この映像は、岩手県大船渡市にある銘菓「かもめの玉子」で有名な、さいとう製菓 斉藤俊明社長が撮影した津波映像です。たった10分で、大船渡の町は津波によって徹底的に破壊されてしまいます。映像中、「なんだ、防波堤ってなんなんだ、全く、役に立たないじゃあないか」という叫び声が心に残りました。
http://www.youtube.com/watch?v=SR2kOR2Ihf0
この、さいとう製菓の副社長である斉藤賢治さんが、さいとう製菓工場敷地内に作られた大船渡 津波伝承館で、後世の人達が命を無駄にしないために、津波に対する恐ろしさ、そして津波に対する正しい知識を持ってもらいたいと語り部になっています。
海岸近くにある、さいとう製菓の本社では、地震発生と同時に社長が率先して社員に近くの高台避難を呼びかけ、社員全員が助かっている。社内の随所に貼ってあるポスターには「地震だ! 津波だ! さあ逃げろ!!」の標語が大きく書かれており、斉藤社長は、このポスターが社員の心に刻まれていたために、皆の命が助かったのだと思い込んでいた。しかし、社員は、こんなに沢山貼ってあったポスターの存在には全く気に留めていなかった。
「そんなポスター、どこに貼ってあったかしら」という社員の声を聴き、これは何かしないと、また悲劇は繰り返される、斉藤社長は、そう思われたに違いない。斉藤社長が撮った映像には、助かるはずなのに、津波の恐ろしさを知らなかったために命を落とした人々の映像が、しっかりと映っている。津波のことを、もっと皆が恐ろしいと考えていたら助かった人が沢山いたそうです。
津波から助かる唯一の方法は、津波に対しての恐れを抱くことだと思われた斉藤社長は、後世の人達に津波の恐ろしさを知ってもらうことが重要だと思われた。大船渡 津波伝承館は、斉藤社長が私財を投げ打って作られ、社長の弟さんである斉藤賢治さんが、兄の志を受け継ぎ館長として津波伝承を続けておられます。
以下に、斉藤賢治津波伝承館館長の語りの一部をご紹介します。
この写真は先ほどの映像のワンカットです。ここに時間があるのですが、2分52秒ということなのですが、海水が陸に上がり始めてからの経過時間です。ここに1.8mぐらいの堤防があります。その堤防を水が超えている。しかも、ここの県道があるのですが、水が溢れてきている。そういう状況の中で、こういう車が居たんです。この車は朝日生命の職員なんです。この車は、水が溢れていう方に行ってしまいました。私も大変気になっていたんですが、5月に朝日生命から安否確認の電話がきたので、その時に、この車、どうなりましたか?と聞きました。そうしたら、辛うじて助かりましたと言う御話でした。水を蹴散らかしながら高台に通じる道に逃げたと言うことなんです。
しかし、この車が行って、数秒したら、また1台同じ方向に車が行っちゃったんです。その車、ここに写っています。自動販売機が流されている中を運転しているのは女性でした。私たちは、高台から、この女性を見ていましたが、この方は、ブレーキを一生懸命踏み、全身を強ばらせながら流れていったんです。でも、私達にはどうすることも出来ませんでした。
その時の経過時間は4分です。その1分後、戻ってきたのですが、向こうに行って水が溢れているので停まったのではないか? そして、そこでUターンをすればおそらく助かったのではなかったかと思います。前の車は、そのまま突き抜けて助かったのですが、この車は流されてしまいました。その時に水の深さ。20cmの高さの縁石が見えないで歩道が見えているので、おおよそ水の深さは30cmだと思われます。ですから、わずか30cmの水の深さで、もう運転不能となり流されてしまいました。
そして、この水の速さ、一般的には時速20㎞とも30㎞とも言われています。車の速度に比べると大変遅いわけなのですが、人間のスピードと比べてみましょう。オリンピックの選手が100mを10秒で走るとしても時速36㎞です。ですから私たちがいくら若くても津波の速度に打ち勝って逃げとおせるものではありません。津波が来る前に高い所へ行っていなければなりません。
それから、皆さん、水が溢れているのに、なぜその方向に行くのか?と思うでしょう。実は、車からは周囲の状況が見えないのです。家々が建っているために、水が溢れているというのが判らないのです。
もう一つは、普段から使っている道路というと、何も考えないで行ってしまうのです。それから、もう一つは家族が向こうに居る場合です。特に、小さいお子さんがいるとなると親心としたら、火の中、水の中へ飛び込んでも当然だと思います。ですから、平生から、こうした場合にどうするか、家族でよく話し合っておく必要があります。
