2012年7月 のアーカイブ

156 NEC社長 遠藤信博氏

2012年7月21日 土曜日

NEC社長 遠藤信博氏に、私はどうしても会いたかった。なんとしても、一度会って話をしてみたかった。そう思って1年半、ようやく先週お会いすることが出来た。なにしろ、相手はNECの現役社長である。よほど、特別な用事でもない限り、その多忙な時間を割いては頂けない。しかし、既に経営の前線から退いた私に、NEC社長に会って話す特別な用事などあるわけがない。それが実ったのだから、本当に嬉しさも人一倍であった。

遠藤さんが社長になられる前の、佐々木会長、矢野社長とは、同じ大学の学科の先輩ということもあり、個人的にも以前から面識があったし、いろいろな会合でもご一緒させて頂く間柄でもある。佐々木さんとは、6年間もの間、ご一緒に、日本と欧州で交互に開催される日本・EUビジネスラウンドテーブル(BRT)に参加し、今でも、ご一緒させて頂いている。私は,ICT-WGの共同主査、佐々木さんは環境WGの共同主査を務められている。

佐々木さんは、さすが日銀総裁のご子息であるだけに風格がある。現在の日本・EU BRT共同議長は、経済界きってのヨーロッパ通でもある米倉経団連会長、住友化学会長が務められている。前任の共同議長は岡村正元東芝社長、日商会頭が務めておられたが、岡村さんが体調を崩しておられた間、佐々木さんが議長代行の重責を立派に果たされていた。

矢野さんとは、以前から面識はあったものの、最初に会話をさせて頂いたのは、金杉社長の時代、矢野さんが副社長だった時に、ロンドンへ向かう飛行機の中だった。ちょうど、お隣の席だったのだが、矢野さんは、とうとう東京ーロンドン間10時間近く、一睡もせずにパワーポイントの資料を読み続けておられた。私はと言えば、ワインを飲んで音楽を聴きながらうとうとしていたのだが、余りに矢野さんが懸命に勉強しているので、思わず声をかけてみた。「矢野さん、大変ですね」と。

矢野さんは、資料から目を離されて「いやー参ったよ。金杉が突然体調を崩したものだから、私が代わりにIR(投資家向け説明会)をやることになってさ。にわか勉強だよ」と答えて下さった。それはそうだろう。金杉さんと言えば、流暢な英語でNYでもロンドンでも、IRでは自ら英語でプレゼンとQ&Aをされる、日本では数少ない国際的な経営者だった。その代役を突然しろと言われても、それは簡単に出来ることではない。そのIRを無事果たされてから1か月後、矢野さんは社長に就任され、その直後に金杉さんは帰らぬ人となった。

さて、肝心の遠藤さんが社長に就任されたときに、私が注目したのは、その直前に富士通の社長に就任された山本さんと同い年。つまり、私より6年若い新進気鋭の社長が富士通とNECに同時に登場したということだった。それ以上の知識は遠藤さんに関して全くなかったのだ。

ところが、その直後に、故郷の平塚で開かれた平塚江南高校のクラス会で、友人から「今度のNECの社長、平塚江南の後輩だって。伊東、お前、同業者なんだから知っているだろう?」と聞かれて、はたと困った。何と、私は、そんなこと全く知らなかった。しかし、もし、平塚江南高校の後輩で、私より6歳下であれば、私の末弟と同じ学年ではないか、末弟に聞いてみれば何か知っているはずだ。

私たち、男3兄弟は、平塚江南高校から、揃って東大に進んでいる。長男の私が理一(工学部)、次男が文一(法学部)、そして三男が理一(東大を中退して東北大医学部へ)というのは、都会では珍しくないが、田舎の平塚では結構希少な例らしく、時々話題に上ることもあるらしい。その三男に「今度、NECの社長になった遠藤君って知ってる?」と聞いてみた。

