2016年7月 のアーカイブ

346 堅信の秘蹟

2016年7月30日 土曜日

7月24日、鷺沼教会にて、横浜教区長の梅村司教さまより堅信の秘蹟を授けて頂いた。もともと堅信の秘蹟は、幼児洗礼を受けた子供が自分の意思で信徒となることを誓う儀式で、私のように成人してから信徒となった場合は、洗礼と堅信を同じ日に行うのが通例らしい。しかし、二年前の復活祭の日には、私は、ヨーロッパへの出張と重なり、皆と一緒に洗礼式に出席できず、その1週間後に一人だけで洗礼の秘蹟を授けて頂いたので、同時に堅信を受けることはなかった。

それから、二年経って、梅村司教さまが鷺沼教会に来られる、この7月24日に合わせて、私は堅信の秘蹟を受けることになった。梅村司教さまが教区長を務める横浜教区は、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県にある88の教会が傘下にあり、司教さまが毎週のように回られても二年間かかる。そのため、この日のミサでは43人の信徒が堅信の秘蹟を受けることになり、普段の倍以上の数の信徒が訪れて椅子に座りきれないほどであった。

大学では人工知能の研究室を卒業して、会社でも20年間人工知能の研究開発をし、今も、人工知能の可能性を人一倍信じている私だが、神に対しての畏敬の念は持っている。それは、これまでの私の人生で次々と起きたこと、良いことも悪いことも含めて、数学や物理学や生物学では、全く説明できないことばかりであったからだ。特に、人との出会いが一番大きい。出会いが私の人生を大きく変えてきた。単なる出会いは日常的に起きることだが、その出会いの中でお互いに意気通じるかどうかは、まさに奇跡としか言いようがない。

今回も、堅信の秘蹟の三日前から、多くの奇跡の出会いが始まった。その7月21日は、富士通静岡支社主催のお客様向TOPエグゼクティブフォーラムにて講演をさせて頂いた。この講演は、富士通初の女性支社長として静岡に赴任した広澤里佳さんから、今年の1月に依頼されたものである。講演のテーマは、里佳さんの了解も得て、毎年定点観測をしているシリコンバレーの動向ということにした。私は、この講演も含めて、富士通を退職してからの講演依頼は、エージェントを通して受けている。

里佳さんの支社長就任祝いとして良い話ができればと張り切っていたところ、2月頃だろうか、エージェントから、準備が予定どおり進んでいないとの知らせを受けた。どうも静岡支社では14年ぶりに開催するお客さま向けフォーラムなのだという。つまり、13年間全くやったことがないわけだから、担当の方も、どこから手をつけて良いかわからなかったらしい。それで、私と里佳さんの共通の友人である、東北支社の菅野敦子マネージャーに助けを求めることにした。敦子さんは、私が知る限り、こうしたイベント開催に関しては富士通で最も優秀なマネージャーである。

私が、頻繁に外部で講演するようになったのも、この敦子さんのお陰である。私は、敦子さんに出会うまでは、経営方針や新製品の発表とか、会社の業務に関わるプレゼンテーションしかしたことがなかった。それが、敦子さんにおだてられて、会社の業務とはあまり関係のない、ごく一般的な演題で、東北6県の各所で講演をするようになった。そして、数をこなすうちに、どう話せば聴衆の関心が得られるかという極意を少しずつ学ぶことができた。どの講演会場も、敦子さんの事前の設定は完璧であり、いつも話しやすい環境を提供してもらっていたからであろう。

それで、敦子さんに支援を依頼すると、すぐさま里佳さん宛に、フォーラム開催準備のための分厚いマニュアルが送られてきたという。そのため、今回の14年ぶりに開催された静岡支社主催のフォーラムの会場設定は完璧に近かった。マニュアルの出来も素晴らしかったのだろうが、支社の担当の方もマニュアル通り、きちんと仕事を果たされたのだろう。200席近く用意された会場はほぼ満席で、事前のお客様への案内も含めて全て完璧に行われていた。

