2013年8月 のアーカイブ

239 マイクロソフト バルマーCEOの辞任

2013年8月28日 水曜日

マイクロソフトのCEOであるスティーブ・バルマー氏とは、何回も会って会話をしているが、その都度、地声の大きさには驚かされる。「この人の声は大きいのだ」と身構えていても、いざ、本人から最初の一声が発せられると、またそこで再び驚くのだ。多分、バルマー氏は、ヒソヒソ話は一度もしたことがないだろうし、そもそも出来ないのだろう。この手の人は絶対に悪い人ではない。社員を集めたパーティーで、自社の庭の池に飛び込むようなハプニングをやってのけるバルマー氏の振る舞いは根っからの営業に見え、とても数学では天才的な才能を持つエンジニア出身とは思えない。

バルマー氏は、マイクロソフト創業時から、ゲーツ前CEOと二人三脚で事業を拡大してきた中で、常に表舞台で活躍してきたゲーツ氏を陰で支えてきた。先日、シリコンバレーの、あるベンチャーキャピタルが、一人で創業したスタートアップには、金を出さないのだと言っていた。第一番目の理由は、事業は二人以上でチェックしながらやると成功率が高いということと、二番目の理由は、最低二人だけでも互いに協調できない輩は、どんなに優秀でも、最終的には、決して成功者にはなれないということだった。

そう言えば、日本でもホンダは本田宗一郎氏と藤沢氏がいたし、SONYも井深さんと盛田さんが互いに良き役割分担をしている。シリコンバレーでも、ヒューレットとパッカードのHP、ジョブスとウオズニアックのApple、ラリーとペイジのGoogleと、二人の創業者で事業を飛躍的に拡大させた例は枚挙にいとまがない。そういう意味で、やはりマイクロソフトはゲーツ氏とバルマー氏の二人が突出した役割を果たしてきた。

そのバルマー氏も、ハーバード大学を卒業した後に、P&Gのマーケッティング部門に就職している。そこで、机を並べて一緒に仕事をしていたのが、GEのイメルトCEOだったというのだからアメリカのキャリアパスのスケールの大きさには驚きだ。イメルト氏も、ここは自分の職場ではないと大学院に化学の分野を勉強するために戻っているし、バルマー氏も、さらに数学を極めるためにスタンフォード大学へ進んでいる。その後、ゲーツ氏の誘いに乗ってスタンフォード大学を中退し、マイクロソフトへ30番目の社員として入社している。

今回のバルマー氏の辞任を、AppleのiPhone, iPadに勝てなかったマイクロソフトという捉え方をするのは必ずしも正しくない。ゲーツ氏は、ビジネスマンとしても卓越した才能を持っていたが、根っからのエンジニアとして、とにかく技術が好きだった。マイクロソフトのドル箱アプリである、OfficeをAppleへ提供し続けたのも、実はゲーツ氏がAppleマッキントッシュPCの最大の支持者だったからかも知れない。マイクロソフトがWindowsでAppleをほぼ市場から駆逐した後でも、ゲーツ氏は、文字認識技術や音声認識技術が大好きで、特にタブレットPCには早くからご執心だった。

1990年代末、マイクロソフトは、アメリカでタブレットPCを販売していた私たちの最大のお得意様の内の1社だった。そして、ゲーツ氏は、そのタブレットPC専用のOSを、iPadに先立つこと10年以上も前に開発し、世の中に問うたのだ。ニューヨークでの新タブレットPC発表記者会見に、私は、ゲーツCEO、HPのフィオリーナCEO、台湾のエイサー社スタン・シーCEO、東芝アメリカの西田社長と共に登壇した。マイクロソフトは、決して独占に胡坐をかいて新しいことに何も挑戦しなかったわけではない。むしろ、世の中の動向よりも早すぎたのかも知れない。

