2015年2月 のアーカイブ

297    平塚大空襲

2015年2月20日 金曜日

今年は、戦後70周年。いろいろな行事が準備されている中で、私たちは、本当に、戦争の悲惨さを、どこまで身近に知っていたのかと、昨日送られて来た、平塚西海岸の郷土史「浜岳」を読んで、改めて思い知らされた。この郷土史が扱っている神奈川県平塚市の西海岸は、私が2才から24才まで23年間暮らした所である。私たち3兄弟は、いずれもこの故郷平塚を離れ、この地に、今は、90才になる母親が一人で暮らしている。

私は、日本が無条件降伏してから2年後の1947年生まれなので、まさに「戦争を知らない子供達」である。それでも、平塚大空襲で破壊尽くされた、我が家の裏手にある旧平塚工業高校(現平塚工科高校)は、私たち兄弟の格好の遊び場であった。無惨にも鉄骨が裸で飛び出した巨大なコンクリートの塊が、敷地一杯に、いろいろな方向を向いて転がっており、私たちにとっては、毎日遊んでも飽きない巨大なジャングル・ジムであった。今、この平塚工科高校は立派に再建され、全日本ソーラーカーレースで、社会人や大学生のチームを退けて、3年連続日本一に輝いたことを示す横断幕が誇らしげに張られている。

あと、もう少しで日本が全面降伏するという1945年7月16日に、この平塚大空襲は行われた。その理由は幾つか言われているが、平塚には明治初期に英国アームストロング社から技術導入を受けて設立された海軍の一大火薬工場があった。恐らく、米軍は、マッカーサー将軍が厚木飛行場に降り立つ前に、平塚に貯蔵された、莫大な量の火薬を全て処分してしまいたかったのだろう。将軍が降り立つ厚木飛行場を警備する戦車や装甲車を運ぶ上陸用舟艇が相模湾から接岸するには、平塚の海岸は一番近い地点でもあった。

郷土史「浜岳」に「海は燃えていた」の題で寄稿された井上園子さんは、平塚大空襲の時、平塚から藤沢にある湘南白百合学園に通う13才の生徒だった。7月に入ると、東京へ向かうB29の飛来で、たびたび空襲警報が発令されることがあり、彼女は平塚の実家に帰らず、学校の近くの鵠沼海岸に東京から疎開されていた従兄の井上光貞邸に泊まることもしばしばだったという。後に歴史学者で、東大教授、初代国立民族学博物館長になられた井上光貞さんは、井上三郎侯爵の長男で、父方の祖父が桂太郎、母方の祖父が井上馨という名門の生まれであり、井上園子さんも、平塚では、相当に立派な家にお住まいだったことだと想像出来る。

平塚大空襲の日に、井上園子さんは、ご両親、弟さんと4人で平塚のご自宅に居た。お屋敷も相当に広いと見えて、庭には大きな防空壕が二つもあったという。夜中に空襲警報が鳴り、お母様に布団から起こされた園子さんは、病気の弟さんを背負ったお父様と一緒に庭に出て防空壕に入ろうとした。しかし、その矢先に、あたりは真昼のような明るさになり、灯火管制の闇夜が不気味な青い光で覆われた。同時に、海の方から「ゴー」という頭を覆い被せるような物凄い爆音と、空一面を覆う無数の爆撃機群が海から北に向かって飛行して来た。

間もなく、「ザー」という音とともに頭上から得体の知れないものがバラバラと降って来た。あの悪名高い焼夷弾である。すぐさま、ご自宅の屋根一面が炎に包まれたので、お父様は防空壕へ入るのではなく一家の避難を決意された。お父様は、防火用水に浸した毛布を園子さんに被せて火の海の中、弟さんを背負い、園子さんの手を引いて逃げ出した。外に出ると、お隣の木谷邸(後に、多くの囲碁名人を輩出した木谷道場)は、既に炎に包まれていた。

夥しい数の焼夷弾が降る中を、井上一家4人は、お父上の指示で、ひたすら海に向かって走っていた。逃げる途中、顔見知りの女性が肩に焼夷弾を受け「グアッ」と声をあげて倒れて動かなくなった。園子さんは、その凄まじさに海岸にたどり着くまで恐怖感の中で爆風を避けながら防空頭巾をしっかり手で押さえながら、ひたすら下を向いて歩くだけだった。

