2014年9月 のアーカイブ

281 自動車会社の名前の由来

2014年9月6日 土曜日

日本やアメリカの自動車会社の名前は創業者の名前を引き継いでいることが多い。日本のトヨタ、ホンダ、マツダやアメリカのフォード、クライスラーなどがそうである。かつて、ホンダの創業者である本田宗一郎氏は、「我が人生、最大の悔恨は会社の名前に自分の名前を付けたことだ」と仰っていた。本田氏は、町工場の本田技研工業が、今日のような世界的な大企業になるとは想像もしていなかったそうである。そうなると分かっていたら、自分の名前は付けなかったということらしい。

さて、まずは、BMWの話から始めたい。私は、富士通とドイツ・シーメンスの合弁会社の役員を10年ほど務めていたことがあり、シーメンスの本社があるミュンヘンには何度も行った。そのミュンヘンには、大変ユニークなデザインのBMW本社ビルがある。なにしろ、4つの円筒型ビルがくっついたデザインなので大変良く目立つ。この本社の一階にはBMWの車だけでなく、バイクも展示されている。日本でも車とバイクの両方を作っているホンダやスズキがあるが、同じショールムで両方展示しているのは見たことがない。高価なBMWのバイクを購入する顧客はBMWの車の所有者であることが多いのかも知れない。

そのBMW本社の近くにBMW博物館があり、そこも一度訪ねてみる価値がある。私も驚いたのだが、BMWの創業は車ではなくて、まず飛行機からだった。あるとき、飛行機から車に乗り換えたのだ。しかし、それにしても、BMWは、なぜ頭文字の略号でよばれるのだろうか? もちろん、BMWにも、きちんとした会社の正式名称がある。ドイツ語で「Bayerische Motoren Werke AG」,「 バイエルン州の自動車会社」という意味である。バイエルン州は、ドイツが統一される前は強大で豊かな王国であった。その誇り高きバイエルン州が世界に誇る自動車会社という意味である。

ところが、この英語訳は「Bavarian Motor Works」となり、そのBavarianは、少し発音を間違えると、同じ英語の「barbarian:野蛮人」と聞こえなくもない。もともとbarbarianの語源はギリシャ時代まで遡り、「ギリシャ人以外の民族」という意味だったらしい。それがローマに引き継がれて、ローマ帝国を滅亡に導いた、あの「ゲルマン民族大移動」で北から南下してきたゲルマン民族のことをローマ人が蔑視して呼んでいたのかも知れない。昔、日本人が西洋人のことを南蛮人と呼んだ感覚と同じだっただろう。ひょっとする歴史的にみて、Bavarianとbarbarianは同義語だった可能性もある。そうだとしても、こうした連想を思い起こさせる会社の呼称は、誇り高きBMWとしては全く耐え難いことであろう。だから「Bavarian Motor Works」ではなくて、BMWを正式な呼称としているのではないだろうか?

次にAudiである。VW傘下となり、VW部門の高級車を担当するAudiは、最近、単に車体が大きくなっただけでなく、会社の業績も、ますます大きく成長している。中国政府の高級幹部が乗る大型車は、殆ど全てAudiである。Audiの車の正面にあるエンブレム、銀の4つの輪は、4社が合併してできたことを表している。その4社の中で筆頭の会社の創業者アウグスト・ホルヒの姓「horch」は、「聞く」を意味するドイツ語「horchen」を連想させるものであった。ホルヒは、この「聞く」をラテン語に訳した言葉である「Audi」を社名として定めた。「Audi」はオーディオの語源ともなっている言葉であるが、なかなか意味深くして、そこまでは簡単には想像も出来ない名前の由来である。

最後は、イタリアを代表する自動車会社「FIAT」の名前の由来について語りたい。FIATの正式名称はイタリア語で「Fabbrica Italiana Automobile di Torino」であり、トリノにあるイタリア自動車工場という意味である。ちょっと考えてみておかしいのはイタリアとトリノがかぶっていることだ。本社があるトリノを社名に入れるなら、イタリアは要らない。何となく名付けの仕方に無理があり、やはりおかしい。

