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282  日本人の忘れ物

2014年10月14日 火曜日

先週、ハワイにて行われたパートナー様との研修会に参加した。研修の冒頭に行われたジョージ・アリヨシ元ハワイ州知事が行われた講演が私にとって、大変印象的だったので、ご紹介したい。その演題は「日本人の忘れ物」であった。

今年、88歳になられたアリヨシさんは、ステッキを片手に奥様に支えられながらたどたどしい歩き方で会場に入って来られた。登壇する前にアリヨシさんがスタッフに壇上に椅子を設定するように指示されたので、誰もが「ああ、ご高齢なので、椅子に、お座りになられてお話をなさるのだ」と思ったに違いない。しかし、アリヨシさんは、ステッキを席において奥様に支えられて壇上に上ると、左手を椅子の背にかけられて、右手にマイクを持たれたまま、50分間ずっと立ったまま講演をされた。その立っている姿は、12年間ハワイ州知事を務められた威厳と慈愛に満ちていた。

アリヨシさんは福岡県からハワイに移住した両親の元、ハワイで生まれた日系二世であるが、小さい時は軽い言語障害で悩んだという。小学校の先生が、毎日、大きな声で発声することを教えてくれ、弁論大会に出るようになるまでになり立派に障害を克服することができた。そうした努力の結果、将来、弁論を主たる仕事とする弁護士になることがアリヨシ少年の夢となった。しかし、太平洋戦争が勃発し、日本人には大変厳しい環境の中で、アリヨシ少年は高校を卒業すると米陸軍情報部の日本語学校に入学して本格的に日本語を学ぶ。

そして終戦を迎えると、米軍将校としてマッカーサー元帥に通訳として同行し日本に上陸する。まず、アリヨシさんが最初に驚いたのは幼い少年が上野駅で靴磨きをして働いている姿だった。アリヨシさんが、その少年に「ぼうやは、いくつなの?」と聞くと、「7歳だ」と言う。「どうして、こんな所で働いているの?」と聞くと「お父さんが戦死したので、僕が弟や妹のために働かないといけないのだ」と答えた。アリヨシさんは、この答えを聞いて、日本は必ず復活すると思われたという。

そして、アリヨシさんは、マッカーサー元帥に随行して天皇陛下に謁見することになった。天皇陛下は、マッカーサー元帥との最初の会話で、「私はどうなろうとも構わない。何としても日本国民のことをよろしく頼む」と仰ったそうである。アリヨシさんと同様、マッカーサー元帥も、命乞いの姿勢を微塵も見せずに、ひたすら国民のことだけを心配する昭和天皇のお姿を見て心から感動したそうである。この昭和天皇の姿勢や、上野駅で会った7歳の靴磨きの少年の姿、まさに上から下まで、自らを捧げる日本人の心意気に感動したのだが、そこで、この演題である。「日本人は、こうした心をどこかで忘れてきたのではないか?」という意味である。

アリヨシさんは、日本の戦後処理に貢献されたあと、幼い頃からの夢であった弁護士になるために米国本土へ渡りミシガン州立大学で学び、ハワイ州で弁護士資格を取る。その後、ハワイのために仕事をしたいとの考えから、ハワイ州下院議員、上院議員からハワイ州選出の米国連邦上院議員にまで上りつめた。それでも、アリヨシさんは、自分は政治家より弁護士の方が好きだし向いていると、いつも考えていて、早く弁護士稼業に戻りたいと思っていた。

そんな矢先に、アリヨシさんは、民主党のバーンズ・ハワイ州知事から1970年のハワイ州知事選に副知事として一緒に出馬しないかと誘われた。それでも、アリヨシさんは、バーンズ知事に「もう自分は、そろそろ弁護士に戻りたい」と固辞したところ、バーンズ知事は「自分は、今回の選挙を最後に退陣する。君には、その次の知事選でぜひとも勝って欲しい。これまで、ハワイ州知事にはハワイ州生まれの人間は誰も選ばれたことがなく、しかも白人以外の知事は一人もいない。君には、ぜひとも、ハワイ州生まれで、初めての非白人知事になって欲しいのだ。」と説得されて副知事として出馬した。

バーンズ知事は病で1974年までの任期を全うすることが出来なく、アリヨシさんは1973年に知事代行を務め、1974年の選挙で初めてのハワイ州生まれで、初めての非白人の知事として当選する。以来、1986年まで三期12年の永きにわたりハワイ州知事を務めることになった。アリヨシさんは、いつも早く知事を辞めて弁護士の仕事に戻りたいと考えていた。だから、次の選挙で再選されることには全く拘りがなかったので、住民の人気が高くなるようなポピュリズム政治は一切行わなかったという。

むしろ、一部の住民からは嫌われることになっても、ハワイ州全体のために良いことであれば、次の選挙で落ちることなど気にせずに、それを断行したという。その結果が、12年間もの永い間、ハワイ州民の大きな支持を得たことに繋がったのではないかという。アリヨシさんは、半分ジョークで「私は、48歳から60歳までという人生で一番油が乗っている時期に知事をやりました。だから本当は、知事をやるよりも、弁護士として順調な生活をしたほうが、もっと沢山財産を増やすことが出来たでしょう」と笑って話された。

こうした無私の精神で政治を行うということも日本人はどこかに忘れてきたのではないかとアリヨシさんは仰っているに違いない。