大勢の人たちが海へ向かう途中の松林に逃げ込んだのは、爆撃機と一緒に飛来した戦闘機の機銃掃射から身を隠せると思ったからかも知れない。それを見た、お父上は、園子さんに断固として「海へ行け」と叫び続けた。残念なことに、松林に逃げ込んだ大勢の方たちは、焼夷弾によって松と一緒に焼かれて多くの方々が犠牲になった。ようやくのこと、園子さん一家が海岸に辿り着いた時、海辺には殆ど人が居なかった。東海道線の北側に住んでいた人たちは、駅で列車が燃えていたので、線路を渡ることが、なかなか出来なかったからだという。

海岸に辿り着いた時の光景は、園子さんは、今でも忘れられないと言う。なぜか海は異様に静かだった。いつもは、昼顔の薄桃色の花が、まき散らしたように咲いていた浜辺が、座布団くらいの大きさの火の塊で覆われ、その火の塊が、どこまでも水平線の彼方まで漂っていた。一家は、しばし呆然と立ち尽くし、真っ赤に燃える海を見続けていた。お父上は、すぐさま我に返り、一家を先導して海辺の防砂林の中を大磯へ避難しようと歩き出した。それでも、頭上には大きな爆撃機の胴体がはっきり見えた。

花水川の河口に辿り着き、大磯への橋を渡ろうとしたが不可能だった。既に橋の下に避難している人が沢山居て、橋を渡れずにうずくまっていた。昼間のような明るさで、爆撃機や戦闘機が頭上を旋回している中では、橋を渡ればすぐにでも機銃掃射で殺されるのは明らかだった。園子さん一家も、橋の下に隠れるしか方策はなかった。

そのうちに、空も明るくなり、空襲も収まったので花水川の土手沿いを北に向かって歩き出した。その時である。橋と国道1号線の中間地点くらいだろうか。先頭を歩いていた、お母様の足下に突然40センチくらいの鉄の塊が空から降って来て突き刺さった。それは、何と線路の一部だった。お母様が、もう一歩先へ歩いていたら命はなかっただろうという。一体、どうして、どこから、この線路の一部が降ってきたのだろうか。

それでも、園子さん一家が、何とか家に戻ると玄関先に不発弾が落ち、三畳敷きくらいの穴が空いていた。その周りには、燃えなかった焼夷弾がばらけた状態であたり一面に落ちていた。園子さんが、やっとの思いで家に帰って、一番嬉しかったことは、飼っていた愛犬のテリヤが、園子さん一家の面々を見つけて、防空壕から飛び出して来て、狂ったように家族一同を出迎えてくれたことだった。

敗戦後(園子さんは終戦後とは書いていない)、9月になって、やっと復帰出来た学校では、軍国主義からの180度の転換。昨日まで、校門の入り口にあり、生徒全員が最敬礼していた乃木将軍のレリーフが、あっと言う間に「ルルドのマリア」に据え変えられていた。まだ15才にも満たない園子さんに、批判精神が芽生えていて、「先生方の見事な処世術」に不思議な感動すら覚えたという。

以上の文章は、昨日自宅に送られて来た、浜岳郷土史会発行の「浜岳」第三号から引用させて頂いた。この井上園子さんの「平塚大空襲」は、2001年に刊行された聖路加国際病院元院長、日野原重明先生が戦争体験を綴った記録集の中にも収められていて、日野原先生ご自身も、この園子さんの体験談を講演でご披露されているという名文である。平塚大空襲は、日野原先生の心を大きく苛む、それほどにも悲惨な出来事であった。

296 「話し合い」と「正当化」の違い

2015年2月17日 火曜日

今週月曜日、経団連会館で行われた、インターナショナル・クライシス・グループ(以下ICGと略)のCEOである、ジャンマリー・ゲーノ氏による講演を聴いた。演題は「2015年のグローバル地政学—分断した世界で平和をめざす」である。ゲーノ氏は、フランス外務省で防衛・安全保障の専門家として長く勤務した後、国連では事務総長補佐としてPKO活動の拡大に務められた。その後、コロンビア大学教授、同大学大学院国際紛争解決センター所長を経て、昨年9月からIGCのトップに就任された。