最近、スマートフォンやタブレットに押されてPC市場は低迷を続けている。確かに、昔、鞄の中に、何処へ行くにもノートブックPCを入れて歩いていた私も、最近は、鞄の中にはタブレットしか入っていない。それも、スマートフォンだけで間に合う時には、タブレットも持ち合わせていない。そうは言っても、会社や家に帰ったときに使うのは、やはりPCである。大型画面とフルキーボード、大容量ファイルと多くのUSBコネクタがないと、机の上の仕事を効率的にこなすことは出来ない。従って、富士通も、個人向けの店頭市場でのPC販売は苦戦しているが、企業向けPCは好調である。特に、出先ではWindowsベースのタブレットとして、会社に戻ったらドッキングステーションと組み合わせて通常のWindows-PCなるという使い方が増えている。生命保険会社向けには、数万台という大型ロット商談も少なくない。

しかし、個人向けの携帯端末であるスマートフォンやタブレットの市場では、圧倒的にAppleのi-OSとGoogleのAndroidが殆どを支配しており、マイクロソフトのWindowsが出る幕は極めて少なくなっている。私の場合も全く同じである。それでは、モバイル利用において、もはやマイクロソフトと縁が切れたかと言えば、そんなことはない。富士通は、全世界16万人の従業員の情報処理利用をマイクロソフトのExchangeサーバーをベースとした一つの情報共通基盤で支えている。つまり、従業員の机の上にはWindows-PCがあるので、Exchangeは一番親和性が良いと言うわけだ。その上で、富士通はAndroidとi-OS上に、極めて堅固なセキュリティーをもったExchangeサーバーとの接続アプリを社員に提供している。

私も、それを毎日利用しているわけだが、Androidのスマートフォンやタブレット上で、事務所ではWindows-PCを使って出来ることが、殆ど出先で出来ている。メール処理はもちろん、人事通達や、社長の掲示板まで自由に見ることが出来る。もちろん、肝心のデータは、Exchangeサーバー側に存在し、セキュリティー上の理由で携帯端末側に取り込むことは出来ない。出先であるから、これで十分である。つまり、少なくとも富士通に関する限り、マイクロソフトのWindows世界は、モバイル分野でも消え去ってはいない。

ここで、私が言いたいことは、今回のバルマー氏の辞任は、マイクロソフトがAppleやGoogleに対して勝ったとか、負けたとかいうこととは関係ない話のような気がしている。つまり、IT業界の次の競争というのは、情報プラットフォームの提供という従来の領域を超えてくるのではないか?ということである。

IBMのワトソンに代表される人工知能マシンや、Googleが開発中の運転手が要らない自動走行車など。次世代のIT技術は、人間の能力を代替する領域にまで発展していくであろう。今、注目を集めているビッグデーターも、因果関係を抜きにして相関関係から、いきなり人間には気づかないルールを見出すことが出来ると言う意味で、もはや人間の能力を超えている。ITの世界は、ビル・ゲーツ氏やスティーブ・バルマー氏が築いた世界から、さらに大きな特異点(Singularity)を超えようとしている。今回のバルマー氏の辞任は、それに合わせて、マイクロソフトも次の指導者へと交代していくと言う事だと考えた方が良い。

238 アルジャジーラの米国進出

2013年8月22日 木曜日

カタールの衛星TV放送局、アルジャジーラが米国のニュース専門局を買収し、米国におけるTV放送を開始した。多様性に対して寛大な米国世論でも、このアルジャジーラ米国進出については賛否両論があるようだが、果たして日本の世論は、このアルジャジーラ自体をどう捉えているのであろうか?日本は、化石燃料の8割を中東に依存し、特にLNGに関しては30%以上を、アルジャジーラがある、このカタールに依存しているのだが、それにしては、余りにも中東、そしてカタールのことを知らなすぎる。

今から5年前に、私は、総務副大臣のお供をして、カタールとアラブ首長国連邦であるUAE(アブダビ、ドバイ)を訪問した。そして、カタールの首都、ドーハを訪れた際に、このアルジャジーラ放送局の本社を見学させて頂いた。何しろ、日本の放送行政を監督する総務省の副大臣が訪れるとあって、アルジャジーラ側は最大限の歓迎をしてくれて、私達をアラビア語スタジオと英語スタジオの、まさにオン・エア最中の現場に案内してくれた。両スタジオ共に、意外と、こじんまりとしていて世界中で何億人もが見ている放送局のメインスタジオとは、とても思えなかった。

