この光り輝やく女性たちの物語シリーズのインタビューの中で、本当に「凄い女性」たちとお話をさせて頂いている。その「凄い女性」から、私より「もっと凄い女性」をご紹介しますと言われて、お会いしたのが、今回、ご紹介する熊野里枝子さんである。確かに、里枝子さんのお話を伺うと、私の身の回りに多数いる、小さい頃から超エリートコースを歩み続けて、東証一部上場企業のTOPや、霞が関中央官庁の事務次官に上り詰めた方々とは一味違う、心ときめく物語があった。
里枝子さんが、ここまで素晴らしい人生を歩まれた源流には、商社マンとして世界中に単身赴任したお父上の存在があった。そのお父上が、たった一度、家族一緒に赴任したのがインドネシアであった。里枝子さんが、3歳から7歳までの間である。当時の日本商社の途上国駐在員は王侯貴族のような暮らしで、里枝子さんの家も、メイド2名、ジャガー2名(守衛)、運転手の合計5名の召使いがいた。
兄二人は日本人学校に通っていたが、里枝子さんだけは公立の幼稚園で現地人と一緒に教育を受けた。そのため、一家の中でインドネシア語を一番に話せるようになったのは里枝子さん。母上、兄達とメイドとの通訳も里枝子さんが勤めたほどであった。「栴檀は双葉より芳し」との言われのとおり、里枝子さんのグローバルな活躍は、この時期を原点としているように思われる。
日本に帰国した里枝子さんは、文字通り、良い子の優等生だった。小学校では児童会の副会長も務める程の人望もあった。しかし、中学校1年の終わりに、隣町に家を建てたことから転校、新しい環境に移行するときから里枝子さんの人生は様変わりする。すなわち、良い子の優等生から決別した全く別な人生へと大転換する。それでも、元来、優秀な里枝子さんは、これまでの惰性で、無事、高校生活を送ることになった。
しかし、兄二人が大学受験で必死になって勉強に明け暮れる苦悩の高校生活を、里枝子さんはそのまま踏襲することはできなかった。それでも、両親は大学受験を薦めるので、どうしたものかと悩んでいた。3歳からピアノを始めていたが中学入学と同時にピアノはやめていた里枝子さんだが、高校2年になった時に、小学生の時のピアノの先生から、「あなた、ピアノの筋が良いから、今からでも一生懸命やれば、どこか大学には受かるわよ」と進言され、予備校での勉強詰の生活はともかく避けられると飛びつき、ピアノだけ一生懸命頑張って、何とか日大芸術学部ピアノ科に合格する。もともと、親の勧めもあり漠然と教師になりたいと思っていたので、教員免許だけはしっかりと取得することも出来た。
そこで、就職活動として埼玉県中学校音楽教師の採用試験を受験するが、受験者が数百人といる中、その年採用されたのはたったの2人。考えてみれば、小さい時から音楽を志している人はゴマンといる。そして、皆が、プロの音楽家になれるわけではないので、殆どの人が教師を目指す。そんな熾烈な戦いに、中途半端な姿勢で挑んだ里枝子さんが勝てるわけがなく、見事に落選した。それで、里枝子さんは吹っ切れた。「私が本当にやりたいことは何なのか?」惰性で生きてきた人生をリセットし真剣に考えてみよう、と人生の転換を決意する。
お父上が商社マンで世界中を雄飛していたこと、自らもインドネシアで暮らしたことも併せて、里枝子さんは、青年海外協力隊に志願する。派遣先は、お父上の意見も入れて中米のスイスと言われたコスタリカの国立交響楽団を志望することにした。教員採用試験と同じように音大卒業者が多く受験する中この狭き門に、何故か、里枝子さんは、しっかりと合格した。ピアニストとしては、自分よりもっと優秀な人が沢山いたと思うが、途上国でめげそうもない力強さと逞しさが里枝子さんにはあったと試験官は認めてくれたのだろう。
コスタリカが中米のスイスと言われる理由は、自らの軍隊を持たず永世中立を宣言しているからである。中米には、キューバやベネズエラなど反米の国がある中で、米軍基地があるホンジュラスとコスタリカは親米国として、米国から手厚い援助があった。両国とも、極めて強かな国策を持っていたため、国民は幸せであった。里枝子さんの役割は、コスタリカ国立交響楽団傘下の付属音楽院に米国基準のカリキュラムを入れて国に大学としての認可を受けさせることにあった。日本でもそうだが、ピアノはバイオリンなど、他の楽器を専攻する生徒にも必修とするピアノ副科としての役割があり、里枝子さんは、そのピアノ科の教授となりピアノ副科の標準カリキュラムを作成し日々実績を作っていった。
