2017年12月 のアーカイブ

380 なぜ、大企業の不祥事は続くのか?

2017年12月20日 水曜日

最近、日本の著名な大企業の不祥事が次々と暴かれている。それも、最近起きたことではなくて、20年、30年前から続いていることだという。なぜ、それが最近になって、急に次々と公になっているのだろうか? 私は、現役の役員時代から、常々、「社外秘」とか「マル秘」とかいうハンコは捨ててしまえと言ってきた。それは、インターネット時代になってから、一般社員が勤めている会社の不祥事を公に告発することが、従来に比べて、いとも簡単になってきたからである。

20年前に、富士通のアメリカ子会社のCEOに就任して、もっとも警戒したのが訴訟問題である。アメリカのビジネス界では、日常的に訴訟問題に直面しており、私が在任時代も、毎月、数件の訴訟問題を抱えていた。こうした問題は、社外だけでなく、社内も含んでいる。それで、私は、毎週月曜日の午前中に行われる役員会議に社内弁護士と社外弁護士の2名を同席させることにした。彼らには、会議で決定されたことが違法ではないかというチェックだけでなく、そもそも議論されている対象が法律や社会正義に反していないかをチェックしてもらうことにした。

この措置によって、私たち役員が訴訟対象になるリスクを大幅に削減することができた。日本に帰国して富士通の取締役に選任された時に、当時の富士通の社長に、このことを進言し、社長も、すぐさま同意してくれて、これ以降、富士通の役員会議には弁護士が常に同席することになった。要は、社内だけの内緒事はなくしましょうということである。外部に公言できないようなことを会社の業務としてはやってはいけないという縛りである。そうすれば、「社外秘」とか「マル秘」とかいうハンコは全く不要である。

もちろん、インサイダー情報とか、重要な開発情報とか、不正ではなくとも、社外に出せない情報は沢山ある。しかし、そうした重要書類に、真っ赤な「マル秘」のハンコが押してあれば、それは会社に不満を持つ社員に対して絶好の餌食にされるだけである。つまり、会社の大きな不満を持つ社員がいる限りは、社内だけの内緒の話は、もはや通用しないということだ。特に、会社に恨みを持っている社員が狙っている情報は、インサイダー情報や重要な研究開発情報以上に、社会的に不正義な情報である。これを社会に暴くことの方が、彼らにとって、よほどに価値があるからだ。それにしても、最近になって、20年、30年前からあった不祥事が次々と暴かれているのは、一体、どういうことだろうか? 

それは、会社に不満や恨みを持っている社員が急激に増えているからに他ならない。実は、米国の調査会社であるギャラップが2014年から2016年の3年間にかけて、世界139カ国で従業員のエンゲージメント(仕事への熱意度)を調べた調査報告書がある。この調査報告書で、驚くことに、日本の会社員の仕事への熱意度は139カ国中、137位なのだ。ちなみに、世界平均は「やる気のある社員」が15%、「やる気のない社員」が67%、「不満を撒き散らす無気力な社員」が18%である。

アメリカは「やる気のある社員」が32%、「やる気のない社員」が51%、「不満を撒き散らす無気力な社員」が17%である。ところが、日本は「やる気のある社員」がたった6%、「やる気のない社員」が70%で、驚くべきは「不満を撒き散らす無気力な社員」が24%にもなっている。アメリカで「不満を撒き散らす無気力な社員」が日本より少ないのは、本人がもっと生きがいのある会社に転職するか、会社側が容赦無く、この社員たちを解雇しているからだろうと思われる。しかし、日本では、そう簡単に解雇もできず、また本人たちも簡単に転職できるほど日本の労働市場には高い流動性もないからだろう。

こうした事情により、日本の職場は、いわば急速に腐った環境になってきたと言える。そうした職場で不満を撒き散らす社員の捌け口として内部告発が利用されたと考えるのは決して不自然ではない。もちろん、私は、内部告発が起きない職場を良い職場だと言っているつもりは全くない。もはや、会社の中だけでの内緒事など出来ないのだという認識の元で、昔からやっているから問題ないと考えられている不正義が、社内にあるのか?ないのか? もう一度、総点検することが重要なのは言うまでもない。

しかし、もっと重要なことは、スキあらば、社外に不祥事を訴えて日頃の恨みを晴らしてやろうという不満を撒き散らしている社員を、いかに少なくしていくかである。彼らは、どうして、そうした不満を抱くようになったのか? 私は、大きく3つの理由があると考えている。一つは、無駄な仕事をやらせすぎていることだ。会社にとっても、なんの役にも立たない仕事。これは本人のキャリアパスにも役に立っていない。だいたい、日本の会社には無駄な会議が多すぎる。会議が重要な仕事だと思っている管理職も多すぎる。忙しい、忙しいと言っている仕事ができない人に限って会議の出席頻度が多い。その会議のための膨大な無駄な資料を作らせる。優秀な社員であればあるほど、こんな資料作成の仕事でやる気は一気に消滅する。

二つ目は、平等と不平等の問題である。30代のバリバリに仕事ができる社員に対して、隣の席でダラダラと同じ仕事をしている50代の年配社員の方が、仕事の内容は全く同じなのに2倍ほど給料が高い。これは全く不平等である。一方、命をかけて頑張っている社員と、ほとんど真面目に仕事をしていない社員と、同じ年齢ならほとんど給料が変わらない。これは、不公正な平等である。日本は、いつまでソ連と同じコルホーズやソホーズといった共同農場の仕組みを続けるつもりなのか?世界で唯一残った社会主義国こそが日本だと言われている。