それも、そうである。アルジャジーラの本拠地は、あくまで事件や紛争が起きている現場にあって、本社のスタジオは、現場から送られてくる映像の中継地点でしかないからだ。言い換えれば、アルジャジーラの本質的な役割は事実だけを切り出して、それを無加工で全世界へ伝えることにある。スタジオで放送しているのはニュースキャスターだけで解説者や評論家、学識経験者や著名な芸能人も居ない。あくまで事実を映像として伝えている。だから、全世界でアルジャジーラの視聴者にはイスラム教徒以外でも絶大なファンが多い。

アルジャジーラの幹部によれば、カタール政府の出資によって発足したアルジャジーラは、今でもカタール政府の支援によって運営がなされている、実体は国営放送である。だからこそ、放送姿勢や放送内容が、スポンサーの意図によって歪曲されることがないのだという。そして、カタール政府は発足以来、アルジャジーラに対して、お金は出すが、口は出さないという方針を貫いているのだと言う。果たして、それは本当だろうか?

それは、カタール政府が取ってきた外交政策を見れば理解できる。アルジャジーラ幹部は「私たちは、決して反米ではありません。だって、この放送局の窓から外を御覧なさい。ご覧になってお分かりのように、お隣の敷地は、米軍基地ですよ。私たちが、米国の国益に害をなすようなことをすれば、米軍は、すぐさま、この放送局を爆破するでしょう。」と私達に語る。そう、カタールには中東最大の米軍基地がある。それも、アルジャジーラ放送局の敷地は米軍基地と接しているのである。

カタールは人口150万人の小国であるが、その地下には現在の産出ベースで300年分はあると言われる莫大な天然ガス埋蔵量を誇る。そして、国民一人あたりのGDPも95,000ドルで、日本の倍近くあり、世界のTOPクラスである。いつ、どこから攻められてもおかしくないほど豊かなのである。カタールの国籍を有する若い人が結婚するとお祝いに国から立派な戸建て住宅をプレゼントされる。こんなに豊かな国民が、兵士となって国を守れるわけがない。中東地域を回ってみると、その安全保障政策は、対イスラエル問題だけでないことがよくわかる。

中東の大国は、トルコ、エジプト、サウジアラビア、イランの4か国である。それ以外の、中東の小国は、常に、その4か国からの侵略の脅威にさらされている。カタールとUAEで聞いた最大の侵略の脅威は対岸のイランである。そして、イランと対峙する大国ジアラビアでさえも歴史的に見れば背後の脅威と見なしている。カタールの首都、ドーハの広場に設置された大砲は、実はサウジアラビアの方を向いているのだとカタールの人々から教えられた。カタールは、こうした隣国の脅威に対して、自分の身と財産を守るために、イスラエルと親しい米国の庇護の傘に入ることを決断した。

それでも、アラブの人々にはアラブの誇りがあると言うわけだ。米軍の背後から、安全な場所に身を置いてニュースを伝える欧米のメディアだけで真実は伝えられない。その反対側から、つまり攻撃を受ける側の危険な場所からのニュースを報道するメディアがないと、世界の人々は誤った認識を持つ。それはアラブ人にとって耐えられない屈辱であるとアルジャジーラは主張する。だから、アルジャジーラの放送記者は、いつも危険な場所から映像を流す。取材場所は戦場であり、相手は見えないほどの遠隔地から攻撃をしかけてくる。記者は、当然、犠牲になる確率も高い。アルジャジーラ放送局の玄関ホールの壁には、犠牲となった記者達の遺品が所狭しと飾られている。

アルジャジーラが、ビン・ラディンが投稿した映像を全世界に流したのも、決してビン・ラディンを支持しているからではない。アルジャジーラが流さなければ、誰も見ることが出来ないと思ったからだろう。しかし、今、インターネットの進展で専門の放送業者以外でも全世界に放送できる仕組みが出来上がった。そうなると、ニュース番組の価値は、どこで、いち早くニュースソースを取材できるかに関わってくる。シリア、エジプト、パレスチナなど中東地域での紛争は暫く終わりそうもない。危険を顧みず、そこで起きた事実だけを映像として全世界に提供するアルジャジーラの米国進出は意義が深い。そして、それを受け入れた米国の寛容さも併せて称えられるべきであろう。これまでの米国の発展は、まさに、その多様性に支えられてきたからだ。

 

