2018年1月 のアーカイブ

383 光り輝く女性たちの物語(19)

2018年1月28日 日曜日

今回、ご紹介する南 美里さんは、昨年、憧れだった世界4大コンサルファームの一つに無事転職を果たし、現在、関西地区の大手製造業の業務改革に関わっている、まさに光り輝く女性コンサルタントである。美里さんは、現在、やりがいのある仕事に懸命に取り組んでいる。しかし、ここに辿り着くまでの道は、10年間にも及ぶ長い困難辛苦の毎日だった。

美里さんは、滋賀県に生まれ、県内にある全国有数の進学校である膳所高校に進学した。今春、膳所高校野球部は59年ぶりにセンバツ出場を果たしたが、これは野球に全く興味を持たない膳所高校の女性データ解析部員の功績が大きかった。つまり、膳所高校は徹底的なデータ野球で秋の公式戦を勝ち抜いたのだった。美里さんも、この膳所高校のデジタルキッズとして育ち、リケジョとして、大阪教育大学情報科学部に進学した。

大学の3回生の時、美里さんは富士通が募集するインターン生として選ばれて大活躍する。その結果、翌年、富士通の採用試験に見事合格した。最終的には、コンサルタントを目指していた美里さんだったが、システムエンジニアとして仕事は充実した毎日だった。しかし、コンサルタントへチャレンジしたい気持ちを抑えきれず、2年で転職する。その後すぐに縁あって結婚。まもなく妊娠する。しかし、出産した7ヶ月後に結婚は破綻。美里さんは、育児休暇中にシングルマザーとなってしまった。

もともと、美里さんは、出産休暇、育児休暇を終了後、大好きな職場に復帰するつもりだったが、大誤算となった。東京で、夫の助けもなく、乳飲み子を、一人で子育てをしながら職場に復帰することは、25歳の美里さんには、大変厳しく感じられた。そこで、やむをえず、大きな未練を残して滋賀の実家の両親に育児を助けてもらいながら、関西地区で新たな仕事を探すことを決意した。幸い、京都に本社がある、世界的な大企業の情報システム子会社に就職することができた。しかし、最初に与えられた仕事は、システムのオペレーション、データ入力など単純な作業だけ。日本を代表するIT企業である富士通で鍛えられた美里さんには、あまりに物足りない仕事だった。

それ以来、美里さんは、その企業には8年間在籍するわけだが、毎日のように、滋賀から京都まで車を運転する間、「なぜ、私は富士通を退職したのだろう。どうして、こんな生活になったのだろう。私は、一体、何を間違えたのだろう」と後悔する毎日だったという。それでも、美里さんは、めげなかった。与えられた任務を一生懸命こなすだけではなく、「この仕事のやり方は、何かおかしいのではないか?」と分析をし、その改善を実践した。こうした努力が認められて、美里さんは、単純なオペレーターから、まとめ役になって行った。

そこで、美里さんは、さらなる提案を重ねて、どんどん仕事の範囲を拡大し、次々と重要な仕事を任されるようになっていった。本当に、充実した毎日であった。責任範囲の拡大とともに、美里さんにとっての、仕事のやりがいは、ますます強くなっていった。特に、美里さんは、根っからの徹底した現場主義で、現場に立脚した改善提案を次々と実現していった。しかし、美里さんが勤務する会社の親会社は世界的な大企業であり、その経営のやり方は業界でも高い評価を得ていたのにも関わらず、美里さんが勤務する、その子会社は旧態依然の典型的な日本企業であった。

つまり、美里さんの業務と責任範囲は、どんどん拡大していったのに、いわゆる職位は7年間もの間、全く変わらなかったのであった。働くだけ働かせて報酬は全くあげることはしなかった。シングルマザーとして、一人娘を立派に育て上げなくてはならない使命を持って働いている美里さんとしては、こうした処遇は忍耐の限界を超えていた。一方で、34歳での遅い転職を不安にも思った。「怖い!でも、やりたいことがあるのに何もしないなんて、人生を無駄にしてしまう。やらなくて後悔することが一番嫌だ。やってみて反省する方がいい。」娘さんも、ようやく、小学校高学年になり、もう日本はおろか、世界中、どこだって連れて行けるという自信を持った美里さんは、いよいよ転職を決意した。

