2013年10月 のアーカイブ

248 大船渡 津波伝承館

2013年10月18日 金曜日

この映像は、岩手県大船渡市にある銘菓「かもめの玉子」で有名な、さいとう製菓 斉藤俊明社長が撮影した津波映像です。たった10分で、大船渡の町は津波によって徹底的に破壊されてしまいます。映像中、「なんだ、防波堤ってなんなんだ、全く、役に立たないじゃあないか」という叫び声が心に残りました。

http://www.youtube.com/watch?v=SR2kOR2Ihf0

この、さいとう製菓の副社長である斉藤賢治さんが、さいとう製菓工場敷地内に作られた大船渡 津波伝承館で、後世の人達が命を無駄にしないために、津波に対する恐ろしさ、そして津波に対する正しい知識を持ってもらいたいと語り部になっています。

 海岸近くにある、さいとう製菓の本社では、地震発生と同時に社長が率先して社員に近くの高台避難を呼びかけ、社員全員が助かっている。社内の随所に貼ってあるポスターには「地震だ! 津波だ! さあ逃げろ!!」の標語が大きく書かれており、斉藤社長は、このポスターが社員の心に刻まれていたために、皆の命が助かったのだと思い込んでいた。しかし、社員は、こんなに沢山貼ってあったポスターの存在には全く気に留めていなかった。

「そんなポスター、どこに貼ってあったかしら」という社員の声を聴き、これは何かしないと、また悲劇は繰り返される、斉藤社長は、そう思われたに違いない。斉藤社長が撮った映像には、助かるはずなのに、津波の恐ろしさを知らなかったために命を落とした人々の映像が、しっかりと映っている。津波のことを、もっと皆が恐ろしいと考えていたら助かった人が沢山いたそうです。

津波から助かる唯一の方法は、津波に対しての恐れを抱くことだと思われた斉藤社長は、後世の人達に津波の恐ろしさを知ってもらうことが重要だと思われた。大船渡 津波伝承館は、斉藤社長が私財を投げ打って作られ、社長の弟さんである斉藤賢治さんが、兄の志を受け継ぎ館長として津波伝承を続けておられます。

以下に、斉藤賢治津波伝承館館長の語りの一部をご紹介します。

この写真は先ほどの映像のワンカットです。ここに時間があるのですが、2分52秒ということなのですが、海水が陸に上がり始めてからの経過時間です。ここに1.8mぐらいの堤防があります。その堤防を水が超えている。しかも、ここの県道があるのですが、水が溢れてきている。そういう状況の中で、こういう車が居たんです。この車は朝日生命の職員なんです。この車は、水が溢れていう方に行ってしまいました。私も大変気になっていたんですが、5月に朝日生命から安否確認の電話がきたので、その時に、この車、どうなりましたか?と聞きました。そうしたら、辛うじて助かりましたと言う御話でした。水を蹴散らかしながら高台に通じる道に逃げたと言うことなんです。

しかし、この車が行って、数秒したら、また1台同じ方向に車が行っちゃったんです。その車、ここに写っています。自動販売機が流されている中を運転しているのは女性でした。私たちは、高台から、この女性を見ていましたが、この方は、ブレーキを一生懸命踏み、全身を強ばらせながら流れていったんです。でも、私達にはどうすることも出来ませんでした。

その時の経過時間は4分です。その1分後、戻ってきたのですが、向こうに行って水が溢れているので停まったのではないか? そして、そこでUターンをすればおそらく助かったのではなかったかと思います。前の車は、そのまま突き抜けて助かったのですが、この車は流されてしまいました。その時に水の深さ。20cmの高さの縁石が見えないで歩道が見えているので、おおよそ水の深さは30cmだと思われます。ですから、わずか30cmの水の深さで、もう運転不能となり流されてしまいました。

そして、この水の速さ、一般的には時速20㎞とも30㎞とも言われています。車の速度に比べると大変遅いわけなのですが、人間のスピードと比べてみましょう。オリンピックの選手が100mを10秒で走るとしても時速36㎞です。ですから私たちがいくら若くても津波の速度に打ち勝って逃げとおせるものではありません。津波が来る前に高い所へ行っていなければなりません。

それから、皆さん、水が溢れているのに、なぜその方向に行くのか?と思うでしょう。実は、車からは周囲の状況が見えないのです。家々が建っているために、水が溢れているというのが判らないのです。

もう一つは、普段から使っている道路というと、何も考えないで行ってしまうのです。それから、もう一つは家族が向こうに居る場合です。特に、小さいお子さんがいるとなると親心としたら、火の中、水の中へ飛び込んでも当然だと思います。ですから、平生から、こうした場合にどうするか、家族でよく話し合っておく必要があります。

普段から、こういう場所を通っているときに津波がきたら、どっちへ逃げるかを想定して訓練していないとまずいです。そのことを、いつも頭の中に入れて行動をとるということが助かることの道です。

先ほどの写真、実は、私たちは地震がおさまる前に、もう避難行動に入っていました。これは3つほどの理由がありました。一つは北海道の奥尻島、あそこで地震がありましたが、なんと5分で津波が来ました。たった5分です。防災学者は地震がおさまるまで、机の下に隠れなさいと言います。これは内陸部の話です。でも沿岸の場合は、もう待ったなしです。ですから、地震が来たら、とにかく直ぐに高台に逃げると決めていました。

