2016年4月 のアーカイブ

336  光り輝やく女性たちの物語 (11)

2016年4月18日 月曜日

この光り輝やく女性たちの物語シリーズのインタビューの中で、本当に「凄い女性」たちとお話をさせて頂いている。その「凄い女性」から、私より「もっと凄い女性」をご紹介しますと言われて、お会いしたのが、今回、ご紹介する熊野里枝子さんである。確かに、里枝子さんのお話を伺うと、私の身の回りに多数いる、小さい頃から超エリートコースを歩み続けて、東証一部上場企業のTOPや、霞が関中央官庁の事務次官に上り詰めた方々とは一味違う、心ときめく物語があった。

里枝子さんが、ここまで素晴らしい人生を歩まれた源流には、商社マンとして世界中に単身赴任したお父上の存在があった。そのお父上が、たった一度、家族一緒に赴任したのがインドネシアであった。里枝子さんが、3歳から7歳までの間である。当時の日本商社の途上国駐在員は王侯貴族のような暮らしで、里枝子さんの家も、メイド2名、ジャガー2名(守衛)、運転手の合計5名の召使いがいた。

兄二人は日本人学校に通っていたが、里枝子さんだけは公立の幼稚園で現地人と一緒に教育を受けた。そのため、一家の中でインドネシア語を一番に話せるようになったのは里枝子さん。母上、兄達とメイドとの通訳も里枝子さんが勤めたほどであった。「栴檀は双葉より芳し」との言われのとおり、里枝子さんのグローバルな活躍は、この時期を原点としているように思われる。

日本に帰国した里枝子さんは、文字通り、良い子の優等生だった。小学校では児童会の副会長も務める程の人望もあった。しかし、中学校1年の終わりに、隣町に家を建てたことから転校、新しい環境に移行するときから里枝子さんの人生は様変わりする。すなわち、良い子の優等生から決別した全く別な人生へと大転換する。それでも、元来、優秀な里枝子さんは、これまでの惰性で、無事、高校生活を送ることになった。

しかし、兄二人が大学受験で必死になって勉強に明け暮れる苦悩の高校生活を、里枝子さんはそのまま踏襲することはできなかった。それでも、両親は大学受験を薦めるので、どうしたものかと悩んでいた。3歳からピアノを始めていたが中学入学と同時にピアノはやめていた里枝子さんだが、高校2年になった時に、小学生の時のピアノの先生から、「あなた、ピアノの筋が良いから、今からでも一生懸命やれば、どこか大学には受かるわよ」と進言され、予備校での勉強詰の生活はともかく避けられると飛びつき、ピアノだけ一生懸命頑張って、何とか日大芸術学部ピアノ科に合格する。もともと、親の勧めもあり漠然と教師になりたいと思っていたので、教員免許だけはしっかりと取得することも出来た。

そこで、就職活動として埼玉県中学校音楽教師の採用試験を受験するが、受験者が数百人といる中、その年採用されたのはたったの2人。考えてみれば、小さい時から音楽を志している人はゴマンといる。そして、皆が、プロの音楽家になれるわけではないので、殆どの人が教師を目指す。そんな熾烈な戦いに、中途半端な姿勢で挑んだ里枝子さんが勝てるわけがなく、見事に落選した。それで、里枝子さんは吹っ切れた。「私が本当にやりたいことは何なのか?」惰性で生きてきた人生をリセットし真剣に考えてみよう、と人生の転換を決意する。

お父上が商社マンで世界中を雄飛していたこと、自らもインドネシアで暮らしたことも併せて、里枝子さんは、青年海外協力隊に志願する。派遣先は、お父上の意見も入れて中米のスイスと言われたコスタリカの国立交響楽団を志望することにした。教員採用試験と同じように音大卒業者が多く受験する中この狭き門に、何故か、里枝子さんは、しっかりと合格した。ピアニストとしては、自分よりもっと優秀な人が沢山いたと思うが、途上国でめげそうもない力強さと逞しさが里枝子さんにはあったと試験官は認めてくれたのだろう。

コスタリカが中米のスイスと言われる理由は、自らの軍隊を持たず永世中立を宣言しているからである。中米には、キューバやベネズエラなど反米の国がある中で、米軍基地があるホンジュラスとコスタリカは親米国として、米国から手厚い援助があった。両国とも、極めて強かな国策を持っていたため、国民は幸せであった。里枝子さんの役割は、コスタリカ国立交響楽団傘下の付属音楽院に米国基準のカリキュラムを入れて国に大学としての認可を受けさせることにあった。日本でもそうだが、ピアノはバイオリンなど、他の楽器を専攻する生徒にも必修とするピアノ副科としての役割があり、里枝子さんは、そのピアノ科の教授となりピアノ副科の標準カリキュラムを作成し日々実績を作っていった。