それにしても、中米のコスタリカはスペイン語圏である。里枝子さんには、それまでスペイン語の履修経験は全くない。一体、どうしたのだろうか? 実は、JICAが母体となる青年海外協力隊は、まず日本の山の中の合宿所で3か月、そしてその後赴任地の語学学校で2カ月程度スペイン語特訓コースを用意していたのである(当時)。
里枝子さんが言うには、一流のスペイン語教師が、朝から晩まで超過密スケジュールでスペイン語を教える贅沢なカリキュラムで、殆どの人が現地で暮らし仕事が始められる程度にはスペイン語を話せるようになるという。噂では、JICAが支出している隊員一人当たりの教育費用は2,000万円にものぼると言われており、もし、海外の言語を習得したいなら、青年海外協力隊に入るのが一番かもしれないと里枝子さんは言う。
里枝子さんのコスタリカでの生活は、本当に恵まれたものであった。ホームスティ先のホストファミリーはご主人がコスタリカ人で同交響楽団のパトロン的存在でもある実業家、奥様はノルウェー人で、里枝子さんと同じ年齢の子供たちが4人いて、国際的な環境の中何不自由ない生活をおくることができた。休暇は、ホームスティ先の家族や楽団員達と美しい自然あふれる農場に出かけたり、週末となるとサルサやメレンゲパーティを催して楽しんだ。また、赴任一年後に用意される任国外休暇では隣国ホンジュラスにも行って、ダイバーライセンスを取得し、カリブ海の美しい海を思う存分潜って楽しんだ。しかし、里枝子さんは、平日の音楽院での仕事は、そこそこに大変だったものの、自分は首都で、こんな恵まれた生活をするためにコスタリカに来たのではないと思い始める。
幸いなことに、里枝子さんの仕事は、年に2回、3ヶ月ほどの休暇があった。コスタリカ国立交響楽団の現地での定期演奏会がオフの期間、付属音楽院も休みとなり職員は休暇を取る。この休みを利用して、里枝子さんは、周辺の農村へ笛やカスタネットを担いで出かけて行き、子供達に音楽を教える活動を始めることにした。当時のコスタリカは中米としては豊かな方だったが、それでも農村の学校ではまともな音楽教育は行われていなかった。日本のODA援助で主要都市の学校ではピアノを目にすることも度々あったが、誰も弾く人がいないのか、錆びて使い物にならなかった。
現地の人たちは、また新しいピアノが欲しいと要望したし、里枝子さんが1枚のレポートを日本に書けば、もしかしたら新しいピアノを送って来たかもしれないが、里枝子さんは敢えてそれをしなかった。ここは、高温多湿の環境で弦がすぐ錆びてしまいそうだったし、手入れができる人がいない。高価なピアノではなく、手軽な電子オルガンで十分。その上、貰うことになれてしまっているので、自助努力で音楽教育が持続できるような活動も必要であった。コスタリカ在任中の中盤からは、里枝子さんは首都での交響楽団院での仕事の他に、農村地区の音楽普及活動や、有志を集めてのチャリティーコンサートの企画を立てては、その収益金で農村の小学校に楽器を送る活動を続けた。
2年に渡るコスタリカでの支援活動を終えて日本に帰国した里枝子さん、その時感じていたことは人や社会の役に立てていると実感できる仕事は素晴らしいこと、そして現地においての支援活動をするのはもとより、何をするにもEXCELやWORDなどITリテラシーが必要なこと、を強く感じていた。就職にあたって「まずITの基礎技術だけは身につけよう」と就職雑誌をペラペラめくると、なんと「無料IT研修3ヶ月付」という会社が多いこと、給料をもらいながらタダでIT技術が身につけられるなんて、日本は何ていい国なんだ、と感激しすぐにそのうちの1つの会社へ飛びついた。
時は、1998年で2000年問題が大きくクローズアップされ、世界中でIT技術者が逼迫した時期であった。里枝子さんが入社した会社も、その例に洩れず、里枝子さんが期待された仕事はレガシー技術と言われるCOBOLプログラミングだった。それは、決して先端技術ではなかったが、素人の里枝子さんにとっては、これからIT技術者となる良き先鞭となった。しかし、2000年を迎えると2000年問題は収束し、その仕事も終焉を迎えることになる。
ここで、里枝子さんは友人であったヘッドハンターの勧めもあり転職に挑戦する。製薬会社向け医療システムでは世界を二分する著名なアメリカ企業の日本支社に就職するのである。当時のその会社の社員数は、世界では400名ほどいたが、日本では社長と女性の技術者と事務員、そして里枝子さんを含めて4人の小さい会社であったが、ソフトウエアのシェアは主要製薬会社では、日本でも約50%でサポートは大手ITベンダーに委託していた。
