今年は、戦後70周年。いろいろな行事が準備されている中で、私たちは、本当に、戦争の悲惨さを、どこまで身近に知っていたのかと、昨日送られて来た、平塚西海岸の郷土史「浜岳」を読んで、改めて思い知らされた。この郷土史が扱っている神奈川県平塚市の西海岸は、私が2才から24才まで23年間暮らした所である。私たち3兄弟は、いずれもこの故郷平塚を離れ、この地に、今は、90才になる母親が一人で暮らしている。
私は、日本が無条件降伏してから2年後の1947年生まれなので、まさに「戦争を知らない子供達」である。それでも、平塚大空襲で破壊尽くされた、我が家の裏手にある旧平塚工業高校(現平塚工科高校)は、私たち兄弟の格好の遊び場であった。無惨にも鉄骨が裸で飛び出した巨大なコンクリートの塊が、敷地一杯に、いろいろな方向を向いて転がっており、私たちにとっては、毎日遊んでも飽きない巨大なジャングル・ジムであった。今、この平塚工科高校は立派に再建され、全日本ソーラーカーレースで、社会人や大学生のチームを退けて、3年連続日本一に輝いたことを示す横断幕が誇らしげに張られている。
あと、もう少しで日本が全面降伏するという1945年7月16日に、この平塚大空襲は行われた。その理由は幾つか言われているが、平塚には明治初期に英国アームストロング社から技術導入を受けて設立された海軍の一大火薬工場があった。恐らく、米軍は、マッカーサー将軍が厚木飛行場に降り立つ前に、平塚に貯蔵された、莫大な量の火薬を全て処分してしまいたかったのだろう。将軍が降り立つ厚木飛行場を警備する戦車や装甲車を運ぶ上陸用舟艇が相模湾から接岸するには、平塚の海岸は一番近い地点でもあった。
郷土史「浜岳」に「海は燃えていた」の題で寄稿された井上園子さんは、平塚大空襲の時、平塚から藤沢にある湘南白百合学園に通う13才の生徒だった。7月に入ると、東京へ向かうB29の飛来で、たびたび空襲警報が発令されることがあり、彼女は平塚の実家に帰らず、学校の近くの鵠沼海岸に東京から疎開されていた従兄の井上光貞邸に泊まることもしばしばだったという。後に歴史学者で、東大教授、初代国立民族学博物館長になられた井上光貞さんは、井上三郎侯爵の長男で、父方の祖父が桂太郎、母方の祖父が井上馨という名門の生まれであり、井上園子さんも、平塚では、相当に立派な家にお住まいだったことだと想像出来る。
平塚大空襲の日に、井上園子さんは、ご両親、弟さんと4人で平塚のご自宅に居た。お屋敷も相当に広いと見えて、庭には大きな防空壕が二つもあったという。夜中に空襲警報が鳴り、お母様に布団から起こされた園子さんは、病気の弟さんを背負ったお父様と一緒に庭に出て防空壕に入ろうとした。しかし、その矢先に、あたりは真昼のような明るさになり、灯火管制の闇夜が不気味な青い光で覆われた。同時に、海の方から「ゴー」という頭を覆い被せるような物凄い爆音と、空一面を覆う無数の爆撃機群が海から北に向かって飛行して来た。
間もなく、「ザー」という音とともに頭上から得体の知れないものがバラバラと降って来た。あの悪名高い焼夷弾である。すぐさま、ご自宅の屋根一面が炎に包まれたので、お父様は防空壕へ入るのではなく一家の避難を決意された。お父様は、防火用水に浸した毛布を園子さんに被せて火の海の中、弟さんを背負い、園子さんの手を引いて逃げ出した。外に出ると、お隣の木谷邸(後に、多くの囲碁名人を輩出した木谷道場)は、既に炎に包まれていた。