それにしても、中米のコスタリカはスペイン語圏である。里枝子さんには、それまでスペイン語の履修経験は全くない。一体、どうしたのだろうか? 実は、JICAが母体となる青年海外協力隊は、まず日本の山の中の合宿所で3か月、そしてその後赴任地の語学学校で2カ月程度スペイン語特訓コースを用意していたのである(当時)。

里枝子さんが言うには、一流のスペイン語教師が、朝から晩まで超過密スケジュールでスペイン語を教える贅沢なカリキュラムで、殆どの人が現地で暮らし仕事が始められる程度にはスペイン語を話せるようになるという。噂では、JICAが支出している隊員一人当たりの教育費用は2,000万円にものぼると言われており、もし、海外の言語を習得したいなら、青年海外協力隊に入るのが一番かもしれないと里枝子さんは言う。

里枝子さんのコスタリカでの生活は、本当に恵まれたものであった。ホームスティ先のホストファミリーはご主人がコスタリカ人で同交響楽団のパトロン的存在でもある実業家、奥様はノルウェー人で、里枝子さんと同じ年齢の子供たちが4人いて、国際的な環境の中何不自由ない生活をおくることができた。休暇は、ホームスティ先の家族や楽団員達と美しい自然あふれる農場に出かけたり、週末となるとサルサやメレンゲパーティを催して楽しんだ。また、赴任一年後に用意される任国外休暇では隣国ホンジュラスにも行って、ダイバーライセンスを取得し、カリブ海の美しい海を思う存分潜って楽しんだ。しかし、里枝子さんは、平日の音楽院での仕事は、そこそこに大変だったものの、自分は首都で、こんな恵まれた生活をするためにコスタリカに来たのではないと思い始める。

幸いなことに、里枝子さんの仕事は、年に2回、3ヶ月ほどの休暇があった。コスタリカ国立交響楽団の現地での定期演奏会がオフの期間、付属音楽院も休みとなり職員は休暇を取る。この休みを利用して、里枝子さんは、周辺の農村へ笛やカスタネットを担いで出かけて行き、子供達に音楽を教える活動を始めることにした。当時のコスタリカは中米としては豊かな方だったが、それでも農村の学校ではまともな音楽教育は行われていなかった。日本のODA援助で主要都市の学校ではピアノを目にすることも度々あったが、誰も弾く人がいないのか、錆びて使い物にならなかった。

現地の人たちは、また新しいピアノが欲しいと要望したし、里枝子さんが1枚のレポートを日本に書けば、もしかしたら新しいピアノを送って来たかもしれないが、里枝子さんは敢えてそれをしなかった。ここは、高温多湿の環境で弦がすぐ錆びてしまいそうだったし、手入れができる人がいない。高価なピアノではなく、手軽な電子オルガンで十分。その上、貰うことになれてしまっているので、自助努力で音楽教育が持続できるような活動も必要であった。コスタリカ在任中の中盤からは、里枝子さんは首都での交響楽団院での仕事の他に、農村地区の音楽普及活動や、有志を集めてのチャリティーコンサートの企画を立てては、その収益金で農村の小学校に楽器を送る活動を続けた。

2年に渡るコスタリカでの支援活動を終えて日本に帰国した里枝子さん、その時感じていたことは人や社会の役に立てていると実感できる仕事は素晴らしいこと、そして現地においての支援活動をするのはもとより、何をするにもEXCELやWORDなどITリテラシーが必要なこと、を強く感じていた。就職にあたって「まずITの基礎技術だけは身につけよう」と就職雑誌をペラペラめくると、なんと「無料IT研修3ヶ月付」という会社が多いこと、給料をもらいながらタダでIT技術が身につけられるなんて、日本は何ていい国なんだ、と感激しすぐにそのうちの1つの会社へ飛びついた。

時は、1998年で2000年問題が大きくクローズアップされ、世界中でIT技術者が逼迫した時期であった。里枝子さんが入社した会社も、その例に洩れず、里枝子さんが期待された仕事はレガシー技術と言われるCOBOLプログラミングだった。それは、決して先端技術ではなかったが、素人の里枝子さんにとっては、これからIT技術者となる良き先鞭となった。しかし、2000年を迎えると2000年問題は収束し、その仕事も終焉を迎えることになる。

ここで、里枝子さんは友人であったヘッドハンターの勧めもあり転職に挑戦する。製薬会社向け医療システムでは世界を二分する著名なアメリカ企業の日本支社に就職するのである。当時のその会社の社員数は、世界では400名ほどいたが、日本では社長と女性の技術者と事務員、そして里枝子さんを含めて4人の小さい会社であったが、ソフトウエアのシェアは主要製薬会社では、日本でも約50%でサポートは大手ITベンダーに委託していた。