そして、今回、世界でも名高い会計法人から発展したコンサルファームへの転職を見事果たしたのである。「今回の転職、なぜ成功したと思いますか?」という私の質問に対して美里さんは、「やはり、8年間もの間、めげずに現場主義に立脚した業務改革に挑戦してきたことが、将来のコンサルタントとして評価されたのだと思います」と言う。「諦めなくて良かった。投げやりにならなくて、本当に良かったと思います」と美里さんは、富士通時代を含めた10年間を振り返る。「富士通という大企業を捨てて、一度はコンサル会社に入社しました。それなのに、チャンスをつかめなかった。遠回りにはなったけれども、今やっと、夢の入り口に立てました。娘という宝物も得ることができました。私の人生は間違っていなかったと思います」と美里さんは微笑んで言う。

美里さんは、現在、滋賀の実家で両親と共に、知的障がい者の兄と住んでいる。お兄さんは、毎日、障がい者に優しい滋賀の製造会社に通って元気に働いている。ご両親は、実は、娘さんの美里さんと孫娘が実家に帰ってきたことを正直喜んでいる。今や、美里さんの娘さんも小学校4年生となり、美里さんと一緒に、シンガポールや韓国など、海外旅行に付き合う良き仲間にまで成長した。もう、美里さんに過去を振り返り人生を後悔する必要はない。だって、今や、美里さんは、日本を代表する光り輝く女性たちの一人なのだから。

382 元東芝社長 西田 厚聰氏を悼む

2018年1月9日 火曜日

今日、児玉博氏が書かれた「テヘランからきた男:西田厚聰と東芝壊滅」を読んだ。この本の中で、以前から西田氏と知己があった児玉氏の書きぶりは、死の2ヶ月前のインタビューも含めて、基本的には好意的な姿勢に満ちていた。私は、以前から経営者の実績は、その個人の力量よりも「運」に左右されると思っている。西田さんの場合も、東日本大震災による福島第一原発事故が、その運命を大きく変えたことは間違いない。西田さんが、東芝社内で、どのように行動されたかは、この著作以上に知る由もないが、私が直接相対した西田さんの印象は、この本の著者である児玉氏以上に尊敬に満ちたものであった。

富士通の取締役を務められ、富士通総研の理事長でもあった野中郁次郎先生は、この西田さんをとても高く評価されていた。野中先生は、西田さんの東大大学院時代の論文を評価されていて「このように立派な政治哲学を持っている人が経営に携わることは、とても素晴らしい」とベタ褒めであった。さらに、野中先生は「富士通の社員の究極の目標は社長になることだろうが、東芝は違う、社長になった後で、どのように社会に役立てるかまで考えている。その両社の違いは極めて大きい」と常々言っておられた。

私が、最初に西田さんにお会いしたのは、マイクロソフトがAppleのiPadの10年以上も前にタブレットPC発表のため、ニューヨークのタイムズスクエア近くのホテルで記者会見を行った時である。記者会見の中央にはマイクロソフトのビルゲーツCEOが立ち、両隣にHPのカーリー・フィオリーナCEOと東芝の西田パソコン事業本部長が立った。フィオリーナCEOの隣には、私が立ち、西田さんの隣には台湾のACERの創業者スタン・シーCEOが立った。この時の写真は、今でも私の宝物である。

この記者会見では、壇上のメンバーは、それぞれオープン・リマークスを述べて、その後、それぞれ記者からの質問に答えるという段取りだった。私は、米国駐在時代から特別な訓練を受けていたので、こうしたイベントには慣れていたが、西田さんの応対も日本人離れしていいて本当に堂に行っていた。私は、この時、初めて西田さんとお会いしたが、「この方は、只者じゃないな」と思った。さすが、東芝のダイナブックブランドを世界に広めた方だと心から敬意を評したものである。

次に、西田さんにお会いしたのは、西田さんが東芝の社長に内定した直後に、伊豆の川奈で一緒にゴルフをした時である。この時は、多分、インテルジャパン主催で、インテルジャパンの吉田社長も一緒だったと思う。私もアメリカから帰国した直後でゴルフも、今より遥かに上手だったろう。420ヤードの長いミドルホールで、私が、たまたま2オンした時に、西田さんは本当に悔しがった。信じられないほど悔しがるのである。この方は、仕事も遊びも全て真剣にされるのだなと思った。

