2015年3月 のアーカイブ

301   Financial Timesにおけるデジタル革命

2015年3月26日 木曜日

今日は、英国を代表する経済紙であるFinancial Timesの編集長、ライオネル・ハーバー氏の講演を聴いた。そのピンク色の新聞紙は、どんなに遠くからみてもFinancial Timesとわかる。ハーバー氏は、1978年にオックスフォード大学を卒業後、新聞記者となって3年目の1981年に英国で最優秀ヤング・ジャーナリスト賞を受賞し、2001年にFinancial Timesの欧州版編集長に就いてから「欧州で最も影響力のある50人」に選ばれている。

私は、海外駐在を経験して以来、米国の経済紙WSJとビジネス週刊誌であるBusinessWeekと英国の経済紙Financial Timesには、いつも目を通してきた。日本の新聞だけ読んでいたのでは、世界で何が起きているか、よくわからないからである。特に、Financial Times紙は、主筆であるマーチン・ウルフさんとはスイスのダボス会議で何度もお会いし、ウルフさんと一緒にダボス会議のパネルにも登壇したことがあるので大ファンになっている。

皆さんもお気づきと思うが、大きな会議でのパネル討論では、事前に司会とパネリストとの間で何度かやりとりをしている。つまり、司会は当日にパネリストが言いたいことを聞いておいて、パネリストも司会からの質問をあらかじめ聞いているので、進行がスムースに行える。私も、主張したい内容をウルフさんに送ったら、ウルフさんから、こういう質問をするとの複数の候補を送ってきて頂いた。この質問に応えるべく、英語で分かりやすく遅滞なく話せるよう何度も復唱して暗記し、準備万端で当日に望んだのだった。

ところが、あの世界的に高名なウルフ主筆は、そんな茶番を許さなかった。私以外の、他のパネリストの方々の主張も聞いて、私との事前打合せには、全くなかった質問を私に浴びせて来たのである。流石に私も少し狼狽えたが、ウルフさんが司会ということもあって、会場は満席であり、しかも最前席には、国際会議で討論をさせたら、その実力は日本随一との名声高い竹中平蔵先生が座っておられるではないか。ここで怯んでは行けないと、冷や汗をびっしょりかきながら、精一杯の英語で返答をした。パネル終了後に、竹中先生から「伊東さん、Good Job!」と言って頂いたのは本当に嬉しかった。

さて、今日のバーバー編集長の演題は「The Financial Times in a Digital World」であった。バーバー編集長の今回の訪日は10日間にも及び、その来日目的は、日銀の黒田総裁が始められた、異次元 量的・質的金融緩和(QQE)の2周年のお祝いに来たとのことだった。一昨日、安倍総理に単独インタビューをされるまで、日本経済界の多くの重鎮の方々へインタビューをされてきた。前回の日本訪問は、あの東日本大震災の10日後のことで、日本人が、こうした重大な危機の際にも狼狽えることなく着実にことを処理して行くことに大きな感銘を覚えたそうである。

さて、これからバーバー編集長の講演から、私が感銘を受けたところだけを、少しご紹介したい。

今、メディアはデジタル革命第二の波の洗礼を受けている。今や、メディアは読者の行動がわかるようになった。誰が、いつ、どれだけ、その記事を読んだかがわかるのだ。この第二の波は、今から15年前、ITバブルが起きた1999年に始まった第一の波とは全く違う。あの時は、誤解と偏見があった。バブルは常にクレージーであり、もうプリントメディアは死んだと、もう昔の新聞記者は役に立たないと誰もが言っていた。

Financial Timesの歴史を振り返ると、1999年は、FT.comを設立して4年目だった。当時、FT.comを担当している人たちは、皆、長髪と眼鏡で、紙の新聞を作っている連中とは全く異質のメンバー達だった。私は、この時、この連中を紙の新聞の仲間に取り込むことが重要だと思った。当時のNY TimesやWSJは、この両者を分けていたがFinancial Timesは統合されたNews Roomに、両者を集めて継ぎ目のない仕事をさせた。これからのジャーナリストにはプリントスキルとデジタルスキルの両方を持って欲しかった。組合とも話し合って記者と編集者を統合した。2005年に128名居た編集部は、今や半分の人数で仕事をこなしている。

