2013年9月 のアーカイブ

244 国産ジェット旅客機MRJ

2013年9月28日 土曜日

2013年9月25日、私たちは、新幹線の名古屋駅から車で名古屋市港区大江にある三菱航空機本社に向かった。本社に到着した私達の目に、まず飛び込んできたのは「時計台」と呼ばれるクラシックでありながらとてもモダンなビルだった。ここは、映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎技師が「零戦」を設計した建物である。昭和16年に竣工した、このビルは太平洋戦争末期、空襲で名古屋市全域を焼失させた米軍爆撃機の道標となりとうとう爆撃を免れた。

ビルの中に入り内装を見ると、とても70年も前の設計とは思えないほど現代的で、かつ都会的である。そして、このビルは、今、YS11以降、50年ぶりに開発される国産旅客機MRJの設計拠点でもある。MRJとはMitsubishi Regional Jetの略で、70-90人乗りで航続距離3,000-4,000㎞の中距離ジェット旅客機であるが、三菱航空機の方々は、これから日本を代表する旅客機になるということでMr.J(ミスターJapan)とも呼んでいる。

私は、子供のころから飛行機が大好きで、特に飛行機を製造している工場は何としても見てみたいという衝動にかられる。今から15年ほど前に、シアトルのボーイングの工場を見学することができた。1棟の中にB747ジャンボジェット機が3機シリアルに製造される巨大な工場建屋の壁には見学者専用の回廊が作られ、そこを回って歩きながら見学するようになっていた。6年ほど前に行ったフランス、ツールーズのエアバスの最終組み立て工場では、A380一番機の製造現場を見ることが出来た。B747以上に大きな巨鳥A380が一層大きく見えたのは、当時のエアバスの工場には見学者専用回廊などなく、A380を組み立てている床で、直ぐ近くで見ることが出来たからかも知れない。

そして、今度は何としても祖国日本のMRJを見たい。そう思って、三菱航空機の江川会長に、随分前からお願いをしていたのが、ようやく叶えられたというわけである。しかし、今回、お伺いしたのは丁度良いタイミングで、まさに、三菱重工飛島工場では、最初の1号機のMRJのモジュールを組み立てている最中で、来月、最終組み立てを行う小牧工場へ出荷する直前であった。シアトルでもツールーズでも、私が見たのは最終組み立て工程で、今回、その前のモジュール組み立ての工程を見ることが出来たのは本当に至福の喜びであった。

江川会長とは江川さんが三菱重工の専務時代に、第一次安倍内閣の時に安倍首相の南アジア随行団でご一緒だった。1週間、インドネシア、インド、マレーシアの3か国を同じバスで巡る旅をしていると、皆、仲良くなる。私たちのバスは3号車だったが、1号車は随行団の会長職、2号車は社長職、3号車は副社長、専務職と分類されていた。3号車のメンバーで、その後、社長になられたのは、三菱航空機の江川社長と、みずほHDの塚本社長だけである。

江川さんは、私のMRJを見たいという願望を快く引き受けて下さったのだが、その時期を見計らっておられたのだろう。その間、私が江川さんに「スーパーコンピューター京」の講演録をお送りしたところ、江川さんから、「このスパコン京の開発物語は、MRJの開発に通じるところがある」と過分のお褒めのお言葉を頂いたので、MRJを見学させて頂く時にMRJの開発メンバーの皆様にスパコン京の講演をさせて頂くことにした。その約束の日が、ようやく訪れたということである。

MRJが目指している短・中距離旅客機市場は巨大な需要が存在するだけに競争も激しい、米国のボーイングやEUのエアバス以外にもカナダのボンバルディア、ブラジルのエンブラル、そして、今後は中国やインド、ロシアも旺盛な国内需要が見込まれるだけに、国策としても、本気で、この市場に参入してくることは間違いない。そうした厳しい競合の中で、MRJは燃費と乗り心地と信頼性で差別化を図ろうとしている。まず、燃費であるが、旅客航空ビジネスのコストの中で燃料は45%を占めると言われているので、MRJは競合に対して20%の優位性を見込んでいるが、これは全コストの10%近くに相当するのでキャリアにとっては大きな魅力となる。

そして、乗り心地は私も試乗させて頂いたが抜群である。まず、床から204㎝を超える天井はゆったりとした居住空間を与えてくれる。天井が高い割には荷物入れの位置は低くて女性でも簡単に入れられるし、その上、大きな荷物も余裕で入る。エコノミークラスでも前後左右ともにゆとりのスペースがあり、特に窓側の肘がゆったり動かせる。こうしたスペースの余裕は従来の荷物室を床下から後部に移したからこそ出来上がった。そのため胴体の断面は、ほぼ真円に近い。だから全体の姿が美しいのだ。空を高速で飛ぶ鳥の姿、水中を早く泳ぐ魚の姿は無駄がなく美しい。MRJの姿は、まさに美しい。燃費が悪くエアラインのお荷物になったB747ジャンボの姿はやはり美しくない。姿が美しいからこそ、MRJの燃費効率は高くなったのだろう。