「知ってるなんてもんじゃないよ。同じクラスで伊東、遠藤だから、出席簿順に並ぶ教室で隣同士だった。遠藤君は、僕より遥かに優秀で、もし東大を受けていたら楽勝で受かってたさ。でも、遠藤君には東工大の先生になりたいという確固たる目標があって、東工大に進んだんだ。それで縁あってNECに進んでマイクロ波通信をやってたんだけど、とにかく会って話するときは、アンテナの話しかしないんだよ。熱い情熱を持ったエンジニアって感じだな。」と教えてくれた。

それから1年以上たった。つい、先週もお盆のお墓参りに平塚の実家に帰り、88歳の母親に、来週、遠藤さんと会食することを話してみた。もちろん母親には、NEC社長の遠藤さんという観点では全く理解できない。あくまで三男坊の親友としての「遠藤君」である。「とっても良い子だったよ。素晴らしい人格者ね。家の子の、数少ない親友だったんじゃないかな。遠藤さんのお母さんとも一緒に高校のPTA役員もしてたのよ。お母さんも本当に立派な方だった」なんだ。私以外、皆、遠藤さんのことを良く知ってるんじゃないか。

さて、弟と母親の解説で、遠藤さんが、頭脳明晰で、人格者で仕事熱心で情熱的なエンジニアであることは良く判った。でも、これだけでは、あの大きなNECをリードしていく社長として選ばれるには、未だ納得がいかない。遠藤さんを社長として選んだ根拠、あるいは功績というかキャリアは一体何だったのか?私は、それが知りたかった。

遠藤さんの話を聞くと、私の弟と麻雀をして遊ぶために、私の実家に良く来ていたとのこと。私が、学生時代に本郷の質屋から買った麻雀パイを使って度々遊んでいたらしい。だから、母親も遠藤さんに直接会っているので良く知っているのだ。遠藤さんのお母さんと私の母親が高校のPTA役員をしていたというのも、どうも本当らしい。当時、高校のPTA役員をするというのは結構大変なことで、私の母親は既に子供二人を東大に入れているという実績(?)を買われたのだろうが、遠藤さんのお母さんは、本当に立派な方だったに違いない。

さて、遠藤さんは1997年から2001年までの5年間ロンドンに駐在している。私も1998年から2000年までシリコンバレーに駐在したので、この時期がITバブルの形成から崩壊まで、まさに激動の時代だったことを良く知っている。遠藤さんが、ロンドンに向かったのは、このITバブル形成期、当時モトローラ社が始めた衛星携帯電話システムであるイリジウム計画にNECが端末メーカーとして参加したからだった。

さて、イリジウムの衛星携帯端末はGSM仕様であったため、日本では開発できず、そのチップも含めてNECはロンドンに端末の開発・製造会社を立ち上げた。アンテナの専門家であった遠藤さんは、端末側のエンジニアとして開発に参加したのである。つまり、遠藤さんとしては、同じNECでも見ず知らずの部門の中で働くこととなった。

それだけでも大変なのに、その後ITバブルが崩壊し、イリジウム計画も一時破綻する。当然、NECは衛星携帯端末の納入先を失うわけだから、せっかく作ったロンドンの会社を清算することになった。私も、海外事業の責任者として欧州の会社を3つ清算した経験をもつが、欧州で会社を手じまいするというのは大変なことである。簡単には解雇できない労働規制、長期間に及ぶ土地・建物の賃借契約、年金問題、進出時にもらった補助金の清算など、気が狂うほど煩雑な事務処理が待っている。

これが嫌で、多くの日本の会社は、欧州子会社を実質的に幽霊会社として存続させている場合も少なくない。つまり、問題の先送りである。エンジニアとして渡った遠藤さんは、途中からチャプター11を宣言した会社の清算を現地で実行する管財人になったのだ。私も知っているが、欧州ではチャプター11を宣言して直ぐに会社を清算できるほど甘くはない。1-2年の期間をかけて少しづつフェードアウトしていくのだ。これを遠藤さんは、現地の事務責任者としてやり遂げた。しかも、この清算処理を管轄するのはNEC本社の端末部門で、遠藤さんが長い間働いてきた基地局部門とは違う部門の人たちであったから、それこそ並大抵の苦労ではなかったらしい。

