東大を卒業後、コロンビア大学院で学びながら、ジュリアード音楽院に通い、プロのソプラノ歌手になった武井涼子さんについては、既に、この物語で紹介済みである。その涼子さんのコンサートを聴きに行こうと、夕方、田園都市線の電車に乗った時のことである。向かいの席に、ちょっと他では見ないほどの美しさを漂わせている和装の麗人が座っていた。なんて綺麗な人なのだろうと、そちらに目をやると、思わず目が合ってしまった。次の瞬間、その女性から私に声がかかる。「伊東さん、これから武井涼子さんのコンサートに行くのですか?」と。
なんと、その麗人である宮原巻由子さんはFacebookの友達だった。少し言い訳をすれば、女性は、和装と洋装では全く違う雰囲気になるので、私には、直ぐに、巻由子さんとはわからなかった。私は、涼子さんのコンサートを応援するために、随分前から、この日に涼子さんのコンサートがあり、自分も聴きに行くとFacebookで公言していたのである。そして、私は、この日の公演会場であるサンパール荒川には、どうやって行ったら良いかが、わかっていなかった。
早速、私は、巻由子さんの隣に席を移して、「私は、今日の会場への行き方がわからないのです」と言うと、「大丈夫です。ご心配要りません。私が、会場まで、ご案内します」と言われたので、素直に巻由子さんに、ついていくことにした。その間、1時間半ほどの道中で、巻由子さんから聞いた話は、私にとって、全く別世界の話であり、そこには途方もない物語があると直感し、一度、詳しく聞いてみたいと、今回インタビューを申し込んでみることになった。
そもそも巻由子さんは、大阪船場で生を受けた。巻由子さんの曽祖父は四国から幼い頃に大阪に出てきて、麻問屋に丁稚として奉公し、のれん分けしてもらい巨万の富を築くことになった。その大家族の中で、一族の子女たちと一緒に日本舞踊や社交ダンスなどを嗜んだのが、巻由子さんの芸事始めだったという。また巻由子さんの音楽活動に最も影響を与えた義兄は無類の音楽好き・オーディオファンで、義兄の自宅には本格的なカラオケルームがあった。巻由子さんは、小学校時代から義兄と一緒に深夜まで、そのカラオケルームで歌い込んだという。そうした一連のことが、将来、巻由子さんを芸能界に進めるきっかけになったのかもしれない。
そして、巻由子さんが小学校5年生の頃、一世を風靡した人気グループである「Finger 5」。グループ内の、最年少の晃君と妙子さんは、それぞれ11歳と10歳であった。巻由子さんは、自分と同い年の子が、歌を職業にしていることに、いたく感銘を受けた。「よし、自分も芸能界にデビューしてみよう」と思い立ち、当時、素人の女の子が芸能界にデビューする、一番手っ取り早い登竜門であった日本テレビの「スター誕生」に応募ハガキを出した。幼き夢多き少女の、ほんの少しの気まぐれであった。
それから巻由子さんは、順調にすくすくと成長し、大阪府立今宮高校に進学した。今宮高校は、ノーベル化学賞を受賞した福井先生も卒業した大阪府内きっての名門進学校である。高校2年になった巻由子さんは、学年で一桁の順位を維持し、将来、弁護士か検事になろうと、大阪大学法学部を目指して勉学に励んでいた。その16歳になった巻由子さんに、10歳の時に出したスター誕生への応募ハガキの返信が来たのである。「大阪地区のオーディションに来られたし」と。
当時の応募ハガキは、写真も歌のデモテープも同封する必要がなかったので、全国から何十万通もの応募ハガキが来たのだった。日本テレビは、逐次対応するのに膨大な作業を有して、巻由子さんに返信するのに、6年もの歳月が必要だった。しかし、6年もの歳月は、あまりにも長い。巻由子さんは、すでに芸能界にデビューするなどという根拠のない夢を追いかけている暇はなく、阪大法学部への入学に専念していたので、そのハガキを無視しようとしたのだが、巻由子さんの並外れた美貌に気がついていた家族は「せっかくだから挑戦だけでもしてみたら」と熱心に勧めるのだった。