あまりにも西田さんが一途で真剣なので、少しからかってやろうという悪戯心が私に湧いてきた。私は、半年ほど前に日立の社長に就任した古川さん(同じ学科の1年先輩で友達付き合いをさせて頂いていた)のことを持ち出して、「西田さん、古川さんは社長になられて、藤沢から新宿に引っ越されましたよ。やはり、社会インフラを商う会社の社長は都内に住まないとダメなのでないですか?」とからかい半分で尋ねて見た。私は、西田さんが横浜の港南区に住んでいたのを知っていたからだ。

「そんなことは必要ないよ。私は、毎日、横浜の自宅を5時に出て、湾岸高速を飛ばして芝浦の本社には5時半に着いている。都内に住んでいたって、そんなに早くは着けないだろう。」と真剣に怒って言い返してくる。失礼な言い方だが、こうした西田さんの対応が、とても可愛らしかった。本当に真面目な方なのだなとつくづく思う一コマだった。このように、西田さんは真面目で、ストイックで、何事も真剣なのだ。いつだったか、幕張の展示会で、たまたま偶然、車が同時に会場に到着したことがあった。その時の西田さんは、誰も従えることなく、走り足で、次々と他社のブースを真剣に見て回っていた。この方は、大変、せっかちな方でもあった。

次にお会いしたのは、経団連だった。私は、経団連の産業政策部会の部会長を命じられた。この部会は、日本の26業種のナンバー1企業によって構成され、なおかつ各企業から特別に選ばれた優秀な方々が出席されていた。例えば、電力業界では東電の西澤常務(東日本大震災後に社長に就任)、銀行業界では三井住友銀行の車谷専務(欧州最大の英投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズの日本法人会長)など、錚々たるメンバーで構成されていた。この経団連産業政策部会の上部組織が、産業問題委員会で、その委員長が西田さんだった。つまり、私は、経団連で西田さんの直接の部下になった。

この産業政策部会でまとめた答申書は、西田委員長の承認をへて、経団連会長に手渡されて、政府に答申される手順となっていた。この時、私は産業政策部会長として産業問題委員会に出席するわけだが、一応主催者側なので、議事次第(案)を全て手元に持っている。驚いたのは、西田さんが委員長として冒頭にお話しする内容である。何も資料をご覧にならずに、出席メンバーの方々を直接ご覧になって、ごく自然にお話しなさるのだが、内容は、事務局が作成した原稿と一字一句全く違わない。なんと、全て暗記なさっていたのである。このような真剣に対応する方には、私は初めて出会った。

次に西田さんにお会いしたのは、東芝本社で、富士通のハードディスクを東芝の売却する時の交渉だった。冒頭、西田さんは「富士通には半導体で一度騙されているから、だから私は富士通を信用していないのですよ。土壇場で、方針を変えるからね。」と仰った。そこで、私は「半導体のことは、何があったのか私は一切知りません。今回は、真摯にお話を進めて行きたいと思っています」とお話すると、西田さんは「わかりました」と仰って下さった。その後、東芝のHDD部隊と富士通のHDD部隊が統合された結果、その統合部門の長には、西田さんの指示もあって、富士通側のヘッドが着いた。彼は、その後、東芝の上席常務にまで上り詰めた。西田さんは、極めて公平な人事をされたものと私は後で感動した。

繰り返しになるが、私は、東芝の中で、西田さんを含めて、一体何があったのかは知る由も無い。しかし、個人的な付き合いの中で知る限りにおいて、西田さんは、誠実で、ストイックで、熱血漢な方だった。多分、命を削ってまで、東芝の再生を願って尽くしてこられたのだろうと思う。今回の死因となった胆管癌も、実は20年以上も前にドイツに駐在中に、その前兆があって、現地で大手術を受けられたと、児玉氏の著作を読んで初めて知った。あらためて、同じ時代を共に生きた素晴らしい仲間として、心からご冥福をお祈りしたい。合掌。

381 今日の成人式に思うこと

2018年1月8日 月曜日

今日は、成人式。皆、晴れ着を着た幸せな姿に、心からおめでとうと言いたい。しかし、成人式には、それぞれ、いろいろな思い出がある。例えば、私の長男の成人式には、今でも、本当に済まなかったと思っている。私たち夫婦は、2人の男の子を中高一貫校の私立に入れることで給料の殆どを使い果たし、息子の成人式にまともな支度を整えるだけの余裕がなかった。長男が横浜アリーナで行われる成人式に参加するための背広の購入費用が捻出できず、彼のバイト収入に負担させたのだった。

