入学するための模擬テストとして最も権威があった。模擬試験会場は、理一を目指す私の場合だと東大本郷の法学部1号館、まさに本試験を受ける会場そのものだった。さらに、問題用紙や回答用紙も本物の受験時と全く同質のザラザラした紙で、印刷様式も全く同じだった。そのため、本試験の当日も全く違和感なく受験できるので、それだけでも「東大学コン」は大変人気があった。
その「東大学コン」にて、稗田康夫さんは、いつも二位に大きな差をつけて堂々の一位だった。稗田康夫さんが、私と同じ理科一類を目指しているのは知っていたので、ぜひ一度会ってみたいと思っていたが、残念ながら駒場の教養学部時代に身近で会うことはなかった。そして、遂に、本郷の専門学科(工学部電気電子工学科)へ進学し、憧れの稗田康夫さんに巡り会うことが出来た。しかし、実際に会った稗田さんは、外見上は、ごく普通の人だった。むしろ控えめで大人しそうな人柄だった。
しかし、私と同じ、ベビーブームの先頭にいた稗田さんをめぐる受験戦争における伝説は、凄いものがあった。中学・高校と名門私立武蔵で学んだ稗田さんは、中学受験の時に私立武蔵だけでなく慶応中等部も受けたらしい。ところが、稗田さんは慶應中等部を落ちたと言うのである。どうも、稗田さんが、普通はあり得ない高得点を取ったので、集計係が、これは何らかの間違いだとして、最上位の数字を書き換えてしまったと言う噂だった。もちろん、これは単なる噂にしか過ぎないのだが「東大学コン」で常時一位の席を渡さなかった稗田さんを知っている私としては「多分本当の話だろう」と思っている。そして、もし稗田さんが慶応中等部に合格していたら、八丁堀で歯科医院を営んでおられた、お父上の影響もあって、慶応の医学部に進学し、医者になっていたのかも知れなかった。
稗田さんや、私が、本郷に進学して、まもなく、東大紛争が始まった。7ヶ月間のロックアウトの間、私たちは、色々なことを議論した。その中で、いつもは控えめだった稗田さんは、元々純粋な気質だったこともあり、東大のあるべき姿を熱く語る論客として目立つ存在にもなった。同じ電気電子工学科には、稗田さんにも決して負けない論客として、確か、大阪天王寺高校出身だったと思うが川上富清さんがいた。私の記憶では、この川上さんの大阪の実家も、歯科関連の事業を営んでおられたと思う。この時の付き合いがあったからだろうか、この二人は、後に、同じ運命を歩むことになる。
1970年東大電気電子工学科を卒業した私は富士通へ、中西宏明さんは日立製作所へと企業へ就職する道を選んだのに対して、稗田さんは純粋な学問を志向し、東大大学院物理学科へ進学した。同大学院で修士号を取得して、博士過程は東大原子核研究所へ進学し、素粒子の研究に打ち込んだ。その後、八丁堀で長年歯科医院を営んでおられたお父上の跡を継ごうと思われたのだろうか。博士課程を中途退学し、東京医科歯科大学を受験し合格する。東大受験に合格してから8年経っても、稗田さんの受験能力は全く落ちていなかった。東京医科歯科大学といえば、東大の理一に合格するより遥かに難度が高い。私の末弟も東大の理一は合格したが東京医科歯科大学は落ちている。
稗田さんが、東京医科歯科大学へ入学して学んでいると言う話を聞いて、すぐに思い出したのが先ほどお話しした稗田さんの親友だった川上富清さんだ。川上さんは、東大電気電子工学科を卒業すると、直ぐに、大阪大学歯学部に入学し、大阪市阿倍野区で歯科医になられた。多分、この川上さんの生き様が、稗田さんに与えた影響は大きかったと思われる。その稗田さんも、昨年秋からステージ4の肺がんとの闘病生活を続けられていた。このコロナ禍の中で、さぞ不自由な入院生活だったことだろう。でも、自分の思う道を、ひたすら歩み続けてこられた稗田さんに、きっと悔いはない。あの7ヶ月間のロックダウン生活を共に過ごした仲間として、今一度、心からご冥福をお祈りしたい。