里枝子さんの主たる仕事は、まだ日本では取り入れられていないEDC(Electronic data capture:臨床試験のデータを従来の紙で収集するのではなくインターネットで収集するためのソフト)の導入だった。日本での問合せ先はないため入社した日より米国本社の番号をいきなり手渡された。しかし、当時の里枝子さんはスペイン語こそ堪能だが、英語は全くダメ。米国本社からは、スペイン語なまりの日本の里枝子から電話が掛かってきたら何を言っているか分からない、面倒だから出ない方がよい、とお触れが出ていると思うほど厄介な存在だった。

しかし、里枝子さんは、それも自ら打開していく。日本法人の社長に頻繁に米国本社での研修を受ける機会を与えてもらいその度に気の置けない友達を作るようにしていった。気が付けば一本メールを打つと世界中から優秀な技術者が瞬時に必要としている情報を送ってくれたり、電話をくれるような状態になったという。里枝子さんは、そんな世界の仲間からのサポートも受けてEDCの導入に成功、大手ITベンダーに任せていた既存ソフト含めソフトのインストールから、メンテナンス、コンサルタント業務まで、現場できめ細かにサポートを行うようになる。

こうなると、今度は、顧客である製薬会社から、「うちに来ないか?」と声をかけられるようになった。どこに行こうかと考えていたが、当時参画した各社のプロジェクトで感じていた男社会で女性を蔑視する風潮のある日本企業には行かない方が良いと決め、相反して紳士的でユーモア溢れるチームだった、とある外資系大手製薬企業に転社する。この会社には2年間勤めるが、里枝子さんは、もはや製薬企業でのソフトウエアのプロセスを導入するような仕事ではなく、もっと臨床現場に近いモニター職をやってみたいと思うようになる。モニター職とは、製薬会社が開発する新薬の情報を医療機関の先生へ提供し、実際に患者へ投与してもらったデータを収集する仕事である。しかし、この夢を会社の上司に相談するも、モニターは薬学部や医学部を卒業した者以外には認められないという返事であった。

この願いを、まともに聞いてくれた会社が、今、里枝子さんが勤務している世界トップクラスの米国系の製薬会社であった。この会社は、里枝子さんの希望を比較的簡単に叶えてくれた。それでも、想像以上にモニターという仕事は簡単ではなく、医学部や薬学部を出ていない里枝子さんには、病院の先生や教授に対して新しい薬や疾患のことを話すことは極めてハードルが高い仕事であった。難しい論文を理解して説明できるようになるために勉強に必死の日々だったという。

ただ、そうした新しそうな海外の論文を自信はないながらもポイントのみ手短に説明すると忙しい先生や看護師さんから、サイエンスの素人ながら里枝子さんのがんばりが認められ、信頼を得ていくこととなる。里枝子さんは、その後ステップアップとしていくつかの開発チームのロールをこなし7年目には、各領域のサイエンティスト達で構成される新薬開発のプロジェクトの先導役であるプロジェクトマネージャという職に就くことができた。

プロジェクトマネージャ職について5年経ち、今、里枝子さんは、アジア・パシフィック地区の新しい戦略導入をするPMOマネージャーという新たな挑戦を始めたところである。そのため、里枝子さんの同じ部署の同僚は香港におり上司は、ニューヨークにいる。そして、現在里枝子さんが取り組んでいる最大の仕事は、昨年買収したバイオ・ジェネリック系の製薬会社統合の日本のPMO(プロジェクトマナジメントオフィス)の指揮監督する業務である。統合先会社のアジアを含む、全世界の拠点を、買収側企業の一員としてレバレッジできるような統合プログラムの一旦を里枝子さんは担っている。

さて、こんなに凄い女性である里枝子さんの私生活は、一体どうなっているのだろうか? 興味のある話である。里枝子さんは、25歳に帰国してから約5年の間は仕事オンリーの生活、オシャレどころか目の下はくまだらけ、お風呂にも入らず会社に泊まり込むような日々を送っていた。最初の外資系製薬企業に転職した時点で、そろそろ30歳にもなるし、彼氏でも作り結婚しなくてはと真剣に考えるようになった。今までも、何事にも関わらず、中途半端にはしない里枝子さん、今度は全力を挙げてアフターファイブは婚活に走ったという。

それでも、約2年理想の伴侶を見つけることは出来ずもう一生一人かな、と諦めかけ、また仕事にのめり込むようになったある冬、会社の仲間とスキー合宿に行くことになった。そこに里枝子さんは、親友の女性を誘ったのであるが、その親友は、突然都合がつかなくなったと、自分の代わりに友人の男性を参加させるよう依頼してきたのだった。