ICGは1990年代のソマリア、ルワンダ、ボスニア紛争において国際社会が何も出来なかったことを反省し、1995年に国際非政府組織として設立された(本部:ブリュッセル)。世界23カ所に支部を置き、現在、60カ国の国際問題と紛争に関して現場調査に基づき中立的な立場から分析、情報発信と政策提言を行っている。

まず、ゲーノ氏が指摘したことは、「紛争の現場に入らないと真実は何も分からない」ということであった。要は、他国のメディア報道から伝え聞いたことをベースに、いくら素晴らしい分析をしたところで、何の説得力もないということである。ICGは、現在、「イスラム国」を含む、世界40カ所の紛争地域に人を派遣し、情報収集をしているという。ゲーノ氏が、そのICGに参加したのは、この数年、国連、特に国連の安全保証理事会が、世界の地域紛争に対して、全く無力になってしまったことだと言う。国連安保理に参加する大国は、それぞれが勝手な方向を向いていて協調、協力の姿勢が全く見られなくなったからだ。

ゲーノ氏は、現在、世界を震撼させている宗教を巡る過激主義による非国家主体、もちろん、この中には「イスラム国」も含まれるが、タリバンやボコ・ハラム、ヒズボラやイエメン・アルカイダなどを包括的に論じることは止めた方が良いという。むしろ、個別の状況によって別々の紛争解決策が必要となる。例えば、「イスラム国」はイラク政府のマリキ政権による極端なシーア派優遇策への幻滅感から出発しているし、ナイジェリアのボコ・ハラムは南部キリスト教徒が繁栄するナイジェリア経済の利権を独占することに対する反感がある。

敢えて、こうしたイスラム過激派による地域紛争の共通点を見出そうとするならば、宗教の過激主義は、紛争の原因ではなくて、結果として出て来た症状であると見るべきだと、ゲーノ氏は言う。大事なことは社会が、人種や宗教に対して、もっとインクルーシブになることだと。さらに、ゲーノ氏は、こうした過激思想に導かれて行く人々の多くが、高等教育を受けた知識層であることにも注目すべきだと言う。中流階級の入り口に到達しながら、もはや、それ以上には上れないガラスの天井を見てしまった人々が、幻滅感からイスラム過激思想に魅力を感じて行く。

フランスからも「イスラム国」に1,200人の若者が参加しているが、彼らは、「イスラム国」に入ってからイスラム教に改宗している。これを見ても、彼らの行動の出発点がイスラム過激思想からではないことが分かる。フランスは、これまで多くの移民を受け入れたが、その移民の二世、三世はフランス社会に同化することも困難で、自らのアイデンティティが見出せないでいる。その鬱積した不満が暴力として爆発している。これは暴力のための暴力なので、交渉や説得も全く受け付けない。

この1,200人の過激思想に陥った若者の力を軽んじてはならない。深刻なテロは10人もいれば、起こすことは可能である。昔は、こうした過激な勢力は局地的に留まっていた。しかし、今は、こうした活動がグローバルに展開して来ている。「イスラム国」はグローバル・ジハードの名のもとに、多くの資金と戦闘員を受け入れている。今回の後藤健二さんの事件も、彼らは身代金など手に入れようと思ってはいない。最初から、これはグローバル・ジハードを世界に広めるためのプロパガンダなのだ。

さらにゲーノ氏は語り続ける。私は、この「イスラム国」が将来、正式な国家として持続していく可能性については疑問を持っている。それは、「イスラム国」が支配している地域、イラクとシリアは中東において特別に教育レベルが高い地域だからだ。識字率も高いし、男女平等の意識も、他のアラブ諸国に比べればダントツに高い。従って、「イスラム国」が追求している「7世紀の世界」に戻るという考えは、この地域の大衆には、とても受け入れがたいと思われる。しかし、たとえ「イスラム国」が消滅することになっても、ここで培われた過激な思想はなくならない。むしろ、フランチャイズとして世界中に伝搬していくと考えるべきだろう。

