マイクロソフトのCEOであるスティーブ・バルマー氏とは、何回も会って会話をしているが、その都度、地声の大きさには驚かされる。「この人の声は大きいのだ」と身構えていても、いざ、本人から最初の一声が発せられると、またそこで再び驚くのだ。多分、バルマー氏は、ヒソヒソ話は一度もしたことがないだろうし、そもそも出来ないのだろう。この手の人は絶対に悪い人ではない。社員を集めたパーティーで、自社の庭の池に飛び込むようなハプニングをやってのけるバルマー氏の振る舞いは根っからの営業に見え、とても数学では天才的な才能を持つエンジニア出身とは思えない。
バルマー氏は、マイクロソフト創業時から、ゲーツ前CEOと二人三脚で事業を拡大してきた中で、常に表舞台で活躍してきたゲーツ氏を陰で支えてきた。先日、シリコンバレーの、あるベンチャーキャピタルが、一人で創業したスタートアップには、金を出さないのだと言っていた。第一番目の理由は、事業は二人以上でチェックしながらやると成功率が高いということと、二番目の理由は、最低二人だけでも互いに協調できない輩は、どんなに優秀でも、最終的には、決して成功者にはなれないということだった。
そう言えば、日本でもホンダは本田宗一郎氏と藤沢氏がいたし、SONYも井深さんと盛田さんが互いに良き役割分担をしている。シリコンバレーでも、ヒューレットとパッカードのHP、ジョブスとウオズニアックのApple、ラリーとペイジのGoogleと、二人の創業者で事業を飛躍的に拡大させた例は枚挙にいとまがない。そういう意味で、やはりマイクロソフトはゲーツ氏とバルマー氏の二人が突出した役割を果たしてきた。
そのバルマー氏も、ハーバード大学を卒業した後に、P&Gのマーケッティング部門に就職している。そこで、机を並べて一緒に仕事をしていたのが、GEのイメルトCEOだったというのだからアメリカのキャリアパスのスケールの大きさには驚きだ。イメルト氏も、ここは自分の職場ではないと大学院に化学の分野を勉強するために戻っているし、バルマー氏も、さらに数学を極めるためにスタンフォード大学へ進んでいる。その後、ゲーツ氏の誘いに乗ってスタンフォード大学を中退し、マイクロソフトへ30番目の社員として入社している。
今回のバルマー氏の辞任を、AppleのiPhone, iPadに勝てなかったマイクロソフトという捉え方をするのは必ずしも正しくない。ゲーツ氏は、ビジネスマンとしても卓越した才能を持っていたが、根っからのエンジニアとして、とにかく技術が好きだった。マイクロソフトのドル箱アプリである、OfficeをAppleへ提供し続けたのも、実はゲーツ氏がAppleマッキントッシュPCの最大の支持者だったからかも知れない。マイクロソフトがWindowsでAppleをほぼ市場から駆逐した後でも、ゲーツ氏は、文字認識技術や音声認識技術が大好きで、特にタブレットPCには早くからご執心だった。
1990年代末、マイクロソフトは、アメリカでタブレットPCを販売していた私たちの最大のお得意様の内の1社だった。そして、ゲーツ氏は、そのタブレットPC専用のOSを、iPadに先立つこと10年以上も前に開発し、世の中に問うたのだ。ニューヨークでの新タブレットPC発表記者会見に、私は、ゲーツCEO、HPのフィオリーナCEO、台湾のエイサー社スタン・シーCEO、東芝アメリカの西田社長と共に登壇した。マイクロソフトは、決して独占に胡坐をかいて新しいことに何も挑戦しなかったわけではない。むしろ、世の中の動向よりも早すぎたのかも知れない。
最近、スマートフォンやタブレットに押されてPC市場は低迷を続けている。確かに、昔、鞄の中に、何処へ行くにもノートブックPCを入れて歩いていた私も、最近は、鞄の中にはタブレットしか入っていない。それも、スマートフォンだけで間に合う時には、タブレットも持ち合わせていない。そうは言っても、会社や家に帰ったときに使うのは、やはりPCである。大型画面とフルキーボード、大容量ファイルと多くのUSBコネクタがないと、机の上の仕事を効率的にこなすことは出来ない。従って、富士通も、個人向けの店頭市場でのPC販売は苦戦しているが、企業向けPCは好調である。特に、出先ではWindowsベースのタブレットとして、会社に戻ったらドッキングステーションと組み合わせて通常のWindows-PCなるという使い方が増えている。生命保険会社向けには、数万台という大型ロット商談も少なくない。
しかし、個人向けの携帯端末であるスマートフォンやタブレットの市場では、圧倒的にAppleのi-OSとGoogleのAndroidが殆どを支配しており、マイクロソフトのWindowsが出る幕は極めて少なくなっている。私の場合も全く同じである。それでは、モバイル利用において、もはやマイクロソフトと縁が切れたかと言えば、そんなことはない。富士通は、全世界16万人の従業員の情報処理利用をマイクロソフトのExchangeサーバーをベースとした一つの情報共通基盤で支えている。つまり、従業員の机の上にはWindows-PCがあるので、Exchangeは一番親和性が良いと言うわけだ。その上で、富士通はAndroidとi-OS上に、極めて堅固なセキュリティーをもったExchangeサーバーとの接続アプリを社員に提供している。
私も、それを毎日利用しているわけだが、Androidのスマートフォンやタブレット上で、事務所ではWindows-PCを使って出来ることが、殆ど出先で出来ている。メール処理はもちろん、人事通達や、社長の掲示板まで自由に見ることが出来る。もちろん、肝心のデータは、Exchangeサーバー側に存在し、セキュリティー上の理由で携帯端末側に取り込むことは出来ない。出先であるから、これで十分である。つまり、少なくとも富士通に関する限り、マイクロソフトのWindows世界は、モバイル分野でも消え去ってはいない。
ここで、私が言いたいことは、今回のバルマー氏の辞任は、マイクロソフトがAppleやGoogleに対して勝ったとか、負けたとかいうこととは関係ない話のような気がしている。つまり、IT業界の次の競争というのは、情報プラットフォームの提供という従来の領域を超えてくるのではないか?ということである。
IBMのワトソンに代表される人工知能マシンや、Googleが開発中の運転手が要らない自動走行車など。次世代のIT技術は、人間の能力を代替する領域にまで発展していくであろう。今、注目を集めているビッグデーターも、因果関係を抜きにして相関関係から、いきなり人間には気づかないルールを見出すことが出来ると言う意味で、もはや人間の能力を超えている。ITの世界は、ビル・ゲーツ氏やスティーブ・バルマー氏が築いた世界から、さらに大きな特異点(Singularity)を超えようとしている。今回のバルマー氏の辞任は、それに合わせて、マイクロソフトも次の指導者へと交代していくと言う事だと考えた方が良い。