今年は4月20日が復活祭である。その四旬節の最中である、昨日(3月9日)にカトリック藤沢教会で行われた横浜司教区主催の洗礼志願式に参加した。横浜司教区は神奈川県、静岡県、山梨県、長野県を含む広範囲にわたっており、昨日は、藤沢から一番遠い地区として沼津市からも参加されていた。この洗礼志願式で署名し誓いをたて、4月20日の復活祭で正式に洗礼を受けることになる。
昨年の5月より、毎週火曜日の夜、今年の復活祭に洗礼を受けられるよう、鷺沼教会の松尾神父さまより10か月にわたってカトリックの講義を受けてきた。この中で、私は二つのことを新たに学ぶことが出来た。一つは、紀元前3000年より今日に至るまでの5000年間もユダヤ人が受けてきた長い迫害の歴史である。これだけの長い間の迫害に耐えてきたからこそ、「選ばれた民」としての資格があるのか、あるいは「選ばれた民」であるからこそ、永い間、迫害を受けても挫けなかったのか、きっと、そのどちらかであろう。
もう一つは、ヘブライ語で書かれた旧約聖書、ギリシャ語で書かれた新約聖書を、異なる文化で育まれた日本語に訳すのは相当に難しいということである。現在の旧約聖書、新約聖書ともに日本のカトリックとプロテスタントの多くの方々が、長い時間をかけて、ご苦労をされて共同訳を作られたものの、そもそも訳語として存在しないものを敢えて訳すというのは、相当に困難である。今回、松尾神父さまの講義では、本来のヘブライ語やギリシャ語の意味、それを受けたイタリア語や英語の解釈を交えて説明して頂いたので大変判り易かった。
その一つが三位一体で使われる「聖霊」である。日本語の霊は、幽霊とか霊感商法とか、あまり良い意味ではないことに使われることもある。松尾神父さまは、聖書で言う本来の意味は、日本の感覚の「霊」ではなくて、神の「息吹き」なのだと言う。「そうか!だから、英語では、神のご加護を!と言う意味でGod bless you ! と言うのだ」と改めて理解できる。
会社を離れて、こうした信仰の勉強しながら、会社では、同僚と、脳科学や人工知能といったコンピュータ・サイエンスの議論をしているのは、相矛盾しないのかという疑問も、当初は多少あった。しかし、少なくともカトリックにおいては教皇ヨハネパウロ二世の時代に永年懸案だった「進化論」について異論を挟まないと言う方針を、既に、お決めになられている。ヨハネパウロ二世は、かつて、「地動説」で対応を誤った経験を活かし、今後、カトリックはサイエンスの世界に、二度と言及しないという方針を決められた。全く、正しい見解であると私は思う。
コンピュータ・サイエンスの世界では、現在、人工知能というテーマが大きな脚光を浴びている。昨年、私が訪れたシリコンバレーの新設大学、「Singularity(特異点)Univ.」は、まさに、その問題に正面から取り組んでいる。ここで言う「特異点」とは、「コンピューターが人間を超える時」である。世界中から、このSingularity Univ.にやってくる英才たちは、そもそも、「コンピュータが人間を超えられるかどうか?」という議論には組みしない。彼らの議論の焦点は「いつ、超えられるか?」である。2040年とも2030年とも言われている、その時期が本当はいつか?ということに焦点を絞っている。
そして、その「特異点」という意味の本質は、その時から、世の中が今までとは全く不連続な世界に突入するということを表している。コンピューターが人間の能力を超える時、世界はどう変わるのか? そのためには、今から、どのような準備をしなければならないか?という議論が盛んに行われている。その中の一つとして、これまで高い知識を持つことで成り立っていた職業、例えば、医師、弁護士、教師といった社会のエリートだった職業が絶滅危惧種になるのではないか?という議論がある。そこまで至らない現在においてすら、先進国、新興国を問わず、高学歴者の就職難が、これまでよりずっと深刻な状況になっている。
東大の医学部を首席で卒業し、天皇陛下の侍医までされた武藤真祐先生は、現在、大震災で壊滅的な被害を受けた石巻で、被災患者を訪問する在宅診療をされている。武藤先生はコンサルファーム・マッキンゼーにてIT技術と会計学を学ばれたスーパードクターである。この武藤先生が、石巻で仰られた言葉が私は忘れられない。「医師は、もっとコンピューターを駆使すべきです。どんな優秀な医師でも、知識の豊富さではコンピューターには適わない。医師が、医師としての本来の役割を果たすのは患者との会話にあるのです。プラセボ(偽薬)効果とも言われるように、患者が効くと思えば偽薬でも効くことがあるのです。医師は患者の心を前向きにさせれば、その自己治癒能力を高めることが出来るのです。」
そう、コンピューターは「知の世界」では、間違いなく、まもなく人間を超えるだろう。しかし、人間の人間である所以として、「知の世界」だけではなく、「心の世界」、「情けの世界」の役割が非常に大きいはずだ。多分、教皇ヨハネパウロ二世は、信仰世界は知の世界(サイエンスの領域)には口を挟まない。しかし、「心の世界」、「情けの世界」に対して、信仰世界は、しっかりと貢献しますよと仰っているに違いない。さて、復活祭での祈りの中には、「死者からの復活、永遠の命」と言う、とても大事な言葉がある。カトリックに限らず、世界中の多くの宗教が、この「永遠の命」というテーマに関わっている。さて、これをサイエンティストとして、心から信じるのか?信じないのか?という問題がある。
私が、この文章を書いているのもそうだが、最近、多くの方々がブログを書かれている。このことは、実は大きな問題を孕んでいる。それは、一度投稿したら、二度と削除や変更が出来ないというリスクである。サイバー空間には、コピーサイトやミラーサイトが無数にあって、投稿した本人が削除や修正をしても、最初の原本が永遠に残り削除が出来ないということがある。しかし、一方で、紙の本で出版されたものは、廃棄されたり焼却されたりしたら、二度と人の目に触れることはない。つまり、「形のあるものは、いつかは滅ぶ」のに対して、サイバー空間に漂ったものは「永遠の命」に授かるのである。「自分が生きた足跡を永遠に残したい」、そうした願望で多くの人々がブログを書いているのかも知れない。
最近では、人工知能と脳科学が合体して、人間の脳の全てをサイバー空間にコピーできないかという研究が進んでいると言う。もし、それが実現したら、人の肉体が滅んでも、その人の意識は「永遠の命」を授けられて、永遠に生き続けることになる。