2013年5月 のアーカイブ

226 1年ぶりの中国 (その1)

2013年5月26日 日曜日

5月20日より広州、澳門、香港へと出かけた。昨年5月、中国の宇宙開発をリードするハルピン工業大学へ講演に行って以来の中国訪問がようやく実現出来た。最近の私の中国訪問は、中国が誇る国立のシンクタンクである社会科学院や国立大学での講演が中心となっている。一昨年までは、年数回行っていた中国への訪問が5月以来途絶えてしまったのは、やはり日中関係の悪化が何らかの形で関わっているものと思われる。

日本も中国も知識層は、日中関係の重要性を認識しているが、メディアを含む一般の人々の動向を気にして、なかなか本音を語ることが出来ない。もともと政治の話は抜きで経済の話しかしない私の講演とは言え、広州の名門である中山大学、香港が世界に誇る香港中文大学ビジネススクールでの講演を受け入れて頂いたのは、昨年悪化した日中関係が正常化へ向かう兆しではないかと喜んでいる。

さて、今、少し下火になったとはいえ、多くの日本人が中国の鳥インフルエンザ(H7N9新型)を警戒している中で、私も、今回の中国訪問に向けてH7N9型に有効とされるタミフルを持参して行った。しかし、今回、広州、澳門、香港の何処へ行ってもマスクをしている人は全く見ない。「ああ、中国の人は無関心なのだ」と思ったら、それは大間違いで、今の中国では、国民はあらゆる情報をインターネットで入手できるので、鳥インフルエンザに対しても物凄く気を付けていて、少なくとも、この広州を含む華南地区では、最近は鳥を全く食べなくなったという。

広州の一流中華レストランでは、配膳される料理の皿に調理人の署名が入った紙が貼りつけられている。つまり、誰が調理したか皿ごとに責任が明確になっていると言うわけだ。もし、何か異物が混入していたり、刺激臭があったりすれば、その皿を調理したコックが責任を取らされるということらしい。冷凍毒物いりギョーザの輸入は、日本人にショックを与えたが、実は中国人は、もっと大きなショックを受けたらしい。日本は輸入を止めればよいが、中国人は、そういうわけにはいかないからだ。このため、自分たちでチェックできる出来ることは何でもしようという機運が出てきて、食品流通は従来に比べて極めて厳しくなっているという。

それで、最も驚いたのは広州の珠海から澳門へ陸路で入る入出国審査場の大混雑だった。何万人もの人々がつめかけていて、入出国処理に合計1時間半もかかった。いつも観光ルートしか歩いていない私には、こうした一般庶民の越境ルートは驚くべき光景であった。大体、殆どの人の服装が貧しいのである。広州市内では見かけないような身なりで、一昨日の豪雨でビショビショにぬれた水浸しの道路を裸足のサンダルで歩く。どうやら集団で行動しているらしい。そして、人々は、皆、手に、手に、空のキャリーバッグを持っている。どうみても澳門でバカラ賭博をやろうという感じではない。一体、この人たちは、どういう集団なのだろうか?

どうやら集団で、澳門に赤ん坊向けのオムツや粉ミルクを買い出しに出かけているらしい。中国の人たちは、中国製のオムツを付けると赤ちゃんの肌がかぶれ、中国製粉ミルクにはメラニンが入っているのではないかと、今でも全く信用していないのだ。もうだいぶ前の事件だから、もう、今は大丈夫だと思うのだが、一旦信用を失うと取り戻すのは中々大変らしい。それで、香港や澳門に日本製のオムツやオーストラリア製の粉ミルクを買いに行く人が多く、直ぐに品切れになってしまうので、一人当たりの購入個数が決められているらしい。

だから、職のない貧しい人々が、一族郎党を引き連れて澳門までオムツと粉ミルクを買いに出かけるのだと言う。もちろん、自分で使うのではなくて転売が目的である。これらの人々は、毎日、珠海から澳門まで通っているのだろう。行と帰りで、入出国手続きだけだ3時間もかかるのだから、一日一往復がやっとだろう。これが立派な商売なのだ。逆に言えば、そういうことが商売になるほど、今の中国人は食の安全に対して神経を使っているし、また、お金を払う覚悟がある。