もう一つは、父親から教えがありました。私たちが小さいころから、「地震があったら、何も持たないで早く逃げろ」と言われていました。その父親の話ですが、お菓子屋を始める前には大船渡の海岸にある鉄鋼場職人でした。もともと内陸で生まれたので津波の知識がなかったのですが、昭和8年の地震の時に逃げなかった。水が押し迫ってきて、慌てて逃げたのですが間に合わなかった。そして、近くにあった電柱に駆け上がって、それで助かったそうです。幸いにして電柱が倒れなかったので助かったようなものです。その苦い思い出を私たちに何度も何度も話をしました。その結果、私たちは、地震や津波はとても怖いのだと骨身に染みて感じ入った。

そして昭和35年、皆さんご存知のとおりの、あのチリ地震津波が来ました。この時は、南米チリなので私たちは地震を感じませんでした。しかし、津波は24時間以上かけて、この三陸沿岸に襲い掛かりました。その時、なんと気象庁は津波が来ますと言う注意報も警報も出さなかったのです。早朝の襲来で、私たちは寝ていたのですが、早く起きていた人が、海面が上がったり下がったりするが、これは何だ!ということになった。それで、これは津波だ、津波が来るから早く逃げろということで声をかけてもらった。

その時に、母親の教えが役にたった。母親は「何時なんどきでも何があるか分からないから枕元に服を置いておけ」ということでした。ですから、私たちは起きると直ぐに服を着て逃げ出しました。その時に、我が家には大事な、大事な財産、スクーターがあったのです。あのとき、さいとう製菓の売上は、1日3,000円くらいだったのです。その大事なスクーターを流したら大変だと言うことで、兄が、これを流したら大変だと、一生懸命エンジンをかけていました。それを見た、父親が「そんなもの、どうでも良いから早く逃げろ!」と怒鳴り倒しました。それこそ、悲痛な叫び声をあげて、私たちを逃げさせました。そのお蔭で何とか逃げて助かりました。その時、あと数秒、逃げるのが遅かったら私達はおそらく死んでいたと思います。そして、高台に上がりました。その高台は、今回の大震災で上がった場所と同じ場所です。今回の津波も、ここ。昭和35年も、ここに逃げました。そして、後ろを振り返ると家々が流されていました。そうして助かりましたが、それも、あの父親の言葉で助かったと思っています。

そして、これは現在ですが、このポスターは町内会と共にやったことなんです。まあ、自主防災ということで、「地震だ!津波だ!すぐ逃げろ!」という標語を大きく書きました。しかも、逃げる経路、逃げる先が明示してあります。大震災以降は、どこでもありますが、当時は珍しかったのです。私たちは、社員が、これを見ていたので全員が助かったのだと信じていました。昨年、NHKの方が、「あの日あの時」という番組で取材にこられました。私は、我が社は、「こういうことをやっていたので全員助かりました」と鼻高々に話をしました。そうしたら、NHKの方は「それでは、社員の人達にも聞いてみましょう」ということで、仮設の本店に行ったのです。NHKの人は店長、店員を捕まえて「こういうポスターがあったそうですが、ご存知でしたか?」と聞いたそうです。そしたら、聞かれた店員が「そんなポスターあったんですか?」と言ったそうです。NHKの方は、その後で、わざわざ私の所に戻ってきて、その様子を報告してくれましたが、私は、恥ずかしくて顔から火が出ました。その店員さん、毎日、ポスターの前を通っていたんです。なのに、それが見えていないのです。私たちもいつも見ているのにわからないものが沢山あります。例えば信号機の赤と青は左か右かと問われて直ぐに答えられないでしょう。

これは大震災当日から14日までの話ですが、この時に家が1軒流れ始めましたよね。この時から私は記憶が全くないのです。映像の中では悲鳴を上げたり、「何が堤防だ!」とか申しておりましたが、実は、その記憶が全くないのです。記憶が戻った時の私は、高台の崖っぷちで映像を撮っていました。もう2-3m下は水が流れている状況で、ここに居ては危ないと思った時でした。私の背後には社員や町内会の人が沢山いたのです。そこで、「皆、逃げろ」と叫んで後ろを振り返ったら、もう皆、もっと高台に逃げて誰も居ませんでした。

次に、3つ目の早く逃げなくてはならない理由です。普段から車も大事な財産だから流しては大変だと思っていました。その時に大事なことは、誰よりも早く逃げることです。そうしないと渋滞に巻き込まれたら、もう逃げようがない。それでも、もう10数台が並んでいました。それを我慢して、何とか高台に上がったら、その時には、歩いて逃げた人が先に上がっていた。私は、普段から社員に対して車で逃げるのは駄目だよと言っていたので、社員から大変怒られました。私以外は、社員全員が車を流していました。私みたいなことをしては絶対にだめです。

その後、その車を使って4時間半かけて自宅に戻りました。私は10㎞ほど南に住んでいるので、山間の道を辿りながら、やっとこさ、家に辿り着きました。なにしろカーナビが全く利用できませんでした。家に着いて、最初にしたことは風呂桶に水を汲んだことです。約300リットルくらいの水が溜まりました。その直後に水道が止まったので、その水で何日か暮らしました。