三菱航空機が、こうした画期的な機体を作り上げることが出来たのも、これまでB787の主翼やボンバルディアの胴体を作り上げてきた実績からであろう。炭素繊維を含む複合材料のハンドリングにも慣れている。今回、実際に見学して驚いたのは、両翼を高く上に揚げている画期的な主翼のデザインだけでなく、その製造方法である。模型飛行機を作った人ならお分かりと思うが、一般的に翼は二枚の外板の間に小骨(リブ)がある。MRJの主翼は外板とリブが一体化していて接合するためのリベットがない。航空機では溶接が許されていないので、一体化とは、見かけだけでなく、本当に一体なのだ。「どうやって作ったのですか?」と伺うと、「厚いアルミの塊を削り出したのです」と答えられた。凄い、あの剛腕のタービンと同じ造り方なのだ。

さらに、P&W社と共同開発しているジェットエンジンにも燃費を向上させるための革新的な工夫がなされている。エンジンとファンとの間にギアが内蔵されている。そのため、エンジンは常に同じ回転数を保ってファンの回転数を負荷に応じて変動することが出来る。動くものは定常回転が一番エネルギーを食わないのだ。こうして、機体やエンジンに革新的なテクノロジーを用いているMRJだが、駆動系に関しては安全性を確保するために保守的な方式を貫いている。つまり、787の電池駆動ではなくて伝統的な油圧駆動を用いている。

787では電池が問題となったが、もともと電池は構造的に脆弱で安定性に欠ける。しかし、787は電動飛行機と言われるほど徹底的に電池駆動を用いている。そのため、大型冷蔵庫ほどのバッテリー格納庫を4基も抱え、電池からモーターまでの配電は分厚い銅の板で行っている。極めて革新的で挑戦的で、いかにもアメリカらしい。一方、トヨタは、EVではなくてハイブリッドを採用して大成功したが、トヨタからしてみれば電池という未知の技術を全く信用していなかった。従って、トヨタのハイブリッド技術は、徹底的に電池に対して優しい。よく言えば優しいということになるが、要は全く信用していない。出来る限り、急速充電、急速放電を避けて電池寿命を温存させている。そういえば、三菱航空機はトヨタの資本も入っているので、そうした質実剛健の設計手法を受け継いでいるのかも知れない。私は、今回のMRJの駆動方式は、現時点では信頼性確保という意味では最良の選択だったと思っている。

いやあMRJの開発製造現場の見学は実に面白かった。こうした航空機の開発は裾野に幅広い技術を育成することになる。富士通のスーパーコンピューターは日本の航空宇宙技術開発の総本山であるJAXAによって育てられた。今や、風洞実験で最適解を探す時代ではなくなった。特に、スーパーコンピューター京が実現した10ペタフロップス(1秒間に1京回計算)という演算速度で、今まで出来なかったことで、何が出来るようになったかという問いに対する一番適切な回答は「流体シミュレーション」だと言われている。まさに、スパコンと航空機開発は絶好の組み合わせである。私達IT業界も、日本の宇宙航空産業の発展に大きく貢献していきたい。

243 東京エレクトロンの決断

2013年9月26日 木曜日

今朝の日経一面での報道、世界の半導体製造装置の最大手である東京エレクトロンとアプライド・マテリアル経営統合のニュースには少なからず驚いた。この一位、三位連合の統合会社は同じ業界で世界第二位である欧州の巨人ASMLを圧倒的に引き離す王者として君臨することになる。この東京エレクトロンの元社長である佐藤潔さんとは、スイスのダボス会議で知り合い、その後、佐藤さんがヨーロッパの複数の子会社社長として転出されロンドン勤務になってからは「Facebook上の友達」としてお付き合いをさせて頂いている。先日は、東京に出張された佐藤さんから人形町の割烹で御馳走して頂き、「オフミーティング」をさせて頂いたが、もちろん、こんなことは全く話題にも上っていない。

それでも、私には、このたび会長から社長に復帰され東京エレクトロンの再興に奮闘されている、東さんの、この決断が唐突で奇異なものには全く見えない。お相手の、アプライドマテリアルについても、マイケル・スプリンター前CEOとは、彼がインテルの販売担当副社長時代から仲良くさせて頂いており、5年続けて通ったダボス会議では、いつもディナーパーティーに招待されていた。そういえば、東京エレクトロンもアプライドマテリアルの両社のTOPともダボス会議の常連であり、半導体製造装置という地味な業態の割にはグローバルに活躍する超優良企業である。

その両社が統合しなければならなかった背景には、半導体業界の革命的なテクノロジーの進化があった。日本の半導体業界を世界一に押し上げた通産省の国家プロジェクト「超LSI研究開発組合」は、1ミクロン以下の微細加工技術を開発することが目標であった。当初、誰もが困難であると思われていたサブミクロン技術は簡単に乗り越えることとなり、その後、1ミクロンの10分の一である100ナノメートルも超え、今では20ナノも商品化完了し、もうすぐ10ナノから5ナノまでが視野に入っていると言われていて、半導体分野では、今後とも乗り越えられない技術の壁があるようには全く見えない。