里枝子さんの主たる仕事は、まだ日本では取り入れられていないEDC(Electronic data capture:臨床試験のデータを従来の紙で収集するのではなくインターネットで収集するためのソフト)の導入だった。日本での問合せ先はないため入社した日より米国本社の番号をいきなり手渡された。しかし、当時の里枝子さんはスペイン語こそ堪能だが、英語は全くダメ。米国本社からは、スペイン語なまりの日本の里枝子から電話が掛かってきたら何を言っているか分からない、面倒だから出ない方がよい、とお触れが出ていると思うほど厄介な存在だった。
しかし、里枝子さんは、それも自ら打開していく。日本法人の社長に頻繁に米国本社での研修を受ける機会を与えてもらいその度に気の置けない友達を作るようにしていった。気が付けば一本メールを打つと世界中から優秀な技術者が瞬時に必要としている情報を送ってくれたり、電話をくれるような状態になったという。里枝子さんは、そんな世界の仲間からのサポートも受けてEDCの導入に成功、大手ITベンダーに任せていた既存ソフト含めソフトのインストールから、メンテナンス、コンサルタント業務まで、現場できめ細かにサポートを行うようになる。
こうなると、今度は、顧客である製薬会社から、「うちに来ないか?」と声をかけられるようになった。どこに行こうかと考えていたが、当時参画した各社のプロジェクトで感じていた男社会で女性を蔑視する風潮のある日本企業には行かない方が良いと決め、相反して紳士的でユーモア溢れるチームだった、とある外資系大手製薬企業に転社する。この会社には2年間勤めるが、里枝子さんは、もはや製薬企業でのソフトウエアのプロセスを導入するような仕事ではなく、もっと臨床現場に近いモニター職をやってみたいと思うようになる。モニター職とは、製薬会社が開発する新薬の情報を医療機関の先生へ提供し、実際に患者へ投与してもらったデータを収集する仕事である。しかし、この夢を会社の上司に相談するも、モニターは薬学部や医学部を卒業した者以外には認められないという返事であった。
この願いを、まともに聞いてくれた会社が、今、里枝子さんが勤務している世界トップクラスの米国系の製薬会社であった。この会社は、里枝子さんの希望を比較的簡単に叶えてくれた。それでも、想像以上にモニターという仕事は簡単ではなく、医学部や薬学部を出ていない里枝子さんには、病院の先生や教授に対して新しい薬や疾患のことを話すことは極めてハードルが高い仕事であった。難しい論文を理解して説明できるようになるために勉強に必死の日々だったという。
ただ、そうした新しそうな海外の論文を自信はないながらもポイントのみ手短に説明すると忙しい先生や看護師さんから、サイエンスの素人ながら里枝子さんのがんばりが認められ、信頼を得ていくこととなる。里枝子さんは、その後ステップアップとしていくつかの開発チームのロールをこなし7年目には、各領域のサイエンティスト達で構成される新薬開発のプロジェクトの先導役であるプロジェクトマネージャという職に就くことができた。
プロジェクトマネージャ職について5年経ち、今、里枝子さんは、アジア・パシフィック地区の新しい戦略導入をするPMOマネージャーという新たな挑戦を始めたところである。そのため、里枝子さんの同じ部署の同僚は香港におり上司は、ニューヨークにいる。そして、現在里枝子さんが取り組んでいる最大の仕事は、昨年買収したバイオ・ジェネリック系の製薬会社統合の日本のPMO(プロジェクトマナジメントオフィス)の指揮監督する業務である。統合先会社のアジアを含む、全世界の拠点を、買収側企業の一員としてレバレッジできるような統合プログラムの一旦を里枝子さんは担っている。
さて、こんなに凄い女性である里枝子さんの私生活は、一体どうなっているのだろうか? 興味のある話である。里枝子さんは、25歳に帰国してから約5年の間は仕事オンリーの生活、オシャレどころか目の下はくまだらけ、お風呂にも入らず会社に泊まり込むような日々を送っていた。最初の外資系製薬企業に転職した時点で、そろそろ30歳にもなるし、彼氏でも作り結婚しなくてはと真剣に考えるようになった。今までも、何事にも関わらず、中途半端にはしない里枝子さん、今度は全力を挙げてアフターファイブは婚活に走ったという。
それでも、約2年理想の伴侶を見つけることは出来ずもう一生一人かな、と諦めかけ、また仕事にのめり込むようになったある冬、会社の仲間とスキー合宿に行くことになった。そこに里枝子さんは、親友の女性を誘ったのであるが、その親友は、突然都合がつかなくなったと、自分の代わりに友人の男性を参加させるよう依頼してきたのだった。
