NEC社長 遠藤信博氏に、私はどうしても会いたかった。なんとしても、一度会って話をしてみたかった。そう思って1年半、ようやく先週お会いすることが出来た。なにしろ、相手はNECの現役社長である。よほど、特別な用事でもない限り、その多忙な時間を割いては頂けない。しかし、既に経営の前線から退いた私に、NEC社長に会って話す特別な用事などあるわけがない。それが実ったのだから、本当に嬉しさも人一倍であった。
遠藤さんが社長になられる前の、佐々木会長、矢野社長とは、同じ大学の学科の先輩ということもあり、個人的にも以前から面識があったし、いろいろな会合でもご一緒させて頂く間柄でもある。佐々木さんとは、6年間もの間、ご一緒に、日本と欧州で交互に開催される日本・EUビジネスラウンドテーブル(BRT)に参加し、今でも、ご一緒させて頂いている。私は,ICT-WGの共同主査、佐々木さんは環境WGの共同主査を務められている。
佐々木さんは、さすが日銀総裁のご子息であるだけに風格がある。現在の日本・EU BRT共同議長は、経済界きってのヨーロッパ通でもある米倉経団連会長、住友化学会長が務められている。前任の共同議長は岡村正元東芝社長、日商会頭が務めておられたが、岡村さんが体調を崩しておられた間、佐々木さんが議長代行の重責を立派に果たされていた。
矢野さんとは、以前から面識はあったものの、最初に会話をさせて頂いたのは、金杉社長の時代、矢野さんが副社長だった時に、ロンドンへ向かう飛行機の中だった。ちょうど、お隣の席だったのだが、矢野さんは、とうとう東京ーロンドン間10時間近く、一睡もせずにパワーポイントの資料を読み続けておられた。私はと言えば、ワインを飲んで音楽を聴きながらうとうとしていたのだが、余りに矢野さんが懸命に勉強しているので、思わず声をかけてみた。「矢野さん、大変ですね」と。
矢野さんは、資料から目を離されて「いやー参ったよ。金杉が突然体調を崩したものだから、私が代わりにIR(投資家向け説明会)をやることになってさ。にわか勉強だよ」と答えて下さった。それはそうだろう。金杉さんと言えば、流暢な英語でNYでもロンドンでも、IRでは自ら英語でプレゼンとQ&Aをされる、日本では数少ない国際的な経営者だった。その代役を突然しろと言われても、それは簡単に出来ることではない。そのIRを無事果たされてから1か月後、矢野さんは社長に就任され、その直後に金杉さんは帰らぬ人となった。
さて、肝心の遠藤さんが社長に就任されたときに、私が注目したのは、その直前に富士通の社長に就任された山本さんと同い年。つまり、私より6年若い新進気鋭の社長が富士通とNECに同時に登場したということだった。それ以上の知識は遠藤さんに関して全くなかったのだ。
ところが、その直後に、故郷の平塚で開かれた平塚江南高校のクラス会で、友人から「今度のNECの社長、平塚江南の後輩だって。伊東、お前、同業者なんだから知っているだろう?」と聞かれて、はたと困った。何と、私は、そんなこと全く知らなかった。しかし、もし、平塚江南高校の後輩で、私より6歳下であれば、私の末弟と同じ学年ではないか、末弟に聞いてみれば何か知っているはずだ。
私たち、男3兄弟は、平塚江南高校から、揃って東大に進んでいる。長男の私が理一(工学部)、次男が文一(法学部)、そして三男が理一(東大を中退して東北大医学部へ)というのは、都会では珍しくないが、田舎の平塚では結構希少な例らしく、時々話題に上ることもあるらしい。その三男に「今度、NECの社長になった遠藤君って知ってる?」と聞いてみた。
「知ってるなんてもんじゃないよ。同じクラスで伊東、遠藤だから、出席簿順に並ぶ教室で隣同士だった。遠藤君は、僕より遥かに優秀で、もし東大を受けていたら楽勝で受かってたさ。でも、遠藤君には東工大の先生になりたいという確固たる目標があって、東工大に進んだんだ。それで縁あってNECに進んでマイクロ波通信をやってたんだけど、とにかく会って話するときは、アンテナの話しかしないんだよ。熱い情熱を持ったエンジニアって感じだな。」と教えてくれた。