237 山形花笠紀行

2013年8月11日 日曜日

息子夫婦と孫娘を連れて義母の新盆のため山形へ行くことにした。息子の嫁や孫娘にとっては初めての山形なので、折角だから、花笠祭りをみようということになった。さて、今年の花笠祭りの日程を富士通山形支店長に尋ねると、中日の8月6日には富士通グループが踊る予定なので、一緒に参加してみてはと誘われた。そういえば山形出身の妻と結婚してから40年間、一度も花笠まつりを見たことがない。東北の4大祭り、青森のねぶた、秋田の竿燈、山形の花笠、仙台の七夕での中では、青森と山形が参加型の祭りとなっている。特に花笠は見る祭りというより参加する祭りとして意義があるように思えたので、支店長の誘いに乗って参加することにした。

富士通グループは祭りに参加するためにお揃いの法被を用意しているので、孫娘向けは事前に法被を自宅に送ってもらい裾上げをして参加することになった。花笠踊りには男踊りと女踊りがあり、富士通グループの参加者は圧倒的に男性が多いため、力強い男踊りを踊ることになっている。しかし、この男踊りが結構難しい。孫娘は花笠音頭、男踊りのDVDを見ただけで直ぐに挫折した。結局、私たちは、踊る隊列の脇で法被を着てウチワ配りをすることになった。青森のねぶた祭りでも富士通グループは毎年参加しているが、ここでは採点がある。富士通グループは、あの大震災以降、このねぶたコンテストに力を入れて、一昨年、昨年と見事に優勝した。今年は残念ながら二位で、三連覇を逃してしまったが、跳人部門では一位で、総合で二位は大変立派である。

昔から、山形に帰省するときは、現地に着いてから公共交通での移動が不便なので、深夜の東北自動車道、山形道をひたすら走って車で帰っていた。しかし、私も、もう高齢者の仲間入りをしたので、無理は禁物と、JRが宣伝するレール&レンタカーを利用することにした。これは正月とお盆の時には使えないが、それ以外の時期では切符代が大幅に値引きになるので家族連れで行くとレンタカー代は事実上タダになる。今回は、さくらんぼ東根駅でレンタカーを借りて、山形駅で返却することにした。駅レンタカーの事務所や駐車場は、駅の構内にあるので、電車との組み合わせはすこぶる相性が良い。私は、アメリカ駐在員時代にアメリカ国内出張でレンタカーを多用していた経験からレンタカー利用に抵抗は全くない。こうして安価にレンタカーが借りられると、日本のレンタカーもアメリカ並みに普及することになるだろう。

正午にさくらんぼ東根駅に着き、そこでレンタカーをゲットした私たちが最初に向かったのは、山形中央自動車道、東根インター付近にある蕎麦処「一寸亭支店」である。知る人ぞ知る、この店はバラック仕立ての粗末な店なのに、夏休みになると、この店の駐車場には品川ナンバーのベンツやBMWなど高級外車で一杯になる。面白いのは何故か、この有名な店が「支店」で、「本店」が何処にあるのかは、私は未だに知らないことである。そして、地元の常連のお客も、はるばる東京から来たお客も、注文するのは、皆「冷たい肉蕎麦」なのだ。山形は暑い処なので、「冷たい肉蕎麦」や「冷やしラーメン」、「冷やしシャンプー」発祥の地でもある。当然、私たちが頼んだのも「冷たい(ツッタイ)肉蕎麦」であった。

妻の実家の菩提寺で、義母の新盆参りを済ませた後、私たちが向かったのは、同じ河北町にある紅花資料館であった。この資料館の土地及び建物全体が、山形を代表する紅花商家であった堀米家の屋敷である。西洋史の権威である堀米庸三東大名誉教授、世界的なバイオリニスト堀米ゆず子さんも、この堀米家の一族として資料館の堀米家系図に記載されている。妻の実家も、同じ河北町の紅花商家で、将来はバイオリニストになりたいという孫娘に、山形紅花の歴史をぜひ見せておきたいと思ったのだが、この堀米家の広大な屋敷は、「こんなに広いお屋敷に住まないとバイオリニストには成れないの?」と孫娘を少し不安にさせてしまったかも知れない。

