私は「終戦の日」という表現は大嫌いで、本当は「終戦の日」というより「敗戦の日」の方が適切だったと思っている。もし、この「敗戦」が無かったら、日本は未だに「北朝鮮」状態だったのではないか。この日本にとって最初の「敗戦」は多くの犠牲を伴ったわけだが、まさに、この「敗戦」によって日本は第二の開国を成就させ、今日の繁栄の基礎が築けることになったのだと思う。そして、皮肉なことに、私が、この世に生を受けたのも、この「敗戦」のお陰だった。
戦争中、私の両親は、ともに相模原の陸軍造兵廠に務めていた。父は、厚木の農家の次男で、横須賀の海軍基地に徴兵された後、退役して自宅から通える相模原の陸軍造兵廠に勤務していた。母は、東京中野の実家から相模原の上溝に疎開していた。1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送があった直後、マッカーサーが厚木基地に降り立つまでの間、陸軍造兵廠では、戦車や装甲車、砲弾など、米軍に利用されないよう連日のように爆破作業を続けていたそうである。当時の相模原陸軍造兵廠は、現在の横浜線の3つの駅が、すっぽり入ってしまうほど広大な施設だったという。
父は、その陸軍造兵廠の経理部に勤務していたわけだが、その上司が、母の義兄だった。母は、義兄から「日本は戦争に負けた。俺たちは長野の田舎に帰って百姓をやる。これからの日本は、食べることが一番大変だ。俺の部下に農家の次男坊がいるから一緒になれ。そうすれば、まず、食うのに困ることはない。」と言われて、父と結婚することを決めたそうだ。実際、両親は伊勢原に貸家を借り、新生活を始めたが、私が生まれた後も、父は、まともな職には就けなかった。それでも、祖父は、厚木から伊勢原までリヤカーを引いて食べきれないほどのサツマイモやカボチャを運んできてくれたそうである。
陸軍が解散になって定職がなくなった父は、どうやって家族を養うお金を稼いでいたのだろう。私は、父に聞いたことがある。父は「いろいろな仕事をしたが、ある時は、平塚の海岸で塩を作っていた。仲間で海水を汲んで、大釜に入れて、海岸に打ち上げられた流木を燃やして煮詰めて塩を作っていた」と語った。敗戦後の日本人は生きるために何でもしたのだ。本当に、逞しい限りだ。その後、知人の紹介で平塚市役所に勤務するわけだが、父は、伊勢原の借家から平塚まで、毎日、自転車で通ったそうである。昔の人は、本当に足腰が強い。それでも、父は、あまりに通勤が大変なので、空襲で焼け野原になった平塚の海岸地域に自分の家を建てた。そして、信じられないことに、祖父は、相変わらず、厚木からリヤカーを引いて平塚まで、食料を運び続けたそうである。
2歳で伊勢原から平塚へ引っ越した私の家は、平塚工業高校(現平塚工科高校)のすぐ裏にあった。空襲で完全に破壊された平塚工業高校跡地は、私たちの格好の遊び場だった。なにしろ敷地内には、爆撃で壊された巨大なコンクリートの残骸が複雑に入り組んでいて、まさに天然の「ジャングルジム」、そのものだった。ご近所には、戦争から帰還した兵士が結婚した若い夫婦が大挙してやってきて、それぞれの力でバラックとしか言えない粗末な家を建てて、戦争の犠牲者を補うかのように沢山の子供を産んで育てていた。
どの家も、皆、貧しいので、子供達は着ているものもツギハギだらけだった。それでも、皆が貧しいので、私たちは自分たちが不幸だとは全く思わなかった。毎日、焼け跡の「ジャングルジム」で遊び呆けていた子供達は、一斉に近くの小学校に入学したが、新興住宅地で起きたベビーブームなので、校舎も先生も全然足りない。私の学年では、生徒55人のクラスが12組もあった。まさに粗製濫造の学校教育であった。こんなデタラメな環境の中で、私たちの小学校はこの学年だけでも12人が東大に進学した。クラス毎に一人、東大に進学したことになる。
私の家の近所も、掘っ建て小屋やバラックばかりの貧しい地域だったが、向こう3軒、両隣りの子供達は、東大、東工大、教育大(現筑波大)、横浜国大など、皆、一流大学に進学した。国立大学の学費も、国鉄東海道線の学割定期も、本当に安くてタダ同然だったからだ。「敗戦」後の日本は、貧しかったが、格差がなく、希望に溢れており、勢いもあった。だからこそ、日本は奇跡的な復興を遂げた。今の日本とは真逆である。今の日本は、生活は豊かだが、全くやる気がなく親のコネを利用して大学に不正入学を考えている子供がいる一方で、優秀で、やる気もあるのに貧しくて大学で勉強したいという願いが叶えられない子供達も多い。
日本が再び勢いを取り戻すには、やはり一度、国家が財政破綻し、厳しい貧しさから再び復興するしかないのだろうか?