2017年8月 のアーカイブ

371 光り輝く女性たちの物語(17)

2017年8月3日 木曜日

今回、ご紹介する、中島惠美さんの光り輝く半生を語るためには、まず惠美さんの身体の中に組み込まれた貴重なDNAから紹介しなくてはならない。

惠美さんの祖父である三浦文夫氏は、新聞記者より外交官試験を突破し入省。在スペイン日本大使館の一等書記官として赴任中、外務省の諜報組織「東(TO)機関」の中心人物に抜擢された。真珠湾攻撃以降、殆どの在外公館が閉鎖に追い込まれて、日本の外務省に海外の情報が何も入ってこなくなっていった。そこで、外務省は、当時中立国であったスペインに「東機関」というスパイ組織を作った。東(TO)は盗(TO)の隠語であったとも言われている。

米国内に潜入している日本のスパイは、入手した機密情報を、まずメキシコに送る。その情報はメキシコからスペイン語でスペインに送られて「東機関」へと伝えられた。当時のスペインは中立国ではありながら、ナチスドイツと日本に対して親近感を持っていたからだ。この惠美さんの祖父、三浦文夫氏の活躍は素晴らしく、米国の原爆開発計画(マンハッタン計画)の進捗情報を逐次日本へ報告し、近いうちに極めて残酷な大量破壊兵器である原爆が日本へ投下されることを伝えた。しかし、日本軍部は外務省所属の諜報組織である東機関からの、この貴重な情報を抹殺し、結果的に日本を世界で最初の原爆被災国にしてしまった。

幼少期の惠美さんは、長く外交官を務めた文夫氏に見守られて育てられた。惠美さんから見た、お爺様は、日本人離れしたカッコ良い紳士で、とても上品な元外交官であり、太平洋戦争中に大活躍したスパイには全く見えなかったし、文夫氏も、そのことについては家族にも一切話をしなかった。お爺様は、いつも惠美さんに「世界はとっても広いのだから、惠美も世界へ飛び出し見識を深めた方が良い。」と優しく語っていた。

惠美さんを含めて家族が、お爺さんである文夫氏の活躍を知るのは、1982年9月20日に、NHK特集「私は日本のスパイだった──秘密諜報員ベラスコ」が放映されてからである。この番組は「昭和57年度芸術祭大賞」「第15回テレビ大賞 優秀番組賞」「第22回日本テレビ技術賞」を受賞し、現在は「NHK特集名作100選」に選ばれていて、この番組の中でも、文夫氏の活躍が多く語られている。その文夫氏は、戦後無事日本に帰国し、中南米の大使を歴任。82歳になるまで名だたる商社の顧問として仕事をしたという。

さて、次に登場するのは、文夫氏の息子で、惠美さんの父である三浦朗氏である。文夫氏には二人の息子がいて、長男は外交官の息子らしくエリートサラリーマンとして大手商事会社に就職し、ニューヨーク勤務となるが、激務のため体調を壊し、日本に帰国すると間も無く、まだ若くして夭逝したのだった。次男である朗氏は、幼少期を中米で過ごしたことも影響したのか、外交官の文夫氏や商社マンの長男とは全く異なる前衛的な芸術家としての人生を歩むことになった。

朗氏は、アクション映画の日活がテレビの登場で経営難に陥った時、助監督から転身。あの一世を風靡した日活ロマンポルノのプロデューサーとして、日活のV字回復を支えた。漫画を実写化し、公開オーディションで話題になった「嗚呼!花の応援団」や連城三紀彦氏原作「恋文」など生涯100本を超える映画を世に出している。朗氏は、まだ幼い惠美さんを撮影現場にも連れて行ったため、惠美さんは女優・俳優・監督・脚本家などクリエイターから感性の刺激を受けたという。いつも尊敬し慕っていた父だった朗氏を、惠美さんは、大学卒業直後の23歳の時に病で失ってしまう。

お父さん子だった、惠美さんは、やはり「お父さん」が欲しかった。立教大学法学部を卒業後、服部セイコーに就職し、充実した人生を送っていたが、大学時代に同級生だった男性と25歳で、突然できちゃった結婚、華やかなOL生活を終える。惠美さんは、この優しい同級生に「お父さん」を見出したからだ。そして、お腹の子供と一緒に、ご主人の米国留学に付き合うことにした。米国で二人目の子供も授かった惠美さんの新婚生活は、つましいながらも子育てを楽しんでいたという。その幸せがある日突然、想像だにしなかった展開を迎える。

心根の優しいご惠美さんの主人は、子供達にとっても、惠美さんにとっても、あくまで「優しい父親」であり、素晴らしい永遠のパートナーだった。しかし、その優しさが災いしてか、ご主人はビジネス戦士とは程遠い人物で、帰国後就職した日本企業をある日突然退職した。魂を削って家族のために勤務していたご主人は、企業戦士として向いていないと理解していた惠美さんは、それを受け入れ、働きに出ることにした。21年前のことである。ご主人はそれ以来、二人の子供を立派に育て上げ、今でも家庭をしっかり守っている主夫であり続けている。惠美さんは今でも、このご主人に対しては、いくら感謝しても仕切れないという。