「どうせ合格する訳がないし、普通は出来ない良い経験になるから行ってみるか」と仕方なく、大阪地区のオーディション会場へ行った巻由子さんは、応募者の多さに驚いた。会場には1,000人以上の少女たちが押しかけていた。会場には、アコーディオン奏者として有名な横森良造さんが、ピアノの前に座っておられて、「何を歌いたいの?」と聞き。ピアノの伴奏で数小節だけ歌わせると「はい、次」という具合に、次々とテストが続けられた。受かるつもりもなく面白くて良い経験だったとそれだけで満足していた巻由子さんは、なんと合格してしまったのだ。大阪地区1,000人の受験者のうち合格者は、たった数人、巻由子さんと、もう一人、巻由子さんの4歳年下の柏原芳恵さんが、その中にいた。そして、次は関西地区全体のTV予選に出場することになった。豊中の大ホールで行われたTV予選は、大阪地区だけでなく、神戸、京都、奈良、和歌山など各地区から選ばれた10人ほどが登場して、TV放映される「スター誕生」の予選が行われた。
殆どの年配の方は、この人気番組である「スター誕生」をご覧になった方があると思われるが、出場者が歌った後、会場にいる芸能プロダクションやレコード会社のスカウトが、欲しいと思う出場者に対して社名が書かれたプラカードを上げるのである。多数のプラカードが上がった柏原芳恵さんは、この予選の最優秀賞に輝いたわけだが、巻由子さんには、一枚のプラカードも上がらなかった。巻由子さんは、コメントを求められて「今日は、楽しい思い出が作れました。良い経験を味わせて頂きありがとうございました」と答えた。不合格ではあったが、大変な緊張の中、精一杯がんばったので悔いはなかった。
しかし、そこで信じられないことが起きた。阿久悠、都倉俊一、松田としこ、中村泰士、三木たかしといった著名な審査員たちが、今回だけ審査員特別賞を出すという。要は、スカウトたちの目は節穴か?ということだった。今回の出場者には、既に引退を表明していた山口百恵の後継者としての逸材がいたではないか? 審査員たちは、この出演者に特別に次回の決戦大会への出場を認めるというコメントであった。
その名前として「宮原巻由子さん」と呼ばれた時には、巻由子さんは、本当に驚いたという。そして、数カ月後に行われた次回の「スター誕生決戦大会」に再度出場した巻由子さんには、浅井企画と日本ビクターからプラカードが挙げられて、めでたく浅井企画に所属する芸能人としてスタートすることになった。浅井企画は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった、この「スター誕生」の司会者を務める萩本欽一が所属するプロダクションである。巻由子さんは、この浅井企画のヒーロである欽ちゃんほど素晴らしい芸能人はいないと振り返る。
当時、欽ちゃんが総合司会を努めていた日本TVの主力番組である「24時間TV」に毎年出演していた巻由子さんは、欽ちゃんの人間性には心から感銘を受けたという。欽ちゃんは24時間、スタッフから仮眠をとるように求められても寝ようとしないのだという。TVに写っていないときでも、寄付して頂いた方への感謝のお礼、寄付を頂いた方からの感謝の言葉を受けることなど、すべて誠実に対応している様に、巻由子さんは、感動さえ覚えたという。
しかし、巻由子さんは、4年間を過ごした芸能界は、やはり自分には向いていなかったと考えて、別な道を歩むことにした。今後は、高校時代に得意だった英語の力で生きようと英語学校に通う。芸能界を引退した巻由子さんは、まずは、外国人向けの日本語教師として生きていこうとしたのだ。そして、その後、この英語学校で一緒に学んだ青年と、巻由子さんは恋に落ち、一男一女をもうけて、ごく普通の幸せな専業主婦となった。