しかし、この技術の進展は、半導体産業全体にとって決して朗報とはならなかった。数年ほど前に、私がIBMの半導体事業の責任者から聞いた話は、極めて深刻な話であった。つまり、かつての半導体事業は、1ドル投資すれば3ドルの利益が得られたが、テクノロジーの進化とともに製造設備や建屋が、どんどん高価になって、もはや1ドルを投資しても50セントしか利益が戻って来ない時代になったというのである。つまり、最先端の半導体事業は、もはや良質のビジネスにはならないと言うわけである。微細化により世代ごとにチップの面積は2分の一となり、一方、ウエハーの面積は世代ごとに2倍となった結果、半導体の生産性は世代ごとに4倍となった。その結果、チップの単価はどんどん安くなるわけだが、一方、同じものが、一度に大量に生産出来てしまうために、大量に販売が見込めるプロセッサーかメモリー以外の半導体製品では採算が合わなくなってしまった。

それに加えて、製造設備と建屋は高度化に伴い投資額が高額化してきた。かつて半導体工場は1棟1,000億円と言われてきたが、今後は1棟1兆円の時代に突入する。そうなると、半導体事業で採算が取れるのは、プロセッサを主力事業とするインテルか、メモリーを主力事業とするサムソンか、半導体設備を自社で持たない企業の委託生産に特化した台湾のTSMLの3社しかなくなった。日本の半導体各社が、次々と統合を繰り返しても結果が出せず、廃業に追い込まれている理由が、ここにある。

そして、半導体産業をさらに苦しめることになる、もっと大きな技術革新は微細化による半導体回路の高速化であった。これまで、専用回路を組まなければならない特殊な機能をもった専用チップが、皆、プロセッサとメモリーを使ったソフトウエアで実現してしまうこととなった。標準化された半導体とソフトウエアで殆どの機能が実現できるようになったことである。つまり専用LSIという商品が要らなくなった。こうなると3社以外で、残された半導体事業分野は電力を制御するパワー半導体や各種センサー、あるいは生体に関わるバイオチップという、極めて特殊な分野に絞られてきた。つまり、半導体製造装置メーカーからしてみれば顧客が居なくなってしまったというわけである。

東京エレクトロンとアプライドマテリアルという日米両巨頭会社の統合には、こうした半導体業界の恐るべき技術革新の進展による寡占化という背景がある。それでは、半導体業界の開発者は、こうした技術革新をただ黙ってみているだけだったのだろうか? 違う! これでは、いつか皆、共倒れになってしまうと一人で抵抗した日本人がいた。テキサスインストルメント(TI)ジャパンの社長から、米国TI本社の上級副社長までを務めた石川明さんである。石川さんは、みずから球形の半導体製品を目指すボール・セミコンダクター社を起す。石川さんは、ウエハー上に一度に大量にチップを作るという現在の半導体製造方法にいずれ限界が来ると見通していたのだ。

30cmほどのウエハーに大量のチップを焼き付けるという一般的な半導体製造方法はスケールに依存するビジネスである。石川さんは、そのようにバルクで大量にチップを作るのではなくて直径1㎜ほどの球体のシリコンに一つ一つ回路を焼き付けて行く方法を考え出した。このボール半導体を加工する製造装置は小さなもので済み、装置間を運ぶのにも細いチューブがあればよく、建屋全体をクリーンルーム化する必要もない。まさに、私たちがトヨタから学んだ1個流しの製造方法である。富士通グループの部品製造会社も、このトヨタ方式で1個流しの製造方法に変えた結果、中間在庫がなくなり、製造スペースは小さくなり、品質チェックもやりやすくなったなど、多くの成果を挙げてきた。

この石川さんは、また、度肝を抜くような発想で知られていて、TI本社がある、米国テキサス州ダラスに住まわれるようになった時、個人で大型建機を購入され18ホールのゴルフ場をご自身で作られたという逸話の持ち主である。私は、その後、このボール半導体のビジネスが、どのようになったか追いかけていないが、最近、アメリカでは半導体を一個流しで製造しようという機運が高まっている。まさに3Dプリンタと同じ発想である。

高品質な製品を安く大量に作るという、日本がこれまで得意としてきたビジネスモデルを台湾、韓国、中国といった東アジアの国々にとって代わられたわけだが、これをまた日本に取り返そうという考えは、多分、間違っている。コモデティを大量生産するというビジネスモデルは新興国のビジネスモデルだと考えた方が良い。日本や欧州、アメリカのような先進国のビジネスモデルとしては、東京エレクトロン/アプライドマテリアル連合が目指す大量生産を行うための製造装置を事業とするべきであろう。あるいは、全く違う発想で大量生産とは真逆の1個流しのようなビジネスモデルを追求して行くことが求められている。今回の東京エレクトロンの大英断は、日本の製造業ビジネスモデルの転換を促すための大きな示唆を与えてくれている。

 

242 「葉っぱ」がお婆ちゃんを町の主役に

2013年9月14日 土曜日

昨日、大阪で関西地区のユーザー会が主宰するマネジメントセミナーで講演をさせて頂いた。同じセミナーで講演された徳島県上勝町の「葉っぱビジネス」で有名な株式会社いろどり代表取締役 横石知二さんの、お話はさすが聞きしに勝るものであった。あまりに素晴らしい内容なので、私が感動した部分を、ここに抄録として、ご紹介させて頂こうと思う。命を張った、ご自身のご経験に基づくお話は聴講者全員の心に響くものであった。以下、横石さんのお話の一部である。