その推論は多分正しくて、実は「FIAT」として立派な意味がある。「FIAT」はラテン語で、その意味を英語に翻訳すると「let it be done」である。これを日本語に翻訳すれば、「あるがままに、なすがままに、なされるがままに」という類いの意味となる。ここで、もう皆様はピンときたことであろう。そう、空前のヒットとなっている「アナと雪の女王」の主題歌は「あるがままに:let it go」である。そして、「let it be」と「let it go」は殆ど同じ意味である。そう言われると、年配のビートルズファンは、1970 年3月に発売され、グループとして記念すべき最後のシングル盤となった「let it be」を思い出されるであろう。

さて、なぜ、欧米人は、そんなに「let it be」や「let it go」に拘るのだろうか?ということである。この言葉は、聖母マリアが天使から神の子を身ごもったことを知らされる、いわゆる受胎告知の時に、発せられた言葉である。当時のイスラエルでは、未婚の女性が妊娠すると石たたきの刑罰で殺される恐れがあった。しかし、聖母マリアは、身ごもった子が神の子だと信じていたので、全く恐れることなく「let it be : あるがままに」と仰った。生まれた時からキリスト教徒である欧米人は小さい時から、この言葉が刷り込まれている。だから、カトリックの総本山があるイタリアでは自動車会社の名前まで宗教色に彩られているのも決して不思議ではない。

こうしてみると自動車会社の名前には、いろいろな物語があって面白い。

 

280   戸羽太 陸前高田市長のお話し

2014年9月3日 水曜日

昨日、戸羽 太 陸前高田市長の講演を聴きに行った。私は、大震災後、既に3回ほど陸前高田市を訪れている。大震災から3年経った、今年の3月11日には、昨年秋に陸前高田市の高台に再建されたキャピタルホテル1000に泊まった。ホテルの窓から見える景色は、本当に何もない、更地だけの広大な高田平野が見えるだけである。

遥か遠くには奇跡の一本松が見え、その一本松の周りには、山を削り、高田平野をかさ上げするための土を山から運ぶ、巨大なベルトコンベアが建設中であった。総額100億円を投じて建設中の、この巨大なベルトコンベアは、まるで山から陸前高田市街まで通じるモノレールのようである。山を削って、トラックで運ぶには5年以上かかる量の土を、このベルトコンベアを使えば、1年半で運べるのだという。おそらく、世界でも類を見ない巨大な山崩し計画ではないだろうか。

若く、標準語で、テンポよく、お話される戸羽市長の語り口は、どうも東北人らしくないと思っていたら、やはりそうであった。戸羽市長は、神奈川県大井松田で生まれ、町田市の高校を卒業されたあと、ミュージシャンを目指されたが、20代半ばになって断念し、アメリカに渡られた。アメリカで3年ほど人生修行を積まれてから帰国し、いろいろな経験を積まれて、1995年に陸前高田市の市議に当選。その後、2007年から助役、副市長を務められて、2011年2月の市長選に当選され、陸前高田市の市長に就任された。それは、あの大震災が起きる1ヶ月まえのことであった。

まず、戸羽市長が口惜しく語られたのは、戸羽さんが市長に就任する前に作られていたハザードマップのことであった。国土交通省、岩手県とともに陸前高田市も参加してコンピューターシミュレーションによって作られたハザードマップは、例えば、海岸から1.5km離れた陸前高田市役所で最大高さ1mの津波が襲来するというものだった。海岸から2.5kmほど奥地まで広がる高田平野の海抜は、殆ど海面と同じ高さなので、高田市街地の殆どの地域では2階以上の高さに避難すれば大丈夫という認識であった。

大震災の当日、市役所で執務中の戸羽市長が激震を感じ、庁舎の壁や天井が損傷しつつある中で、住民に避難を呼びかけた。市民ホールや、体育館は、それぞれ、3階建てなので、先ほどのハザードマップからすれば、そこに避難すれば、まずは大丈夫ということで自信を持って避難指示を出したという。そうこうしている間に、津波が市役所庁舎まで押し寄せてくるのが見えたので、職員と一緒に、2階から3階に上がったが、水は既に3階にまで押し寄せてきた。慌てて屋上に上ったが、そこさえも、屋上の手すりを超えて津波が上ってきた。屋上にあるエレベーター塔の上まで登り、ようやく難を逃れたという。

