2020年5月 のアーカイブ

427  ポスト・コロナ時代に向けて (7)

2020年5月17日 日曜日

5月12日 世界最大のカジノ運営会社ラスベガス・サンズ社が日本市場参入を断念する声明を発表した。サンズ社は、既に大阪府・大阪市からの招請を断っており、横浜市に焦点を絞ってきたと思われてきた。このサンズ社の日本市場撤退声明はカジノ推進を図ってきた林横浜市長にとっては大きな衝撃だったに違いない。確かに、この度のCOVID-19禍によって、ラスベガスだけでなく、マカオ、シンガポール、モナコなど世界中のカジノ市場で閑古鳥が泣いている。

さて、サンズが日本市場から撤退したのは、この度のCOVID-19禍の影響だけなのだろうか? 実は、COVID-19禍以前から世界的にカジノ不況は始まっていた。特に、ラスベガスの衰退は顕著で、テスラがパナソニックと合弁でラスベガス近郊に建設した世界最大の自動車用電池工場「ギガファクトリー」は、このカジノ不況を補うものとしてネバダ州政府からも大歓待を受けた。そのラスベガスの数倍の規模を有していたマカオにもサンズは進出していたわけだが、多額の公金持参で資金洗浄をしていた中国人が取締りで、すっかり姿を消してラスベガス以上に深刻な状況にある。

つまり、IR政策と称してカジノを招いて日本経済の再生を図るという国家政策は、もはや、とっくの昔に時代遅れだった。まず、ラスベガス・カジノが、なぜ衰退したかを考えてみると、その理由は二つある。一つは、「インディアン・カジノ」の存在である。「インディアン」という言葉は、本来は「ネイティブ・アメリカン」という表現が正しいわけだが、1988年に連邦議会で成立した「インディアン賭博規制法(IGRA)」に「インディアン」と明記されているので、ここでは、その「インディアン」を使わせてもらう。

この法律が施行されて、アメリカ全土で562のインディアン部族が377箇所の居留地にインディアン・カジノを設立して、年々成長を遂げ、今では年間売り上げ1兆6500億円にまでなり、当然、ラスベガスの顧客はインディアン・カジノに取られている。元々、アメリカ連邦政府はインディアンに対して大きな負い目があるので、居留地には治外法権とも言える大幅な自治権を持たせている。カジノのようなギャンブル・ビジネスは法律の規制が無い方がビジネスはやりやすい。その意味で、日本は一応まともな法治国家なので、サンズなどのカジノ運営会社から見たらビジネス環境として好ましいものではなかったのかも知れない。

ラスベガスのカジノビジネス衰退のもう一つの理由は客質の変化である。これまで大きな収入源だったカジノ・ディーラーを介したルーレット、ブラックジャック、ミニバカラといった大金が動くビジネスが大幅に縮小してしまったのだ。これはインディアン・カジノも同様である。つまりカジノが富裕層の社交場からギャンブル依存症たちの賭博場へと変化した。

ギャンブル依存症の人たちは、カジノ・ディーラーのような対人行為を好まない。むしろ、長時間、無言でスロットマシンと向き合って自己陶酔に浸る環境を好む傾向にある。統計によれば、ラスベガスカジノの顧客の大半は、ラスベガスカジノに関わる従業員だとも言われている。彼らは、長時間マシンの前に居るが小額の賭けに専念しているので、カジノにとっては決して上客とは言えない。つまり、客は入っているがさっぱり儲からないのである。

さらに、自己陶酔型ギャンブル依存症の人々は、お金を儲けようと思ってやっているわけではない。彼らは、極めて冷静で、ギャンブルで金儲けができるなど微塵も思っていない。スロットマシンに向かって、ひたすら打ち込んでいる陶酔状態が大好きで、薬物依存にも似た嗜好を持っている。別に、大金を賭けて多額の借金をするわけではないので、大きな問題ではないという指摘もあるかも知れない。確かに、彼らは、多額の「お金」を失っているわけではない。しかし、膨大な「時間」を失っているのだ。

