2013年3月 のアーカイブ

212 あれから2年 (その5)

2013年3月22日 金曜日

昨日、私の手元に厚さ1インチ、786ページにも及ぶ「東日本大震災 仙台市記録誌」が届いた。届けてくれたのは、この分厚い資料編纂に初めから完成まで携わった、当社の公共分野で仕事をしている女性コンサルタントである。この資料は、彼女と富士通本社の男性社員と3名の仙台市職員を含む、合計5名で、昨年の5月から11か月の時間をかけて作られた。ボリュームも多いが、内容も充実しているので大変読みがいがある。永年、公共分野で仕事をしてきた彼女は、大船渡の出身で、幸い、実家と家族は無事だったが、友人や知り合いには津波の犠牲になった方もいる。とりわけ、彼女の母親は、陸前高田の出身で、そこで暮らしていた母親の姉妹2人、つまり彼女の叔母達は、このたびの津波の犠牲者となった。震災直後、彼女は母親と共に、何日も陸前高田の遺体安置所を探し回ったという。

そうしたこともあって、この仕事が決まると同時に、彼女は東京のアパートを引き払い仙台市に移り住んだ。平日は仙台市役所で震災記録誌編纂の仕事をしながら、休日はレンタカーを借りて大船渡や陸前高田に向かい、これまで公共分野で仕事をしてきたコンサルタントとしての知見を活かしたボランティアとしての活動を行っていた。そうした不断の努力が実って、こんなに立派な記録誌が出来た。やはり、お天道様は、どこかで、こうした地道な努力を見守っているものである。3月18日に行われた、奥山仙台市長から山本富士通社長への感謝状贈呈の記者会見の場で、彼女は奥山市長と山本社長と3人で記念写真に収まっている。

そんな彼女の汗と涙と努力の結晶を頂き、いかに分厚い資料とはいえ、そのまま長い間、積読にしておくわけにはいかないので、他の仕事は放り出して、夕方までに786ページを一気に読み終えた。仙台市の副市長から局長、局次長までの幹部社員全員から聞き取り調査を行って仕上がった、この資料の中身は大変濃いものがある。一気にざっと読んだだけではあるが、この中で、特に印象に残ったいくつかの点について、ご紹介をしたい。

まず、冒頭の記述で「完全な防災の限界」として「今回の津波による各地の被害をみると、従来から津波の被害を体験していた地域での防波堤や防潮堤などの構造物は、今回の巨大な津波の前に簡単に飲み込まれた。自然の猛威に対して、構造物による制御には限界があることが明らかになり、自然と対峙する完全な防災ではなく、自らの命を守るため『逃げる』ことなど、減災の視点の重要性を再認識した」とある。そう『防災』という考え方は、自然の猛威に対する人間の驕りや無知から来ていると指摘している。今回の大災害を経験した人々の生々しい声である。我々は『防災』などという言葉を安易に使ってはいけないのかも知れない。

震災直後から数日間は、食料配給も困難を極めたようであるが、今、振り返ってみて、このたびは問題にはならなかったが、アレルギー対応や宗教食の問題も考えるべきであったと反省をされている。また、こうした大災害時には仙台市は仙台市民のことだけを考えていれば良いと言うわけには行かない。仙台市以外に居住する仙台市への昼間流入人口は、12万人も居て、その人数には山形市2,000人、福島市1,500人など他県の地域からの流入も含まれている。そして、このたびは原発事故もあり、福島県から仙台市内に移動してきた被災者がかなりの多人数いて、その人たちのケアも仙台市民と同様に行う必要があった。

もちろん仙台市には外国からも来ており、市内に居住する外国人登録者は1万人にも及ぶ。半数が中国、4分の1が韓国で、その他は欧米からである。そのため、外国人被災者への情報提供、アンケート及び罹災申請用紙など、各種届出用紙も中国語と英語版を用意している。それにしても、罹災証明申請から交付までの手続きは外国人でなくても日本人でさえも大変なものである。この記録誌に掲載されている申請から交付までのフローチャートを見ると合計20ステップ以上あり、見ているだけで頭がクラクラしてくる。これを、あの混乱の中で、被災者と市役所職員が、共に行ったのである。