今、徳島県の小さな町、上勝町が世界から注目されています。昨年は、37か国から上勝町を見学に来ました。何故かと言えば、日本の高齢化問題、過疎化問題、そして地域格差と、、こういった問題が、いずれ自分の国にも来ると言うことに関して世界各国の意識が高くなってきました。日本が、この分野で超先進国であるなか、どうやって解決していくのかということを世界が注目しています。先週も、トルコ政府関係者や知事が私たちの町を視察に来て勉強されております。

地域の資源を活かすというタイトルで今日はお話をしますが、商売が大好きで、地域の人が輝いて生活する基盤を作っていくという話です。さて、私自身は、何が一番得意かと言うと相手が一番喜ぶことを追求するということです。とにかく、仕事は楽しい、面白い、まあ奇想天外な発想をすることが大好きです。逆に言えば、与えられたことをきちんとやるというのが駄目だということです。ある東京の有名なコンサルタント会社のTOPの話を聞いていると「コストを切れ! 世界中の取引先を見直せ! 社員の給料はもっと下げろ!100円の売値を70円にして1.5倍の物量を売れば生き残れる!」と言う。凄いことを言うなと思って聞いていましたが、これは全く私の生き方と違う考え方です。

そういう限界を追求する仕事の中では、良い知恵も浮かばないし、面白い発想も出ないと言うか、仕事は楽しいというのが一番力を発揮すると思っています。だから、喜んでもらえる面白いということをトコトンまで追求していく。どうやったら面白いか、何が楽しいかを追い求めることによって、皆さんの想像を絶するように、お婆ちゃんがタブレット端末を使って商売をするようになる。普通、常識では出来ないと言うことを可能にすることまで持っていくことが出来る。それが幸せに繋がることになる。だから一人一人に役割を持ってもらう。あんた、おらなあ、あかんよ。あんたがおるから、できるんだよ。という役割をしっかり持ってもらって活躍してもらうことが重要だと思っています。

さて、最近、若い人たちの間で、特に震災以降、社会貢献、地域貢献という意識が非常に高まってきました。つまり、社会の中で役に立ちたい、認められるようになりたいという願望が非常に強くなってきました。昔、私は、こんなことなど考えもしなかったのですが、時代が変わって来たなと感じています。私の会社では1年間に世界各国から約300名のインターン生を受け入れています。その中で1割くらいが残ってくれるのですが、皆、「役に立ちたい、認められたい」と言ってくるのですが、この世代はある意味で自己満足で完結しているところがあります。本当は、仕事を通じて地域の中で社会の中で貢献できることがあるんですよというのですが、それが彼らの中ではうまくいっていないのが現実です。

でも不思議だなと思うことがあります。私の上の二人の息子がイベントの企画リーダーの役割をしています。彼らは、直ぐに一万人くらいの人を集めてきてイベントをやります。その中心的なメンバーを見ていると仕事をしている風景とイベントをやっている姿を見比べると、同一人物とは私には全く考えられないのです。全然違います。なぜ、仕事の時には、頼りないし、大した仕事も出来ないのに、イベントをやらしたら、こんなに凄いのかと、同じ人ではないのではと思うほど変わります。どうしてかと言えば、自分がやったことが、周りの人達から「あんた凄いよね!こんなことしくれてありがとう!」と自分自身で感じると、人の力って凄いものだなあと、こんなパワーがどこから沸いてくるのかと思います。私は、お婆ちゃんたちや、若者が活躍する舞台を作っていますが、自分がやったことを周りが認めてくれる仕組みを作っていくと、人のパワーとうのは無限大にまで拡大することができます。

とにかく私たちは、負の連鎖から抜け出していかなければなりません。昔の上勝町では、とにかく出来ない理由を探して逃げる。もうとにかく、出来ない理由を見つけるのが大好きだった。他人のせいにする、世の中のせいにする、上司のせいにするというマイナス思考の典型的なパターンでした。良い流れを呼込んでいくと言うプラス思考を自分のなかに取り込んでいかなければだめだと思います。自分が発した言葉はやまびこのように必ず自分に帰ってくる。だから、自分が思ったことを人に伝えていくということが大切だと言い続けています。

例えば、震災があります。普通、私がやっている葉っぱの商売からみると、もうだめになると言われました。築地市場を中心に東京管内は料亭が駄目、温泉地が駄目、旅行業がだめということで売り上げが激減すると思われていました。でも、そんなことはなかった。売り上げは伸びました。なぜ、伸びたかと言うとマイナス思考ではなくてプラス思考で震災が起きたら何が起きるのかいつも考えた。何が起きるかというと、まず節電が来た。ということは冷涼感溢れる料理を絶対に出してくるなと考えました。そうなると涼しさを演出するレンコンの葉っぱや蓮いもの葉っぱが沢山売れるぞと考えました。案の定、いつもの2.5倍の売上になりました。家族の絆か、そうか、おせちが来るなと考えました。変化が起きた時に必ず何かが自分の事業に関わってくる。この変化を読んで自分の事業に繋げていく。皆が駄目だよと100回言っても、1000回言っても、何の解決策にはならないのです。