夜を明かして、翌3月12日は、息子とお嫁さんを探しに大船渡にまた戻ってきました。今度は自転車で来ました。山間の一般道を辿りながら大船渡の町に来ました。町の真ん中には流されて壊された家々が集まってできた山がありました。この山は5-6mもある高い山でした。この山の下は、川が流れているのです。ですから、この山の中には沢山のご遺体があったことでしょう。

町に入ると、直ぐに息子は見つかった。しかし、息子の嫁が居ない。お嫁さんは町に真中にあるMaiyaというスーパーの店員をやっていたんです。携帯も通じないので消息不明でした。ラジオからMaiyaの屋上に50人くらいが避難しているという情報があったので降りてくるのを待っていたが、とうとう全員降りてきても嫁の姿はなかった。その後、数か所の避難所を探したが居なかった。前の年に花巻市で結婚したばかりの新婚の夫婦だった。

これはお嫁さんを死なしてしまったと思った。内陸の花巻出身ということで津波の知識がなかったことが災いしたのかと思った。もう諦めて新婚夫婦のアパートに泣きながら訪ねていったら、嫁は、なんと先にそこに戻っていた。私は「良かった、良かった」と泣いて喜びました。本人の話を聞くと、朝、駐車場がなかったので、海岸近くに置いたとのこと。津波で、車を流しては大変と海岸まで走って行って車をスーパーの3階の駐車場まで上げたのだという。結局、その3階の駐車場まであげた車も、結局津波に流されてしまったのです。私も、嫁には、こうした災害が起きる前に津波の話を聞かせるべきだったと心から反省した。

3月13日は陸前高田で一人暮らしをしている叔母を訪ねて行った。父親の妹ですね。今度は、自転車ではなく10㎞以上も歩いて行きました。もちろん町の中は瓦礫で歩けないので山道を歩いていきました。同じように、その山道を力なく歩いている人が沢山いました。その途中で遠戚の女性に出会ったが、私の顔を見ると突然泣き崩れました。自分の夫、妹、両親、家も全て流されたとのこと。その妹さんは、1か月前に松原海岸に家を新築したばかりだという。

そして、私は叔母を探そうと避難所を巡った。どの避難所にも、大きな紙が貼ってあって、そこに居る人の名前が、書いてある。しかし、叔母の名前は、何処にもなかった。やむなく、体育館で叔母の名前を大きな声で何度も呼んだのだが返事はなかった。そして、やむなく町の方へ降りてみた。叔母の家の近くに行って写真を撮ったが、家もないし道路もないので、全くわからない。あちこち探して歩き回っていたら、何の傷もない形の整った車が停車していた。恐る恐る、車の中を見たら若い男性がシートベルトしたまま亡くなっていました。大変気の毒でした。他の車は、皆、せんべいのように潰されていました。その車だけ原型を留めていて、綺麗な状態だった。ご遺体も極めて綺麗な姿でした。

そちこと歩いたら、あちこちの瓦礫の隙間に人が挟まっていた。人だってわかるんです。それと、瓦礫から引き出されたご遺体が、あちこちに並べられていた。私たちと同じように、あの時まで全員呼吸をしていたんです。楽しい家庭があったはずなんです。それが、あの時を境にして命を失って、惨たらしく横たわっていたんです。手を合わせて通り過ぎましたが、まさに地獄でした。地獄の惨状と言うのはこういうものかと心を痛めて家に戻りました。

その後も、叔母は見つからなく、叔母の娘の旦那が4月10日に東京から叔母を探しにやってきた。その旦那と一緒に、陸前高田の小学校の体育館の遺体安置所まで行った。中に入ると消毒用のアルコールの匂いと、1か月も経ったご遺体の匂いで充満していた。中には机が置いてあって写真があった。写真には、顔、全身、遺留品というものが綴ってあった。皆さん、津波と言うと水死だと思うでしょ。違うんです。家の中で亡くなっている方が殆どなので、津波で家が潰されたと同時に一緒に潰された圧死なのです。私が見た写真というのは、顔が潰れていて顔としての原型を留めていないのです。あるいは首のないご遺体、部分遺体など多数ありました。

もう気分が悪くなって帰ろうとしたら、お巡りさんが、「写真だけではなくて、ご遺体を直接に見ないと判りませんよ」と言う。「いやあ、もう私は駄目です。帰ります」と言って帰ろうとしたら、後ろから服を引っ張る人がいた。誰だろうと振り返ると、そこには誰もいませんでした。そんな日々を送って、もう諦めかけていたら、4月中旬になったらインターネットが通じて、いろいろな情報が回り始めました。これは岩手県警が発表した身元不明遺体情報です。何千と言う遺体の中から、女性、70歳以上、身体的特徴(手術痕)で検索した。叔母は、生前、胆嚢の手術をやっていた。3か所穴を開けて手術したが、私が見舞いに行ったときに、「ほれ、見ろ、見ろ」と言って私に見せてくれた。それで、3か所の傷跡ということで、何度も検索してもらったが、とうとう見つからなかった。