惠美さんはこれ以来、一家を担う大黒柱として必要な収入の道を見出さなくてはならなくなった。まず、惠美さんは、得意なアートセンスを活かしてテキスタイルデザイナーとして、デザインを製作し売り歩いたが、それではとても一家の生活を賄うことは出来なかった。デザイン事務所の社長の紹介で惠美さんが出会ったのは、女性なら誰でも憧れるイタリアインポートのウエディングドレスの存在だった。

そこで、惠美さんはパートとして働き始めたが、マネージメント力と語学力を買われマネージャー兼バイヤーとして活躍してゆく。大好きなドレスと目の前の花嫁が美しく、そして幸せに輝く様をプロデュースすることに大いにのめり込んだそうだ。だが、家族経営の多いこの業界で、雇われの身での経営に限界を感じた惠美さんは、出資者を募って、仲間の女性4人と共にウエディングドレスの会社・アクア・グラツィエを立ち上げた。惠美さんは雇われ社長として経営の前線にたった。

まず、惠美さんは、ブライダルビジネス拡販プロモーションのために、当時新人だった深田恭子さんにどうしてもファッションショーに出演してほしいとホリプロを口説き落とした。これがきっかけで、マスコミに取り上げられるようになって行ったのだ。マーケッティング活動のために、惠美さんはブライダルのファッションショーを毎年企画し、釈由美子さん、デビュー間もない石原さとみさんや香椎由宇さん、石川亜沙美さんと毎年脚光を浴びることとなる。

さらに、当時ブライダルビジネスは、一般的に結婚式場に数千万円の保証金を納めて仕事を貰うのが通例であったが、惠美さんは、その保証金を払わずに、顧客から直接注文をとり、結婚式場にはバックマージンを支払う方式をとった。また、顧客志向の薄い当時の衣装屋はレンタル回数がとても多く、コンディションが非常に良くなかったことにアンチテーゼを示し、レンタル3回までという制度や、RFIDでのドレス管理、Ipadでの接客受注など「業界初」企画をどんどん推し進めた。

こうして、ブライダル業界で確固たる地位を得ると、どんどん協力者も増えた。大きなフィールドへチャレンジするため、日本最大のブライダル企業に、事業売却し、自身も、その傘下で活躍する道を選ぶことにした。この選択から、押切もえさんや蛯原友里さんとコラボする機会を得ると、全国区のビジネスへと拡大していく。さらに、惠美さんは、ドレスだけでは花嫁は美しくならないと事業領域を拡大する。ヘアメイク、エステサロン、写真・映像、チャペル音楽事務所、パーティープロデュースなど、ウエディングコンテンツをワンストップでできる企業へ育てて行ったのだ。

このようなビジネスモデルは、海外には存在しない。そこで、親会社のトップより、新しい海外拠点を立ち上げるため、シンガポールへ赴任するよう白羽の矢が立った。いつでも「運命を受け入れる」ことでチャンスを掴んで来た惠美さんは、単身赴任の道を選ぶ。シンガポールなどに住む、アジアの富裕層が結婚式に散財する費用は、日本の数倍であり、この地で、本当に豪華絢爛なブライダル事業を運営することができた。しかし、ここで惠美さんは、人の本当の美しさは、「若さと健康」の維持から生まれるものではないかという新たな気づきに遭遇する。

そこで惠美さんは、ブライダル企業を退職し、日本に戻りRIZAPを運営する健康コーポレーションに転職する。RIZAPでは、新規事業を任され、イメージコンサルティング・写真スタジオ・オーダースーツなどを担当する。つまり、食事制限と筋肉トレーニングで苦しみながら望む体型を勝ち得た人が、新たに、どのような衣装を纏い、どのように自身を見せたいのかという希望に応える仕事である。我慢と辛抱を耐えて勝ち得た理想の体型を、その金字塔として讃える記念写真を綺麗に撮るということは、何物にも変えがたい大きな価値がある。

このRIZAPでも惠美さんは、本当にやりがいのある仕事に巡り会えた。しかし、RIZAPは、あまりにも若い会社であった。中年から壮年に向かう自分の位置付けを難しいと感じていた時に、仕事に邁進して来た自分の日々を省みて、家族と向き合う時間を取ることを選んだ。家族と向き合い、自分と向き合う中、惠美さんは、またしても転職を決意する。二人の子供も、ご主人のおかげで、無事大学を卒業し、立派な社会人にもなった。いよいよ惠美さんは、本当に自分がライフワークとして同年代の女性を応援できる仕事をしたいと決意し、あのスポーツ小売最大手Alpenのフィットネス事業部長に着任し、次の新たな人生を見出した。

惠美さんは、ちょうど50歳を迎える自身を振り返り、夫には本当に感謝していると言う。夫がお金を稼いで、妻が家を守るという人生もよしなら、その逆があっても良いではないか。しかし、そう考えて、それをよしとする夫や家族の存在は、今の日本では稀有である。自分の夫は、その意味で偉いし、自分は心から尊敬できる。今、改めて考えてみると、自分は、家を守るより、外に出てお金を稼ぐ方が向いていたと思う。それを許してくれた、夫には、言葉では言い尽くせない感謝があると惠美さんは言う。惠美さんは、本当に、これまでも、そして、今も、強く美しく輝いている女性の一人である。