普段から、こういう場所を通っているときに津波がきたら、どっちへ逃げるかを想定して訓練していないとまずいです。そのことを、いつも頭の中に入れて行動をとるということが助かることの道です。
先ほどの写真、実は、私たちは地震がおさまる前に、もう避難行動に入っていました。これは3つほどの理由がありました。一つは北海道の奥尻島、あそこで地震がありましたが、なんと5分で津波が来ました。たった5分です。防災学者は地震がおさまるまで、机の下に隠れなさいと言います。これは内陸部の話です。でも沿岸の場合は、もう待ったなしです。ですから、地震が来たら、とにかく直ぐに高台に逃げると決めていました。
もう一つは、父親から教えがありました。私たちが小さいころから、「地震があったら、何も持たないで早く逃げろ」と言われていました。その父親の話ですが、お菓子屋を始める前には大船渡の海岸にある鉄鋼場職人でした。もともと内陸で生まれたので津波の知識がなかったのですが、昭和8年の地震の時に逃げなかった。水が押し迫ってきて、慌てて逃げたのですが間に合わなかった。そして、近くにあった電柱に駆け上がって、それで助かったそうです。幸いにして電柱が倒れなかったので助かったようなものです。その苦い思い出を私たちに何度も何度も話をしました。その結果、私たちは、地震や津波はとても怖いのだと骨身に染みて感じ入った。
そして昭和35年、皆さんご存知のとおりの、あのチリ地震津波が来ました。この時は、南米チリなので私たちは地震を感じませんでした。しかし、津波は24時間以上かけて、この三陸沿岸に襲い掛かりました。その時、なんと気象庁は津波が来ますと言う注意報も警報も出さなかったのです。早朝の襲来で、私たちは寝ていたのですが、早く起きていた人が、海面が上がったり下がったりするが、これは何だ!ということになった。それで、これは津波だ、津波が来るから早く逃げろということで声をかけてもらった。
その時に、母親の教えが役にたった。母親は「何時なんどきでも何があるか分からないから枕元に服を置いておけ」ということでした。ですから、私たちは起きると直ぐに服を着て逃げ出しました。その時に、我が家には大事な、大事な財産、スクーターがあったのです。あのとき、さいとう製菓の売上は、1日3,000円くらいだったのです。その大事なスクーターを流したら大変だと言うことで、兄が、これを流したら大変だと、一生懸命エンジンをかけていました。それを見た、父親が「そんなもの、どうでも良いから早く逃げろ!」と怒鳴り倒しました。それこそ、悲痛な叫び声をあげて、私たちを逃げさせました。そのお蔭で何とか逃げて助かりました。その時、あと数秒、逃げるのが遅かったら私達はおそらく死んでいたと思います。そして、高台に上がりました。その高台は、今回の大震災で上がった場所と同じ場所です。今回の津波も、ここ。昭和35年も、ここに逃げました。そして、後ろを振り返ると家々が流されていました。そうして助かりましたが、それも、あの父親の言葉で助かったと思っています。
そして、これは現在ですが、このポスターは町内会と共にやったことなんです。まあ、自主防災ということで、「地震だ!津波だ!すぐ逃げろ!」という標語を大きく書きました。しかも、逃げる経路、逃げる先が明示してあります。大震災以降は、どこでもありますが、当時は珍しかったのです。私たちは、社員が、これを見ていたので全員が助かったのだと信じていました。昨年、NHKの方が、「あの日あの時」という番組で取材にこられました。私は、我が社は、「こういうことをやっていたので全員助かりました」と鼻高々に話をしました。そうしたら、NHKの方は「それでは、社員の人達にも聞いてみましょう」ということで、仮設の本店に行ったのです。NHKの人は店長、店員を捕まえて「こういうポスターがあったそうですが、ご存知でしたか?」と聞いたそうです。そしたら、聞かれた店員が「そんなポスターあったんですか?」と言ったそうです。NHKの方は、その後で、わざわざ私の所に戻ってきて、その様子を報告してくれましたが、私は、恥ずかしくて顔から火が出ました。その店員さん、毎日、ポスターの前を通っていたんです。なのに、それが見えていないのです。私たちもいつも見ているのにわからないものが沢山あります。例えば信号機の赤と青は左か右かと問われて直ぐに答えられないでしょう。