あの当時、陸前高田の高校生が仙台空港の沖合で見つかったというので、叔母も、海まで流されたのかと思ってもみた。そうして諦めていたら、12月になって岩手県警から連絡があり、「叔母さんの遺体は墓の中にありました」と言う。手回しよく津波がお墓の中まで流してくれたのかと思ったら、そうではなくて、他所の家族が間違って叔母の遺体を引き取って葬式までやってしまったという話だった。これは遺体の引き渡しミスということで、岩手県警は3名の警官を連れて謝罪に来た。

それで、お坊さんを呼んで読経の中、墓の掘り起しをやってもらったのです。なんと、東京の遺族の所まで、お骨を運んでくださいました。これは大変ありがたいと思いました。そして、間違われたご家族も、あの大混乱の中ですから、しかも、先ほどお話したように遺体の顔の写真を見ても、どこの誰だかわからないのですから、間違ってもしかたがないと私は思いました。ということで、我々の親族では誰も責めるものはおりませんでした。むしろ、岩手県警の方々には遺体を見つけてもらったと感謝しています。未だに、陸前高田は200名以上が行方不明なのですから。大船渡でも70名くらいの方が行方不明です。

14日は、そろそろ会社のこともやらないといけないと思った。会社で一番大事なのはコンピューターだ。コンピューターを救い出そうと会社の2階になんとか上がったら、既に足跡があった。しかし、それは遺体捜索隊の足跡だった。50㎏ほどあるコンピューターを担ぎ上げて高台の車まで運んで、盛岡まで修理のため持って行った。途中、松沢というところで、突然、携帯電話がつながった。そして、東京にいる息子の嫁から電話が入った。そして、嫁はいきなり泣き始めた。何事が起きたかと思って尋ねると、嫁は、「お父さんが生きている」と泣き叫んだ。嫁が東京で聞いた情報では、私たちが住んでいる場所は全員が流されて家が3軒しか残っていないということだった。嫁は私たちが全員死んだと思っていたのだった。4月中旬になって、私どもの北上支店にいったら、店員の女性が私の身体をしきりに触る。肩でも揉んでくれるのかと思ったら。「生きてる。本物だ!」と言った。「足は短いけど付いているぞ。お化けじゃあないよ」と言いました。それほど、あの時は、正確な安否情報が伝わっていなかった。

結局、コンピューターはハードディスクが破壊されていて復旧は出来ませんでした。そして同じ2階にあったはずの、数百キロの重さがある金庫は無くなっていました。中が空洞だと浮いて流されるんですね。幸いにして警察に届いていました。取りに行ったのですが、自分のものだと言う証拠がないので苦労した。壊せばわかると言っても、他人の物は壊せないと押し問答が続いた末に、壊して自分のものだと言う証明ができました。

さて、コンピューターも金庫も2階に置いてあったのですが、なぜ、2階かと言うと、チリ地震津波のときが1階の天井まで水が来たのです。だから、2階なら大丈夫という経験則があった。逆に言えば、津波と言うのは2階まで来ないものだと信じていた。そして、大事なものは2階に上げておけということになった。しかし、今回の津波では、それも、皆、流されてしまいましたが、それでも、それはモノだったから良かった。2階に逃げて亡くなった方が沢山いるんです。そして、チリ地震の時は、ここまでだったから大丈夫と思っていた人が、皆、亡くなった。

これは岩手日報さんが、独自に集計したものです。亡くなった方々の避難行動をグラフ化したものです。亡くなったかたの40%が逃げなかった。避難の途中が19.5%。自宅に戻った方が5.9%。私の叔母も、この逃げなかった一人です。5月になって近所の方から私に電話があった。車で一緒に逃げましょうと誘ったそうです。そうしたら叔母は「ここまで津波が来たことないから大丈夫」と断ったそうです。「もし来たら、隣の東屋旅館の3階に逃げるから大丈夫」と、一緒に逃げていれば助かったのに本当に残念です。

県警の方から聞きました。叔母は自宅から1㎞ほど離れたところで裸で見つかったそうです。裸になるのは、瓦礫と一緒に流れると衣服が取れてしまうからです。写真も見せられました。顔が大きく腫れ上がって、内出血が酷くて紫色とか赤とか黒とか想像つかない色になっていました。叔母だって、顔を見てもよくわかりません。生前の写真と比べたら眉毛がそっくりでDNA鑑定でも明らかなので、やはり叔母だろうと思っています。4月10日に探しに行って、叔母の遺体情報がなかったのは、既に遺族が決まっていたので、身元不明遺体情報から外されていたとのことでした。しかしながら、遺体は火葬待ちということで、4月10日には、あの体育館に未だいたのだそうです。私を後ろから引っ張ったのは、やはり叔母だったのかと思いました。

さて、この自宅に戻って亡くなったかたが5.9%とありますよね。皆さん、何を取りに戻ったと思いますか? お金? 預金通帳? 位牌?ですかね。でも、意外と軽いものなのです。寒いから上着を取りに行ったとか。ペットの餌を取りに行ったとか。もっと酷いのは、海を見に行って亡くなったという方がいたんですよ。絶対に、戻ってはだめです。