その後、寒河江インターから、高速を通って山形市へ移動、ホテルにチェックインした後に富士通山形支店に入って私と息子と孫娘の3人が富士通の名前が入ったお揃いの法被に着替えたところで、突然、大雨が降ってきた。山形地方は、先週、記録的な大雨が続き、ダムの水が混濁したため断水が続いていたが、今週は晴れると天気予報は期待を抱かせたのに、残念ながら、また大雨である。晴れ男を自認していた私も、敵わない時があるのだと観念して、雨の中、3人で花笠踊りの集合場所まで行って集合写真を撮るまでが限界だった。これ以上濡れるのは子供の体力では無理そうなので、ホテルに戻って着替えて踊りを見る方に回った。丁度、雨も上がり、富士通グループの人たちも濡れた法被から湯気が立ち上るほど元気よく踊っていた。そして通りの見学者たちを良く見れば、私たちのように身内や仲間が花笠を踊っている姿を応援している方が多い。やはり花笠祭りは参加するものなのである。

翌朝は、昭和59年に国の重要文化財に指定された旧山形県庁である山形県郷土館「文翔館」を訪れた。ここは、もう亡くなってしまった、妻の父、孫娘にとっては曽祖父が長年勤めた場所で、建物右手の庭園は義父が自ら設計したものと聞いている。大正初期に建てられた英国風レンガ創りの建物と、その中の豪華な内装は大変立派なものである。特にベランダは花笠踊りの行列が正面に見える位置にあり、ここから花笠を鑑賞したらさぞかし素晴らしいのではないかと思ったが、妻は、昔、安孫子知事夫妻と一緒に、このベランダから花笠を見たことがあると言う。やはり、そんな見方があったのだ。

その後、支店長が「ぜひ」と薦める、山形美術館で開催されていたウッドワン美術館所蔵名品展を見に行った。この展示は8月25日まで開かれている。未だ間に合うので是非見に行かれることをお薦めする。日本画では竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、安田靫彦、加山又造ら 35 人、洋画では浅井忠、黒田清輝、藤島武二、小出楢重、安井曾太郎、梅原龍三郎ら 42 人の巨匠らによる秀作、計 106 点が展示されている。特に、岸田劉生の《毛糸肩掛せる麗子肖像》、藤田嗣治が新境地を開いた大型作品《大地》や、フィンセント・ファン・ゴッホの《農婦》など、日本でこれだけのものが一堂に見ることができるのかと本当に感動した。

素晴らしい名画を見た後に、少しお腹が空いたので、予約しておいた蔵王山麓の蕎麦処、「三百坊」へ行くことにした。西蔵王で自家栽培した蕎麦を自家製粉した坊板蕎麦で有名な、この三百坊へ、私は一昨年の冬に初めて訪れている。ご自慢の庭は、雪景色となっており、店主からは、危険だから庭に出ることは駄目だと禁じられた。それで、一度、夏に行ってみたいと思ったので、今回は、どうしても来てみたかった。しかし、蔵王山中に入ってからナビが導く道は、どんどん細く頼りなくなっていく。もう、対向車が来たら駄目だ、本当に、この道だったのだろうか?と不安になる。よく考えてみたら、真冬に雪道を来たのだから景色は全く違っているのは当たり前だ。それでも何とか着いたようだ。なぜ、着いたようだと思ったのは、黒塗りの高級車が沢山停まっている駐車場が見えたからだ。

大きな屋根のお店に入ってから見た広い庭の景色は、確かに素晴らしい。山の一部のような気もするが、やはり造られた庭園である。こんな景色を見ながら、自家栽培、自家製粉の十割蕎麦を食するのはとても贅沢である。子供でも一人前は取るのが決まりだと店主に言われて注文したが、果たして食べられるのだろうかと心配したが、美味しいのは子供にも分かると見えて、坊板蕎麦、一人で全て平らげてしまった。聞けば、夏蕎麦は毎年7月25日に採るのが決まりになっているのが、今年は大雨で収穫できなかったそうだ。「皆さんはとても運が良い、今日が夏蕎麦の初日ですよ!」と店主に言われて、花笠踊りは雨に遭ってしまったが、山形美術館も含めて、トータルとしては、今回は、「運が良い山形花笠紀行」だったかなと思い帰京することとした。