これは大震災当日から14日までの話ですが、この時に家が1軒流れ始めましたよね。この時から私は記憶が全くないのです。映像の中では悲鳴を上げたり、「何が堤防だ!」とか申しておりましたが、実は、その記憶が全くないのです。記憶が戻った時の私は、高台の崖っぷちで映像を撮っていました。もう2-3m下は水が流れている状況で、ここに居ては危ないと思った時でした。私の背後には社員や町内会の人が沢山いたのです。そこで、「皆、逃げろ」と叫んで後ろを振り返ったら、もう皆、もっと高台に逃げて誰も居ませんでした。
次に、3つ目の早く逃げなくてはならない理由です。普段から車も大事な財産だから流しては大変だと思っていました。その時に大事なことは、誰よりも早く逃げることです。そうしないと渋滞に巻き込まれたら、もう逃げようがない。それでも、もう10数台が並んでいました。それを我慢して、何とか高台に上がったら、その時には、歩いて逃げた人が先に上がっていた。私は、普段から社員に対して車で逃げるのは駄目だよと言っていたので、社員から大変怒られました。私以外は、社員全員が車を流していました。私みたいなことをしては絶対にだめです。
その後、その車を使って4時間半かけて自宅に戻りました。私は10㎞ほど南に住んでいるので、山間の道を辿りながら、やっとこさ、家に辿り着きました。なにしろカーナビが全く利用できませんでした。家に着いて、最初にしたことは風呂桶に水を汲んだことです。約300リットルくらいの水が溜まりました。その直後に水道が止まったので、その水で何日か暮らしました。
夜を明かして、翌3月12日は、息子とお嫁さんを探しに大船渡にまた戻ってきました。今度は自転車で来ました。山間の一般道を辿りながら大船渡の町に来ました。町の真ん中には流されて壊された家々が集まってできた山がありました。この山は5-6mもある高い山でした。この山の下は、川が流れているのです。ですから、この山の中には沢山のご遺体があったことでしょう。
町に入ると、直ぐに息子は見つかった。しかし、息子の嫁が居ない。お嫁さんは町に真中にあるMaiyaというスーパーの店員をやっていたんです。携帯も通じないので消息不明でした。ラジオからMaiyaの屋上に50人くらいが避難しているという情報があったので降りてくるのを待っていたが、とうとう全員降りてきても嫁の姿はなかった。その後、数か所の避難所を探したが居なかった。前の年に花巻市で結婚したばかりの新婚の夫婦だった。
これはお嫁さんを死なしてしまったと思った。内陸の花巻出身ということで津波の知識がなかったことが災いしたのかと思った。もう諦めて新婚夫婦のアパートに泣きながら訪ねていったら、嫁は、なんと先にそこに戻っていた。私は「良かった、良かった」と泣いて喜びました。本人の話を聞くと、朝、駐車場がなかったので、海岸近くに置いたとのこと。津波で、車を流しては大変と海岸まで走って行って車をスーパーの3階の駐車場まで上げたのだという。結局、その3階の駐車場まであげた車も、結局津波に流されてしまったのです。私も、嫁には、こうした災害が起きる前に津波の話を聞かせるべきだったと心から反省した。
3月13日は陸前高田で一人暮らしをしている叔母を訪ねて行った。父親の妹ですね。今度は、自転車ではなく10㎞以上も歩いて行きました。もちろん町の中は瓦礫で歩けないので山道を歩いていきました。同じように、その山道を力なく歩いている人が沢山いました。その途中で遠戚の女性に出会ったが、私の顔を見ると突然泣き崩れました。自分の夫、妹、両親、家も全て流されたとのこと。その妹さんは、1か月前に松原海岸に家を新築したばかりだという。
そして、私は叔母を探そうと避難所を巡った。どの避難所にも、大きな紙が貼ってあって、そこに居る人の名前が、書いてある。しかし、叔母の名前は、何処にもなかった。やむなく、体育館で叔母の名前を大きな声で何度も呼んだのだが返事はなかった。そして、やむなく町の方へ降りてみた。叔母の家の近くに行って写真を撮ったが、家もないし道路もないので、全くわからない。あちこち探して歩き回っていたら、何の傷もない形の整った車が停車していた。恐る恐る、車の中を見たら若い男性がシートベルトしたまま亡くなっていました。大変気の毒でした。他の車は、皆、せんべいのように潰されていました。その車だけ原型を留めていて、綺麗な状態だった。ご遺体も極めて綺麗な姿でした。
そちこと歩いたら、あちこちの瓦礫の隙間に人が挟まっていた。人だってわかるんです。それと、瓦礫から引き出されたご遺体が、あちこちに並べられていた。私たちと同じように、あの時まで全員呼吸をしていたんです。楽しい家庭があったはずなんです。それが、あの時を境にして命を失って、惨たらしく横たわっていたんです。手を合わせて通り過ぎましたが、まさに地獄でした。地獄の惨状と言うのはこういうものかと心を痛めて家に戻りました。