この罹災証明の手続きのピークは震災から半年後の2011年6月で週2万件である。その後、収斂するまでには次の年の3月まで、ほぼ1年間、毎月3,000件もの申請が続く。震災発生から最初の3か月は、それどころではないというのが実態だったのだろう。しかし、罹災証明がないと、被災者は一銭の義捐金すら支給されないのである。この大混乱を、さらに追い打ちをかけたのは高速道路無料通行用の罹災証明であった。6月から始まった、この制度は、12月に制度改正により罹災証明が不要となるまで、一般家屋の罹災証明の件数とほぼ同じ数の申請がなされ市役所窓口の大混乱を助長した。なぜ、最初から罹災証明なしの完全無料化が出来なかったのかと市役所側は悔しがる。災害現場を知らない、永田町、霞が関の思いつき政策の結果である。

住宅問題の解決に仙台市が行った民間貸家の借り上げ施策は、大変大きな効果をあげた。仮設住宅よりスピードも速く、住み心地も遥かに良い。今、日本全国の地方都市には膨大な数の空き家がある。ここをうまく利用しない手はないのだが、今回、仙台市の反省としては、災害が起きる前から、災害時に備えて、こうした施策のための事務手続きを標準化しておくべきだったという反省である。

市役所として、一番、想定の範囲を超えたのは遺体の数であった。棺に関しては、災害直後に若林区荒浜で200体以上の遺体が見られると言う情報で、すぐさま1,000柱を手配したため間に合ったが、課題は遺体安置所のスペースと火葬の能力、及び身元が確認できない遺体の安置方法であった。取りあえず、身元不明遺体は一時土葬するという手段を取った。火葬も他県の14施設の応援も仰いだほか、身元不明遺体確認用のDNA鑑定作業は全国の警察の応援を仰いでいる。ご遺体に関する何もかもが、通常のスケールを大幅に超えているので、作業が全て間に合わない。この災害が、仮に、夏場に起きていたら、どうなっただろうかと記録誌には書かれている。

一般的に、こうした災害に於いて、高齢者の問題は多く語られるが、それと同様に、子供の問題、そしてペットの問題も非常に重要であると記録誌には書かれている。子供達においては、心のケアが特に重要で、命が助かっても、あのような恐ろしい状況を目の前で見た子供たちの心は、そう簡単には癒えることはない。仙台市動物管理センターにおける記録を見ると、犬は、382頭保護されて、192頭が飼い主に変換、173頭が譲渡され、実に95%の犬が救われている。ところが、ネコは1,152頭保護されていて、元の飼い主に変換されたのは、たった9頭で、譲渡されたネコは379頭。返還譲渡率は、犬の3分の一で、33%にしかならない。私は、会社の同僚で仙台の被災ネコを2頭ずつ引き取った人を2人知っている。彼らは、実に良いことをしたわけである。

その他、ゴミ処理の問題、ガレキ処理の問題、上水道、ガスなどのインフラ復旧の問題など、後世に役立つ、多くの記述があるが、紹介は、またの機会にしたい。さて、私は、この記録誌の中で、今回の災害とは全く関係がない、一つの情報に注目した。仙台市の製造業の動向に対する記述である。仙台市は、今回の大震災が起きる前から、ほぼ10年間の製造業統計を示している。仙台市は東北の中でも企業誘致には成功している自治体に入る。まず生産高についてみるとリーマンショック直後の2008年から2009年までは落ち込んでいるが、その後、2010年から順調に増加傾向にある。今回の大震災で、一時下がったが、それでも昨年後半から元に戻っている。

問題は、このグラフに書かれている、もう一つの指標である付加価値生産高だ。生産高は、この10年間で大幅に増加しているのに、付加価値生産高は、この10年間全く変わっていない。つまり、生産高が増加しても付加価値高は増えていないのである。こうした統計を、あまり今まで見たことがなかったが、多分、この傾向は、仙台市のみならず、日本全国で起きているのではないかと推測する。生産高での世界一の製造大国は中国であるが、付加価値生産高で見た世界一の製造大国はアメリカである。モノづくり大国を目指す日本は、このどちらを目指すのか? それによって国の在り方が変わってくる。この仙台市の震災記録誌は、私に、もう一つ大事なことを教えてくれた。

