2013年12月 のアーカイブ

253 伊勢神宮と出雲大社の遷宮

2013年12月11日 水曜日

今年は20年に一度の伊勢の式年遷宮と、60年に一度の出雲大社の大遷宮が同時に見られる当たり年である。自分の年齢から計算すると、どちらも、今年見ておかないと永遠に見られないことになる。行かない屁理屈を考えているより、絶対に行った方が良い。そう考えて、先月、伊勢神宮を今月に入って出雲大社に行き、双方の違ったやりかたの遷宮を堪能できた。

伊勢神宮の式年遷宮が、どうして20年に一度なのか? 諸説あるようだが、私には、新しい社の隣に位置する古い社を見て直ぐに理解できた。古い社は、20年の歳月を経て、既に朽ち始めていて、木口はもうボロボロである。日本で最も降水量のある尾鷲に近い高温多湿の環境では、表面に何の塗装もしない白木は20年がやはり限界であろう。

出雲大社は、自分が関わってきたパソコンの工場が斐川町にあったので、20年以上も前から、何度も訪れているが、伊勢神宮は、今回の参拝が初めてである。木の香が匂うほどの真っ新の白木で作られた社は、もちろん美しいが、私が一番感動したのは内宮へ渡る五十鈴川に架かる宇治橋からの景色であった。正直、こんなに神々しい景色があるのかと思うほどであった。確かに、この五十鈴川の上流に天照大神が鎮座していると言われたら、そうかも知れないとも思えるほどの神々しさである。

外宮から内宮を回って、お腹が空いたので、お昼は地ビールである神都麦酒を頂きながら、松坂牛丼と伊勢うどんを食べ、デザートは五十鈴川畔の赤福本店に行ってお餅を頂いた。朝早く名古屋駅を出発し、仲間の一人が足を痛めていたので、駅から外宮、内宮までを全てタクシーを使った結果、いつも大混雑の手前を見事にすり抜けることが出来た。帰途は、伊勢市駅の駅員さんから勧められた近鉄特急の個室席を仲間で占有して疲れた足を癒しながら大満足で名古屋に戻って来た。来年3月までは、「式年遷宮に行って来た」と言えるらしいので、未だ行っていない方は、もう少し時間があるので是非行かれることをお勧めしたい。

さて、出雲大社は近くの斐川町に富士通パソコンの主力工場があったので、私は何度も訪れている。しかし、ここ数年は、今年の大遷宮に備えて、ずっと覆いを被せて工事中だった。そして、今回、出雲大社周辺を案内して頂いた島根工場の運転手さんは、つい最近、島根県警を定年退職後、富士通に転職された方だった。島根工場は富士通が世界中で販売する年間200万台以上のノートパソコンを全量、日本国内で生産する拠点として、多くのお客様が訪問される。そのお客様を工場見学の後、出雲大社周辺をご案内することも多いと言うので、車の運転だけでなく、ガイドの役まで引き受けている。地元で育ったということもあるが、歴史を含めて大変良く勉強されていて、ガイドとしてもプロの領域に達している。そのため、今回は、今まで見ていない出雲大社とその周辺を見学させて頂いた。

今年、60年に一度の大遷宮をされた出雲大社全体の修理は、数年前からはじめているものの、未だ完了していない。全て完成するのは、今から3年後で、トータル10年ほどかかる大工事である。富士通における私の大先輩である、大瀧元専務の奥様は、出雲大社で代々権宮司を務めておられる千家家のご出身である。私も、今回、出雲大社大遷宮を見る前に、多分、大瀧さんの甥御さんにあたられる千家和比古出雲大社権宮司が編纂された「日本の神祭りの源流 出雲大社」を読んで行った。

出雲大社の本宮は、伊勢神宮と同じように正面からは良く見えない。しかし、今回は、親切な「ガイド」さんの案内で、後ろに回ったら、伊勢神宮とは異なり、本宮全体が実に良く見えた。本当に大きな社である。屋根に設えられた千木の大きさも半端ではない。先日、私の同僚がタイの奥地に行ったら、民家に皆、千木があったというから、千木の由来は高温多湿の南アジアの高床式住居から来ているのかも知れない。そうそう、今回、ガイドさんに教えて貰ったのだが、大社の大鳥居の脇に、私が大好きな竹内マリアさんの実家があった。あの軽快な歌声が、こうした荘厳な環境で育ったマリアさんから発せられると思うと、少し楽しかった。

出雲大社は、大国主命を祭っている神社で、「因幡の白ウサギ」の寓話でも有名である。しかし、この出雲大社の凄い所は、語り伝えられた単なる神話の世界にとどまっていないことである。1984年、島根工場がある斐川町の荒神谷遺跡から、一度に358本の銅剣が発見された。これは島根県立古代出雲歴史博物館で、そのレプリカを見ることが出来る。358本の銅剣が一堂に展示されている様は、まさに圧巻である。これ以前に、日本全国で発見された銅剣の数より遥かに多い量が一か所から出てきたのだから凄いと言わざるを得ない。その他に、この博物館では、この出雲地区で発掘された銅鐸や剣が沢山展示されていて、出雲の歴史は、もはや神話ではなく事実であったことに感銘する。

この出雲大社がある出雲市に隣接する松江市には有名な玉造温泉がある。私も、昔、工場の起工式の時に一度だけ泊まったことがある。この玉造は、文字通り翡翠の勾玉を作っていたということだろう。中国台湾の故宮博物館に展示されている中国の宝玉は、皆、翡翠である。そして、中国における、この翡翠の大産地は「越の国」であり、ここには翡翠を加工・研磨する高い技術があったと言われている。

さて、日本で翡翠が採れるのは中央地溝体(ホッサマグナ)の日本海側端の糸魚川である。地中深く高温高圧で作られた翡翠が地殻変動で地上に現れたものと思われる。そして、中国の越の国の人々が、翡翠が採れることを伝え聞いて日本に渡ってきたと言うのである。それが、日本における越の国の発祥だと言われている。糸魚川は越中になるだろうか。大昔、出雲の国主は越の国の女王との戦いに勝利し、翡翠の宝石造りの拠点を越の国から出雲の国へ移したのであろう。まさに東アジアの壮大なダイナミズムである。

また、10月のことを神無月と言うが、これは日本中の神様が出雲へ行ってしまうので、神さまが居ない月で神無月と言う。こんなことは、誰でも知っていることだが、当然、出雲では日本中の神様が集まる10月は「神在月」となる。そのためか、「神在」さんという苗字も少なくない。「ジンザイ」と読むのだそうだ。この「ジンザイ」さんが作ったお菓子が「ジンザイ」から「ゼンザイ」となり、「善哉」の字が当てはめられたそうである。出雲大社の門前町には、お土産のお菓子として「善哉」を売っているお店が多い。こんなことも、今回、ガイドさんから初めて聞いた。

出雲地方は、今は、山陰とか裏日本とか言われているが、大昔は、朝鮮半島や中国大陸から文化を受け入れる日本の玄関口だった。昨今、東アジアの国々は、憂鬱な関係に陥っているが、太古の昔に帰って、もっとフランクに文化交流出来れば良いのではないかと思っている。