昔の新聞社は工場のようだった。私は、仕事のプロセスの量を減らしたかった。人々はフレキシブルに脳を使って働いて欲しい。スマートフォンを誰でも持っている世の中でカメラマンは要らない。記者は訓練すれば、写真だけでなく動画だって撮れる。今や、記者が送って来た記事をチェックしたり、編集したりする必要はない。記者は、自分の記事を誰が、読んでいて、どういう言い回しなら、信頼してもらえるかが分かるようになった。

9年前の2006年に私は新しい決定を下した。デジタルコンテンツを有料にしたのだ。Financial Timesはニッチな新聞であり、マクロ経済という分野で価値ある記事を配信しているのだから、たとえデジタルであろうと購読ビジネスをやるべきだと思った。そして、紙の新聞が高いと思っている人には安い料金のデジタルを推奨する方針にした。その結果、2006年には新聞購読44万部、デジタル購読75,000人だったものが、2015年には、新聞購読は21万部に減少したが、デジタル購読は515,000人にまで増えた。トータル購読数は増加したのだ。しかも増加の勢いは、今でも全く止まらない。

さらに、2010年に登場したiPadは人々が、ものを読む習慣を変える大革命を引き起こした。つまり、従来の紙の新聞はソファーに背をもたれて読むのに対して、デジタルは前のめりになって読む媒体となった。Appleは、早速、Financial Timesに対して、iTune Storeに入らないかと言ってきた。条件は、売り上げの30%をAppleに渡すことと、Financial Timesの顧客データーをAppleに利用させるということだった。冗談じゃない。我々は即座にAppleの提案を断った。

そして、今日、また顧客モデルが変わりつつある。それは、スマートフォンの出現だ。特にFacebookやTwitterなどのSNS経由の読者が凄い勢いで増えた。我々は、この領域にデータアナリティクスを導入した。一般的に、ジャーナリストは上からの命令を嫌う。しかし、こうしたデータアナリティクスは、彼らの取材や記事作成に大きな影響を与える。特に、我々は記事を投稿するタイミングをTVに合わせるようにした。例えば、日本向けの記事は日本人が起きているタイミングに合わせて投稿する。そこで、初めて、TVと新聞のメディアが相互作用を働かせることになるからだ。

我々、ジャーナリズムは立ち止まることは許されない。現状維持で持続していくことは不可能なのだ。ジャーナリストは、常に新しいスキルを求められている。例えば、Facebookは新たなNewsのトラフィックを形成している。Facebookからは、Financial TimesがFacebookに参加しないと、アルゴリズムを変えてFinancial Timesのトラフィックを減らすと脅された。仕方ない、新しいチャネルは利用すべきだと判断した。それでも、私は、紙という主流メディアとの縁は断つべきではないと思っている。形は変わっても、信頼が重要なことは変わらない。Financial Timesは、2年前に125周年を迎えた。つまり今年で設立して127年目になる。

一昨日、安倍首相とのインタビューで、安倍さんが私に何を言ったかは、ここでは語れないが、私が安倍首相に質問した内容をご紹介しよう。「アベノミックスは前代未聞の経済大実験をしていますね。極めてリスキーではあると思いますが、きっと日本経済の活性化には貢献出来ることでしょう。しかし、同時に国民に大きな苦痛を与える抜本的な構造改革を成し遂げるというのが、その成功に対して大きな鍵となると私は思います。総理には、その覚悟がおありですか?」。