売上が伸びたら、それを震災の復興にあてていこう。こういうポジティブなものの見方がなぜか出来ない。世の中で起きていることに対して、そうだよね!と皆が当たり前のように考えることが変化に対してすごく弱い形になっている。特に、田舎は変化の流れに対して弱いものだと思っています。だから、この条件が不利、マイナスの見かたなんです。田舎って、皆、条件不利地域とか過疎地域とか限界集落という言葉を言うんですけれども、私は、上勝町に行ってから、こういう言葉を一切使わなかった。なぜ、そういう視点でみるのか。じゃあ、田舎は交通機関が不便だと言う。確かに、そういうことはある。でも、じゃあ、そうでない部分もあるよねと。色つき香りの良いものが沢山ある。高齢者は知恵もあるし経験もあり、人間力がある。こうしてみると田舎も何かに長けたものがあるではないか。こうしたプラス思考でものごとを考えていかなければならない。同じ土俵の中で、マイナス部分が多いのであれば違う土俵で試合をすればよいと思います。

お婆ちゃんに、いつも言うんです。「僕は東京大学に講義に行くんだよ」と、するとお婆ちゃんが「横石さん凄いな、東大で教えるんか?」と感心する。それで、私はお婆ちゃんに言うんです。「僕はテストをやったら、東大生と1000回勝負しても一回も勝てない。そんな僕でも東大生に教えることがあるんだよ。皆、自分の得意技で勝負したら良いんだよ」つまり、自分たちや自分の地域をしっかり見渡せば、自分が勝てる部分が必ず見つかるのです。そういうものの見方が出来ないから、いつまでもたっても負け犬の意識の中からは何も出てこないのだと私は言い続けて来ました。

私は社会に出て、もう34年になります。私は徳島市で生まれまして、父親は徳島県庁に勤める公務員でした。私は中学校3年生の時に言われました。農家を指導する農業改良普及員という仕事にお前は就くのだと言われました。しかし、私は父親を見ていて自分が公務員と言う仕事には向いていないとつくづく思っていました。そんな時に、もう既に亡くなった上勝町の町長と組合長が横石という人間を上勝町に引っ張って来たいと言われました。県庁を受けようとしていた私は、父親に、「自分は公務員には向いていない」と言ったら、父親も、「それでは2-3年山へ行って勉強してくるか」言ってくれて上勝町に赴任することになりました。

ところが地域の人達は大反対。「よそ者なんて入れるな、地元のもんを雇え!」と反対運動が起きました。でも、亡くなった町長と組合長は「よそ者を入れなければだめだ。いつも同じメンバーが仕切っているから、この町は変化が出来ないのだ」と言い、強行採用ということで私は上勝町に行くことになりました。しかし、行ってみてビックリ。何をビックリしたか。とにかく酒飲みが多い。朝から酒を飲んで「おい。補助金はないんか?補助金を持ってこい!」と会議したら補助金の話ばっかり。女の人は軒先の下で嫁の悪口と近所の悪口ばっかり言っている。

「私は、タクワンの尻尾を齧ってでも、子供は東京の大学へ行かせる。東京の一流大学を出して良い会社に就職させるんじゃ。子供はこんなところに置いときたくない」というお母さんが、学校から帰ってきた中学3年生の子に私の目の前でなんと言ったと思いますか? 私が、お爺ちゃん、お婆ちゃんと農業の話をしている中、子供さんが帰ってきたら、お母さんが不機嫌そうな顔をして「あんたこんな時間まで何処へ行っとんたんじゃ?何しとったんじゃ?あんた勉強せなんだら、この上勝町に残るようになるんだよ。しっかり勉強し。お父さんのようになったらあかんのだよ。」

まあ、そんなことでは、とってもあかんなと思いました。でも、でも、その原因はどこにあるのかと調べたらすぐにわかりました。やっぱりね、皆さん。田舎は、儲からない。生活が厳しい。生活するのがやっと。働いても、働いても、農業やっても林業やっても建設業やったって、本当に僅かなお金にしかならない。だから、子供は東京へという感覚が染みついています。この経済を活性化する、所得を上げていくということをやらなかったら、この地域は駄目だなと私は思いました。

「役害」と言って、負け組の意識の中で、役を持った人たちだけが仕切る風習、これが駄目だと思いました。どの会議に行っても同じメンバーばっかり、いつも同じメンバーが集まって協議している。女の人の出番もない。集まる時間もルーズ。こんな慣習、習慣が結局、地域を駄目にしている。そのように思えました。だから、こうした慣習を変えることだと。そう思って、皆を集めて、「これまでのやり方を変えることですよ。こんなやり方をしていて将来どうなるんですか? 地域は、こんなやり方をしていたら駄目になりますよ。」と言いました。そうしたら、皆、怒りましたね。机を叩くだけでなく、足で蹴り倒した。「お前、誰に向かって物を言うとるんや!他所から来た若い者がわしらに説教するとは何事だ!お前に何が出来るんだ!お前なんか出ていけ!」と最後は叩き出されることになりました。