夥しい数の焼夷弾が降る中を、井上一家4人は、お父上の指示で、ひたすら海に向かって走っていた。逃げる途中、顔見知りの女性が肩に焼夷弾を受け「グアッ」と声をあげて倒れて動かなくなった。園子さんは、その凄まじさに海岸にたどり着くまで恐怖感の中で爆風を避けながら防空頭巾をしっかり手で押さえながら、ひたすら下を向いて歩くだけだった。
大勢の人たちが海へ向かう途中の松林に逃げ込んだのは、爆撃機と一緒に飛来した戦闘機の機銃掃射から身を隠せると思ったからかも知れない。それを見た、お父上は、園子さんに断固として「海へ行け」と叫び続けた。残念なことに、松林に逃げ込んだ大勢の方たちは、焼夷弾によって松と一緒に焼かれて多くの方々が犠牲になった。ようやくのこと、園子さん一家が海岸に辿り着いた時、海辺には殆ど人が居なかった。東海道線の北側に住んでいた人たちは、駅で列車が燃えていたので、線路を渡ることが、なかなか出来なかったからだという。
海岸に辿り着いた時の光景は、園子さんは、今でも忘れられないと言う。なぜか海は異様に静かだった。いつもは、昼顔の薄桃色の花が、まき散らしたように咲いていた浜辺が、座布団くらいの大きさの火の塊で覆われ、その火の塊が、どこまでも水平線の彼方まで漂っていた。一家は、しばし呆然と立ち尽くし、真っ赤に燃える海を見続けていた。お父上は、すぐさま我に返り、一家を先導して海辺の防砂林の中を大磯へ避難しようと歩き出した。それでも、頭上には大きな爆撃機の胴体がはっきり見えた。
花水川の河口に辿り着き、大磯への橋を渡ろうとしたが不可能だった。既に橋の下に避難している人が沢山居て、橋を渡れずにうずくまっていた。昼間のような明るさで、爆撃機や戦闘機が頭上を旋回している中では、橋を渡ればすぐにでも機銃掃射で殺されるのは明らかだった。園子さん一家も、橋の下に隠れるしか方策はなかった。
そのうちに、空も明るくなり、空襲も収まったので花水川の土手沿いを北に向かって歩き出した。その時である。橋と国道1号線の中間地点くらいだろうか。先頭を歩いていた、お母様の足下に突然40センチくらいの鉄の塊が空から降って来て突き刺さった。それは、何と線路の一部だった。お母様が、もう一歩先へ歩いていたら命はなかっただろうという。一体、どうして、どこから、この線路の一部が降ってきたのだろうか。
それでも、園子さん一家が、何とか家に戻ると玄関先に不発弾が落ち、三畳敷きくらいの穴が空いていた。その周りには、燃えなかった焼夷弾がばらけた状態であたり一面に落ちていた。園子さんが、やっとの思いで家に帰って、一番嬉しかったことは、飼っていた愛犬のテリヤが、園子さん一家の面々を見つけて、防空壕から飛び出して来て、狂ったように家族一同を出迎えてくれたことだった。
敗戦後(園子さんは終戦後とは書いていない)、9月になって、やっと復帰出来た学校では、軍国主義からの180度の転換。昨日まで、校門の入り口にあり、生徒全員が最敬礼していた乃木将軍のレリーフが、あっと言う間に「ルルドのマリア」に据え変えられていた。まだ15才にも満たない園子さんに、批判精神が芽生えていて、「先生方の見事な処世術」に不思議な感動すら覚えたという。
以上の文章は、昨日自宅に送られて来た、浜岳郷土史会発行の「浜岳」第三号から引用させて頂いた。この井上園子さんの「平塚大空襲」は、2001年に刊行された聖路加国際病院元院長、日野原重明先生が戦争体験を綴った記録集の中にも収められていて、日野原先生ご自身も、この園子さんの体験談を講演でご披露されているという名文である。平塚大空襲は、日野原先生の心を大きく苛む、それほどにも悲惨な出来事であった。