今回、静岡で講演したテーマ「シリコンバレーから見える未来社会」と同様の話は、これまで、他でも何回もしている。しかし、今回に限って言えば、私自身も、とても話しやすかったし、お客様からも大変好評だった。一体、どうしてだろうか?と考えてみると、従来、十年以上にわたってシリコンバレーを毎年訪問していた、私の立場は、ITサービスを提供する企業からの視点だった。それが、今年は、社外取締役をさせて頂いている日立造船の社員を引率し、顧客側の立場でシリコンバレーを訪問したので、私の見方も変わったし、訪問した相手の話し方も全く異なっていた。つまり、私自身が、お客様の立場に近づいた分だけ、わかりやすい話ができるようになったのかもしれない。今年、私にシリコンバレーへの出張を命じて頂いた日立造船の谷所社長には心から感謝をしている。

静岡でのフォーラムを無事に終えた私は、次の日、22日には淡路島に向けて出発した。翌23日の土曜日に淡路島で行われる日立造船の役員研修に参加するためである。ここで、またもや素晴らしい出会いがあった。研修会の講師は、日立製作所で社長・会長をされた川村隆さんである。日立造船は戦前、日立製作所の子会社であったが、戦後の財閥解体で日立製作所とは資本関係は全くなくなった。それでも、昔、日立グループだったということで、両社は、互いに敬意を表している。そうした縁で、川村さんも、わざわざ遠く淡路島まで足を運んで下さったに違いない。

私は、既に川村さんとは面識があった。東大の電気工学科で同級生だった中西宏明さんを、日立製作所の次の社長に指名して頂いたということもあるが、富士通時代の上司で、副社長も務められた丸山さんと川村さんが札幌の高校で同級生だったという縁もある。69歳にして日立製作所の再建を任されて社長として呼び戻された川村さんのことが新聞に掲載されると、丸山さんから私に電話があった。「伊東くん、あの川村って、私と札幌の高校で同期だから。会ったら、気さくに話をしてご覧なさい」と言われ、経団連の会議で、たまたまお隣の席になった時に川村さんに話しかけた。今回、お会いした際も、そのことをしっかり覚えていて下さった。

それにしても、川村さんの講演は素晴らしかった。既に69歳になった、川村さんが日立製作所の社長として呼び戻されたのは、2008年、リーマンショックの影響を受けて7,800億円の赤字を出したからだが、それは前任の社長の責任だけではないという。1989年、日本のバブルが弾けてから、20年近く日立製作所は腐り続けてきたのだという。その膿が一気に出たのが、たまたまリーマンショックがきっかけになっただけだと言う。自分が副社長になった、2000年には、日立製作所は、既に十分に腐っていた。それでも、毎日の業務に忙殺され、世界中を飛び回っていた自分にも不作為の罪という大きな責任があったと川村さんは言う。

会社の中の、ほんの小さな組織でも腐り始めたら、それが瞬く間に全社に蔓延する。だから、腐敗の芽が小さいうちに摘み取るしかないという。自分は、社長時代に、可能な限り、腐った組織を摘み取ったつもりだが、それでも全て取り除くことはできなかったし、その後、腐り始めた組織もあるはずだ。だから、経営TOPは、常に目を光らせて腐った芽を摘み取り続けていかなければならない。穏やかな語り口で、大変厳しい内容の話を川村さんは仰った。

そして、川村さんは、次のように語られた。今日は7月23日ですよね。今から17年前の今日、7月23日に私は北海道に帰省しようと羽田から飛行機に乗りました。その飛行機がハイジャック犯に乗っ取られて機長が殺されてしまいました。飛行機は、どんどん高度を下げて墜落していくわけです。私は、もう、このまま死ぬと思いました。遺言を書こうと思ってメモとペンを取り出したのですが、姿勢が前のめりなので全く書けませんでした。後で聞いた話ですが、地上200mまで降下したそうです。機内にいた非番のクルーが操縦室に突入して犯人を取り押さえて副操縦士とともに機体を立て直して助かりました。