その男性こそ、以前、親友から婚活で勧められた相手だった。その時は、里枝子さんは、全く魅力を感じなかったというより、誰だったかを思い出せなかったという。その男性は盛り上がる宴席の中あまりに静かにしていたので、殆ど印象がなかったのである。しかし、団体旅行とは言え、里枝子さんは、その男性と2泊3日を過ごす中で、常に穏やかに話しを聞きユーモアある短い反応をみせ、聞き上手な姿を見ているうちに、将来を誓う男性には、こういった空気感を持った人が実は自分にはあっているのだと気づき、遂に結婚を決意した。

小学校3年生と幼稚園年中組の二児を抱えて、今も成長を続ける里枝子さんにとって、この包容力のあるご主人のサポートは非常に大きい。会社では出産すると最大1年半の育児休暇を支給されるが、最初の子供の時には、現在も続けている英語で子育てをするサークルを立ち上げたり、日々右往左往活発に動きまわっていた面もあるが、大変貴重な長期休暇であったのに終わってみると残るものが少なかったと感じていた。

だからこそ、二番目の子供の時には、何か自分自身も成長を感じられることをしたいと、その期間を使って通信制のビジネススクールに通う決意をした。里枝子さんは、育児休暇中に、日本のBBT大学院と提携する、オーストラリアでも名門の私立大学であるボンド大学大学院ビジネススクールでMBAを取得した。終日、レポートに専念している最中、生まれたばかりの子供が泡を吹いているのにも気が付かなかったほど夢中で勉強したという壮絶な母親である。なんという凄い女性であろうか!

さて、これから将来は、何をしたいですか?との私の問いに、里枝子さんは、次のように答えてくれた。自分が、ここまでやってこられたのは、まわりのたくさんのサポートがあったからこそ、その中でも一番の立役者は夫だ。ビジネススクールでもっとも深い学びを得た1つの科目に「ポジティブ心理学(別名ハピネス)」があり自分の夫は、「幸せのセットポイント」が非常に高いことに気が付いた。人は誰でも等しく幸せになるために生きていて、幸せのセットポイントが高い人は、常時幸せであり、まわりに幸せをふりまくのだという。こういう人は一時的に不幸なことがあったとしてもすぐもとの幸せレベルに戻る。

この幸せのセットポイントを決めるのは、50%が遺伝要因。10%が社会的地位や財産など後天的に獲得した要因。そして、残りの40%が自分のとる行動からくるという。そしてその行動とは、感謝、利他、自愛、知足であるという。里枝子さんは、自分も含め世界の人々が持つ、この幸せのセットポイントを上げることこそが世界の平和、すなわち我々子孫に残すべきものではないかと考えるようになった。

特に格差の拡大はこの幸せのセットポイントを著しく下げている原因であり、テロや戦争の根本的な原因はここにあるのではないかと考えている。あるデータによると世界の人口ピラミッドは、世帯年収約200万円以上の人々が頂点の約2%、年収30万円以上の人々が25%。世界の約73%の人々の年収は、実に30万円以下である。

自分たちがいかに恵まれている環境にあるかを自覚しつつ、だからこそ格差是正、富の分配につながるような活動、利他の行動をとり自分の幸福度をあげつつ人類の幸福度に寄与するような活動をしていきたいと里枝子さんは言う。その考えに基づき結果的に製薬会社に長く勤務する自分に、何か出来ることはないのか。例えば日本の家庭に置かれている常備薬のような薬を、現在は薬にアクセスのないような貧困層へ届けるようなビジネスができないかと考えている。病院に行って先生に処方してもらった薬を買うというのは貧困層にはあまりにもハードルが高い。

もしも、数十円で買えるような小分けの薬を近所の雑貨屋さんで売っていたらどうだろうか。先進各国ではインターネット革命により情報格差もなくなりどの業界もしのぎを削るレッドオーシャンであるが、このような世界の中でも成長著しいがまだまだ発展途中にある貧困層をターゲットとしたBOP(Base Of Pyramid)ビジネスは、まだある意味で競争の少ないブルーオーシャンで、特に日用品を扱うような業界やマイクロファイナンス(貧しい人でも起業できるよう少額融資を受けられる仕組み)では注目の的である。

まだまだ製薬ではCSR(企業の社会的貢献)の意味合いが強い領域ではあるが基礎体力の高い大手のグローバル製薬会社が、スモールスタートビジネスとして始めることも可能ではないかと考えている。現在ある日々の責任を果たしつつもこの新たなビジネスモデルの導入のチャンスをうかがいながら、自分とまわりの幸せのセットポイント向上を目指しワクワク働き続けていきたいと里枝子さんは熱く語る。本当に、里枝子さんは、何と強い、光り輝く女性なのだろうか。