しかし、好事魔多し、幸せな結婚生活も、それほど長く続くことはなかった。いつか自分の会社を持ちたいという、ご主人の野望に、有り余る資金を提供した億万長者の女性に、この幸せを壊されてしまったのだ。離婚した巻由子さんは、二人のお子さんを抱えて暮らしていくことになる。その時、巻由子さんの人生を救うことになったのは、その美貌と英語力であった。
シングルマザーとしての巻由子さんを支えた職業の一つは、モデル業である。東京銀座に本社を持つ創業50年の日本最大のモデル専業エージェントである、SOSに所属した巻由子さんは、雑誌や広告を始めとするモデル業だけでも、普通のOL以上の収入を得ることができたが、もう一つ、巻由子さんを支えた仕事は洋画の翻訳業だった。
当時は、CSなどの衛星放送が始まろうとしていた時期。毎月何百本もの洋画・海外ドラマ・アニメ・情報番組などの字幕・吹替え作品を必要としており、翻訳家が絶対的に不足する事態となった。当時日本シェアNO.1だった洋画制作部を有する制作会社東北新社でフリーランスとして活動を始めた巻由子さん。その仕事ぶりはすこぶる評判が良かった。それも、芸能界で過ごした経験が大きく役立ったのではないかと巻由子さんは言う。女優や歌手として取り組んだ演技の勉強が、映画の製作者の意図を理解しセリフを書くための素地となっていた。
翻訳家になった後もモデルを続けつつ、二人の子供たちを立派に育て上げた巻由子さんは、それぞれが自分の巣から旅立った後、寂しさと不安を感じて再婚を決意する。お相手は、何と、富士通グループの会社で部長まで勤められたITエンジニアであった。この、京都生まれで京都育ちの、新たな人生の伴侶が、会社がリタイア後の生活設計にと与えてくれた研修で、全力を尽くして書き上げた論文は、ITを用いた京都の伝統産業の振興策であった。あまりに、この論文の出来が良くて、巻由子さんのご主人は早期退職を決意して、巻由子さんと一緒に、京都の伝統産業振興プロモーションを生涯の仕事として始めることになる。
2010年、ご主人の退職を前にまず巻由子さんが最初に、事業の立ち上げ準備として使ったのはFacebookであった。どうやら、この辺から、私と巻由子さんとの接点が始まったのではないかと想像する。巻由子さんが、最初にアタックした相手は、京都に本社を持つ、株式会社中川パッケージだった。ネットで主力商品を見て、その発想力に心酔したのだ。中川パッケージは、ダンボールや緩衝材を扱う会社で、ディスプレイ・パッケージやミツバチの巣など、ダンボールでいろいろな応用分野を開拓している大変ユニークな会社である。
この会社の代表である中川仁氏からいただいたご縁で、京都発の伝統産業の仲間達を中心にしたITのグループが出来た。京都の伝統産業の優れたところを世界に知らせたい、と始めた事業はそこを基盤にして、現在は伝統工芸品の商品開発や、伝統芸能の担い手、音楽家、現代アートの芸術家の方々の応援にまで広がってきた。巻由子さんとご主人が営業・プロデュース・コーディネート・デザイン部門を分担、またご主人がIT、写真の技術とマーケティングを担当しており、その共創基盤となっている。
その仲間達の一つとして、錦織で有名な(株)龍村光峯 がある。この話のきっかけとなったオペラ歌手の武井涼子さんと友達になったのも、この龍村光峯での、ご縁だという。こうして、巻由子さんの友達の輪は、どんどん広がっていく。巻由子さんの将来の夢は、後継者不足に悩む伝統産業と自立支援を必要とする子供たちのマッチメイキングだ。児童養護施設で育った子供たちに、伝統産業の職人としての仕事を知ってもらい、職人になりたいと思う子供たちの夢を叶えるお手伝いをしたいという願いである。
今、まさに、巻由子さんは、京都の伝統産業を支える、光り輝やく女性の一人であることに間違いない。