それから10年後でしたね。日立製作所の社長として戻れと言われたのは。すぐに返事できませんでしたよ。もう、69歳ですからね。でも、私は、一度死んだのだ。今、生きているのは、この使命を成し遂げるための天命だったのだと考えました。そして、やるべきことを早くするためには、誰にも邪魔されたくない。それで、社外取締役を過半数にして、しかも外国人の役員も増やしました。腐った組織を蘇生するには、かなり厳しいことをしないと出来ない。もう、私に怖いものはありませんでした。なにしろ、私は、一度、死んだのですから。

こんな素晴らしい話を聞いて、翌日の24日。私は、爽やかな気持ちで、堅信式を迎えることができた。この堅信式の代父は、洗礼の時にも代父を務めて頂いた岩淵英介さんで、東大から富士通まで、45年間も一緒に過ごした友人である。岩淵さんは、栄光学園高校時代に、両親の反対を押し切って洗礼を受けられたという。その時の校長は、あの有名なグスタス・フォス神父だった。私は岩淵さんの結婚式の司会をさせて頂いたので、主賓であったフォス神父の祝辞を聞かせて頂いたが、こんなに感動した祝辞を今まで一度も聞いたことがない。

フォス神父の祝辞は、次のような話だった。「岩淵さん、ご結婚おめでとう。岩淵さんは、東大を卒業され富士通に入社されて大変活躍されていると伺っています。しかし、私が、皆さんに教えてきたのは、一流大学に入学するためでも、一流会社に就職して、活躍できるようにするためでもありません。私の一番の願いは、貴方方に、立派な父親になって欲しいのです。私が、今日、あるのは、全て父親のお陰です。」と言う趣旨の話だった。フォス神父の結婚式の祝辞に感動した方は、私だけではないようで、フォス神父が、教え子の結婚式で語られた話が、その後、一冊の本として出版された。題名は「日本の父へ」である。

そして、堅信式に居合わせてくれた、もう一人の友人がいた。神奈川県の平塚市で小学校から高校まで12年間も一緒で、NTTデータの社長を務められた山下徹さんである。今年の1月に、ある会合で、山下さんから呼び止められて「伊東くん、所属は鷺沼教会だって。どんな、教会なの? 実は、聖イグナチオ教会で洗礼を受けたのだけど、所属は家の近くの鷺沼教会が良いのではと勧められたのだけど」と聞かれたので「とても良い教会だよ。今度、都筑区のサレジオ学院に隣接した敷地に移転する予定だから、あなた歩いて通えるよ!」と助言したので、山下さんは、鷺沼教会に所属することになった。

堅信式を含むミサが終わった後、地下の大ホールで、梅村司教を囲む懇親会が行われた。その日、普段ならミサが終わった後、すぐに帰る人も、皆、ホールに集まった。私も、一言挨拶しようと思い、二人の友人とホールに行った。しかし、多くの信者さんたちは、司教さまを遠巻きにして、なかなか近寄らない。そうしたら、二人が「司教さんに挨拶に行こう」私を誘う。なんと、二人とも司教さまと昵懇の間柄だったのだ。岩淵さんは、司教さまとは、栄光学園の先輩後輩の間柄で、長年交流があるらしい。そして、山下さんは、NTTデータの立場でバチカン図書館のアーカイビング事業に協力していることから、梅村司教とは既知の間柄であった。

とめどもなく、いろいろ書き綴ったが、この堅信式も含めて、その日を迎えるまでの3日間には、多くの出会いがあった。その出会いの伏線にも、また多くの出会いがあった。こうした出会いを私に与えてくださるのは、やはり神様のお恵みとしか思えない。

345 「えー」という間投詞に思うこと

2016年7月2日 土曜日

落語は、「えー、お笑いを一席」から始まるように、「えー」という間投詞が話の中に頻繁に入ってくる。そして、この「えー」が微妙な間として落語の芸術性を高めているとも言われている。私は、少年時代から、落語が大好きで、中学校の時は学校放送で落語を演じたこともある。だから、この「えー」という間投詞には親しみがあり、自分でも頻繁に使っていたように思う。