まあ、自分の言っていることは間違っているのかなあ? しかし、今までの習慣のようなものが地域を駄目にしているんだろうなという点だけは間違っていないと思った。家に帰って父親に話したら、「お前、もう、そんなところ辞めて、県庁へ戻って来い!」と言う。私が「嫌じゃ」というと、父親は「お前県庁の仕事がどれだけ良い仕事か分かっているのか? 退職金がいくらあると思っているのか?仕事はボチボチしとったらよい。今回のように一生懸命、朝から晩まで働かんで良い。」まあ、びっくりしました。その親父も、大震災直後の3月15日に息を引き取りました。丁度、震災の前の日の3月10日に泊まり込みの看病をしていた時でした。ふと目を開けて、私の顔を見て「お前、あの時のこと覚えとるか?お前が、上勝町から追い出された時に、ワシの言うことを素直に聞いて県庁に行かんで良かったな。自分の思うことをやって、地域の人も元気になって良かったな。あの時は、すまなんだな。」と謝ってくれました。私は、親父に初めて認められたんだなと思って泣きました。

この慣習から何とか抜け出していかないといけないと言うことだったんですけれども。何しろ、地理がわからん。人がわからん。あいつの言うことを聞いてはならないと言う御触れの中で、いくら理論を言ってもだめだと思いました。特に、山の中では理論は何の役にも立たない。自分の出来ることを一つでもやって、一円でも良いから、それを積み上げていくという実績を積まないことには、信用してもらえると言うことはないだろう。それで、いろいろ考えた末に行商人をやろうと決めました。バナナの空き箱を町民に配って、これに一つでも作物を入れてくれたら、私が売って来ますと提案しました。2年間、市場の駐車場で寝泊りしながら朝4時に起きて8時には出勤ということで物売り商売の現場から始めました。それから16年間、売り上げは億単位でずうっと伸ばしてきました。この最初の現場からのスタートというのが良かったと思っています。

そして、この「葉っぱ」の仕事を考え出しました。28歳でした。大阪のあるお店で食事をしていた時に、お店の客に若い女の子で綺麗な子がおって、可愛いなと思ってみていたら、料理の飾りに出された赤い紅葉の葉っぱを見て「これ可愛いな、持って帰ろうよ! 押し花にしようよ!」と言う。「へー」と思いました。こんな葉っぱ、山に行ったら一杯あるのに。面白い商売だなと。これは商売になるな、もしかすると凄い商売になるかも知れないと思いました。葉っぱは山には沢山あるし、軽くて女性には向いているし、こつこつやれば良い商売になると思い、急いで上勝町に帰って皆を集めました。

皆の前で、「明日から葉っぱを売って稼ぎましょう」と言ったら、集まって来たお爺ちゃん、お婆ちゃんが「横石さんな、あんた昔から葉っぱをお金に換えるのは、キツネか狸の仕業と決まっているんだ。仕事は、もっとまじめに考えてくれないと困る」。もう真っ赤な顔をして叱られました。「あんた、頭がおかしいのと違うか? 日本中、北海道から九州まで葉っぱがどれだけあると思ってるのか?ボケたこと言うやっちゃな。」

他には、「横石さんな、私は、幾らお金に困ってもゴミを拾って生活したくはないのや」。それで私は、「どうして葉っぱがゴミなんですか?」と聞くと、「草を売るのは貧しい人がするこっちゃ、お金がないからって、物乞いするようなことはしたくない」。さらに「横石さんな、市場で通用するブランドを作って、産地として確立させて、物を流通させてお金を頂くのが農業だ。あんたのように、その辺に落ちているものを集めたら、隣の人に何と言われるか?あの家は、あんなものを売って生活していると言われたら、乞食と一緒じゃないか。あんたも変わっていると思ったが、自分が何を言うとるかわかっとんのか?」と叱り倒されました。

でも、私はこの時に悟りました。地域に眠る宝物をお金に換えられない最大の障害は「自信と誇り」だなと思いました。自分のやっていることが面白い、自分の仕事が楽しいと思えなかったら、足元を見ると言うことが出来ないのだなと思いました。特に、誇りのようなものがなかったら結局はうまいこといかんなと思った。だからこそ、このビジネスを成功させたい。そして、成功したら、この町の何かが変わるのではと思った。しかし、一人の賛成もない。もうお触れまで出てしまった、誰も言うことを聞いてくれない。こうなったら、個別攻撃しかないと150軒ほどの家に、毎晩泊まり歩いて、「葉っぱビジネスは面白い、やってみようよ!」と口説いて回りました。

そして、4軒。たった4軒が、「あんたがそんなに言うんだったらやってみようか」と言ってくれた。そして、事業を始めることができました。「ようし、やるぞ」と思って、商品を作り上げて売り歩きました。それが、全く売れないんです。全然売れません。どうして売れないのかわかりません。たまに売れても一箱5円から10円です。包装から含めて原価は45円。無理して売れば売るほど大赤字です。それで有名な料理人に見てもらいました。そしたら、「こんなの売れるわけがない。大体、お前は料亭に行ったことがあるのか?そんなのは素人が出来る商売じゃあない。直ぐにやめろ!」言われました。