その後も、叔母は見つからなく、叔母の娘の旦那が4月10日に東京から叔母を探しにやってきた。その旦那と一緒に、陸前高田の小学校の体育館の遺体安置所まで行った。中に入ると消毒用のアルコールの匂いと、1か月も経ったご遺体の匂いで充満していた。中には机が置いてあって写真があった。写真には、顔、全身、遺留品というものが綴ってあった。皆さん、津波と言うと水死だと思うでしょ。違うんです。家の中で亡くなっている方が殆どなので、津波で家が潰されたと同時に一緒に潰された圧死なのです。私が見た写真というのは、顔が潰れていて顔としての原型を留めていないのです。あるいは首のないご遺体、部分遺体など多数ありました。
もう気分が悪くなって帰ろうとしたら、お巡りさんが、「写真だけではなくて、ご遺体を直接に見ないと判りませんよ」と言う。「いやあ、もう私は駄目です。帰ります」と言って帰ろうとしたら、後ろから服を引っ張る人がいた。誰だろうと振り返ると、そこには誰もいませんでした。そんな日々を送って、もう諦めかけていたら、4月中旬になったらインターネットが通じて、いろいろな情報が回り始めました。これは岩手県警が発表した身元不明遺体情報です。何千と言う遺体の中から、女性、70歳以上、身体的特徴(手術痕)で検索した。叔母は、生前、胆嚢の手術をやっていた。3か所穴を開けて手術したが、私が見舞いに行ったときに、「ほれ、見ろ、見ろ」と言って私に見せてくれた。それで、3か所の傷跡ということで、何度も検索してもらったが、とうとう見つからなかった。
あの当時、陸前高田の高校生が仙台空港の沖合で見つかったというので、叔母も、海まで流されたのかと思ってもみた。そうして諦めていたら、12月になって岩手県警から連絡があり、「叔母さんの遺体は墓の中にありました」と言う。手回しよく津波がお墓の中まで流してくれたのかと思ったら、そうではなくて、他所の家族が間違って叔母の遺体を引き取って葬式までやってしまったという話だった。これは遺体の引き渡しミスということで、岩手県警は3名の警官を連れて謝罪に来た。
それで、お坊さんを呼んで読経の中、墓の掘り起しをやってもらったのです。なんと、東京の遺族の所まで、お骨を運んでくださいました。これは大変ありがたいと思いました。そして、間違われたご家族も、あの大混乱の中ですから、しかも、先ほどお話したように遺体の顔の写真を見ても、どこの誰だかわからないのですから、間違ってもしかたがないと私は思いました。ということで、我々の親族では誰も責めるものはおりませんでした。むしろ、岩手県警の方々には遺体を見つけてもらったと感謝しています。未だに、陸前高田は200名以上が行方不明なのですから。大船渡でも70名くらいの方が行方不明です。
14日は、そろそろ会社のこともやらないといけないと思った。会社で一番大事なのはコンピューターだ。コンピューターを救い出そうと会社の2階になんとか上がったら、既に足跡があった。しかし、それは遺体捜索隊の足跡だった。50㎏ほどあるコンピューターを担ぎ上げて高台の車まで運んで、盛岡まで修理のため持って行った。途中、松沢というところで、突然、携帯電話がつながった。そして、東京にいる息子の嫁から電話が入った。そして、嫁はいきなり泣き始めた。何事が起きたかと思って尋ねると、嫁は、「お父さんが生きている」と泣き叫んだ。嫁が東京で聞いた情報では、私たちが住んでいる場所は全員が流されて家が3軒しか残っていないということだった。嫁は私たちが全員死んだと思っていたのだった。4月中旬になって、私どもの北上支店にいったら、店員の女性が私の身体をしきりに触る。肩でも揉んでくれるのかと思ったら。「生きてる。本物だ!」と言った。「足は短いけど付いているぞ。お化けじゃあないよ」と言いました。それほど、あの時は、正確な安否情報が伝わっていなかった。
結局、コンピューターはハードディスクが破壊されていて復旧は出来ませんでした。そして同じ2階にあったはずの、数百キロの重さがある金庫は無くなっていました。中が空洞だと浮いて流されるんですね。幸いにして警察に届いていました。取りに行ったのですが、自分のものだと言う証拠がないので苦労した。壊せばわかると言っても、他人の物は壊せないと押し問答が続いた末に、壊して自分のものだと言う証明ができました。