以前にも、このコラムで書いたことがあるが、英語の能力が低いまま米国勤務を命じられた私は、着任してから3年間、個人教授からみっちりと企業経営者として恥ずかしくないエグゼクティブ・イングリッシュを学んだ。この個人教授の生徒となった日本人の中で、日本に帰国してから大企業の社長になられた方が何人もいる。この先生は、母国語が英語でない外国の子供達が米国の学校に転入してきた時の英語教育(ESL: English Second Language)の教師を長年務められてリタイアされた老婦人であった。米国生まれの中国系アメリカ人で日本語は全く理解できない方で、英語以外の情報交換は漢字の筆談で行った。

授業は、文法、ヒアリング、ライティング、プレゼンテーションの4科目あり、特にプレゼンテーションについては、課題を与えられて10分間英語でプレゼンテーションを行うという授業である。この授業で最初に、先生から、こっぴどく怒られたのは、文章の内容でも発音でもなく、冒頭に話した「えー」であった。もちろん、この先生は、私より以前に、何人もの日本人を教えているので、日本人が頻発に使う「えー」という間投詞については、よく熟知している。

その時に、先生が私を叱った言葉は「ダメです。貴方が、今、発音した「えー」という音を日本人以外の外国人が、どういう気持ちで聞いているか貴方は知っていますか? ものすごく気分が悪いのです。「えー」は、まともな人間が発する音ではありません。この音は、動物の発声に聞こえるのです。ですから、自分に対して動物のように話しかけてくるので、大変失礼な態度だと思えます。「えー」を発する代わりに、無言の間の方が遥かに良いのです。吃音で間を作っても全く問題ありません。「You Know」は決して品の良い間投詞ではありませんが、「えー」に比べれば、まだ人間の言葉ですからね」と言うことだった。

それ以来、私は、先生の前では、絶対に「えー」を発声しないように心がけた。それは、私にとって苦痛でもなんでもなく、むしろ快感だった。そして、この「えー」という間投詞を使わないと、なんと綺麗に話ができるのだろうかと思えるようになった。この成果は、日本に帰国した今でも大変役に立っている。私の講演では、いつも、聴衆の方から、とても歯切れが良くて聞きやすかったと言ってくださることが多い。多分、これは私が、「えー」という間投詞を殆ど発音しないからだと思われる。

よく考えてみると、プロのアナウンサーや司会者は、間違いなく殆ど「えー」を発声しない。多分、そのように訓練されているからだろう。そして、最近の若い人たちもインタビューを受けている最中に、「えー」を言わなくなってきている。インタビュアーから質問をされると、答える前に「そうですね」という言葉で、うまく時間をつないでいる。一方、年配の方は、挨拶をされる時間のかなりの部分が、「えー」で占められている。私は、この「えー」が気になりだすと、とても落ち着かなくなり、結局、何を言われたのか、さっぱり頭に入らない。

「えー」という間投詞が気になりだしてから、他人の話や挨拶を聞いてみると、「えー」という間投詞が全くない方、あるいは殆ど発声されない方の話や挨拶は、きちんと整理されていることに気がついた。一方、「えー」という間投詞を頻発されている方の話は、殆どの場合、全く整理されていない。つまり、真面目に聞かなくても問題ない話であるとも言える。これでは、「えー」という間投詞を発するのは、単なる話者の癖では済まない話である。

子供は、大人の真似をする。大人は、話をする時には「えー」という間投詞から始めるものだと、子供達が本気で思い込んだら、その子は世界の笑い者になる。もっとも「えー」という間投詞の英訳はないので、話しようがないのだが、私は英語の先生に叱られたのだから、きっと何を言おうかわからなくなって英語が途絶えた時に発声したものと思われる。私にとっての「えー」は、大人のモノマネから、自分の身体に染み付いた習慣になっており、それを拭いさるのに、米国駐在生活3年を費やした。

こんな恥ずかしい経験を、これからの若い人たちにさせてはならない。「話や挨拶の中で、「えー」を使うことを一切止めなさい。特に外国人の場合、相手の方を著しく不快にさせることになります。」と皆が、子供達に、丁寧に教えてあげなくてはならない。