1999年、米国に駐在中だった私はパナソニックのご厚意により、米国サンディエゴと国境を挟んだメキシコのティフアナを訪問した。パナソニックのリファブリケーション工場を見学するためであった。リファブリケーション工場とは、米国の小売業者が顧客から返品として引き取ったものを再生するためのロジステッィクスである。米国商習慣では、ウオルマートのように無条件返品引き取りを行っているため納入業者は、皆、頭を痛めている。返品の殆どは良品だからだ。米国の法律では、気に入らないと言う理由だけで返品できることになっている。そして、一度返品されたものは、例え良品であってもリファービッシュ(再生)したことを表示し、そのために店頭に出したときは30%程度の値引きを強いられる。米国で商売をする以上、この仕組みから逃れることは出来ないのだ。
こうした不条理な作業を米国内の高賃金で行っては全く商売にならないので、リファブリケーションは米国国境にほど近いメキシコの工場でおこなっている場合が多い。ティフアナはサンディエゴの市街からから車で15分しかかからない。このアメリカ・メキシコの国境にある入出国管理事務所は大型トラックの長蛇の列であるが、パナソニックのようにティフアナに工場を持つ企業には別ゲートから簡易な手続きで入出国出来る特典が与えられている。パナソニックのティフアナ工場長の車に乗せて頂いた、私も、その恩恵を受けた。
豊かな緑に囲まれた南国の楽園、サンディエゴは米国でも最も住みやすい地域の一つであるが、この国境を越えて、ひとたびメキシコの領内に入ると、目に入ってくる景色はがらっと変わる。まさに植物が全く生えない不毛の砂漠地帯である。実は、ロサンゼルスやサンディエゴは米国の高度文明が作った人工都市なのだ。ラスベガスから飛行機でロサンゼルスに帰ってくると、砂漠から突然緑に囲まれた都市が出現し、プールに水を満面とたたえた豊かなアメリカの中産階級の家々が目に入ってくる。メキシコには、こうした文明は未だ届いていない。こうして水の匂いが全くしない荒涼たる砂漠の中で暮らしていたら、「メキシコ人は手を洗う習慣がないので不潔だ」とアメリカ人が非難するのはおかしいと思う。手を洗う水などメキシコには全くない。
ところが、一旦工場の中に入ると、また違う光景が目に入る。整然として清潔な環境の中で、元々勤勉なメキシコ人が一心不乱に働いている。私達と同じ、モンゴロイドを祖先に持つメキシコ人は勤勉で、手先が器用で、目がとても良いので、工場労働者として世界最高の能力を有しているのだと言う。さらにメキシコ人は勤労意欲だけでなく向学心も旺盛で、教育をすると何でも出来るようになる。だから、日本で償却が終わった古い設備をメキシコまで持ってきても、彼らは壊れた部品の修理まで簡単にしてしまう。それゆえ設備の導入費用まで大幅に節約できるというのである。
しかし、ティフアナにはパナソニックのような優良な働き場所が、それほど多くはない。そうした仕事にありつけない人々の職業は麻薬密売と誘拐しかない。パナソニックのティフアナ工場を経営・監督する日本人は、こうした治安の悪いティフアナには住めないので、皆、毎日、サンディエゴから車で通勤している。工場で問題が起きて、夜遅くなった時は、赤信号を無視して猛スピードでサンディエゴに向かうのだそうだ。止まったら、その場で銃を突き付けられて誘拐される。当然、車には衛星通信設備が備えられており、警備会社が24時間車の動向を見張っている。
そんなメキシコの経済発展が、今、世界から注目されている。2011年の統計でメキシコは名目GDPで世界14位となり、15位の韓国の上である。為替要因を除いた購買力平価ベースでは11位にまで上がる。昨今、以前の勢いが無くなったBRICs諸国に比べてもメキシコの勢いは群を抜いている。昨年の成長率4%はブラジルの2%を凌駕しており、2020年末までにメキシコは経済大国TOP10になるかも知れないと言われている。1982年、1994年と二度も通貨危機を起こした中南米の問題国のメキシコが、一体、なぜ、ここまで良くなったのかを見てみたい。
実は、1982年に財政危機を起こしたメキシコは1983年以降2008年まで財政プライマリー収支は常に黒字を維持してきた。歴代の政権は、財政規律を厳格に順守してきたのである。この結果、対外債務残高はGDP比で10%に留めており、世銀定義では「軽債務国」に分類されている。2000年以降の一貫した低インフレと低金利によって、ムーディーズ、S&P,フィッチのいずれの格付け機関からもメキシコ債は「投資適格」を付与されている。今年発行されたメキシコの100年債も5.5%の低利回りとなるなど、メキシコは財政・債務運営では世界の最優良国となった。
さて、どうして、我々、日本が羨むほどの超優良国にメキシコはなったのだろうか?それは、単に貿易政策である。かつて、隣国にアメリカと言う超大国を抱えたメキシコは自国の産業を保護するために高い関税と管理貿易で米国系企業のメキシコ進出を阻んだ。その結果、米国の隣という好位置に存在しながら、メキシコは世界経済からつまはじきにされたのだ。それを一変したのが、米国、カナダ、メキシコ間で1992年に締結された北米自由貿易協定(NAFTA)である。実際に発効したのは1994年からであるが、ここからメキシコは世界経済の繁栄の輪の中に入ることが出来た。今や、メキシコは世界のどの国よりも多い44か国と自由貿易協定(FTA)を結んでいる。この結果が、メキシコがブラジルを抜いて中南米最大の経済国にまでなるのではないかと持て囃されている理由でもある。
メキシコは、今年、世界8位の自動車生産国となり、輸出では世界4位となる自動車製造大国となった。メキシコでは米国のビッグ3と欧州のフォルクスワーゲン、日本からは日産が大規模な工場を展開、トヨタとホンダは未だ規模拡大の途上にある。このように、メキシコが自動車生産大国となった理由は、中国やタイ、ベトナムなどアジアの賃金が急上昇するなかで、メキシコの賃金水準は安定を見せており、相対的に労働コスト上も優位になったということと、何と言っても米国市場まで運搬する距離の近さにある。石油価格の高騰で輸送費が増大したため、米国市場から近いという利点は圧倒的な優位性となった。
さて、NAFTAを始めとする自由貿易協定(FTA)の締結は良いことばかりではなかった。世界有数の自動車生産国となったが、地場資本の自動車メーカーは1社もない。そして、サプライチェーンの隅々まで、米国、ドイツ、日本からメキシコに進出したメーカーで席巻され、地場資本の自動車部品メーカーは、その殆どが淘汰されてしまった。果たして、こうした事態を、どう見るかである。こうした地場資本を守るための保護主義から抜け出ることによってメキシコは繁栄への道を歩み始めた。国民に膨大な数の新たな雇用の道が開かれた。既存の地場企業の経営者を守るか?新たに、多くの労働者の雇用に道を開くか?メキシコは重大な選択をしたのだった。
さらに、メキシコでは世界最大の資産家Carlos Slim氏がブラジルの殆どの産業を支配しているという実態、貧富の格差が一向に縮まらないという、いろいろな社会問題もある。それでも、こうした分配の問題を解決するにしても、今の日本のように、トータルの富が増えないことには分配の議論すら出来ない。分配すべき原資が全く増えないのだから話にならない。反TPPを主張する人達は、一体、誰の権益を守ろうとしているのだろうか?そのことを良く観察すべきである。少なくとも、反TPP論者たちは、国民全体の雇用や、所得の拡大を考えていないことだけは確かである。それは、メキシコの経済発展を見ればよくわかる。私たちがメキシコから学ぶべきことは多い。