それから1年以上たった。つい、先週もお盆のお墓参りに平塚の実家に帰り、88歳の母親に、来週、遠藤さんと会食することを話してみた。もちろん母親には、NEC社長の遠藤さんという観点では全く理解できない。あくまで三男坊の親友としての「遠藤君」である。「とっても良い子だったよ。素晴らしい人格者ね。家の子の、数少ない親友だったんじゃないかな。遠藤さんのお母さんとも一緒に高校のPTA役員もしてたのよ。お母さんも本当に立派な方だった」なんだ。私以外、皆、遠藤さんのことを良く知ってるんじゃないか。
さて、弟と母親の解説で、遠藤さんが、頭脳明晰で、人格者で仕事熱心で情熱的なエンジニアであることは良く判った。でも、これだけでは、あの大きなNECをリードしていく社長として選ばれるには、未だ納得がいかない。遠藤さんを社長として選んだ根拠、あるいは功績というかキャリアは一体何だったのか?私は、それが知りたかった。
遠藤さんの話を聞くと、私の弟と麻雀をして遊ぶために、私の実家に良く来ていたとのこと。私が、学生時代に本郷の質屋から買った麻雀パイを使って度々遊んでいたらしい。だから、母親も遠藤さんに直接会っているので良く知っているのだ。遠藤さんのお母さんと私の母親が高校のPTA役員をしていたというのも、どうも本当らしい。当時、高校のPTA役員をするというのは結構大変なことで、私の母親は既に子供二人を東大に入れているという実績(?)を買われたのだろうが、遠藤さんのお母さんは、本当に立派な方だったに違いない。
さて、遠藤さんは1997年から2001年までの5年間ロンドンに駐在している。私も1998年から2000年までシリコンバレーに駐在したので、この時期がITバブルの形成から崩壊まで、まさに激動の時代だったことを良く知っている。遠藤さんが、ロンドンに向かったのは、このITバブル形成期、当時モトローラ社が始めた衛星携帯電話システムであるイリジウム計画にNECが端末メーカーとして参加したからだった。
さて、イリジウムの衛星携帯端末はGSM仕様であったため、日本では開発できず、そのチップも含めてNECはロンドンに端末の開発・製造会社を立ち上げた。アンテナの専門家であった遠藤さんは、端末側のエンジニアとして開発に参加したのである。つまり、遠藤さんとしては、同じNECでも見ず知らずの部門の中で働くこととなった。
それだけでも大変なのに、その後ITバブルが崩壊し、イリジウム計画も一時破綻する。当然、NECは衛星携帯端末の納入先を失うわけだから、せっかく作ったロンドンの会社を清算することになった。私も、海外事業の責任者として欧州の会社を3つ清算した経験をもつが、欧州で会社を手じまいするというのは大変なことである。簡単には解雇できない労働規制、長期間に及ぶ土地・建物の賃借契約、年金問題、進出時にもらった補助金の清算など、気が狂うほど煩雑な事務処理が待っている。
これが嫌で、多くの日本の会社は、欧州子会社を実質的に幽霊会社として存続させている場合も少なくない。つまり、問題の先送りである。エンジニアとして渡った遠藤さんは、途中からチャプター11を宣言した会社の清算を現地で実行する管財人になったのだ。私も知っているが、欧州ではチャプター11を宣言して直ぐに会社を清算できるほど甘くはない。1-2年の期間をかけて少しづつフェードアウトしていくのだ。これを遠藤さんは、現地の事務責任者としてやり遂げた。しかも、この清算処理を管轄するのはNEC本社の端末部門で、遠藤さんが長い間働いてきた基地局部門とは違う部門の人たちであったから、それこそ並大抵の苦労ではなかったらしい。
会社や工場をゼロから立ち上げるというのは大変なことであるが、手じまいして清算するというのは、さらに大変なことである。経営者としての資質は、こうした修羅場を経験して初めて磨きがかけられる。遠藤さんが、社長として選ばれた理由が、ようやく理解できた。若い時の苦境は自ら申し出ても経験する価値がありそうだ。