そして、ギャンブル依存症の人々を相手に大儲けをしてきたカジノ・ビジネスの最大の競争相手が出現した。それが、スマホ・ゲームである。さらに、ビジネスの競走条件が変わってきた。「お金」を奪う競争から「時間」を奪う競争に変化したのだ。スマホ・ゲームはオンラインであれ、オフラインであれ、いつでも、どこでも出来る。お風呂でもベッドでも、電車やバスで移動中もできる。COVID-19禍で「3密」が禁じられ、パチンコ屋のように閉店要請されるわけでもなく、自宅軟禁状態でも全く問題ない。実は、それが大問題となる。

今、世界大恐慌以来の不況の中で、唯一躍進している産業はゲーム業界である。大人も子供も、COVID-19禍で自宅軟禁状態にあり、する事がないので、ゲームでもしようかということになる。そして、徐々に、そして確実に自己陶酔状態に浸るギャンブル依存症になっていく。COVID-19に感染しても多少後遺症が残ると言われているが、このギャンブル依存症に陥ると、その回復は容易ではない。

COVID-19は、まだまだ二次拡大、三次拡大の恐れがあると言われている。また、COVID-19が収束しても、次のパンデミックの到来も、それほど遠い時代ではないだろう。私たちは、こうした中で、非接触状態を保ちながら、もっと人間らしい関係を維持できる社会やシステムを模索していく必要がある。

426  ポスト・コロナ時代に向けて (6)

2020年5月10日 日曜日

PCR検査のための検体採取は鼻腔の方が上咽喉より20倍のウイルス量なので、敢えてクシャミによる感染の危険を犯しても鼻腔から採取するのだと聞いていたが、唾液の方が鼻腔より5倍近くもウイルス量があると聞いて唖然とした。もっと早く、それが分かっていればPCR検査もスムーズに行われて、命が助かった方も少なからずおられたのではないかと大変残念に思う。

今回のCOVID-19は、まず口の中の受容体に住み着いて、繁殖をしてから鼻腔や上咽喉へ移動するので、味覚障害・嗅覚障害が感染の初期段階に起こるというのは素人でも納得できる。また、初期の不顕生感染者の感染力が高いというのも、元気な人が大声で話して口から唾が飛沫として多量に飛び散るからだ。ダイヤモンド・プリンセス号で多くの感染者をだしたのも船の手すりや、ブッフェでのトグル共有で手に感染したウイルスがパンを食べることで口まで運ばれたとの説が有力だが、これも説得力がある。

従って感染症専門学会が指摘する「3密を防げ」というのは極めて正しい。近い距離で大声を出して騒げば、感染の確率は飛躍的に高まるからだ。この「近い距離で大声を出して騒ぐ」という行為が、いわゆる「祭り」と呼ばれる行事だ。「祭り」は、大規模な会場でのスポーツ観戦や音楽ライブとして、COVID-19の危険なクラスターとなる。多くの人々が、心の拠り所にして、楽しみにしている、この「祭り」が、二次感染、三次感染を恐れて、暫くの間、行われないとすれば、こんなに悲しいことはない。

そもそも「祭り」は、為政者が民衆の不満をガス抜きさせるための懐柔策として大いに利用をしてきた。一方、民衆の方も懐柔策に乗せられたフリをしながら、そのエネルギーの矛先が為政者の方に向いたら大変なことになるぞという脅しの意味も込めて、精一杯、命がけの馬鹿騒ぎを行ってきた。それでも、近い距離で身体をぶつけ合って大声で叫ぶことで、お互いに固い連帯感を共有できるメリットは大きい。共同生活を必要とする人間社会では絶対に不可欠な風習でもある。