211 あれから2年(その4)

2013年3月21日 木曜日

2013年3月19日、私は会津大学復興支援センター開設記念フォーラムで講演するため会津若松へ向かった。新幹線の郡山で降りて磐越自動車道郡山インターへ向かう途中、原発近郊の浜通りから、この郡山に避難された多くの方々が住む仮設住宅群の脇を通った。三陸地区と異なり、ここに住む多く被災者の方々は、元々住んでおられた家は外観的には無傷で放射能汚染の問題さえなければ、いつでも帰ることが出来るという意味では、その口惜しさが忍ばれる。現状で、何の見通しもないまま、一体、いつまでこの地に居るのかと毎日悶々とした日々を過ごされているに違いない。

その3月19日、2年前原発が爆発した丁度同じ時期に、今度は長時間の停電事故があった。会津は原発がある浜通りから大分離れているとはいえ、同じ福島県民として原発に対する危機感は東京に住む人々より鋭いので、朝から、この原発の停電問題で持ちきりであった。元々、大学がフォーラムのために呼んでいた記者の人達も、急遽取材予定を変更して、元原子力技術者でもあった角山会津大学学長に対して、この停電問題に関しての取材を申し込んでいた。この会津若松ワシントンホテルで開催される復興支援センター開設記念フォーラムに集まった人々も、東電の説明には全く納得出来ないでいて、「今回の件は、事故ではなくて事件(テロ)ではないか?」との疑念を持っている方々も多かった。

それでも、会津はNHK大河ドラマ「八重の桜」で活気に満ちていた。会津若松駅は、もちろん会津若松市内中が「八重の桜」のポスターで埋め尽くされている。これから、本格的な花見の季節を迎えて、さぞかし多くの観光客も訪れることだろう。しかし、会津の人々は、今回の大河ドラマの主人公である山本八重については良く知らなかったのだという。むしろ八重のお兄さんである山本覚馬が、京都府議会議長、京都商工会議所会頭として京都で大活躍したことは、会津の人々は、皆、知っているのだと言う。

会津の人達が山本八重よりも、もっと良く知っている明治の女傑は会津藩の国家老の末娘であった山川捨松である。彼女は、後に津田塾を起こした津田梅子と共に11年間にも及ぶ長いアメリカ留学に出る。帰国した捨松は、郷里の人々にはアメリカ娘と陰口を叩かれたが、西郷隆盛の従弟である陸軍参謀総長大山巌元帥に見初められて公爵夫人となる。捨松は永年のアメリカ留学で鍛えた語学力で鹿鳴館の華として大活躍をするのである。この山川捨松の兄が山川健次郎で、二度にわたって東大総長を務めることになる。戊辰戦争では賊軍としての汚名を受け、薩長派閥の明治政府から徹底的に弾圧を受けた会津の人々にとって、山本覚馬、八重兄妹、山川健次郎、捨松兄妹の活躍は、まさに絶好の名誉回復の機会となった。

会津が賊軍からの復活する一つの象徴でもある「八重の桜」と、今回の大震災からの復興が福島の人々にとって重なって見えるのかも知れない。NHKも良い時に、良いテーマを選んだものだと感心する。この八重が結婚する相手の新島襄は、福島のお隣の群馬県の出身である。この新島襄が設立した京都のキリスト教大学である同志社を、新島襄が亡くなった後は、京都商工会議所会頭であった、八重の兄である山本覚馬が、名誉総長として地位確立に大きく貢献する。群馬と福島出身の人々が京都の同志社のために懸命になって支える姿も、また面白い。

さて、今回の私の講演テーマは「シリコンバレー 最新事情 産学連携の最前線」という大変偉そうなテーマであった。元々、国井先生が会津大学を興された主旨が、シリコンバレーで活躍しているような企業家を育てる、日本唯一のIT専門大学で、かつ、教職員の半数近くを外国人で占めるグローバルな学術環境を作るということであったので、ある意味、適切なテーマであったのかも知れない。