次に、避難途中という19.5%の実態を示す写真が幾つかあります。この写真は地震が15時25分ということで地震が起きてから30分後です。大津波警報も出ています。3mの水位も超えました。そういう状況の中、何と、ほら、ここでゆっくり歩いている人が居る。しかも、ここは川でなくて道路なんです。この流れている水は津波の前兆なんです。もう津波が来るまで数十秒です。なのに、ゆっくり歩いている。ここから高台までは結構あります。しかも、近くには高い強固な建物はないのです。なのに悠然とゆっくり歩いている。恐らく、この人は生きていないと思います。

次に示す写真は、津波が、もうすぐ下に来ているところを歩いているおばさんの行動です。津波に襲われるまで、あと2-3分だと思うのですが、あちこちをキョロキョロ見ながら歩いている。しかも、このおばさんの後ろに高台に上る階段の上り口があるんです。なのに、このおばさんは、逆の方向に歩いている。津波が来ると言う意識が全くない。これは最悪です。まずは助からなかったと思います。

次は、大変気の毒な写真です。家が流され、津波が足もとまで押し寄せてくる様子を、この二人の男女は、呑気に見物しているのです。この人たちが居るのは周囲より2mほど高い所です。この直ぐ後で、この二人が逃げ出している写真もありました。後で聞いたのですが、この二人は亡くなったそうです。

この写真は、消防団員さん。27分と言う時間帯は、次の波が覆いかぶさるように来ていた時間帯でした。この方の数十m先に階段の登り口があるのです。この方は、あっち見ている状況ではなかった。直ぐにも走らなくてはならなかった。結局、間に合わなかったそうで亡くなったそうです。

それから、この3人の方。津波の怖さを知らないのか、ゆっくり歩いています。助からなかったと思います。そして、このお爺ちゃん、お婆ちゃん、今まで、ここまで津波が来ないということで自宅に居たそうです。いよいよ近づいたということで逃げ出す。それでも、お爺ちゃんは何とか階段まで辿り着いたのですが、お婆ちゃんが流されて、未だに行方不明だそうです。それを聞いたお爺ちゃんも、ショックで、数日後に亡くなったそうです。

まだまだ、斉藤館長の話は続くのですが、要は、「津波の恐ろしさ」を知らないがゆえに逃げ遅れて亡くなった方が余りに多かったということです。斉藤館長は、残された人生を「津波の恐ろしさ」の語り部として、毎日、毎日、この話を続けられるに違いない。

247 東海新報、鈴木社長 地方紙の役割を語る

2013年10月16日 水曜日

東海新報社は岩手県気仙地区(大船渡市・陸前高田市・住田町)を主な対象とした地域新聞社で、その鈴木社長(二代目)はチリ地震津波を経験しており、自分が社長になってから高台に社屋を移転された。数年前には災害に備えて自家発電を設置していたため当日に号外が発行できた。翌日はカラーコピー、翌々日から輪転機で発行し、地域の被災者情報を共有するため3月中は全戸に無料で新聞を配達された。

そんな鈴木社長は70歳とは思えない若さで、なにしろ好奇心が旺盛な方である。社長室には数機の無線操縦ヘリコプターが所狭しと並んでいて、なにやら飛行機野郎の実験室のようでもあった。若いころからコンピュータに対する造詣も深く、小規模な新聞社にあったコンパクトなシステムを構築されている。これからはクラウドを利用し、一層、地域密着型のローカル紙の利点を活かして行こうとされている。今回の大震災は、そうした鈴木社長の新たな挑戦に向けて良い機会を与えてくれたのかも知れない。

そんな鈴木社長の、気仙地区復興への思いをインタビューさせて頂いた。

私は、その日は会社に居ました。凄い地震だったので、皆、外へ出ました。建物が倒れるのではと心配した。外へ出たけど立っていられないほどの揺れだった。これは津波が来るなと思いました。普段から、訓練をしていたわけではないが、いつか来るだろうとは思っていた。来たら、それなりに対応するしかないと思っていた。これは確実に津波が来ると言う事は確信した。私は高校2年生の時にチリ地震津波を経験している。その時には高台に避難して見ていた。その時は、この社屋は、ずっと下にあった。昭和33年に親父が創業したんですが、2年後の昭和35年にチリ地震が来た。早朝だったけれども、皆が騒ぎ出しましてね。なにしろ、地震も何もなかったですからね。海水が引く状況が見えたんですね。皆が、大騒ぎするものだから、我々も高台に逃げたんですね。それから津波が来て、今回と状況は似てましたね。

水が引いたので、海を見ようと沖の方へ歩いて行った人が一杯いたんですよ。でも、波が来たらもう逃げられなくて見てる間に波にさらわれた状況がありますから、津波の恐ろしさは私は判っているつもりでした。でも、当時の波が来たあたりまでが津波がくるところだと、皆、思ったんですね。そうした経験則が仇になったんですね。当時、津波が来なかった場所に住んで居た方々は、ここまでは津波が来ないと勝手に思い込んで、それで、その方達が、皆、今回犠牲になっています。そう釜石市のハザードマップも、かなりいい加減だった。