今の、華南は雨期だというが、それにしても、私たちが広州に着いたときは、記録的な豪雨で雷が凄かった。空港の上空を30分以上も旋回していたが、それでも、私達の飛行機が何十機も待機して旋回しているなかで運よく最初に着陸したのだという。やけに入国処理がスムーズに出来たと思ったら、そういうことだったらしい。晴れ男の異名をとる、私が空港に着くと、空が晴れ始めた。まるで、豪雨が洗い流したかのように、人々が、もう何年も見なかったという青空が出てきた。豊かになり始めた中国の人々が、今、一番大事にしたいと思っているものこそ、まさに食の安全であり、そして澄み切った青い空である。

225 2年ぶりのヨーロッパ(その5)

2013年5月14日 火曜日

パリとミュンヘンでの会合を終えて、いよいよ帰路につくわけだが、ミュンヘン発成田行きは午後9時の出発である。それまでの半日ほどを使って、私たちはミニ観光をすることにした。欧州大陸本社があるミュンヘンと、その製造工場があるアウグスブルグ周辺のロマンティッシェ・シュトラーセ(俗にいうロマンチック街道)周辺は、富士通とシーメンスが合弁関係にあった10年間に、何度も訪れている。お城マニアのバイエルン国王ルードヴィヒ2世が造ったノイシュヴァンシュタイン城はディズニーランドのシンデレラ城のモデルとなった美しい城だが、ここも何度も訪れている。

今回は、ちょっと遠出をして、モーツアルトの生誕地、映画サウンドオブミュージックの舞台となったオーストリアのザルツブルグへ行くことにした。ミュンヘンから200キロ弱あるが、アウトバーンを時速150キロで飛ばせば1時間半ほどで着く。朝8時にミュンヘンのヒルトンパークホテルをチェックアウトした私たちは予約したハイヤーに乗ってザルツブルグへ向かった。ところで、私たちはザルツブルグに関して事前に何の知識も持っていないし、もちろんガイドも居ない。ただ、創業803年のヨーロッパ最古のレストラン、シュティフツケラー サンクト・ペーターを予約したから、そこだけは必ず行くようにと教わっただけだった。

10時少し前にザルツブルグに着いた私たちは、まず、ミラベル宮殿脇に出発所がある、ミニ観光バスツアーに申し込んだ。1時間で、ザルツブルグをざっと回るミニツアーだが、乗ってすぐに私は後悔した。あまりに雑で、名所には全く止まらない。これは失敗したと思ったら、終わり近くになって、やたらに綺麗な場所に出た。ザルツブルグ市内きっての高い丘にそびえるホーエンザルツブルグ城の裏の湖の脇にひっそりと建つ小さな城だ。確かに映画サウンドオブミュージックで見たような気がする、とても綺麗な城だ。このミニツアーで、ここだけは良かった。そして、バスが止まった所も、遂に、ここだけである。しかし、お蔭で、ザルツブルグ市内の名所がどういう配置になっているかは、おぼろげに理解できた。

その知識をもとに、私たちは観光バスに乗った場所の近くの、ミラベル宮殿の庭から市内を歩いて巡りだした。確かに「小さな市街地だから、歩いて回れるよ」という助言通りだった。そして、モーツアルトの生家を見たあとで、丁度、12時近くなったので、近くにあるはずの、予約したレストラン、シュティフツケラー サンクト・ペーターを探したが、とんと見つからない。いろいろな人に聞いて、ようやく辿りついたのは、サンクト・ペーター教会裏手の洞窟のような場所。入り口に、創業803年と書いてある。確かに古そうだ、1200年前のレストランである。頼んだのは、ドイツ料理として、この時期に最も美味しいと言われているアスパラガスだ。洞窟だけあって、なかなかムードも良い。男同士で来るには、ちょっと惜しいくらいだった。

ザルルブルグは、その名のとおり、岩塩の産地で、海から遠い中央ヨーロッパ各地に塩を供給して財を成したとは知っていたが、ミニ観光バスの運転手兼ガイドによると金も産出したらしい。当時、世界の金の産出量の40%を占めていたと言うから、それは凄いものだ。町の景観が綺麗なのも、やはり豊かな富のせいだろう。モーツアルトも、そうしたザルツブルグの富の加護のお蔭で芸術に携われたのかも知れない。やはり富が、文化を作るのだ。ヨーロッパは、こうした富のストックが凄い。たとえ身なりが質素でも、その豊かな過去の遺産と共に暮らしているだけで楽しい生活が出来るし、また観光収入も得ることが出来る。