ところで、私も最近気がついたことだが、「テレワーク」の「テレ」とは「電話」の意味ではなく、「リモート(離れている)」という意味らしい。元来、電話を意味する「テレフォン」とは、「離れた」「音(声)」が語源だからだ。従って、「テレワーク」というよりは「リモートワーク」という方が、日本人には実態に即した理解ができる。今まで、同じオフィスで働いていた人々が、いわゆるSocial Distancingに準じて、離れた場所で仕事をするというのが、「テレワーク」である。しかし、どうだろう。それでは「テレ祭り」というのは可能なのだろうか?ヒトは近い距離で共同生活を営み、楽しみも悲しみも、そして怒りも、近い距離で共感を得て感動を得ている。Social Distancingを保って共感を得るのは極めて難しい。

さて、古来より「祭り」は、ムラという共同体の結束を深める行事として行われてきたが、一方で、排他的な側面も持っている。よそ者は、「祭り」の見学者にはなれるが、ムラのインナーサークルに入り、本当の意味での参加者にはなるのは中々難しい。「祭り」の時だけ、近い距離に居て同じ空間を共有しても、本当の仲間となることは出来ない。私たちは、日頃から、近い距離で生活を営んでいないと、お互いの苦しみや悲しみまでは理解できない。すなわち、それらを乗り越えた本当の意味での楽しさや幸せ感を共有することが重要なのだ。

そうだとすれば、私たちは、ロヒンギャ難民を可哀想だと理解を示していても、あの残虐な仕打ちが、いまだに過酷なカースト社会を維持しているインドや、クラン(同族)によって社会を分断しているアフリカや中南米の一部の国々では、それが日常的に行われていることを、どこまで知っているだろうか? インドでは、いまだに汚水槽や汚水管を素手で掃除することを強いられている最下層のダリット(不可触選民)が存在する。しかも、彼らは、インド社会に不可欠なエッセンシャルワーカーである。COVID-19感染拡大防止策の一番に手洗いが挙げられているが、彼らは日常的に糞尿を触っており、しかも手洗いをする水も与えられていない。

先進国では、多分、この1−2年の内にCOVID-19禍から脱出することは出来るだろう。しかし、インドやアフリカ、中南米では、もっと酷い状況にまで感染が拡大するだろう。その間に、COVID-19は、さらに凶悪なCOVID-20やCOVID-21に変異することも考えられる。地球の裏側まで24時間以内で移動できる、昨今、こうした凶悪なウイルスが、再び先進国を襲うことは明らかだ。近距離で幸せを共有できる「祭り」が、当分の間、出来ないと嘆くのもわかるが、私たちは、もっと遥かに遠い世界で、次の新たなパンデミックが周到に準備されていることにも関心を注がなければならない。

425   ポスト・コロナ時代に向けて (5)

2020年5月7日 木曜日

今回の緊急事態宣言を受けて、いわゆる「テレワーク」が大きく進展した。しかし、都心の大企業に勤めるホワイトカラーの間で「テレワーク」は浸透したものの、介護・医療・警察・消防といったエッセンシャル・ジョブ(社会にとって必要不可欠な職業)に携わる人々に「テレワーク」は全く無縁の働き方である。こうしたエッセンシャル・ワーカーの方々にとってみれば、「テレワーク」で仕事ができることは本当に羨ましい限りに違いない。

ところが、ポスト・コロナ時代で起きるかも知れない「新常態」のもとで考えてみると、今、テレワークで仕事をしている人々を、必ずしも羨ましい思う必要はないのかも知れない。それは、この「テレワーク」を経営者の視点からみると明らかになる。私が親しくしている、ある大企業の経営TOPは「テレワーク」中のオフィスに行って見て驚いたと言う。「オフィスには、見事に誰一人として出勤していない。それにも関わらず会社は平常通りに動いている。一体、今までは何をしていたのか?」と言う驚きである。

そして、次々と疑問が湧いてきた。「都心の真ん中に高い賃料を払って広いオフィスを構えている意味はあるのだろうか?」とか「会社に来なくても仕事ができるのなら、例えば、定型業務は社員にやらせなくてもアウトソーシングできるのではないか?」と思えてくる。実際、欧米の大企業は人事・経理・総務といった管理業務を自社内に持たずにアウトソーシングするのは常識である。日本の経営者も知識としては理解していても「実際に、そんなことが出来るのか?」と、これまでは信じられなかった。しかし、彼らは、今、無人のオフィスのまま会社が滞りなく動いているのを目の当たりにした。