今回の大震災で、陸前高田市は、3階建てを遥かに超える高さの津波が来たということで、ハザードマップからすれば安全なはずの、市民ホールや体育館に避難した方々の殆どが犠牲になった。犠牲者の絶対数では、石巻が最大の被災地であったが、市民の人口比で見た犠牲者では、陸前高田市が最大となった。2万5千人の市民のうち、2000人近くが犠牲者及び行方不明者となっていて、人口比では8%近くなる。

ハザードマップの不備に加えて、戸羽市長が仰りたいことの第二点目は、公務員の使命についてであった。市民平均では、8%の犠牲者比率が、陸前高田市役所職員では30%以上にも上っている。正規、非正規の市の職員、総勢400名のうちで、140名の方々が犠牲になっていた。確かに、公務員は公僕であり、市民に奉仕するのは当たり前ではあるが、市の職員にも家族が居る、一人の市民でもある。災害時に、この公務員の人たちの命を守る仕組みは、どうするべきか、戸羽市長は、どうすべきか、今でも悩んでおられるという。

特に、市役所庁舎の隣にあるスーパーの社長が、「うちでは、お客様、店員ともに一人の犠牲者も出さずに済みました」と発言されるたびに、市の職員には、真っ先に逃げるというようにとは言っていなかったし、そうは言えない市長としての立場を考えて胸が痛むという。

そして、今回の大震災では、市の職員だけでなく、消防団員の方々も30%近くが犠牲になった。しかも、消防団員は公務員でなく民間人である。犠牲になった消防団員には、天皇陛下から勲位を頂き、岩手県からは感謝状を頂いた。戸羽市長が岩手県知事の名代として感謝状を家族に手渡した時に、それを受け取った家族は「こんなもの、要らない。それより息子の命を返して欲しい」と激怒したという。家族を激怒させた感謝状の文言は、「皆の模範となった」という一文であった。「行政は、今後も、こうした犠牲者を出すつもりなのか?」。民間人の消防団員に、命を捧げてまでも、地域を守ることを、行政は、今後とも強いるつもりなのか?と言うことであろう。

震災直後の、岩手県や霞ヶ関の対応にも戸羽市長は憤りを隠さない。「この国は、非常事態に対する体制が出来ていない」と言う。誰が考えても、この際は、絶対にやるべきだという案件についても、岩手県や霞ヶ関は「法律上は許されない」として拒絶する。「1000年に一度の非常事態に、どうして超法規的な判断が出来ないのだろうか? 集団的自衛権については、憲法解釈まで柔軟に変更出来たのに」と戸羽市長は嘆く。

本当に何もない、全てが津波に破壊し尽くされた旧陸前高田市街地を、戸羽市長は、世界で最も障害者に優しい街に作り替えたいと言う。ミュージシャンになりたいという夢を捨て、アメリカへの傷心の旅に出た戸羽市長がサンフランシスコで最初に見た光景で驚いたのは、どうして街に、こんなに多くの障害者が居るのかということだった。それは、アメリカが特に障害者が多いということではなくて、アメリカの街が、障害者が一人で出かけやすい仕組みになっているからだと気づく。陸前高田市を一から作り直すなら、ぜひ、そういう街にしたいと戸羽市長は声だかに仰られて、講演を終えられた。

279 コンピューター将棋

2014年9月1日 月曜日

前日本将棋連盟会長、永世棋聖の称号を持つ米長邦雄九段が亡くなられてから、もうすぐ2年になる。亡くなられる半年ほど前の、富士通も後援する人工知能関連のフォーラムで講演された米長九段のお話は、今でも鮮明に覚えている。末期がんに苛まれた痛々しいお身体をサポーターに支えられながら、ようやく壇上にお座りになられてから、その弱弱しい風貌から想像も出来ないほど力強いハッキリした口調で、ほぼ1時間にも渡ってコンピューターと将棋について語られた。

この講演の半年ほど前に、米長先生は富士通社員が開発したコンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と戦って惜敗されている。この「ボンクラーズ」というへんてこりんな名前は、過去の棋譜をビッグデーターとして活用し、人工知能の技術を応用した初代コンピューター将棋ソフトである「ボナンザ」をベースとして「クラスター手法」で高速化したという意味を込めて名付けられている。この「ボナンザ」を開発した物理化学者、保木邦仁さんは、実は将棋のことは良く知らなかったというのだから驚きである。