さて、これだけの本質的な質問を、今の日本のメディアが安倍首相に対して正面から言えるだろうか? そして、バーバー編集長は、この講演会で、さらに凄いコメントをしたのだった。「この10日間、私は、日本の多数の大企業の経営TOPにインタビューをしました。驚いたことに、彼らの第一の関心事はアベノミックスではなかったことです。彼らは、事業の成功の鍵は、少子高齢化が進んだ日本市場には、もはや存在しないと考えています。それよりも、いかにグローバル市場で成功するかで頭が一杯なのです。地方創成とか、日本での雇用創出という、日本国内の課題に対して、彼らは、大きな関心がありませんでした。」

300 あれから4年 石巻・女川(その2)

2015年3月16日 月曜日

震災前を超える勢いで元気に稼働する、日本製紙石巻工場の勇姿を見届けてから、石巻市の隣町、女川町へ向かった。震災から3ヶ月経った2011年6月に、石巻市にある三陸河北新報社を訪れた時、「全国から、この石巻へ大震災の被害状況を視察に来られた記者さんを、必ず連れて行くのが隣町の女川町立病院です。こんな所まで津波の被害に会うのですか?と皆様、驚かれます。」と教えて頂いてから、私の女川町への訪問が始まった。

女川町は、海岸以外の全ての周囲境界を町村合併で拡大した石巻市に囲まれている。女川町が石巻市と合併しなかった理由は、もちろん原発立地自治体として豊かな財政に恵まれているからに他ならない。今回の大震災にも耐えて、女川原発は何の支障もなく運転停止出来たということで、女川町では、原発再稼働賛成の住民が多数派であると聞いている。東北電力との信頼関係も揺らいでいないのは、やはり原発の運営主体が、地元の電力会社であることにも関係しているのかも知れない。

石巻市から女川町への境界を越えると、多数の建設機械が忙しく嵩上げ工事とおぼしき作業を行っている。この女川町は、原発のおかげで、三陸地方の中では財政が一番豊かであり、震災復興における最優秀の優等生と言われているが、それでも、見た目には、何が完成したというわけでもなく、今、まさに工事の真っただ中という感じである。つまり、詳細な復興計画が決められず、未だ着手さえもできていない市町村が沢山あるということだろう。

急な坂道を登り詰めると、高台にある女川町立病院前の駐車場に出た。100台ほどの車が入る駐車場は、ほぼ満杯であった。あの大震災による津波が、標高20メートル近くある、海岸からは見上げるような、この高台の病院の1階を水没させたとは、改めて見ても全く信じがたい。当然、病院玄関前にある、この駐車場に停められていた車は全て津波の引き潮によってフェンスを乗り越えて崖を転がり落ちて海まで流されたのだ。

修復された駐車場境界のフェンスから崖の真下にある海岸沿いの街を見下ろすと、確かにこの女川町立病院が建っている場所は、目もくらむような高さである。こんな高さでも大津波に対しては、決して安全な場所とは言えないのだと、ただただ茫然とする。この日は、崖の中腹にある踊り場で、数人の若い方々が、お花を供えて海に向かって合掌をされていた。そして、その下の街を見ると、あの有名な鉄筋コンクリート3階建ての横転ビルは、既に解体され撤去されていた。合計6棟の横転ビルがあった海岸通りの街は、奇麗に片付けられ、今、まさに嵩上げ工事の真っ最中であった。そう、まさに土地改良工事の真っ最中で、街が元通りになって人が住めるようになったわけでは全くない。

病院と駐車場の間に建てられた薬局を含む仮設商店街は今でも健在であった。病院から少し離れた場所にある、仮設商店街、「きぼうのかね商店街」にも訪れてみたが、ここも、3年前と同様に、今でも健在である。この仮設商店街が健在ということは、多くの商店が、未だに、仮設のままでの商売を強いられているということでもある。

女川を後にして、今回の主目的である、石巻市主催の東日本大震災合同追悼式に出席するため、石巻市営河北総合センターに向かった。石巻市の中心市街地からは、ずいぶん遠い所だと思ったら、河北総合センターは、市町村合併で併合する前の河北町中心地区の大型イベント施設だった。一昨年は仙台市の追悼式、昨年は大船渡市の追悼式に出席し、今年は、石巻市の追悼式への参列が出来ることになった。石巻市は、私の母方の祖母の生まれ故郷であり、私の身体には、きっと石巻の血が流れている。