欧州最古のレストランを後にすると、未だ少し時間があるので、ミュンヘンへの帰路の途中にあるヘレン・キームゼー城に立ち寄ることにした。この城は、ルードヴィヒ2世がベルサイユを真似て作ったもので、ドイツ・オーストリア地区では最も面積が大きいキームゼー湖の中央に浮かぶヘレン島に建設された。従って、城へ行くには、まずは、船でヘレン島へ渡らなくてはならない。時間に余裕のない我々は、とにかく往復切符を買っていそいそと島へ渡った。どうやらヘレン島の船着き場で、城に入る入場券を買うらしい。「音声ガイドは何語が良い」とか聞いてくるので、「とにかく英語にしてくれ」と頼むと、切符をくれたが、「今は、混んでいるので、入れるのは、これから1時間後だ」という。

冗談じゃない。そんなことしていたら、日本へ帰る飛行機に乗れない。普通なら、ここで引き返すところだが、何しろ船に乗って島に来ているので、そう直ぐには戻れない。「分かった、判った」と了解して、金を払って切符を買って、お城へ向かう。15分ほど森の中を歩いたら、形はベルサイユ宮殿に良く似ているが、ドイツらしく質実剛健なキームゼー城が目の前に登場した。せっかく切符を買ったのだが、何しろ城の中を見て回る時間はない。結局、城の周りと目の前の運河の写真を撮って、船着き場に戻り帰路についた。どうやら、城の周りを巡るだけだったら、城へ入る切符を買う必要はなかったらしい。

ミュンヘン空港に着いたときには、またもや2万歩近く歩いていた。しかし、こんなに短い時間に、ザルツブルグ市内とキームゼー城の2か所も観光できた。事前の知識もガイドもなしに、行き当たりばったりの弥次喜多道中の旅も結構面白い。また今度、いつヨーロッパに来れるのか、わからないが、とにかく良い旅をした。今年は、日本‐EU間の貿易協定も、ようやくスタートしたことだし、やはり実りある旅だった。

224 2年ぶりのヨーロッパ (その4)

2013年5月13日 月曜日

今回の、日本-EU BRTでは、前回までのようなEU側からの日本の非関税障壁を非難する激しい論調はなくなった。両国政府が、交渉開始を合意し、これから話し合いを進めて行くうえで水を差すようなことはしないと決めたのだろう。むしろ、衛星打ち上げビジネスを推進したいアリアン・スペース社、民間航空機を受注したいエアバス社、日本と共に原子力発電所ビジネスを推進したいアレバ社、CADAMで有名なコンピューターソフトウエアメーカであるダッソー社と言ったフランスを代表するハイテク企業のCEOが、これからの日本とのビジネス協業に向けて未来志向の発言を行っていた。

特に、アレバ社からは、次のような意見が出された。日本が原発の新規建設を止めて、脱原発の道を歩むと決めたとしても、日本以外の世界は、新興国を中心として、これから膨大な数の原発を建設していく。今回の原発事故を経験した日本が、もし何も関わらなかったとしたら、世界中に、極めて危険な原発が多数、建設されることになるだろう。不幸な事故を起こした日本こそ、世界の安全な原発建設のために、その知見を活かして欲しいというアレバ社の話は、素直に納得できる話でもある。

ヨーロッパは、私がローマを訪れた2年前とは大きく変化していた。あの時は、ローマもヨハネパウロ2世の列福式で沸いていて、イタリア自体も、まだそれほど深刻な状況でもなかった。しかし、今回は、違う。会議の後の、フランス外務大臣主催の晩餐会でも、私の隣に座ったフランス財務省の次官は、「我々には、もう打つ手がなくなった。しかし、このまま座してヨーロッパの衰退を、ただ眺めているわけにはいかない。何かを変えないと、事態は何も変わらない。何か行動をしないとだめだ。」と語っていた。歴史ある瀟洒な装飾に包まれたフランス外務省迎賓館の中には、エアバスA380やアリアンロケットの模型が展示され、迎賓館はフランスハイテクビジネスのショール―ムと化していた。