大事なことは、世界各地で置きているイスラム過激派の紛争を宗教問題として一括して見ようという考えを改めるべきだ。それぞれの紛争が起きている原因が違う。それぞれの真の原因となっている民衆の不満を丁寧に聞くべきだ。まず、「話し合い」を行うことを提案したい。「話し合い」を行うことは、その相手の立場を「正当化」することでは決してない。「話し合い」を行えば、相手の立場を「正当化」してしまうから、だから「話し合い」を行わないと主張する人々が居る。

タリバンは、かつて、欧米世界に「話し合い」を提案して来たことがある。欧米世界は、「話し合い」は、タリバンの立場を「正当化」することになると、その提案を拒否してしまった。その後、タリバンは、どんどん孤立化し、さらに過激化することになった。我々は、「イスラム国」に対して、この失敗を再び繰り返してはならない。

と以上がゲーノ氏の講演内容である。今の日本で、「イスラム国」に関して、これだけ説得力のある話を聞くことが出来たのは大きな収穫であった。

 

295  企業誘致から人材誘致

2015年2月13日 金曜日

先週、2月2日、徳島にて、e-とくしま推進財団のお招きで講演をさせて頂いた。この日は「ICTを活用して徳島を元気にする」という趣旨で設立された、この財団の、今年で設立10年目の節目を迎えての記念大会でもあり、永年の功績を讃える表彰式には飯泉徳島県知事も出席された。私は、このe-とくしま推進財団の会合で講演するのは、今回で2回目である。最初の講演は、現在も、徳島県の最高情報監督官(CIO)を務められておられる丸山 力 元日本IBM副社長からの招待であった。

丸山さんと私は、かつて、共にパソコン事業の責任者であり、お互いの共通命題は、当時、逆立ちしても太刀打ち出来ないNECのPC98に対して共闘することであった。そのためにはIBMが造った業界標準であるDOS-Vを日本市場で盛り上げることなら、お互いに何でもやる覚悟だった。ある日、丸山さんから、「IBMのPCで富士通のFM−TOWNS」のソフトが動くようにしてくれないかな?」と頼まれたときには、「この方は正気か?」と思わざるを得なかった。なぜなら、FM-TOWNSは富士通の独自仕様でDOS-Vとは全く異なる作りだったからだ。

この難題を社内に持ち帰り、「IBMから、こんなこと言われたよ」と部下に呟いたら、「それ、面白い、ぜひ、やりましょう」と半年もしない内に、IBM-PCに挿入するFM-TOWNSエミュレーターボードを作り上げてしまった。当時の富士通には、そうしたハッカーもどきの優秀なエンジニアが何人も居た。丸山さんは、約束どおり、そのボードを富士通から買ってIBM-PCのアクセサリーとして販売して下さった。それ以来、私は丸山さんと、公私にわたっての付き合いが続いている。

その丸山さんが、徳島県のCIOを努めておられるのは、単に丸山さんが徳島県出身というだけではない。徳島県は消滅可能性都市と言われる限界集落の割合が日本一で、例えば徳島県名賀町の高齢者比率は既に40%を超えている。空き家率も鹿児島、高知、和歌山に次いで全国4位で、とにかく全県にわたって「過疎」と呼ばれる条件を満たした集落ばかりである。その徳島県がICTで県の再生を図ろうと10年前からe-とくしま推進財団を設立して頑張っている。だから、この徳島県のCIOは、徳島の将来に対して大きな重責を担っている。

当日の私の講演内容は「ICTによる地域再生」であったが、終了後、丸山さんから「非常に良かった」とお褒めの言葉を頂いた。この講演の中で、徳島県上勝町の葉っぱビジネスである「いろどり」の話もさせて頂いた。この内容は、講演場所が徳島だから入れたわけではなく、全国で、この話をさせて頂いている。80代の老婦人がタブレット片手に山に入り、日本全国の料亭からの注文にピッタリ合う葉っぱを探しまくるというのはIT関係者なら誰でも驚きである。IT機器が、うまく使いこなせない「デジタル・デバイド」は年齢のせいだと多くの人が考えているからである。マイクロソフトの前CEOであるバルマー氏が、わざわざ上勝町まで見に来たというのだから、やはり凄い話である。