追悼式の行事の中で私が注目していたのは、遺族代表の佐藤さんの式辞だった。先週、NHKの震災特集で佐藤さんが出演されるのを偶然見ることになった。佐藤さんは、私と同じ67歳。今は、仮設住宅で一人暮らし。毎日、妻と孫二人の遺影を抱いて寝ている、佐藤さんは、一時、何もする気がしない中で、鬱々と暮らしていた。それではいけないと、今は、浜で海産物の加工を手伝っている。その佐藤さんが、今年は、遺族代表で式辞を読むことになった。妻と孫二人のお墓の前で、佐藤さんは何度も式辞の原稿を読むのだが、途中で涙に咽び、読めなくなって中断せざるを得なかった。

しかし、本番では、一度も嗚咽で中断することなく、佐藤さんは一気に読み上げた。この式辞で初めて聞いたことだが、あの日、佐藤さんは90歳になるお父上と80歳後半の母上と家に居た。地震が余りに大きな揺れだったので、近くの海岸に確かめに行ったら、水位が少しずつ下がっている。すぐさま、自宅に戻り、身体が不自由な父親を背負い、母親の手を引いて高台に避難する。思うように、目的地まで進めない中、津波は足下から水かさを上げて行く。それでも、何とか高台の避難所に両親共々辿り着くことができた。そして佐藤さんは、その高台から、ご自宅が海へ流されていくのを見た。

津波が引いた後、ご両親は東京に住む弟さんに引き取ってもらい、佐藤さんは家族の探索に歩き回った。まず、佐藤さんが、最初に見つけたのは、お孫さん、二人の遺体だった。二人とも、家の瓦礫の中で見つかったが、何も傷ついていない本当に奇麗な姿だった。二人の遺体を、一緒に荼毘に付す時、佐藤さんは例えようもない空しさに襲われたという。それから、1週間後、遺体安置所で奥様が見つかった。佐藤さんが、嗚咽もせず、一気に読み進む中、私を含む聴衆は、皆、涙が止まらなかった。街の復興も思うように進まない中、被災された人々の心も、未だ、癒される状況ではない。

石巻市主催の合同追悼式を終えると、辺りは、夕闇に包まれていた。仙台に戻る前に、私は、何としても、震災後に石巻で知り合った大事な友人達を訪れなくてはならなかった。石巻市水明北にある開北小学校に隣接する仮設住宅の中に2棟のプレハブ事務所がある。一つは、かつて天皇陛下の侍医も務められた武藤真祐先生が在宅医療の拠点として開設された「祐ホームクリニック石巻」で、もう一つは石巻市民病院に隣接する大きな薬局を経営されていた丹野佳朗先生が、武藤先生と二人三脚で石巻での在宅医療をサポートする「石巻医薬品センター薬局」である。

この日は、大変ラッキーなことに、武藤先生、丹野先生のお二人とも、それぞれの事務所におられて、久しぶりに、貴重なお話ができた。武藤先生は、現在、次世代の高齢者医療のあり方というテーマで厚労省での委員会に頻繁に出席されているほか、最近はシンガポールの大学でも、この高齢者医療のテーマで教鞭をとられている。一方、丹野先生は、大災害時における薬局の役割について、薬局の事業継続というテーマで全国を講演行脚されている。そうした多忙な生活を送られている、お二人の先生と同時にお会いできるということは稀有の機会であったが、これも4年目の3月11日に石巻に来たからこそだと、この出会いに心から感謝した。

299   あれから4年 石巻・女川 (その1)

2015年3月14日 土曜日

2015年3月11日の早朝、私は、仙台ワシントンホテルの正面から、あらかじめチャーターしていたハイヤーに乗り込んだ。仙台に泊まる時は、いつも駅前のメトロポリタンホテルか、ウエスティンホテルを定宿としていたが、今回は、両ホテルとも、週末から国連主催の世界防災会議が仙台で開催されることもあって、半年前から予約がフリーズされていた。仙台ワシントンホテルは、完成したばかりの新設のビジネスホテルで設備は新しく、とても奇麗な客室であった。