最後の3つ目は、主体性の問題である。仕事のやる気は自己裁量権の広さに関わってくると言われている。社長、部門担当役員、本部長、事業部長、部長、課長、担当と7階層もある縦社会。通信プロトコルISOの7レイヤーじゃあるまいし、あまりにも組織階層が多すぎる。担当から社長までの伝言ゲームでは、殆どの真の情報が流通しない。現場を知らない大本営の指令で命令されても、担当者はやる気も出なくなる。こうした仕事のやり方では、いくら頑張ってもキャリアが磨かれることはない。

働き方改革の議論は、決して残業時間の問題だけではないと私は思っている。シリコンバレーのスタートアップの連中は何週間も寝ずに働いている。自分自身の経験で言えば過労だけでは身体を壊すかもしれないが、自殺までしようとは思わない。自分の存在が無視され、自己裁量権があまりにもないからこそ、生きている価値を見出せないのではなかろうか。そのことの方が、残業時間以上に、遥かに大きな問題である。

379 色覚異常について考える

2017年12月9日 土曜日

今、TBSの報道特集で色覚障害の問題をやっていた。このTVを見ながら、我が家の色覚異常の問題を思い出した。今から半世紀ほど前、私たちの小学校時代は、毎年、身体検査の時に、世界でも最も厳しいと言われる石原式色覚検査が行われ、男3人兄弟で長男の私は正常だったが、弟二人は赤緑色弱と診断された。色覚異常は母親の遺伝子に影響され、主として男の子にしか発症しない。私たち3人兄弟は、皆、AB型でよく似ているのに、この遺伝子だけは違ったらしい。

兄弟3人とも理数系が得意で、私は東大の理一を受験し、工学部に進んだが、次男は、私以上に理数系が得意だったが、色覚異常は、技術系の就職にも影響するという噂もあり、あえて東大の文一を受験し合格、法学部に進学した。彼は、東大を卒業後、郵政省に入省し、郵政民営化後の日本郵政にて専務まで務めたので、結果的に成功したと言えるのだろう。しかし、彼の息子は小学校6年生の時に世界数学オリンピックで銀メダルを取っているので、彼も本当は理系に進んだ方が良かったのかも知れない。

さて、三男が大学に進学する頃には、世の中が少し変わってきていて、色覚異常は実生活には殆ど影響なく、理系に進学しても就職差別には至らないという社会常識に少し変化が生じてきた。こうした情勢を踏まえて、彼は、私と同じ東大の理一に進学した。もっと、丁寧に説明すれば、彼は小さい時から医者になりたかったのだ。そうは言っても、東大の理三は、並大抵のことでは入れないので、大学受験の一期は東大の理一を、二期は東京医科歯科大学を受験した。予想通りというか、案の定、東大は合格したが、東京医科歯科大は不合格だった。

家族会議においては、三男は、東京医科歯科大を落ちても、東大に合格したら、医師の道は断念して東大に進学するという約束だった。それでも、彼は、小さい時からの医師になるという夢を、どうしても捨て切れなかった。ところで、色覚異常という障害を持ちながら医師になるということは本当にできるのだろうか? 私たちは、必死になって家族皆で調べて見た。しかし、こういうことは、きちんと明文化されていないのだ。

それでも、色々なアングラ情報をかき集めてみると、東大医学部眼科の初代主任教授が色覚異常だったらしく、東大医学部は色覚異常に対して、どうも寛容らしいという。その考え方は、東大が支配する東日本全体の医学部に影響を与えているらしい。一方、これも噂の域を出ないのだが、西日本では京大医学部眼科の初代教授が東大に対抗して色覚異常者には絶対に入学を許さないと言う方針を堅持した結果、西日本全体の医学部は色覚異常者の入学を許していないと言うことであった。実際に、当時の京大医学部の募集要項にも、そう記述されていた。それで、我が家の三男は東大を中退してから東北大医学部を受験、無事入学し、国家試験にも合格、何とか医師となることができた。

今日のTBSテレビの放送では、文科省が学校での色覚検査は無用な差別を生じるので、14年前から中止としたらしい。それで、今の若者は、自身が色覚異常との認識が全くなく、絶対に色覚異常を認めないパイロットなどの職業への道を突如絶たれることが大きな問題になっているらしい。そうした、問題を避けるために、文科省は、一昨年から、再度、小学校での健康診断で色覚検査を復活したようだ。しかし、子供達は、「皆と違う」と言うことだけでイジメの対象とするので、検査のやり方には、やはり注意が必要だろう。

私自身は、色覚異常とは言われなかったが、兄弟二人が色覚異常と言われたので、この問題には昔から大きな関心を持っている。石原式色覚検査シートをよく見てみると、正常者に見えるチャートと異常者に見えるチャートが並んでいる。本当に、厳格によく出来た検査ツールである。世界に、これほど厳格な検査ツールは類を見ないと言う。

大体、私の弟二人が異常なのか?私が異常なのか?一体、誰が決めるのだろう。多数派が正常で、少数派が異常だと言うのも少しおかしいのではないか?ひょっとしたら、「色覚異常」と言われている人たちは、色感覚の天才なのかもしれない。皆んなと同じ、平凡な人間なら「正常」。皆んなと異なり、あまり見ない人間なら「異常」。こういう考え方しか出来ない社会で、きっとイノベーションなど生まれない。今日のTBS放送を見て、色覚異常について、久しぶりに考えさせられた。