それでは料亭に行ってみようと思い実際に行ってみました。そして玄関から入ると、「お前何しにきたんだ」と目茶目茶怒られました。「玄関ではなく裏手へ回れ」と言うので、裏の調理場から入ったら、「お前のような人間は相手にしたくない」とケンモホロロでした。そしてある人に相談したら、「横石さんな、一度、お客さんで行ってみたらどうですか?」と言うので、当時、給料が10万円もないのに3万円を出して行ってみました。早速、料理に出た葉っぱのことを聞いてみたら、「この葉っぱは、庭からとるんですよ。そして、皆敷というのをご存知ですか?この葉っぱ一枚一枚にいわれがあるんです。それで季節感を出し、料理を引き立てるために私たちは精魂込めて添えているんですよ」と教えて下さった。それを聞いて「やったあ。これで行ける、この現場がわかったら絶対に、このビジネスは成功する」と思いました。

直ぐに帰って、町長に葉っぱビジネスを成功するために料亭を研究したい。ぜひ調査費用を出して下さいとお願いした。そうしたら「そんなお金が何処にある」と全く受け入れてもらえませんでした。しかし、商売を成功させる秘訣は現場にある、現場がわかったら絶対に成功すると思って、料亭を回って教えてくださいと頼みこんだが全くだめでした。当時の料理人の世界は、かなり怖い世界でもありました。料理の鉄人の番組以降、料理人がテレビに出るようになって、ようやく料理人の世界が表社会で通用するようになりました。そんなことも知らずに強引な情報収集を行って右足の太ももに包丁を刺されました。家に帰っても出血が止まらず、妻が救急車を呼んでくれて病院へ連れて行ってもらって幸い大事には至りませんでした。

この事件をきっかけに、妻は、「もう家には1円の金も入れなくてよい、お父さんがやりたいことをすればよい。給料、全部使って最後まで思うことをやりなさい。家の事は私が何とかするから」と言ってくれた。私は、涙をボロボロ流しながら、妻に感謝しました。そして、北海道から九州まで何千軒という料亭を客として回って歩きました。今も、私は365日、日本全国の現場を歩いています。そして、葉っぱの使われ方、いわれや季節感を徹底的に学んでいます。これを皆に伝えていくと、どんどん右肩上がりに業績は上がりました。ただ、問題はありました。余りにも全国の料亭で飽食三昧をしたので、痛風にはなるは心筋梗塞にもなりました。今、私の心臓の周囲にはステントが5本も入っています。その手術をしたお医者さんが、「貴方を必要としている人が居るんですね」と言う。初対面のお医者さんが、どうしてそんなことを言うのかと思ったら、「貴方の血管は全部詰まっていたが、どの血管も血流を少しだけ流すに必要な分だけ空いていた。こうした奇跡は貴方を必要としている人が居る証拠だろう」と言って下さった。やはり、人のために働けば必ずそれだけの報いがあると悟りました。

今、上勝町では200軒の農家が葉っぱビジネスをやっています。全員、75歳以上です。人の力を引き出す。特に高齢者は、物凄い力があります。知識があり、経験があり、人間力があります。今の日本では高齢者は3割しか活かされていません。若者はもっと酷くて1割しか活かされていない。つまり若い人の力が引き出せる社会構造になっていないのです。

私が、どうして成功したかのかと言えば、誰も考えない仕組みを次々に開発してきたからです。何かものを見て、これがこういう風でない使い方、利用のされ方はないものか?と常に考えて来ました。一つの視線だけで物を見ない。いろいろな角度からこういう風にしてみたら、あんなことが出来ると考える習慣を持つことです。例えば、町の防災無線。これは普段、災害の無いときには使われていません。これに目を付けて役場に防災無線を商売に使わさせてくれとお願いしました。各農家に無線FAXで一斉に同報通信したのです。これが、一番最初にうまくいったICTの利用方法でした。

次にコンピュータです。なぜ、これを農家へ導入しようと考えたかと言えば、ヒントはスーパで物売りをしていたときです。私は店長の期待の3倍以上を売り上げました。買い物客への売り込み方法が的を射ていたからです。つまり、お客様が何を欲しいかが勘で分かっていました。その時に、POSが持っているデータと現場を結びつけたときに、そうした勘がもっとうまく引き出せそうだと思ったのです。つまり、直観力に頼るだけでなく、データを上手く使えば、もっと売れると思ったからなのです。そして、コンビニエンスストアが登場する。この仕組みこそ、田舎が必要としているものだと思いました。必要な時に、必要なものが必要な量だけ手に入る。商売は、まさに、これです。

情報システムこそ、田舎に必要なんのだと。山は、全部商品棚だと思えばよい。そして、私は、皆、コンピュータを使おうと16年前にお婆ちゃん達に呼びかけたのです。16年前と言えば、役場がようやく伝票からコンピュータに移行しようとしているときに、70歳から80歳のお婆ちゃん達にコンピュータを使わせようとするなんて、横石さんは、いよいよ頭がおかしくなったと言われました。国もだめ、県もだめ、町もだめ、組合もだめ、一人の賛成もなかった。町の議員さんたちは、婆ちゃんがコンピュータを使えるわけがない、自分が出来ないものを親が出来るはずがないと思っていました。皆、絶対に無理だと言ったが、私は絶対に出来ると言う自信があった。私は、出来ないと言う出口を持っていない。出来ないと言う出口を持っている人は、必ず、何らかの理由を見つけて、その出口から出ていくのだ。出口から逃げる人と、どうしたら出来るかを考える人の差が大きな違いになってくると思います。