335 光り輝く女性たちの物語 (10)

2016年4月13日 水曜日

東日本大震災が起きてから半年後の、2011年9月、私は石巻市立開北小学校隣の仮設住宅の脇に建設されたプレハブ造りの在宅医療施設「祐ホームクリニック」を訪問させて頂いた。この施設は、史上最年少の32歳で天皇陛下の侍医となられ、その後、東京都文京区に在宅医療施設を設立された武藤真祐医師が設立されたものである。生憎、武藤先生は往診に出ておられて不在だったが、代わりに応対されたのが、これから紹介する園田 愛さんである。

愛さんは、武藤先生が設立された医療法人「鉄祐会」の事務局長として、その経営を一手に掌握されている主であった。しかし、初めてお会いした愛さんは、女優で言えば永作博美さんを細身にして長身に引き伸ばした、優しくて可憐な女性であった。この方が、あのエネルギッシュな武藤先生の銃後を守っている女傑なのだとは、俄かに信じ難かったが、その後、現在に至るまで、武藤先生の輝かしい活動範囲の拡大にも、十分耐える医療法人としての組織をしっかりと取りまとめておられる、愛さんの経営能力は実に立派なものである。

この愛さんの、可憐で、おしとやかな外観と、多くの苦難をも乗り越えてきた堅実な経営実績とに、私は大きなギャップを感じていたので、この度、思い切ってインタビューをお願いし、快く引き受けて頂いた。まず、最初に愛さんから伺ったお話は、「私は、博多生まれです。博多で有名な山笠を支えているのは『山のぼせ』と言われる山笠に命をかけた男衆と、それを陰から支える『御寮人さん』と呼ばれる女衆です。私の役割は、ちょうど『御寮人さん』ですね」。この言葉こそが、まさに、愛さんの、今の生き様を物語る全てである。

愛さんは、博多生まれの博多育ちで、お父上や兄上と同じ、第二次大戦後、米国プロテスタントが設立した西南学院大学を卒業されている。ちなみに、お父上は長崎出身で既に洗礼を受けられたクリスチャンである。『愛』という名も、お父上が聖書から取られた名前だという。私もキリスト教徒の端くれであるが、キリスト教における『愛』は、教義の根幹であり、非常に幅広く、そして深い意味がある。

愛さんは、大学を卒業すると地元福岡に本社がある大手医療サポート企業であり、東証一部上場企業である総合メディカルにコンサルタントとして入社する。ここで10年近く勤めた後、同社の東京への本格進出に伴い、女性として始めての東京転勤を受け、上京することになった。東京に出てきた愛さんは、コンサルタントとしてではなく、自分も当事者として医療の課題解決に取り組みたいと、ビジネススクールに通い始める。そして卒業後スクールからの縁あって、当時医療ビジネスに本格参入を果たしたリクルート社に転社する。ご存知の方も多いと思うが、リクルート社は非常にユニークな企業で、入社から4年以内に起業か、キャリアアップのための転職を全社員に勧めている。

リクルート社の事業開発室、医療チームに配属された愛さんも、その例にならって4年ほどで退社することになる。しかし、このリクルート社で学んだことは沢山あった。リクルート社の仲間は、一人ひとりが腕に覚えがあり自分の力を信じていること、そして「チームで勝つ」との文化のもと、「自分たちが社会を変えていく」と心底信じ熱中するカルチャーがあった。リクルート社の社員なら全員が口ずさむ「自ら機会を創りだし機会によって自らを変えよ」は、まさにチャレンジ精神溢れるリクルートのカルチャーを示すものであり。リクルート社で得た教訓は、その後の人生に大いに役立ったという。このリクルート社を辞めるきっかけこそが、まさに武藤先生との出会いであった。

愛さんと武藤先生との出会いは、2006年であった。天皇陛下の侍医を退任した後の自らの進むべき方向性を検討しておられた武藤先生は、ある時参加した勉強会で愛さんと名刺交換をする。医療コンサルタントの出身と自らを紹介した愛さんに、武藤先生は、「貴女がやっているコンサルタントって、どんな仕事なの?」と聞かれたそうである。その時の意見交換が、その後の人生に大きな影響を与え合うとは思いもよらなかったであろう。そしてその後、武藤先生は海外留学をしてMBAの資格を取ろうとも考えておられたそうだが、世界的なコンサルティング・ファームであるマッキンゼー社で働くことを決断されたのだという。