それと、私は、ワシントンホテルに対しては、尋常ならぬ恩があった。4年前の2011年3月11日午後2時46分、青森で講演をしている最中に、それは起きた。その時、私は、最初、酷い目眩がして、もう講演は出来ないと思った。しかし、直に、それは目眩ではなくて、地震だと気がついた。ちょうど良く、マイクを手に持っていたので、「皆さん、講演は、これで終わりです。すぐさま、ホテルの外へ避難して下さい。」と言いながら、聴衆の皆さんと雪が降りしきる外へ出た。

その晩は、関係者揃って、浅虫温泉で宴会を開き、疲れを癒す予定が、とんでもないことになった。当然、浅虫温泉のホテルから、今夜は宿を提供出来ませんと申し渡された。地元、青森の方々も全市が停電となり、他所から来ている旅行者の面倒を見るどころではない。そんな混乱の中で、私を寒さから救って下さったのが、青森ワシントンホテルだった。「全館停電で、何のサービスも出来ませんが、それでよければ、どうぞ、お泊まり下さい」と言って下さったのだ。

石巻に着いて、最初に訪れたのは、石巻市街が見渡せる、日和山公園である。大震災から3ヶ月後の2011年6月に、私は、初めて、この日和山公園を訪れている。その時、日和山公園から見渡した石巻市街は、まるで、絨毯爆撃を受けたかのような惨状だった。北上川の向こう岸には、大きな貨物船が陸上に打ち上げられている。眼下の石巻市立病院も地盤沈下で堀の中に浮かぶ水中城となっていた。すぐさま、一体、下の街はどうなっているのだろうかと急な石段を下っていった。途中の社で、この山の麓に住む老人と出会う。

この老人は、この社の下を,何十台もの車が、海へ流されて行くのを目の前で見たのだと言う。運転席の人々からは、恨めしそうな視線を投げかけられたが、自分は、どうすることも出来なかったと。それでも、泳いでいる人たちを5人ほど助けることができたのだが、それ以上はどうにもならなかった。と口惜しさが顔に滲み出ていた。そんな老人の話を聞きながら、さらに下へ降りて行くと、そこは徹底的に破壊しつくされた家々の残骸だった。

今年の3月11日、日和山公園から見える景色は、4年前とは大きく異なっていた。瓦礫は、全て片付けられ、広大な更地となっていた。そして、水中城となっていた石巻市立病院は既に解体されて、盛り土を積まれ海浜公園となっていた。それでも、その広大な更地には、まだ何も新しい建造物は建っていない。

今回、いちばんショックだったのは、下に降りた後、また、同じ急な階段を登って日和山公園の頂上に戻る時だった。4年前は、何の躊躇もなくスイスイと登れたのに、今回は、ゼーゼー言いながら、途中で息が切れて小休止を取らざるを得なかった。この4年間で、これほどまでも年を取ったのかと深刻に思った。その意味で、高齢者が、この日和山公園へ避難するのは体力的に半端なことではないと実感することができた。

日和山公園を後にして、次に向かったのは北上川中州にある石ノ森萬画館である。この建物は、非常にユニークな形をした、まさに夢見る館である。地元宮城県出身の石ノ森章太郎の漫画作品を展示してある館であるが、川の中州にあるためこのたびの大津波では、その1階が壊滅状態になった。今は、もう全て復旧し、震災前と同じように営業している。しかし、私が、震災直後に、石ノ森萬画館以上に気になったのは同じ中州に建つ小さな教会だった。

今回の大津波で、周囲の壁は無惨にも壊されてしまったが流失だけは免れた、この可愛らしい小さな教会こそ、日本最古の木造建築の教会である旧石巻ハリストス正教会である。既に教会としての役割を終えた、この古い教会は石巻市が建物を買い取って中州に移転したものである。今、一般から寄付を募って再建中であると聞いているが、早く再建されることを望んでいる。