とにかく避難所が被災したところが結構沢山あった。行政の責任が問われているけれども、住民の、今までの経験が災いしたとしか言えない。明治29年も昭和8年の津波も、この辺は、昭和35年のチリ地震のレベルしか津波が来ていないのです。それは、何故かと言うと、津波はもちろん大きかったのですが、震源が北なんですよ。つまり、ここの大船渡の湾口は南を向いているのです。だから、震源が南だったら怖いよという認識は、我々は持っていた。しかし、今回の3連弾の地震の震源は全て南だった。湾の形と震源の方向で、津波被害の大きさが異なると言う認識を持っていない人が殆どだったのではないか。防災教育と言うのはあって無きがごとしだった。

私は、最初からずっと見ていましたが、大船渡湾は深いので水が引くと言うのは見えないで、いきなり波がやってきたという感じだった。何度も津波が繰り返しているうちに、まず灯台がひっくり返って、それから防波堤が全て壊された。沖合から再び流れ込んできた瓦礫が鳴戸の渦のようにぐるぐる回っていた。その様子は社員が全てビデオに記録していたので、後でDVDで出版した。

今の高台に移転するまえの社屋では停電で2週間ほど新聞を発行できなかった。その悔しさを繰り返してはならないと、震災の2年前に自家発電装置を装備した。そろそろ来るのではないかという予感がしたんですね。我々の規模には不釣り合いだと思ったが、いざと言うときには新聞社としての責任が果たせないと思い投資した。お蔭様で、当日、号外を出して、翌日からは輪転機を回すことが出来ました。全ての通信手段が途絶えた中で、ラジオだけが有効だったが、ラジオも全県のニュースなので、大船渡近辺をピンポイントで伝えると言う事はなかなか難しかった。そうした経験を活かして、防災メディア通信協議会を作って、WiMaxとFM放送を当社で引き受けてやっています。

我々は、防波堤が出来て安心だと思っていた。しかし、実際にはイザと言う時には役に立たなかった。その上、防波堤のために湾内がすっかり汚染されてヘドロが3mも4mも積もる状況だった。しかし、津波が防波堤を壊して、湾内に積もっていたヘドロを全て外海に持っていったので湾内はすっかり綺麗になった。その結果、素晴らしい牡蠣が育つようになった。気仙沼の畠山さんも、同じことを言っていたし、石巻でも牡蠣の成長が極めて早くなったと言っていた。私は、個人的には、もう防波堤なんて要らないと思っていたんです。しかし、住民の意見なんて全く聞かないで、防波堤建設の計画が既に組み込まれていた。住民も防波堤が、牡蠣の養殖の邪魔をしていると言うのは判っているんだけれども、人命の尊重と言う論理を持ち出されると、やはり防波堤建設には反対はできない。しかし、今回、湾内と外海とを海水が行き来するトンネルを付けた防波堤にするということは、地元水産業のためには大変良いことだと思っている。

気仙沼市は、常設の防波堤を建設するのではなくて、普段は海底に沈んでいて津波が来た時に浮力で浮き上がる「フラップゲート」っていうんですか? それにしたいって要望を出したんですよ。そうですか、あのフラップゲートって日立造船で開発したんですか。私は、こういうものが良いと、何度も新聞のコラムで書きました。ところが、宮城県知事は、そんなものは実績がないと言って認めなかったんです。今回、津波で簡単に破壊されたコンクリートの防波堤は、一体、何の実績があるのかって言いたいですよね。

今回、一番防潮堤としての役目を果たしたのが島だった。松島なんかは、津波を相互干渉で弱体化してしまった。こちらも赤崎川の方は小さな島が沢山ありましてね、赤崎川の被害は小さかったんですよ。だから、海底から島のように飛び出してくるようなものがあれば良いのではないかと私は思っている。人工島がばあーっと沢山浮き上がれば、それは強い防波堤になると思います。

これはね。無線操縦のヘリコプターなんですよ。津波後の復興の状況を空から撮り続けたいと思って買ったんですよ。内みたいな小さな新聞社は、いちいちヘリコプターをチャーターするお金はないので自分でやるしかないんです。大船渡の町が復興していく様を、定点観測したいと思って買ったんです。このヘリコプターは中国製ですが日本へ輸入された第一号機です。GPSもついていて、安定して飛びます。中国って凄いですね。日本より進んでいるんじゃあないかな。

そして、このカメラが凄いんです。自由にどちらの方向も見える。ヘリコプターの機体操縦とカメラの遠隔操作とコントロールボックスは二つあるんです。だから二人一組で操縦して写真や動画を撮るんです。ただ、電池が重たいので飛行時間は7分くらいしか飛べない。そこが難点ですね。スイス製の発泡スチロールの無人飛行機は電池で40分くらい飛んでいるそうです。今度、それを購入しようかと思っているんです。

私、最初にパソコン買ったのは富士通製でした。CPM86っていうOSで、これは実に面白かった。CPMは素晴らしかったのに、なぜMS-DOSに負けたんだろうな。その後、ワープロ、富士通のOASYSを導入しました。もう、紙と鉛筆で記事を書いている時代じゃないと思ったんですよ。今は、組版から何もかも、全てパソコンで済んでいる。昔だと2億円近いシステムが、パソコン1台で出来ますからね。ありがたいですね。デジカメもそうですね。今の新聞記者は、これだけの情報装備を個人で持てるのだから、やる気さえあれば、大新聞に絶対に負けることはないはずです。