その武藤先生が勤務するマッキンゼー社が、当時のヘルスケア・イシューを取りまとめたものを、愛さんが手にする機会があった。取りまとめを行ったチーム・リーダーのインタビューにはこう書いてあった。「本質的な日本の医療の医療課題をまとめた。しかしその多くは従来からすでに指摘をされていることである。批判し、評論するだけでは何も変わらない。誰かが、リーダーシップをとって自ら実践してみない限り何も変わらない。日本の医療の最大の課題はリーダー不在であることだ」。愛さんはそれを見て、当事者として大いに衝撃を受けたという。

早速武藤先生に連絡をとり「我々のリーダーシップの欠如と指摘されている。しかし、ヘルスケアの業界には医療機関にも民間企業にも多くの志ある人達がいる。小さな歩みでもいいのでそういった人たちと切磋琢磨をしてリーダーシップを磨いて行く場があるといいのではないか」。武藤先生は「私もまさにそう思っていた。やろう」といい、あっという間に仲間を集め、NPO法人を立ち上げられた。これがヘルスケアリーダーシップ研究会(通称IHL。理事長武藤真祐)である。各界の著名なリーダーがボランティアで力を貸す魅力的なプログラムが用意されたこの研究会には、すでに300人以上が参加をし、今尚発展を続けている。

このIHLが、愛さんの大きな転機となった。IHLがバイブルとする書籍「リーダーシップの旅~見えないものを見る」(著者:野田智義)には、リーダーシップの歩みをこう記している。
 Lead the self
 Lead the people
 Lead the society
まずは、自らが何を成したいのか、自らの内なる声が全ての源泉であること、そしてそれに確信を持ったら恐れずに自ら一歩踏み出すこと、そして人たちに伝え共感の輪が広がり仲間とともに歩く後ろに、社会の変革がもたらされる、という思想である。IHLで愛さんは毎月仲間と志をぶつけあい「あなたは何をするのか」と自らに問い続けた。そしてついにリクルート社を辞め、起業を思い立つ。

当時、不祥事等により社会的信頼が損なわれ疲弊感があった医療現場の人たちがもっと活性化し、人たちを救うという尊い医療という仕事に誇りとやりがいを持って臨めるような医療現場であるよう、医療機関をサポートしたいというプランであった。愛さんは、早速、武藤先生にこのことを相談する。話を聴き終えた武藤先生は「いいね。私もこれからの日本の超高齢社会の課題解決となりうる在宅医療に取り組もうと思っている。その時には私が最初のクライアントになるよ」と言われたという。そして、その想いを愛さんに語られた。聞き終えた愛さんは「ぜひ私も手伝わせてほしい」と申し出、会社に辞表を出した。そして、その日から愛さんは武藤先生が理想とする在宅医療の実践の場の創出に動き始める。そしてリクルート社を退職して2ヶ月後の2010年1月、東京都文京区に武藤先生を院長に、愛さんを事務局長とした「祐ホームクリニック」が開業した。

開業後の武藤先生の献身的な働きは瞬く間に地域に支持され、診療所は順調な滑り出しを果たした。しかし運命が変わったのが、およそ1年後の2011年3月11日、あの東日本大震災が起きたことだった。その中で、仙台に次いで、宮城県第二の都市であった石巻市は立派な市民病院が津波で壊滅し、沿岸部の開業医も診療所が流され医療は壊滅状態であった。東京での開業から一年余りであったが、「この地は超高齢社会の縮図だ。我々も行動する」とし、武藤先生は石巻にも在宅医療を提供することを決断された。

とはいえ、武藤先生は東京にも患者がいる。石巻には、医師がいない、スタッフがいない、診療しようにも土地や建物がない、地縁や信頼もない、そして(避難所が閉鎖され在宅医療が必要となる時まで)時間がない、とないない尽くしであったが、数々の軌跡のような人々のサポートがあり、震災から6ヶ月後の2011年9月に「祐ホームクリニック石巻」がオープンした。愛さんは「医療は地域に根付くものであり、誰かがそこにいなくてはならない」とためらわずに居住を決意、浸水後かろうじて残った家屋を借りて移り住んだ。そしてこの時点から、2014年3月までの2年7ケ月間の長期に渡って、この石巻祐ホームクリニックの経営を現地で陣頭指揮したのが、愛さんであった。

祐ホームクリニックの開業が決まると、まず相談を受けたのが避難所閉鎖後、仮設住宅に移った後の医療的サポートが必要な高齢者、そして、たった一つ残った基幹病院である石巻赤十字病院を退院されるターミナルの患者であった。既存の医療施設が壊滅的な被害を受けた上に、地震や津波で夥しい負傷者がでたことで地域の病床は全く足りず、石巻日赤病院には廊下にまでベッドが溢れている状況であった。従来なら、もう少し入院をしてもらった患者も退院を余儀なくされる。こうした患者の自宅療養をサポートする受け皿になったのが祐ホームクリニックだったのだ。

