人生100年時代、65歳でリタイアした後、20年から30年近く働かなくてはならないかも知れない。日本の年金が、そう簡単に破綻するとは思わないが、元々、年金は100歳まで生きながらえることは、当初から想定していない。リタイア・モラトリアムとは、単に生き方の選択肢という問題より、天から与えられた寿命を経済的に全うできるかどうかにかかる深刻な問題でもある。今、私は、会社が庇護してくれた環境から飛び出て、まさにフリーターとして、毎日、しぶとく生きながらえている。ここで、その一端を、皆様に紹介して、少しでも、お役に立てれば幸いだと思って書いてみたい。
私が、完全リタイアした後に抱えた問題は、普通の方以上に極めて深刻であった。それは、一部上場企業の役員を10年以上も勤めさせて頂いたことと無縁ではない。むしろ、役員でなかった方が、リタイア・モラトリアムは、うまく順応できたかも知れない。一部上場企業の役員として与えられる恩恵は、以下の3つ。すなわち、「個室」と「秘書」と「車」である。この特権によって、役員として、極めて高い効率で仕事をこなせるわけだが、こうした恵まれた環境に10年以上もの長い間、慣れきった時に、それを一気に全て失ったショックは言葉に表せないほど深刻である。
まず、「個室」の問題である。私は、かなり広い個室に1,000冊以上を収納する書棚を持っていた。書籍は全て自身の費用で購入したものだが、それだけにタチが悪い。書籍は、業務に必要なビジネス書、環境やエネルギー、医療などに関するサイエンス書、歴史書、政治経済に関する書籍などで、いわゆる小説などは一切ない。私は、いつも超速読で閲覧した後、必要な時に後から読み直すため、手元に書籍をおいておきたかった。その意味で、広い個室は、大変ありがたかったのだが、いざ会社を出る時には、これをどう処分するかが大問題となった。
私のリタイア・モラトリアムとしては、将来、著述業というのも選択肢の一つとしてあったし、いきなり、これらの書籍を処分するというのはやはり躊躇した。そうは言っても狭い自宅に持ち込めるわけがないし、新たに起業するビジネスには不確実性があり、これほど沢山の書籍を収納できるだけの事務所を借りることも難しい。そこで、私が考えたのは、ストレージサービスである。寺田倉庫と契約して、30冊を一箱に入れて約35箱分を梱包して、会社から宮城県にある寺田倉庫のストレージサービスに預け入れた。1箱で月200円、毎月7,000円の負担である。
しかし、リタイアしてから、既に4年経っても、未だに、これだけの書籍を収納するレンタルオフィスを借りる目処は全く立っていない。一方、講演資料を作成するために購入する書籍は、毎月、どんどん増え続けて、今や、預け入れる箱の総数は60箱以上に増えている。最後は、どこかの市の図書館に寄付させて頂こうと思っているが、個人ビジネスが軌道に乗って広いオフィスを所有することを、今だに夢見ている。つまり、この問題は、今でも私の頭を悩まし続けている。
書籍の問題は、さておき、もっと困るのは仕事場である。狭い家に住んでいるので、私が、仕事を許されているスペースは寝室脇の、2坪ほどの狭いスペースだけである。このスペースにある自作の長机には、WiFiルーターとWindowsとMacのパソコンが、それぞれ1台、スキャナ付きのプリンタが1台、PFU製のScanSnapスキャナが1台、シュレッダーが1台、書籍カッターが1台ある。サーバはレンタルで、自宅には存在しない。費用は年間10万円ほどかかるが、自身のブログは、毎日、1万ページアクセスほどあるので、無駄にはなっていない。スペース的に一番悩ましいのは、一般のオフィスで一番スペースを占めている紙ファイル類だが、今は、確定申告で定められた保管ファイルしか存在しない。
取締役会で頂く膨大な資料も含めて、入手した資料は、全てScanSnapでイメージファイル化した後、シュレッダーで裁断し、データはストレージサービスに格納している。今や、その格納総量は200GBにもなったが、1TBまでは、費用は、年100ドルほどで済んでいる。もちろん、ストレージサービスに万が一の事故があった場合に備えて、自身が保有する2台のHDDに定期的に保全収納している。問題は、シュレッダーで裁断した紙ゴミの量である。毎月の取締役会が終わるとシュレッダーで裁断された紙ゴミの量は、45リットル袋で3杯分にもなり、これは、直接、自身で、近くの横浜市リサイクルセンターに持ち込んでいる。
個室が無くなってというよりも、事務所が無くなって、一番困るのは、相手との打ち合わせ場所である。今の私は、基本的には、お相手の事務所に伺うようにしているのだが、お相手も、都内に事務所をお持ちでない時が、一番困る。その時には、都内のホテルでのランチミーティングにさせて頂いている。一流のホテルなら、2時間くらい話し合っていても文句は言われない。今、私は、品川、汐留、日比谷、丸の内、渋谷など、お相手のご都合に合わせて、私が、お気に入りのホテルを使わせて頂いている。相当に高級なホテルでも1万円前後で済むので、レンタルオフィスを借りるより、遥かに経済的である。
次に、困った問題は、自分専属の秘書がいなくなったことである。秘書は、いなくなって、初めて、その存在の大きさを知る。自分が、これまで、効率よく仕事ができたのは、秘書が居たからだと気が付いても、もう遅い。特に、一番困るのはスケジュール調整である。この点は、フリーターとして、マルチジョブワーカーになったのだから、自身が主体的に管理するしかない。これに、一番便利なツールはGoogleカレンダーである。携帯電話でもパソコンでも、機種に限らず、どこでも更新できて、参照できるからだ。そして、私の場合は、3社の社外取締役をしていて、それぞれの会社で、私を担当して頂いている秘書の方がいる。そのため、この3人の秘書の方に、定期的に私のGoogleカレンダーファイルを送っている。
最後は、車である。お陰様で、私は、この10年間、車が付いているおかげで、仕事で、今日は、どこに、どのように行ったら良いかという心配をする必要は全くなかった。私の、運転手さんは、初めて行くところは、必ず、事前に一人で行ってみて確認しておられたので、現地の近くで迷うというようなことも皆無だった。しかし、私は、どういうわけか極度の方向音痴で、地図を見ても迷うのである。これは、物凄く不安である。そして、この10年間で、東京の地下鉄は全く変わってしまった。地下鉄以外でも、沿線の私鉄との相互乗り入れが進んで、どこにどう行って良いかわからない。
これに対して、本当に、有効なのは、Google Mapと乗換案内などのスマホアプリである。打ち合わせ場所が決まったら、まず、Google Mapに印をつけておく。そして、一番近い地下鉄の駅の出口を確認する。乗換案内で、所要時間と電車の乗り継ぎ方法を確認しておく。さらに、初めて行くところは、30分ほど迷っても良いだけの時間的余裕をみて家を出る。また、早く着き過ぎてしまった時のために時間潰しのカフェなどの場所を近くに確保しておくという準備をするようになった。最初は、こうした苦労も苦痛だったが、いまでは、むしろ楽しんでいる。
こうして書いてみると、リタイアする直前の自分は、むしろ、一人前の人間ではなかったことに気づく。私は、ようやく、当たり前のことが、当たり前にできるようになったとも言える。さらに、言い換えれば、これまで会社役員として行っていたレベルの仕事を、何のサポーターもない一介のフリーターとして、立派にこなしているとも言える。そして、もっと前向きに考えれば、私は、リタイア・モラトリアムとして、何だか、一丁前の起業家になったような気もしている。