電子版も近々出そうと思っています。それも富士通のクラウドを使ってやろうと思っています。SAASですよね。今は、何かやりたいと思えば、それほどお金をかけなくても何でもやれますね。今、大新聞が苦戦しているが、アメリカでは60社ほどの地方紙を買収して、ハイパーローカルという地域を大事にした地方紙連合体という動きがある。ネットの時代だからこそ、地域やコミュニティーの重要さが際立って来ているように思いますね。

以上が、鈴木社長へのインタビューであるが、鈴木さんは学生時代には楽団でティンパニーを演奏しておられた。ティンパニーは単なる打楽器ではないと鈴木さんは力説する。ベートーベンが、一番、ティンパニーを愛していた作曲家で、自分はベートーベンを尊敬していると仰る、鈴木さんだが、今は、サキソフォンを吹いている。地元、大船渡の港には小さな練習場も持っておられ、毎週仲間同士で演奏をされている。それを聞きつけた米国の慈善団体の招きでシカゴまで行き、現地のジャズ演奏家とセッションもされた。本当にカッコ良い70歳である。今後とも、気仙地区復興のリーダーとしてますます活躍して頂きたいと思っている。

246 大船渡 森下水産 第二の創業

2013年10月16日 水曜日

岩手三陸沿岸の最大の産業は水産業。そして、このたびの大震災で壊滅的な被害を受けたのも水産業だ。復興の兆しが見え始めた大船渡の町で、真新しい工場や倉庫群を持ち、活況を呈しているように見える森下水産の森下幹生社長からお話を伺った。宍戸錠を思い起こさせる映画スターのような風貌の森下社長は、この森下水産の創業者でもある。同業者の買収と大型冷凍庫の新設という大型投資をした直後の壊滅的な被災だった。100人ほどの従業員も全員解雇、19人いた中国人研修生も全員、新潟から帰国させた。

今年は、地元サンマの思いがけない早い水揚げで8月から活況を呈していて、従業員も90人まで再雇用にこぎつけた。それでも売り上げは最盛期の半分までも到達していない。ありがたいのは、まだ研修期間が残っていた11人の中国人研修生が家族の反対を押し切って戻ってきてくれたこと。津波で全て流されたという中国からのお土産を飾る棚には、また新たな中国からのお土産が飾られていた。

森下社長のお話を聞いた後、サンマとイカの加工場を見学させて頂いた。国際規格を取得した清潔な作業場は、魚の生臭い匂いが全くしない。取れたばかりのサンマを次々とベルトコンベアーから飲み込んでいく瞬間冷凍機には、クロネコヤマトのヤマト財団が寄付したことを示すラベルが貼られていた。このように、多くの方々の支援が森下社長の心意気を支えている。岡本行夫さんの提案で起こされた「希望の烽火プロジェクト」、日本郵船、三菱商事、トヨタ、キャノン、富士通など多くの日本企業がコンテナを改造した冷凍庫にも大いに助けられたと森下社長は大変感謝しておられた。

その森下社長から、震災直後から今日の復興までの道のりを伺った。以下、お話の概要をまとめてみた。

大船渡に冷蔵庫・水産加工業者の組合があり、私は、そこに勤務していた。そこで購買担当だったのだが、さんまの買い付けのやり方、付加価値のつけ方、もっと良いやり方があるのではないかと思った。しかし、文句を言うのは簡単で誰でも出来る。だから、私は自分で責任をとる形でやりたいと思った。それから30年くらいたった。もちろん、多くの失敗もした。

今回、同業者を買収し、冷凍庫設備を増設した直後に津波を受けた。これも運命だなと覚悟した。本当に大変な経験をした。最初は、私も心が折れましたね。思考停止状態になって、もうやめようと思った。やめようと言うより、もう、やれないなと思いました。

震災前は、従業員は100人いた。内、中国人研修生(若い女性)が19名いた。震災直後、全員を解雇したが、工場再開に伴い、今は、ようやく90名まで復活した。中国人研修生とは震災直後、盛小学校で10日間ほど一緒に避難生活を送ったが、中国政府がチャーター便を新潟空港まで引き取りに来たので、新潟まで送って行って、一度、本国に全員帰国させた。しかし、その年の8月には11人がまた大船渡に戻ってきた。

中国の家族は日本列島全体が放射能で汚染されていると言う意識で、日本へ戻ることを大分反対されたらしいが、研修生も、この惨状を見て帰ったので、会社が一部再開したことを聞いて自分たちも何とか手助けしたいという思いが強かったようです。ありがたいことです。

従業員は2名亡くなった。1名は避難途中に、もう1名は、たまたまその日だけ、自己都合で休暇中のところ自宅にいた所を流された。従業員の家族では、亡くなった方は沢山いる。うちの専務も新築したばかりの家が流され、帰国した中国人研修生の宿舎に避難していた。専務は、会社も、家も、親も、全部流されたんです。