こうした患者を次々と受け入れながら、武藤先生は、東京のクリニックもある中、週の半分は石巻で診療を行った。毎週欠かさずどんなに忙しくても石巻に通い続けた。残りの日々の診療を守るのは、日本全国だけでなく世界中から日本人医師であった。こうした方々のご協力を得て、3年間の間、医師不在の状態を1日も作らなかったことは「患者さんとの約束を果たせたことであり、本当に誇らしく思えた」と愛さんはいう。しかし、こうした善意の医師の方々の中には、最先端の医療現場に携わる優秀な方々でありながら、在宅医療は始めての体験という医師も多かった。

そして実は石巻では従来から在宅医療が盛んな地ではなかったこともありスタッフも全員が在宅医療は始めてであった。自らも被災しながら、慣れない在宅医療診療所で多くの患者を受け入れていくという激務は、身体的にも精神的にもスタッフたちも応えたのだろう、最初に入職したスタッフは程なく辞めていった。「この時は本当に苦しかった。患者さんが何より優先であり、スタッフも被災者として苦しんでいたことへのケアができなかった。もしも、私が災害医療の勉強をしていたら、支援者のプロテクト、支援者の支援もやれただろう。負荷をかけてしまった」と愛さんは振り返る。しかし患者さんは待ってくれない。穴を埋めるように、自らも往診車を運転しながら、昼夜を問わず、慣れない臨床現場に出ることもしばしばであった。

祐ホームクリニック石巻が開業した1ヶ月後、在宅医療を核とした被災住民の支援活動を立ち上げた。団体名を「石巻医療圏 健康・生活復興協議会」とし、代表を武藤先生、副代表を愛さん、そして二人を陰日向で支えた富士通株式会社の生川慎二氏が努めた。「医療を始めたばかりで支援活動もやるのか」と思われるかもしれない。しかし医療や介護といった健康支援は、その背景にある生活が何とかなっていてこそ提供できる。生活自体が崩壊している中、その回復が急務であったのだ。

そして、何より「見過ごせない実態があった」と愛さんは言う。被災地では被災者は避難所におり、その後仮設住宅に移ったとされており、物資や情報、ボランティアの多くはそこに届けられた。しかし実は、地域には津波の甚大な被害を受けながらもなお、自宅で過ごす方が数万人規模でいることが感じ取れた。これは行政や報道ではわからない、地域を歩いてわかったことである。愛さんたちは強力なボランティアとともに、ゼンリン地図のコピーを片手に、1軒1軒自宅を訪ねていった。

そして戸別訪問の中で、持病や服薬のなど体の状況、睡眠や食事の状況、家族や生活のこと、そして心の状態を丹念に聞いていった。そして持ち帰った情報は医療の専門家がチェックし、問題がある場合には、医療や福祉、住宅などの生活支援の支援チームに支援を要請していった。このような活動は最初5人くらいで1軒1軒と始めたが、最終的には2年間かけて1万世帯を訪問し3000人をサポートする活動となった。関わった人も延20,000人ほどに登るという。

こうした多くのボランティアの方々には、旅費、宿泊費、食費までも自前で賄って頂いたが、それでも拠点の土地代、家賃、暖房費、ガソリン代など経費は想定外にかかり、月末には銀行の口座残高が10万円を切ることもあった。愛さんは、一人通帳を見ながら心中穏やかでなかったが「できるだけニコニコとしているようにしました。一番大変なのは外を歩き毎日住民の方々の苦難を聞き続けるスタッフですから」と笑う。

被災地で働くということは、被災者の方々と同じ暮らしをするということでもある。愛さんが、何とか奇跡的に借りられた木造アパートも、敷地には半年以上も流された船が放置されていた。当然、家も浸水しているのでカビが生える。木造アパートの壁に、フワーッと浮いてくる白い粉の正体がカビだということを「カビの研究」に地域を訪れた研究者に教わった。それ以降、家に帰ると、室内のあちこちを、毎日、毎日、丁寧に拭いたのだが、一度水に浸かった木材は、なかなか乾燥してくれない。そのうちに、洋服がかび、靴がかび、食事をしようとしたら、箸やコースターまでカビていた。そこで初めて、咳が止まらないのは、カビのせいかと気がついた。

一方、仕事の方は、昼も夜もない在宅医療と被災者支援団体の現地責任者として、文字通り、24時間365日、常に緊張している中で、愛さんは、上手に気を抜いたり、リラックスすることすら出来なくなっていった。このままでは、自分が壊れていくと思った愛さんは、ヘルスケアリーダーシップ研究会でお世話になっていたBBT(ビジネスブレークスルー)大学院学科長の門永宗之助先生から「勉強してみないか?」と薦められてBBTで学ぶことにした。2014年3月には無事に卒業、大前研一学長からMBA証書を頂くことになった。このBBT大学院のオンラインコミュニティこそが、愛さんにとって「精神を立て直す大事な時間」であった。