流石に、一旦、ムッとした長男だったが、私たちの家計事情を理解し、近所のアオキ本店に行って自分の貯金で成人式に出席する背広を購入した。私たち夫婦は、今だに、その時の負債に対して長男には頭が上がらない。さて、自分たちは、成人式の時に、一体、どうだったのだろうかと考えてみた。正直言って、私は、成人式の記憶は全くない。その時、私は、東大に入学して駒場に通う大学2年生だった。殆どの東大生がそうだろうと思うが、私も同じく、出身地の高校では開闢以来の秀才として持て囃されて、有頂天になっていたのが、東大に入学した途端に、周囲の友人を見て、自身が、ごく普通の何の取り柄もない人間だと自覚するに至る。

その途端に、これまでの20年近く抱いていた価値観が根底から崩壊する。それに悲嘆して自殺する人も少なくはない。私の下宿の先輩も、日光華厳の滝から飛び降り自殺したと聞かされた。流石に、私は、そこまでには至らなかったが、世の中の全てが信用できなくなっていた。当時の成人式は、1月15日で、その1ヶ月後の2月11日が、初めての建国記念日に制定されようとしていた。2月11日は、神武天皇が即位した紀元節を復活するものであったが、私たち、東大駒場の学生の殆どは戦前の体制に復帰する行事として大反対だった。つまり、成人式どころではなかったのだ。

当時の、私たち若者は、大人たちのやることが全て信じられなかった。だから、自分たちのために、祝ってくれる成人式なる行事は、何らかの悪企みがあるに違いないと考えたのだ。当然、そんな行事に参加する意思など毛頭なかった。また、1月15日は、皆、故郷から新学期のために帰京したばかりであり、その欺瞞の行事のために、わざわざ大金を払って帰郷するなどトンデモナイとも思っていた。まさに、私たちが成人式の時代は、1970年の安保改定の直前でもあり、アメリカではベトナム反戦、フランスではカルチェラタンの学生暴動など、全世界の若者が時の政府に反抗し立ち上がった時でもあった。

私も、来年、経団連会長に内定した中西宏明さん達と一緒に「安保反対、東大を潰せ」と東京都内を走り回っていた。特に、中西さんが偉かったのは、東大の先生たちと学生たちを一緒に議論する場を積極的に設けていたことだった。私たちが、卒業した25年後、当時の先生に対して開いた感謝の会で、恩師の先生から聞いた意外な言葉は今でも忘れられない。「あの当時、君たちは、東大を潰せと言っていたよね。あの時、なんだ、こいつらは、気狂いかと私たちは思っていた。でも、今、思い起こすと、君たちは正しかった。あの時、東大を一度潰して、作り直していたら、今のような世界で二流の大学にまで凋落してはいなかっただろう。」

私たちが、成人式を迎える時代は、今のように、皆から祝福されるようなことなど全くなく、まさに殺伐とした時代だった。そう、私たちは、皆、時代の反逆児だったのだ。「こんな世の中は全くおかしい。全て変えて行かないと、日本は、もう立ち行かない。」という危機感が皆の心にあった。案の定、その20年後に、絶頂だった日本経済のバブルは脆くも弾け、長期低迷の時代に入った。でも、私たち団塊の世代は決して、それにはめげなかった。もともと、戦後の、うたたかの繁栄は何かおかしいと疑っていたからだ。

しかし、今は、どうだろう。今日、成人式を迎える若い人たちは、未曾有の人材不足で就職活動は、かつてのバブル以来の恩恵に預かっている。果たして、彼らは、本当に幸せなのだろうか? これから進展する、人工知能の発達は、多くのホワイトカラーの職業を容赦無く奪って行く。日本のメガバンクが、それぞれ、1万人規模の人員削減を発表しているのは、もう既に、その目処が立っているからだ。よらば、大樹の陰、一流の大企業に就職できれば一生安泰という時代は、とっくに過ぎ去っている。

常に、現実に対して懐疑心を覚え、誰にも頼らないでも生き抜いて行くという我々団塊の世代の自立の精神を、今日、成人式を迎えた若人たちに、ぜひ養って頂きたいと思う。日本で生きて行く君たちの将来は、君たちが何もせずに約束されたものではない。今の、大人たちは、君たちの将来のことを全く考えずに、莫大な借金を、君たちに押し付けている。そのことに、もはや、君たちは無関心ではいられない。君たちの将来こそ、年寄り世代に任せておくのではなく、君たち自身が考えなければならないのだ。