その男性こそ、以前、親友から婚活で勧められた相手だった。その時は、里枝子さんは、全く魅力を感じなかったというより、誰だったかを思い出せなかったという。その男性は盛り上がる宴席の中あまりに静かにしていたので、殆ど印象がなかったのである。しかし、団体旅行とは言え、里枝子さんは、その男性と2泊3日を過ごす中で、常に穏やかに話しを聞きユーモアある短い反応をみせ、聞き上手な姿を見ているうちに、将来を誓う男性には、こういった空気感を持った人が実は自分にはあっているのだと気づき、遂に結婚を決意した。
小学校3年生と幼稚園年中組の二児を抱えて、今も成長を続ける里枝子さんにとって、この包容力のあるご主人のサポートは非常に大きい。会社では出産すると最大1年半の育児休暇を支給されるが、最初の子供の時には、現在も続けている英語で子育てをするサークルを立ち上げたり、日々右往左往活発に動きまわっていた面もあるが、大変貴重な長期休暇であったのに終わってみると残るものが少なかったと感じていた。
だからこそ、二番目の子供の時には、何か自分自身も成長を感じられることをしたいと、その期間を使って通信制のビジネススクールに通う決意をした。里枝子さんは、育児休暇中に、日本のBBT大学院と提携する、オーストラリアでも名門の私立大学であるボンド大学大学院ビジネススクールでMBAを取得した。終日、レポートに専念している最中、生まれたばかりの子供が泡を吹いているのにも気が付かなかったほど夢中で勉強したという壮絶な母親である。なんという凄い女性であろうか!
さて、これから将来は、何をしたいですか?との私の問いに、里枝子さんは、次のように答えてくれた。自分が、ここまでやってこられたのは、まわりのたくさんのサポートがあったからこそ、その中でも一番の立役者は夫だ。ビジネススクールでもっとも深い学びを得た1つの科目に「ポジティブ心理学(別名ハピネス)」があり自分の夫は、「幸せのセットポイント」が非常に高いことに気が付いた。人は誰でも等しく幸せになるために生きていて、幸せのセットポイントが高い人は、常時幸せであり、まわりに幸せをふりまくのだという。こういう人は一時的に不幸なことがあったとしてもすぐもとの幸せレベルに戻る。
この幸せのセットポイントを決めるのは、50%が遺伝要因。10%が社会的地位や財産など後天的に獲得した要因。そして、残りの40%が自分のとる行動からくるという。そしてその行動とは、感謝、利他、自愛、知足であるという。里枝子さんは、自分も含め世界の人々が持つ、この幸せのセットポイントを上げることこそが世界の平和、すなわち我々子孫に残すべきものではないかと考えるようになった。
特に格差の拡大はこの幸せのセットポイントを著しく下げている原因であり、テロや戦争の根本的な原因はここにあるのではないかと考えている。あるデータによると世界の人口ピラミッドは、世帯年収約200万円以上の人々が頂点の約2%、年収30万円以上の人々が25%。世界の約73%の人々の年収は、実に30万円以下である。
自分たちがいかに恵まれている環境にあるかを自覚しつつ、だからこそ格差是正、富の分配につながるような活動、利他の行動をとり自分の幸福度をあげつつ人類の幸福度に寄与するような活動をしていきたいと里枝子さんは言う。その考えに基づき結果的に製薬会社に長く勤務する自分に、何か出来ることはないのか。例えば日本の家庭に置かれている常備薬のような薬を、現在は薬にアクセスのないような貧困層へ届けるようなビジネスができないかと考えている。病院に行って先生に処方してもらった薬を買うというのは貧困層にはあまりにもハードルが高い。
もしも、数十円で買えるような小分けの薬を近所の雑貨屋さんで売っていたらどうだろうか。先進各国ではインターネット革命により情報格差もなくなりどの業界もしのぎを削るレッドオーシャンであるが、このような世界の中でも成長著しいがまだまだ発展途中にある貧困層をターゲットとしたBOP(Base Of Pyramid)ビジネスは、まだある意味で競争の少ないブルーオーシャンで、特に日用品を扱うような業界やマイクロファイナンス(貧しい人でも起業できるよう少額融資を受けられる仕組み)では注目の的である。
まだまだ製薬ではCSR(企業の社会的貢献)の意味合いが強い領域ではあるが基礎体力の高い大手のグローバル製薬会社が、スモールスタートビジネスとして始めることも可能ではないかと考えている。現在ある日々の責任を果たしつつもこの新たなビジネスモデルの導入のチャンスをうかがいながら、自分とまわりの幸せのセットポイント向上を目指しワクワク働き続けていきたいと里枝子さんは熱く語る。本当に、里枝子さんは、何と強い、光り輝く女性なのだろうか。