そんなパリを後にして、私はミュンヘンに向かった。ミュンヘン空港に到着した日は、丁度、メーデーでドイツは休日である。我々の相手をしてくれる、現地の日本人責任者はインドに出張中で夕方ドイツに帰国するというので、私たちは宿泊先のヒルトンパークホテルの周りの公園を散歩しながら、屋外ビヤホールでビールを飲みながら時間を潰すことにした。公園の広場の真ん中にある五重の塔のような建物には楽団が居て、楽しそうな音楽を演奏しているなかで、沢山のミュンヘン市民が普段着でビヤホールに集まって話をしている。

しかし、9月のミュンヘンのお祭りであるオクトーバーフェスタで見られるような、あの陽気な笑い声はどこからも聞こえない。市民も、皆、質素な普段着である。どちらかと言えば、皆、深刻な顔をして話をしているようにも見える。ヨーロッパで一人勝ちのドイツと言え、域内の景気が、ここまで悪くなっては、ドイツも欧州経済危機と無縁であり得るはずがない。だいたい、豊かな北欧に行っても、日本に比べて一人あたりの所得は多いものの、社会保障に向けての課税負担が多いので、可処分所得が少ないせいか、街を歩いていても、華美な服装をした人には殆ど出くわさない。皆、質素な佇まいで歩いている。そういう意味では、ドイツも北欧と全く同じである。

翌日は、会社の事務所に行って、ヨーロッパのビジネスに関して、現地の経営幹部から話を聞くことにした。昨日、インドから帰国したばかりなのに、一緒に夕食を共にしてくれた現地の日本人責任者は、明日は、官邸からの要請で安倍総理に同行するためトルコへ発つと言う。そう、ミュンヘンに本社を置く、この会社は、英国と北欧を除き、ロシアも含めた欧州大陸全部と中東、アフリカ、インドを管轄としてビジネスを行っている。社員の殆どは、欧州電機業界の雄であるシーメンスから移ってきた人々である。その現地幹部社員から、いろいろ話を聞いたが、やはりドイツ経済も、少しずつ後退局面になってきたと言う。

それでも、さすがはグローバル企業であるシーメンスで育った人々の発想は違う。ヨーロッパがダメなら、中東、アフリカ、インドがあるではないかという前向きな考え方である。今、こうした新興国では、ITに関して、新たな利用分野での展開が始まっている。一つは環境分野であり、もう一つは社会保障分野である。例えば、社会保障分野では、低所得者向け支援の受給詐欺をどう防ぐかという深刻な問題がある。先進国なら、単なる犯罪として世間の非難を浴びることで終わるが、新興国は、大体、国内に紛争を抱えており、こうした詐欺で得た資金が反政府勢力に流れるという国家安全保障上の深刻な問題にまでになっている。

こうした、新興国が抱える課題解決のためには、ITビジネスも、単にサーバーやパソコン、あるいは携帯電話と言った製品を売るだけとか、あるいはデーターセンターを作ってアウトソーシングサービスをするだけと言った綺麗ごとだけでは済まない。課題解決に必要な特殊な「モノ」と「サービス」が一体となったソリューションが求められている。それは、もちろん、そう簡単な話ではないが、逆に、一連のコンピューター関連製品だけでシステムが出来上がる「綺麗ごとのビジネス」の範囲を超えた領域にまでITサービスを深化させられるかも知れないという期待が持てる。

また、一方で、ヨーロッパにはインドや中国に負けない安価で優秀なIT開発リソースが沢山あるのだという。エストニアや、ルーマニア、トルコには、高度なIT技術を有した若い人材が豊富にいるのだという。そして、この会社は、ロシア連邦に属するタタールスタン共和国のカザンにも拠点を持っている。カザンと言えば、かつてソ連邦のコンピューター開発のメッカでもあった。冷戦時代、IBM360互換機も、このカザンで開発されている。ヨーロッパは奥が深い。私たちが知っている北欧や西欧だけがヨーロッパではない。市場と言う意味でも、リソースと言う意味でも、ヨーロッパは、まだまだ多くの可能性を持っている。

東日本大震災など、人類は未曽有の危機に遭遇したときに、新たな知恵が起こる。そういう意味では、新興国は毎日が日常的に危機である。このミュンヘンに本社を持つ会社の人々とビジネス談義をしていると、この新興国市場には、山ほど解決すべき課題があり、その中で、ITが貢献できる分野も沢山ありそうな気がしてくる。その課題と正面から向き合い、一つ一つ解決していくことが、これからの、新たな成長に結びついていくことになるのだろう。