しかし、それはあくまで後付である。今年の1月、久しぶりのシリコンバレー訪問で、「一体、何が、それほどシリコンバレーを熱くさせているのか?」を調査に行った。現地スタッフが半年前からアポイントを取ってくれたお蔭で、たった1週間で多くの素晴らしい方々に会えた。そのレポートが、丁度出来上がったところで、以前から親しくさせて頂いている会津大学の岩瀬理事から、震災後、ずっと考えてきた復興支援センターがようやく設立の運びとなったので開催記念の講演をお願いする旨、ご依頼を頂いた。そういう意味で、この演題を外部講演するのは、今回が初めてであった。

今回の講演で、私は、もう一つの挑戦に試みた。ほぼ全ての資料を写真にしたのである。このことを夢見て、今回のシリコンバレー訪問には愛用のミラーレス一眼レフを携えて行った。訪問した場所の、殆ど全てで撮影の許可を頂いたので、思う存分撮りまくった。これらの写真をバックに、語りを入れて講演をしてみたい、そう思ったのである。初めての試みで大変不安だったのだが、講演が終わった後に、多くの方からお褒めのお言葉を頂いた。それも、そのはず、今回の聴衆の多くの方々が、この会津大学出身あるいは会津大学に深く関わる地元のベンチャー企業の方々が多かったからだ。

私が15年前に暮らしたシリコンバレーは大きく変貌を遂げた。どう変わったかと言えば、まず小さな資金でビジネスが始められるようになった。これこそクラウドコンピューティングの恩恵である。そしてオープンな場で、多くの異業種の人々が膝と膝を突き合わせて語りながらイノベーションを興していくスタイルに変わった。大都会ニューヨーク、その真ん中のウオールストリートで興っていたバーチャルなビジネスモデルとは程遠い、地味で一見冴えない田舎のシリコンバレーでは、モノづくり復権も含めたリアルなビジネスモデルでイノベーションを興していた。まさに、福島の田舎である会津にピッタリな考え方である。

そして、さらに今回設立された会津大学復興支援センターのテーマは、これから苦難の道が予想される福島の復興に貢献するためのイノベーション開拓である。大義も十分で、やりがいもある。私も、講演でアジテーションするだけでなく、これから、少しでもお手伝い出来ればと思っている。

210  あれから2年 (その3)

2013年3月18日 月曜日

2013年3月11日の午後、仙台国際センターで開催された仙台市主催の東日本大震災慰霊祭に参加した。昨年に比べて、来賓席を大幅に減らし、殆どを遺族席に充て、今年からは市民中心の慰霊祭にされたようだ。その中で、貴重な来賓席を私に分けて頂いた仙台市のご厚意に心から感謝したい。前月の2月7日の晩、東京のホテル ニューオータニで開かれた仙台市主催の「仙台の夕べ」にも参加させて頂いたが、東北の首都である仙台市の底力を感じざるを得ない。東京に一極集中し、衰退するばかりの地方都市の中で、仙台だけは別格である。

それでも、仙台市は若林区荒浜を中心として1,000人もの犠牲者を出した。震災直後に仙台市の海岸部を訪れた時、仙台東部道路の海側と山側では、被害状況に天国と地獄ほどの差があるのに驚いた。海側は、津波で何もかも破壊され尽くされているのに、山側は、大震災も含めて、あたかも何もなかったような平穏な様相を呈していたからだ。釜石で見た、堅固な防波堤が無残にも破壊された状況と、なだらかな土盛りで作られた仙台東部道路が何の被害も受けていない状況の差を、どう説明したら良いのだろうか。ある学者は、高さと底面積の比だという。まさに人工物の代表でもある急峻に立ち上がる防波堤は、底面が狭いために、実は津波の圧力に弱い。しかし、なだらかな土盛りの高速道は、自然の山に似て津波の力を受け流すのだと言う。