米長先生が、コンピューター将棋ソフトと戦ってみようと思われたのは、もう既に一流と言われるプロ棋士達が最新のコンピューター将棋ソフトには殆ど勝てない状況の中で、もし最初にコンピューターに負けるプロ棋士が出るとしたら、それは自分でなくてはならないと思われたからだ。米長先生が仰るには、米長先生の実力は、第一線で活躍するプロ棋士達と殆ど変らない。ただ、今は、年齢と体力のせいで、少しだけ劣る。この少しだけ劣ると言うのが勝負では決定的な要因となるので、やはり第一線で活躍する現役プロ棋士には勝てない。でも、実力は、ほぼ互角だと思ってもらいたいと言うのである。

現役第一線のプロ棋士達も、米長先生が負けたとなれば、もっと気軽にコンピューターに挑戦できるに違いない。そう意味で、いわば犠牲的精神で自ら率先して、米長先生はプロ棋士として初めてコンピューターと公開競技をされる覚悟を決められた。それでも、無残な負け方はしたくないので、1年間の準備をされたという。つまり、コンピューターと戦うのだから人間を相手にするのとは違う戦い方をしなくてはならない。1年間、米長先生は一切人間を相手にして戦わず、ひたすらコンピューターを相手に試合を続けられた。そこで、コンピューターの欠点を徹底的に追求されたのだ。

その甲斐もあって、コンピューターとの公開試合では、一時は米長先生が優勢となる場面も何度もあった。米長先生は、過去に誰も打ったことのない奇手を連発され、コンピューターの頭脳を混乱させることに成功したのだった。しかし、なにせ、コンピューターは疲れを知らない。どんなに苦境に陥っても感情を持たないので冷静沈着に戦いを進めて行く。そして、最後は、疲れ果てた米長先生の、ちょっとしたミスをコンピューターは見逃さなかった。本当に惜しいところで米長先生は、日本のプロ棋士として最初にコンピューター将棋の敗者となった。それから1年後、プロ棋士達とコンピューター将棋の団体戦でコンピューター将棋側の圧勝となったことは、既に、皆さん、よく、ご存じのことだろう。

さて、プロの棋士は、もはや、コンピューターには勝てないのだろうか? 私は、そんなことはないと思っている。特に、既に7冠を達成し、現役を引退したら永世名人の称号を名乗ることができる羽生善治九段は、コンピューターには負けないのではないかと期待している。その理由は、羽生さんが、大事な試合には、常に新手を開発して勝負に臨んでいるということである。そして、その新手は、悪手と呼ばれる筋の悪い指し手をベースにしているといわれることにある。対戦相手は、当然、筋の悪い悪手は承知しているので、将来、永世名人となられる羽生さんが、「どうして、そんな手を打ってくるのか?」とパニックになるらしい。

米長九段が奇手でコンピューターを苦しめたのならば、羽生さんが、練りに練った悪手でコンピューターに立ち向かったとしたら、過去の棋譜で学習したコンピューターは完全に混乱に陥ることは間違いない。なぜなら、プロ棋士が打った、過去の棋譜には、まさか悪手があるはずがないからである。コンピューターは一度、自らが作り上げたロジックが役に立たないことを知ると大混乱になり、もはや自力で立て直すことは相当に困難であろう。

ところで、最近、ある雑誌に、とても興味深い記事が載っていた。コンピューター将棋のことを、どこまで理解しているのはわからない記者が、羽生さんに向かって、次のような質問をしているのである。「もはや、プロ棋士もコンピューターに勝つのは大変ですね。今後、コンピューターが、どんどん進歩して、人間の棋士が全く敵わなくなったら、どうしますか?」と大変失礼な質問である。これに対して、羽生さんは、実に痛快な答えを用意されていた。「全く、問題ありません。将棋のルールを変えれば良いのです。例えば、桂馬を横に動けるようにするとか」。

そのとおりである。過去の数万の棋譜から学習したコンピューターは将棋のルールを変えられたら、そのロジックは完全に破壊される。新たな将棋のルールが形成されたら、ここで、力を発揮するのは、「過去の知識や経験に基づく判断能力」ではなく、「創造力」である。人間とコンピューターの能力の違いは、この「創造力」にある。思わず、この話、将棋の世界だけの話ではないのでは?と、ふと思ってしまうのは私だけだろうか?