中学2年生になった孫娘から、中学の卒業論文について相談された。なんで、また中学生で卒業論文など書かせるのかと思ったら、どうも中高一貫校の中学生には緊張感が欠けているので、学校は中学校卒業のけじめとして宿題を課したようである。とにかく書籍だけから学んだことだけではなくて、現地現物を見て考察をしないとだめだという。普段から勉強など殆どしないで、バイオリンだけ弾いて毎日を過ごしている孫娘が選んだテーマは、何と「スーパー・コンピューター」だった。どうも、私に、神戸にあるスパコン「京」を見に連れて行ってくれということらしい。
早速、富士通から理研のスパコンセンターに移られた辛木さんに連絡したら、今年8月には「ポスト京」の導入準備のため「京」は撤去するのだという。つまり、早く来てもらわないと「京」も「ポスト京」も暫くは見ることが出来ないというので、私は、孫娘と春休みの日程と、辛木さん、及び、私の日程の調整に入った結果、3月4日しかないことがわかった。孫娘は、前日の3月3日は、バイオリンのジュニアクラシックコンクール東京地区予選、一方、私は、次の日の3月5日には、一部上場企業の役員を経験されて、次のキャリアを目指す方々への講演の予定があったので、今回、予定がとれただけでも幸運だった。
朝早く、孫娘と一緒に新横浜を出発し、新神戸についた後、異人館をいくつか見て回った。70歳を超えた体には、結構きつい坂道ではあったが、孫娘の後をなんとかやっとついて行った。その後、ロープウエイを登って山頂のハーブレストランで昼食をとり、いよいよ理研の計算センターに向かった。センターに着いた後、辛木さんから、一時間ほどの講義を受けた。中学生でも理解できるよう易しい内容にしてくださったようにも見えたが、多分、専門知識がない一般の見学者向けにアレンジされたものだろう。そして、プレゼンに使用した巨大なスクリーンが上に巻き上げられると、ガラス越しではあるが、あの巨大な「京」の全貌が見えてきた。
私は、この「京」を見るのは4回目である。建設中に2回、完成後に1回みているが、4回目でも、やはり目の前で見ると感動する。4回目の私が感動するわけだから、初めて見る孫娘の驚きはいかばかりだったろう。何しろ、口を半開きにして、声も出ない。「京」があるうちに連れてきたよかったと心から思った。また、プレゼンを聞いている最中から、この「京」が完成して世界一を取るまでに、辛木さんと一緒に苦労した長い長い日々を思い起こして、思わず涙が出てきそうにもなった。
もともと、「京」は「兆」の一万倍。一秒間で1京回の計算が出来るという意味である。コンピューターの世界でいうと10ペタ・フロップスに相当し、「京」の前の世代である和製スーパーコンピューター、地球シミュレーター(NEC製)に比べて100倍以上の性能を持っている。実は、この地球シミュレーターの性能こそが、世界の、とりわけ当時のアメリカの度肝を抜いた性能だった。人工衛星でソ連に抜かれ、スーパーコンピューターで日本に抜かれたアメリカのショックは本当に大きかった。
このため、地球シミュレーターの後継機を開発するという国家プロジェクト発足には、当時の文科省も経産省も米国が通商法301条を適用するのではないかと躊躇していた。実は、アメリカは、日本が地球シミュレーターの開発したのを見て、国を挙げて本気で開発に取り組むことになった。その結果、「京」の開発を企画している時点では、既に、世界のスーパーコンピューター・ランキングは全てアメリカ勢が席巻する状態になっていた。つまり、もはやアメリカは日本など相手にする価値もないと考えており、文科省や経産省が恐れるような事態では全くなかったのだ。
それで、次期スーパーコンピューター「京」の開発がスタートするわけだが、政治的には、納税者である国民に納得しやすくするために、その性能目標は兆の1万倍である「京」が良いということになった。京=10ペタであるが、実直で真面目な富士通のエンジニアは、どう頑張っても10ペタは無理で、7ペタしか出せないという。彼らは言い出したら、少々の脅しや圧力で主張を翻すような人たちではなかった。一方、国は富士通の言うことなど全く耳を貸さずに性能目標を10ペタと決めてしまった。折衷案として、富士通が7ペタ、NECが3ペタを分担し、二社併せて合計10ペタの性能を出すこととして契約を完了した。
国が10ペタに拘ったのは、単に数字のキリが良いというだけではなかった。IBMが10ペタ以上の性能を出す次期スーパーコンピューターを開発中との噂が広まっていたからだ。世界一を目指すには最低でも10ペタを出すしかないとの考え方には一理あった。しかし、その後、思いもかけない展開が起きた。NECが次期スーパーコンピューター開発プロジェクトから撤退したのである。富士通単独では7ペタしか出ないわけだから、「京」という名前にも意味がなくなってしまう。思いがけないことは、それだけに留まらなかった。なんと政権交代が起こったのだ。
アメリカでも韓国でもそうだが、政権交代が起きると前政権で決めたことを翻すことを行っていく。スパコンプロジェクトも例外ではなかった。「何で二位では駄目なんですか?」との名言のもとで、スーパーコンピュータープロジェクトは一旦白紙に戻ることになった。その後、ノーベル賞受賞者の方々の勇気ある声明によって、何とか復活することになったが、それで「世界二位」にしかならなかったら、まさに世間の笑いものである。こういう状況のなかで、私たちは幸運に恵まれた。完成した「京」の性能実測結果が10.7ペタと僅かに10ペタを超えたのである。
僅かでも10ペタを超えれば、これは胸を張って「京」と呼べる。さらに、完成していれば「京」を超えていたであろうIBMのスパコンプロジェクトが失敗したのだ。「京」は目標どおり「京」の性能を発揮し、世界一の栄冠にも輝くことが出来た。理化学研究所のリーダーシップと富士通のエンジニアの頑張りには敬意を表するしかない。孫娘と「京」の景観を眺めながら、この苦闘の物語が走馬灯のように私の脳裏を巡っていった。
8月には、この思い出の「京」が撤去され、次期スーパーコンピューターである「ポスト京」の実装が始まるという。「ポスト京」は「京」の100倍近い性能を有するというが、「京」が入っていた建物に、そのまま入るというのが驚きである。消費電力も、ほぼ同じだという。同じ大きさでありながら、10年で100倍というのは本当に凄い。思えば「京」の心臓部はユニックス・サーバーのものを使っている。今や、サーバーといえば、パソコンのエンジンを使ったパソコンサーバーが世の中を席巻している。
富士通が現在開発中の「ポスト京」がユニックス・サーバーを基本とした「京」や、パソコンサーバーを基本として世界の上位にランキングされている中国のスーパーコンピューターに比べても、さらに圧倒的に高性能を発揮できるのは、基本エンジンに携帯電話(スマホ)のものを使っているからだ。時代は変わる、メインフレームからユニックスへ、さらにパソコンへ、そして今は、携帯電話(スマホ)の時代である。
このポスト京が完成し実績を上げることが出来たとしたら、世の中は、パソコンサーバーからスマホサーバーへと大転換するかも知れないという夢がある。それは単に、世界一の性能を出したという一時的な成果に留まらない。孫娘と「京」の景観を眺めながら、そんな夢を描いてみた。