そのため仙台東部道路から山側の仙台市の中心は、元々、宮城県沖地震後に施された耐震建築の成果もあり大震災の被害は殆ど何もない。ただ、仙台市から、さらに山側の丘陵部に入った造成地が地滑りを起こした新興住宅地の被害は深刻である。従って、これから新たに宅地造成する際には、よほど留意しないと、また同様の被害を生む可能性がある。さらに発展を続ける仙台市内の住宅地の地値高騰もあって、大震災以降も山形市から仙台市に通勤する人が急速に増えている。高速山形道を通るバスは、山形市―仙台市間を所要1時間で結び、朝夕の通勤時間帯は10分おきに出ているから首都圏の通勤電車並みの便利さである。

このため、仙台市及び、その周辺地域の海岸部で家を失った人々が、今、山形市に居を移して通勤通学に通っている。日本の県庁所在地で境界を接して隣接しているのは、山形市と仙台市だけであるという特殊な地勢的関係にあるとは言うものの、こうした災害時の救援体制も含めて、県境を越えた広域行政が求められる時代になったと言うべきだろう。山形新幹線の山形駅では、月曜の朝、福島県の職場へ向かうお父さんたちで大混雑すると言う。子供や妻を、とりあえず山形に移住させ、週末だけ家族に会いにくるお父さんたちである。山形県は、こうして数万人レベルで福島県と宮城県から大量の被災者を受け入れている。

福島県や宮城県から移住した住民のレベルで見れば、山形県はれっきとした被災県である。被害を受けた地域だけが被災地ではない。避難した人々が暮らす地域も、やはり被災地である。いつになったら戻れるか分からない被災者が暮らす場所にこそ、行政の支援が必要である。復旧、復興予算は、「被災地」だけでなく「被災民」にも使われなくては、やはりフェアではない。中央政府に、そうした考えが希薄だからこそ、被災地の行政は、被災者を無理やり被災地域に留めようとする。住民は、とっくに、そこから出て行きたいのにも関わらず。

誰だって、故郷は一番大切だし、一時でも忘れることなど出来る筈がない。それでも、故郷に留まっていることに不安があり、荒廃した故郷で生きていける見込みがなければ、大事な故郷も捨てざるを得ない。そうした辛い覚悟をした人々への支援こそ、本当は、一番重要なのかも知れない。そして、それは被災地の行政が出来ることでは最早ない。被災地を含めた、広域行政が、あるいは国レベルで考えなければならないことである。仙台市の力強さを見るにつけ、国は、東北という広大な地域を、仙台市を首都とした広域行政区画に任せるべきではないかと思う。福島県、宮城県、岩手県という単独の行政が、それぞれ独自に復興していくというのは所詮、もはや無理のようにも思える。

その仙台市が、この平成24年度事業として、大震災後に局次長以上の仙台市の幹部職員が、どういう行動を取ったかという「震災記録誌」を完成させた。これは大変素晴らしい考えである。誰も想定し得なかったほどの未曽有の大災害が起きた中で、市役所の職員の取った行動はおそらく様々だったに違いない。マニュアルに書かれていないことばかりが起きている中で、市役所の幹部は、その時点で自分が一番正しいと思った行動を取られたに違いない。結果として、通常時は、非常識と思われる判断が、実は大震災時には有効な方法だったこともあっただろうし、また、その逆もあっただろう。

そうした膨大な記録を作成し、次に、こうした大災害が起きた時には、どういう行動を起こすのが正しいか、それが、今すぐには判らなくても、多くの防災研究者が、この「震災記録」から時間をかけて答えを見つけることであろう。しかし、人間の記憶は時間が経つに連れて薄れていく。だから、今、復興で大変な繁忙な時期にも関わらず、その記録を残しておこうという、遠い未来を見据えた仙台市の計画は尊敬に値する。そして、その作業に我々の同僚が参画させて頂いたことにも心から感謝をしている。その同僚からは、仙台市の副市長を始め、局長、局次長の皆様方が、お忙しい時間を割いて、本当に真摯に、そして丁寧に震災記録作成のためのヒアリングに、ご対応頂いたと聞いている。

少なくとも、仙台市の、こうした考え方を聞いている限りにおいて、もはや国のレベルを遥かに超えている。あの莫大の復興予算を、一体、誰に任せたら住民視点で、正しく使われるのか、我々は、もう一度、じっくり考えてみる必要があるだろう。