昨日、NHKのTVを見ていたら日本電産の永守会長が「テレワーク」について語っていた。永守さんは、これまで「テレワーク」などチャラい話だと、全く信用していなかったそうだ。それでも、社員の命を守ることは事業継続を考える上で必須のことだと、渋々「テレワーク」を認めた。それまで、永守さんの信条は「会社に長く居て、人の倍の時間を働くことが大事」と考えていた。永守さん自身、年間300日も働いている。海外に100日、国内の顧客回りに100日。京都の本社で過ごすのが100日。だから取締役会を含む社内会議は全て土日である。とにかく、モーレツ経営者だ。

その永守さんを驚かせたのは「テレワーク」で競合他社を出し抜いて、次々と新規取引先を獲得しシェアを拡大した社員の存在だった。出来ない理由を考えるのではなくて、出来る方法を考える。「テレワーク」勤務で顧客先を直接訪問できない状況は他社も含めて皆同じである。その中で、その社員は、Web会議を駆使して顧客との会話を実現させた。永守さんが感銘を受けたのは、そうした社員の努力が、リモートワークである以上、上司からは全く見えなかったことだ。

永守さん曰く「これまでの日本電産は、真面目にコツコツと長時間働き、指示されたことを忠実にこなす社員に高い人事評価を与えていた。これは間違っていた。これからはプロセスではなくて結果重視で報酬を決めていく。会社に居ようと、自宅で「テレワーク」をしようと全く関係ない」。ありがたくも聞こえるが、大変厳しい話である。「ポスト・コロナ時代は、少数の強者だけが生き残り、企業間の競争は、今よりもっと過酷になる」と永守さんは、最後に締めくくった。

今ほど、「テレワーク」が普及した時代は、これまでにない。この結果、いろいろなことが見えてきた。その内の一つが、「働かない中高年」の炙り出しである。会議に参加しても、何も発言しない。それはまだ良い方で、参加の仕方がわからない人も少なくない。皆が、Web会議で揃っていて、自分が欠席していることがグループ全員に知れていることも理解できない。

そして、会議中、無言で睨みを効かせるなんていう前近代的な手法は、もはや通用しない。しかも、会議は録画もできて、議事録も自動作成できるので、ハラスメント的な発言は一切許されない。「テレワーク」では、これまでの日本の職場風土が一変する。

そうは言っても、社内で同じグループで仕事をするのであれば、お互いに、近距離で直接話し合う方が建設的な議論ができる可能性は高い。本来の「テレワーク」の利便性は、社内というより社外との情報交換ではないだろうか? これまでは、「直接、お伺いして、お話しないのは失礼」という懸念から、お互いのスケジュールを調整して、遠路はるばる移動するという儀礼が尊ばれた。この習慣を「テレワーク」で済まそうという意識が、お互いに高まれば、生産性は大きく向上する。どちらにも便利である。

もとより日本は、欧米に比べて、製造現場の生産性は高いが、オフィスの生産性が低いと言われてきた。特に、アメリカと比べて製造業の生産性はほぼ同等であるがサービス業の生産性は極めて低い。要は、日本では無駄な仕事をしているわけだ。国土が日本の20倍もあるアメリカで、日本と同じように律儀に移動していたら商売は成り立たない。

さて、「テレワーク」は生産性の向上という点で、今の日本の深刻な人手不足の大きな解決策になるだろう。また、「仕事をしているふりをしている人」を炙り出す効果によって、本当に必要な人に高いインセンティブを与えることができる。ポスト・コロナ時代のホワイトカラーは、もはや、現場で毎日、汗をかいて働いているエッセンシャル・ワーカーから羨ましがられる存在ではいられない。