丸山さんは、「上勝町の葉っぱビジネスも凄いけど、徳島にはもっと凄い話が沢山ありますよ!伊東さん、いろいろ紹介するから、各地の講演で話して下さい」と、教えて頂いたのが「空き家を利用したサテライトオフィス」の話である。限界集落の古民家や公共施設をIT企業に貸し出して、ソフト開発のサテライトオフィスにするという話は、一見、どこでも出来そうな話だが、実は、徳島県が有する強力な情報インフラが背後に潜んでいる。徳島県は全県で限界集落に至るまで光ファイバーが行き渡っているのだ。

これを推進したのが総務省出身の飯泉嘉門現徳島県知事だが、知事自身、当初から、こういう活かし方までは想定して居なかったという。徳島県は、四国の中では直線距離的に極めて大阪に近いので、大阪で受信できるTV電波が全て受信出来た。しかし、TVのデジタル化に伴い、大阪発のTV放送の良好な受信地域からはずれ、NHKと民放一局しか受信出来なくなった。飯泉知事は、県内の山間地のお年寄りの一番の楽しみであるTVが見られなくなることは大きな問題と思われ全県にわたり光ファイバーによるCATVを張り巡らせたのだという。

この結果、大阪のTVが全て見られるようになり、徳島県民は華やかな大阪文化圏にとっぷり浸ることが出来たという。飯泉知事は、徳島県は道州制では四国に属さず、近畿圏に入るべきだとの運動を続けておられる。確かに、私も、大阪から明石海峡大橋、淡路島、鳴門海峡大橋と高速道路を走って来たら1時間50分で着いてしまった。これは、確かに徳島が四国より大阪に属すべきだという論法も、それほど無理な話でもない。瀬戸内海の3つの巨大橋は、四国を分断してしまったのかも知れない。

その光ファイバーのお陰で、山間地域が町の83%を占める神山町や、面積では四国最大ながら87%が林野で人口や事業所が、この3年で20%近く減少した三好市や美波町に、次々とIT企業のサテライトオフィスが誕生している。確かに、朝から晩まで机の上で、黙々としてソフトウエアを開発するという仕事は、あまり健康的とは言いがたい。それに華やかな都会は、お金を沢山持っている人たちには楽しいのかもしれないが、つましい生活をしている若者には何のメリットもない。

しかし、この徳島の限界集落では、仕事を離れたら豊かな自然と楽しむことが出来る。海辺でサーフィンをしてから、プログラミングも出来るなど、通勤時間がゼロの分だけ、余暇の過ごし方も豊かになる。あのバブル時代を知らない、今の若者たちは堅実で、幸せは、必ずしもお金では買えないということを良く知っている。こうした若者が、次々と徳島の過疎地域に集まってくるのだという。まさに、「企業誘致より人材誘致」である。昔、大きな工場を有する大企業の城下町として繁栄した地域は、ことごとく、工場の海外展開と共に町の衰退を加速させている。一度海外に出て行った工場は、円安が幾ら進んでも二度と戻ってくることは決してない。

そんな中で、丸山さんが、ぜひ全国に紹介して欲しいという女性が徳島に居る。徳島県美波町にあるIT企業のサテライトオフィスにシステムエンジニアとして勤務する乃一智恵さん(30)。彼女はイノシシの狩猟免許を持つハンターである。しかし、ハンターだけで生活するのは非常に困難なので、主たる仕事はシステムエンジニアとして働いている。都会のオフィスでは大好きなハンターは出来ないが、美波町では副業として出来る。朝、仕掛けた罠を回り、仕留めたイノシシを処分してからオフィスに出社するのだという。会社のバーベキューパーティでは、自分が仕留めたイノシシの肉を振る舞って人気を博しているという。確かに、丸山さんが自慢したいのもわかる凄い話だなと思わず感心してしまった。

飯泉知事は、徳島県中に張り巡らせた光ファイバーを利用して、少しでも人が集まりそうな所には全て無料のWiFiが使えるようにするのだという。町や村を興し、人々の生活を豊かにするインフラは、橋や道路や建造物だけではない。誰でもが何時でも何処でも使える情報インフラこそ、もっとも有効な地域再生のツールなのかも知れない。