次に向かったのは、火災で焼けただれた門脇小学校である。門脇小学校の裏手は小高い丘になっている。津波から逃れる人たちは車に乗って、皆、この門脇小学校の校庭を目指して走って来た。その車のうちの一台から発火し、津波によって校舎に押し寄せられた多くの車に一斉に火が回った。門脇小学校は、その大量の車火災の延焼で見るも無惨に焼け焦げた。しかし、今回は、その痛ましい姿を晒すことのないよう、白いビニール布で校舎全体が覆われていた。聞けば、この焼け焦げた、門脇小学校を保存するか解体するかで、まだ議論が分かれているという。

その門脇小学校から数百メートル離れた海岸沿いの道路脇に、「がんばろう石巻」と大きく横書きされた献花台がある。この日も、多くの方々が訪れて、花を供えて合掌している。この献花台の左脇に見上げるような高さ約7メトールのポールが立っていて、一番上には「津波はこの高さまで到達した」と書いてある。大津波の恐ろしさをしっかり視覚的に記憶にとどめてもらおうという意図であろう。しかし、一方で、こんな高さで襲って来られて、逃げ後れたら、もうどうにもならないという気もする。

次に向かったのは、日本製紙石巻工場だ。大震災の3ヶ月後、この日本製紙の工場を見た時には、「これは二度と復旧出来ない」と思ったのは私だけではないだろう。工場の全ての建家の一階は、津波で完全に破壊されていた。そして、海岸沿いの埋め立て地にある日本製紙の工場敷地のあちこちで地盤沈下し、深刻な水溜りが出来上がっていた。復旧を目指す工場作業者の方々も、ひたすら海水に浸った巨大なロール紙を一つ一つ転がしながら埠頭に集めているだけだった。

こんな辛い作業を毎日していても、工場が復旧できなければ、どんなに空しいだろうと私には思われた。もし、日本製紙が石巻から撤退すれば、4,000人近い雇用が失われ、日本製紙の城下町である石巻市の再興は、ほぼ絶望的になったであろう。しかし、日本製紙は石巻から撤退しなかった。日本製紙の経営陣は、すぐさま、津波で大きな被害を受けた同じ敷地での復旧計画をまとめ、ほぼ1年後に完全復旧することができた。どうして、こんなことが出来たのだろう。そして、なぜ、日本製紙の経営陣は迷いなく、このような大英断を下したのだろう。

その謎は、後に、佐々涼子さんが著した「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 」に詳しく書かれている。実は、日本製紙の石巻工場には、大震災直前に設置された、世界最大級で、しかも最新鋭の書籍向け紙すき機があった。全長280メートルの巨大な紙すき機の陣容は戦艦大和とほぼ同じ大きさで、この設備への投資額は800億円、東京スカイツリーの建設費540億円より遥かに巨額であった。その上、沿岸にある、この工場からは、想定外の大津波の襲来を受けても、一人の犠牲者も出すことはなかった。それが、同じ敷地で元通り復旧させるという決断をされた大きな理由である。

日本製紙石巻工場の社員達は、経営TOPの素早い決断によって大きな力を得て、懸命の復旧作業に立ち上がった。巨大な紙すき機に装着された数千個ものモーターを、一個一個取り外し、湯煎をして海水を取り除いていった。これは、もの凄いドラマである。この日本製紙の石巻工場が、万が一ストップしたら、日本の出版社は、たちまち本を出せなくなったからである。日本の本を守るためにも、日本製紙石巻工場は、どうしても素早く立ち上がる必要があった。

その日本製紙石巻工場を訪れ、4本の巨大な煙突が白い煙を勢い良く吐いている姿を見るとき、何とも頼もしく思えた。未曾有の大震災の復興に必要なことは、議論ではなく決断である。考えてみれば1,000年に一度の大災害。工場設備は、1,000年間には、一体、何十回更新することだろう。人命がきちんと守られるのであれば、設備更新費用など、実は、大したことはないはずだ。