私は、学校時代から商売が大好きだったが、商売のアイデアを披露して皆が賛成してくれたら、これはもう駄目だなと思っていました。大多数の人が賛成するビジネスは価格競争になると思った方が良いのです。それは難しい、とても商売にはならないと言われたら、私は喜んだ。これが出来たら、きっと儲かる良い商売になると思っていたからです。やはり、儲かる良い商売とはオンリーワンというか隙間というジャンルではないでしょうか。

私は、お婆ちゃんたちに最初にコンピュータを使わせるのにマウスでもキーボードでもなく大型のトラックボールを使いました。これは大成功でした。私は、常々、人間力とは出番と評価と自信だと思っています。この3つが備わってくれば人間は何でも出来る。マイクロソフトのバルマーCEOが上勝町まで来られて、どうして、この町は、こんな高齢者がコンピュータを使えるのですかと質問してきました。私は、答えました。「キーボードを目の前にしたお年寄りが、これ押してみたい、見てみたい、やってみたい。そう思っただけでコンピュータを使えるようになるんですよ」と言いました。

人間と言うのは、人それぞれの中に、ツボを持っている。価値観を持っている。それを、どう見抜いて活かせるか?これによって人は、物凄いパワーを生み出します。例えば、田舎で一番嫌なこと。なぜ、田舎はパソコン授業を都会のようにやらないのか?人前で自分が出来ないことを知られたり、馬鹿にされることが嫌なんです。「あんた、こんなの出来ないの!あんた、駄目だよね!」というようなことを人の目の前で言われたくないのです。

つまり、人前で晒し者になるのが嫌なんです。だから、自分から新しい事には挑戦しない。ところが、人知れず、うまく出来だすと乗ってくる。これが、ある意味でツボでもあるんです。何を気にしているとか、誰と誰がライバルだとか、褒めてもらいことが何かとか、習慣とか、価値観とか、こういったことを掴んで、うまく舞台を作ってあげると驚くほどの力を発揮します。例えば、上勝町のお婆ちゃん達がどうして、これだけ元気なのか?と言う秘密は、負けず嫌いからなのです。隣に負けるのは絶対に許せない。皆で、頑張ろうと言ったって誰も頑張りはしません。街づくりも同じ。後援会も同じです。ところが、個人競走になると驚くほどの力を発揮するのです。

見てください。上勝町では、各農家は、こうして自分の成績とランキングを見ることができます。田舎の人はランキングが大好きです。こういう情報を毎日情報として画面に出せば、お婆ちゃん達は毎日、かかざすコンピュータを見ます。どうしても見てみたいからです。自分の昨日の売上は幾らだったのか?そして、一つでも順位が上がれば、喜んで近所を走り回ります。また、明日も頑張ります。見てください。このお婆ちゃんの昨日の一日の売上は6万3千円です。たった一日でですよ。年収にしたら、1,300万円くらいです。78歳のお婆ちゃんが、たった一人で、これだけ稼ぐのです。皆、競争しているからです。家で、腰が痛いとか足が痛いとか言っている暇がない。ほら見てください。一人で脚立をかけて高い木に登って葉っぱを取っている、このお婆ちゃんは、撮影当時が97歳です。今は、101歳ですが、相変わらず、毎日、葉っぱを取っています。そして、この写真で見てお分かりのように、お婆ちゃん達は、山の中をこうしてタブレット端末を見ながら注文に応じて品物を集めていきます。

ねたみとか、やっかみではなくて、ポジティブな競争だと思っていますが、実は、これは紙一重です。そして、良い方へ転がれば、信じられないようなパワーを発揮します。もともと、田舎は、競争が大好きです。隣が田植えを始めればすぐに始める。隣が家を新築すれば、すぐに追随する。となりが車を買えば、直ぐに追いかけて買う。もともと、こういう文化で育ってきているから、競争心は、都会の人たちには絶対に負けない。これが良い方に回転しだしたら凄い。もう、都会の人には勝てません。

こんな風ですから、上勝町の生活保護所帯は数軒しかないです。上勝町は2,000人の人口で30億円の余剰資金があります。だから絶対に近隣市町村と合併なんかしません。大体、高齢者が病院にも行きません。皆、元気だからです。脳梗塞で左半身付随で一生車いす生活だと医師から宣言された、このお婆ちゃんは、右手だけで出来る葉っぱの区分け作業を毎日している内に、左半身も動くようになり、今では普通に歩いています。多分、何も仕事をしていないでベッドで寝ているだけだったら、二度と車いすから離れられなかったでしょう。高齢者を介護するのではなく、自立して働いてもらう。出来ることをやってもらう。これだけで、社会保障の費用は極端に減るのです。

横石さんの講演は、まだまだ続くのですが、横石さんが始められた「葉っぱビジネス」は、いろいろな意味で、日本の地域再生、高齢者対策、人材育成、あるいはダイバーシティの問題まで、幅広く応用が効くと思われます。文字通り、命がけで信念を貫き通した横石さんの功績が、長く、日本社会に語り継がれることになると私は思います。