これで勉強することの素晴らしさを知った愛さんは、石巻から東京に戻ると、東京医科歯科大学大学院に進学する。1年間の夜間通学にて医療経営管理学修士を取得し、MBAでは学べなかった非営利経営について学ぶことができた。その意味では、石巻の現場でも多くのことを学ぶことができたという。その一つに「ソーシャルワーカー」という仕事に関することであった。愛さん自身も、東京の医療現場にいるときには、ソーシャルワーカーとは、病院の退院窓口か行政にいる人との認識しかなかった。実際に、そういう働き方が多いのも事実である。

しかし、愛さんが被災地で見た「ソーシャルワーカー」の存在は全く違っていた。愛さんは、ソーシャルワーカーを「人が自分で暮らしていけるようサポートする人達」と解釈している。対象は老若男女で、領域は「医療や福祉」と一言片付けられない、身体の問題、精神の問題、高齢者の問題、お金の問題、家族間(引きこもり、DV、グリーフケア、薬物を含む)の問題と、ありとあらゆることを解決の対象としていて、医療機関、行政機関、学校や町内会長、個人のお宅までノックして入っていく姿を見て、愛さんは本当に感動したと熱っぽく語る。こうした石巻で見たソーシャルワーカーの活躍を、いろいろな場で語る愛さんは、3年連続でソーシャルワーカー全国大会に招待され講演を頼まれている。

今、石巻の祐ホームクリニックは石巻赤十字病院の近くに立派な建物を構えて、石巻赤十字病院の緩和ケア部長であった日下潔医師を院長に迎え、順調な運営ができるようになった。振り返ってみるとここまで来るのは本当に大変だったと愛さんは言う。最初は、こんな大変な所に来るのは、パフォーマンス、売名行為ではないかと疑心暗鬼の目で見られることもしばしばで、本当に辛かったと言う。2年くらい経ってからか、どうやら本気でこの地の医療を担う意思があるらしいと信用してくれるようになった。被災地支援、それも医療というのは、中途半端なことでは済まない。だからこそ、こうして得られた信頼関係を、今後とも失わないようすることが大事だと愛さんは言う。

こうした苦難の道を乗り越えてきた愛さんは、今、次のステップを歩みつつある。つまり、医療とITの融合を事業として行おうというのだ。医療法人「鉄祐会」の事務局長である愛さんは、新事業に取り組む会社の社長を兼務、同社の特別顧問には武藤先生が名を連ねる。「『超高齢社会の新しい社会システムの創造』は、当初からの武藤さんと共有しているビジョン。医療法人と事業会社の二人三脚で価値創造したい」という。

「石巻での活動はある意味「官を補完する民の役割」を示した」と愛さんはいう。石巻での支援活動はともすれば「それは行政の役割でしょう」と言われたが、膨大な課題に対峙するにはあまりに不足していた官の機能を民間が補完する形で新しい官民連携の形を作ったのである。それと同様に、医療ももっと、民間のサービスと連携をすることで、今よりももっともっと人々の健康をサポートするという機能発揮がなされるとよいと考えている。

医療は診察室や病院の中だけで提供されるのではなく、人々がもっと上手く自分たちの生活の中で健康に向かう自分自身の力を引き出す、もしくは知らず知らずに引き出されるような寄り添い方をするのが、これからの超高齢社会を限られた社会資源で乗り越えていく一つの道ではないかと考えているのだ。医療分野でのこのような取り組みは、兎角補助金事業でなされがちだが「何かを始めたら続ける責任が発生する。医療や被災地支援活動で安易に辞めることの罪を、身を持って叩きこまれた」愛さんは、「自主的に運用できる事業でなければ継続はない」と言い切る。

武藤先生は、現場での実体験を踏まえて、日本の医療を変えるためのリーダーシップを、いろいろな場で発揮されている。その守備範囲は、もはや日本を超えてシンガポールまでに及んでいる。シンガポールは、日本に続いて急速に少子高齢化が進行しており、特に高齢者向けの医療システムの大幅な変革を考えている。武藤先生は、シンガポールにあるINSEADでEMBAを取得された縁もあってシンガポール政府の肝いりで、現地に在宅医療のクリニックと訪問看護ステーションを設立された。

こうしてみると、武藤先生は、まさに山笠の「山のぼせ」であり、自らの信じる道をひたすら歩み続けておられる。そして、愛さんは、その「山のぼせ」を支える「御寮人さん」として、社会の変化に合わせて医療を進化させることに取りくんでいる、光り輝く女性の一人である。