震災以前は多くの注文を受けていた輸出は、今年はやるという前提で、放射線検査装置も含めて全て準備したが、やはりだめ。中国はともかく、韓国はお騒ぎしているので見込みがない。その上、汚染水漏えいの問題が出てきて、実際は全く影響がないのだが風評被害というのは大変なものだ。輸出は、しばらく見通しが立たない。

大震災の津波で初めてわかったことだが、堤防が壊れて牡蠣がよく育つことが判った。今までは検証のしようがなかったが、実際に堤防が壊れて1年目、2年目の牡蠣の育ちが極めて良いことが判った。元々山から海に流れ込む、栄養豊富な水が大事なことは判っていたが、それが外海の水と交じり合うことが重要だということが判った。諫早湾と同じで、ずっと、そうではないかと皆が言っていたが検証ができなかった。湾の中に沈殿していたヘドロは堤防の開口部から外海に出ることができなかった。今回の大津波は、堤防を壊して湾内のヘドロを全て綺麗に掃除してくれたのだ。あの忌まわしい津波でも、良いこともあった。

工場が新設のように見えるかもしれないんですが、そうではないのです。今回、工場の内部は津波で壊されたが、基礎と柱はしっかり残ったのです。したがって清掃したあと、天井と外壁を新たに作り塗装をやり直した。大船渡は内陸と違い、津波の被害は凄かったが地震の揺れはたいしたことはなかった。大船渡は堅い岩盤なので大きく揺れなかったのではないか? 津波が来る直前に6,000トンの冷凍庫に天井まで製品を積み重ねたが全く荷崩れしていなかった。

当社は、外食、量販店、大手スーパー、コンビニ、生協が主な販売先。特に、スーパーには惣菜の原料として厨房に収めている。例えば、竜田揚げ向けサンマでは、日本のTOP3に入っている。取扱いは地元でとれる、サンマやイカ、タコ、サバで、輸入品は取り扱っていない。我々が大船渡に存在する価値は、三陸でとれる美味しい魚を扱うことだと思っている。輸入品なら、日本全国、どこでも出来る。浜から直接購入して、鮮度の高いうちに加熱前までの加工に注力している。

港湾の復旧は、船が着くとこさえあれば水揚げは出来る。冷凍庫の復旧は、大船渡は、もの凄く早かった。それは、行政が建設を止めなかったからだ。そこに建設してはダメだと行政が言う前に、皆、建設してしまった。それが、結果的に大変良かった。気仙沼とか石巻は行政が、待てと言ったので大分遅れたのではないか。その結果、この森下水産は震災から4か月後の7月には、一部オープンして操業再開している。

震災直前に大きな設備投資と買収を行い長期借入が増えたので、復旧に対しての新たな借り入れは無理だった。普通に考えればそうなのだが、大船渡は水産業が基幹産業なので、我々が立ち上がらなければ大船渡の町がなくなるのではないかと思った。その街がなくなるのを誰が見捨てるのか? 必ず、見捨てるわけがない。私は、そういう信念だった。最初の1か月くらいは、もう駄目だ、駄目だと思った。従業員も操業再開の目途が立たないので、一度全員解雇した。しかし、その解雇した従業員たちが泥にまみれて悪臭を出し商品にはならない魚の残骸を、皆で、全部片づけてくれた。

このまま、沿岸の人々が内陸に移ってしまったら、この町は、もうおしまいだと思った。だから、その後、直ぐに、思い直して、資金繰りの目途も立たない内に工事業者に発注してしまった。そうしているうちに、銀行や得意先が色々な形で資金援助してくれることになった。皆から、「応援するからやれ!」と言われて弾みがついた。昨日も中小企業庁から偉い人が視察に来てくれて、復興の状況を見に来てくれた。グループ補助金と言う制度で、グループを組めば4分の3を補助するという中小企業庁の援助が物凄く助かった。

しかし、一度途絶えたサプライチェーンは元には戻りません。中国に、水産加工拠点を移したりして、その後は、もう我々のところには戻っては来ません。特にロットの大きいモノ、年間で安定して流れているものは中国に行きやすい。スポットは中国とのやりとりは難しいが、我々がメインとしていた大量加工の部分は中国に移転してもう戻ってこない。だから自分たちが続けて行かなければならないと思った事業は、震災後、直ぐに青森の大畑に移した。今は、震災前の半分で、ほぼ創業した当時に戻ってしまった。これからですね、まさに「震災復興をバネとした第二の創業」ですよね。

素晴らしいお話を伺った。「国や市は俺たちに何もしてくれない!」、「国や市は俺たちに何をしてくれるのだ?」と言う前に、森下社長は、今、自分が出来ることは何か?と考えられた。「従業員やコミュニティのために善きことをなせば、きっと誰かが見捨てずに助けてくれる」。そういう信念のもとに、森下社長は、今、第二の創業に取り組まれている。

そのように三陸海岸で頑張っている不屈の人々のためにも福島第一原発の汚染水問題には真剣に取り組んで頂きたい。山から流れてくる綺麗な地下水を海に流すために汲み上げる井戸は汚染水貯蔵タンク群の山側に掘らなければ意味がない。なぜ、タンク群の海側に井戸を掘るのか私には全く理解できない。本当に、貯蔵タンクから汚染水が地下に漏水することは「あり得ない」、「想定外」と考えているのだろうか?