さて、コンピューターも金庫も2階に置いてあったのですが、なぜ、2階かと言うと、チリ地震津波のときが1階の天井まで水が来たのです。だから、2階なら大丈夫という経験則があった。逆に言えば、津波と言うのは2階まで来ないものだと信じていた。そして、大事なものは2階に上げておけということになった。しかし、今回の津波では、それも、皆、流されてしまいましたが、それでも、それはモノだったから良かった。2階に逃げて亡くなった方が沢山いるんです。そして、チリ地震の時は、ここまでだったから大丈夫と思っていた人が、皆、亡くなった。
これは岩手日報さんが、独自に集計したものです。亡くなった方々の避難行動をグラフ化したものです。亡くなったかたの40%が逃げなかった。避難の途中が19.5%。自宅に戻った方が5.9%。私の叔母も、この逃げなかった一人です。5月になって近所の方から私に電話があった。車で一緒に逃げましょうと誘ったそうです。そうしたら叔母は「ここまで津波が来たことないから大丈夫」と断ったそうです。「もし来たら、隣の東屋旅館の3階に逃げるから大丈夫」と、一緒に逃げていれば助かったのに本当に残念です。
県警の方から聞きました。叔母は自宅から1㎞ほど離れたところで裸で見つかったそうです。裸になるのは、瓦礫と一緒に流れると衣服が取れてしまうからです。写真も見せられました。顔が大きく腫れ上がって、内出血が酷くて紫色とか赤とか黒とか想像つかない色になっていました。叔母だって、顔を見てもよくわかりません。生前の写真と比べたら眉毛がそっくりでDNA鑑定でも明らかなので、やはり叔母だろうと思っています。4月10日に探しに行って、叔母の遺体情報がなかったのは、既に遺族が決まっていたので、身元不明遺体情報から外されていたとのことでした。しかしながら、遺体は火葬待ちということで、4月10日には、あの体育館に未だいたのだそうです。私を後ろから引っ張ったのは、やはり叔母だったのかと思いました。
さて、この自宅に戻って亡くなったかたが5.9%とありますよね。皆さん、何を取りに戻ったと思いますか? お金? 預金通帳? 位牌?ですかね。でも、意外と軽いものなのです。寒いから上着を取りに行ったとか。ペットの餌を取りに行ったとか。もっと酷いのは、海を見に行って亡くなったという方がいたんですよ。絶対に、戻ってはだめです。
次に、避難途中という19.5%の実態を示す写真が幾つかあります。この写真は地震が15時25分ということで地震が起きてから30分後です。大津波警報も出ています。3mの水位も超えました。そういう状況の中、何と、ほら、ここでゆっくり歩いている人が居る。しかも、ここは川でなくて道路なんです。この流れている水は津波の前兆なんです。もう津波が来るまで数十秒です。なのに、ゆっくり歩いている。ここから高台までは結構あります。しかも、近くには高い強固な建物はないのです。なのに悠然とゆっくり歩いている。恐らく、この人は生きていないと思います。
次に示す写真は、津波が、もうすぐ下に来ているところを歩いているおばさんの行動です。津波に襲われるまで、あと2-3分だと思うのですが、あちこちをキョロキョロ見ながら歩いている。しかも、このおばさんの後ろに高台に上る階段の上り口があるんです。なのに、このおばさんは、逆の方向に歩いている。津波が来ると言う意識が全くない。これは最悪です。まずは助からなかったと思います。
次は、大変気の毒な写真です。家が流され、津波が足もとまで押し寄せてくる様子を、この二人の男女は、呑気に見物しているのです。この人たちが居るのは周囲より2mほど高い所です。この直ぐ後で、この二人が逃げ出している写真もありました。後で聞いたのですが、この二人は亡くなったそうです。
この写真は、消防団員さん。27分と言う時間帯は、次の波が覆いかぶさるように来ていた時間帯でした。この方の数十m先に階段の登り口があるのです。この方は、あっち見ている状況ではなかった。直ぐにも走らなくてはならなかった。結局、間に合わなかったそうで亡くなったそうです。
それから、この3人の方。津波の怖さを知らないのか、ゆっくり歩いています。助からなかったと思います。そして、このお爺ちゃん、お婆ちゃん、今まで、ここまで津波が来ないということで自宅に居たそうです。いよいよ近づいたということで逃げ出す。それでも、お爺ちゃんは何とか階段まで辿り着いたのですが、お婆ちゃんが流されて、未だに行方不明だそうです。それを聞いたお爺ちゃんも、ショックで、数日後に亡くなったそうです。
まだまだ、斉藤館長の話は続くのですが、要は、「津波の恐ろしさ」を知らないがゆえに逃げ遅れて亡くなった方が余りに多かったということです。斉藤館長は、残された人生を「津波の恐ろしさ」の語り部として、毎日、毎日、この話を続けられるに違いない。