会社や工場をゼロから立ち上げるというのは大変なことであるが、手じまいして清算するというのは、さらに大変なことである。経営者としての資質は、こうした修羅場を経験して初めて磨きがかけられる。遠藤さんが、社長として選ばれた理由が、ようやく理解できた。若い時の苦境は自ら申し出ても経験する価値がありそうだ。

155  チューリング生誕百周年

2012年7月18日 水曜日

今年、2012年はコンピュータ科学の父と言われるアラン・チューリング が生まれて百周年となる。チューリングは1936年に人工知能理論の草分 けとも言えるチューリング・マシンの概念を発表し、それが今日のコン ピューターの基礎となった。

学生時代、まだ青二才だった私は、このチューリングマシン、即ち人工 知能に憧れ、卒業論文のテーマをパターン認識とした。私が選んだ指導 教授は、当時の日本における音声認識の権威である藤崎教授で、東大工 学部の総合試験所の教官だった。この総合試験所に、富士通製の科学技 術計算用コンピュータであるF270-30が設置されていた。

当時、学生がコンピュータを使うには、オフラインバッチかTSSでし か使うことを許されておらず。1台のコンピューターを自分一人で使え るというような贅沢な環境は、この総合試験所にしかなかった。勿論、 学生が昼間のゴールデンタイムに使わして貰えるはずがなく、私達、卒 業論文の学生が使えるのは、もっぱら深夜から早朝にかけてだった。

私は、先生を説得し、先生がご専門の音声認識ではなくて、未だ研究室 としてはやったことがない、文字認識を研究させて頂くことにした。 今から考えると、よくもこんな学生の我儘を聞いて下さったものである。 その結果、このF270-30を総合試験所に寄付した胴元である、富士通の 池田敏雄さんが、忙しい中で、2度も私の研究をご覧になって「富士通に 来たら、君の好きな事をやらせてあげる」と仰って私を富士通にスカウ トして下さった。

今、考えると、私は藤崎先生だけでなく、池田敏雄さんにも随分生意気 な事を言った記憶がある。「私は、コンピュータの設計なんて興味ない んです。そんなことは誰でも出来ると思います。私は、人工知能をやり たいんです。」と、今から考えると汗が出てくるほど恥ずかしいことを 、あの池田さんの前でヌケヌケと言ってしまったが、流石は、池田さん、 ただただニコニコされて聞いておられただけだった。

さて、このチューリングが1950年に「機械は考えることが出来るのか?」 という問いに答えを出そうとしてチューリング・テストと呼ばれる競技 大会を始めることとなった。この競技は、審査員がコンピュータ端末を 使って人間(さくら)とコンピュータプログラムを、それぞれ5分間づつ 会話をして「どちらが人間らしいか」を判定するコンテストである。

チューリングは、50年後の2000年までにコンピュータが30%の審査員を 騙せるようになれば、「機械は考えることが出来ると発言しても反論 されなくなる」とした。昨年、IBMが創立100周年を記念して開発した 人工知能マシン「ワトソン」は、このチューリングの予想をかなり上回 っているようにも見えるが、当のIBMは大変謙虚で、そもそも、この 「ワトソン」は、あくまで「クイズ解答マシン」であって「人工知能 マシン」とは定義していない。

そして、未だに、このチューリングの予言は実現していないのだが、 実は2008年に最優秀のプログラムが、あと1票で30%を超えるまでに 到達し、いよいよ2009年には、チューリングの予言達成か?とも思われた。 そして、この競技大会は「最も人間らしいコンピュータ・プログラム」に 対して最優秀賞が与えられると同時に、「最も人間らしい人間」に対し ても最優秀賞が与えられる。

「機械より人間らしくなれるか?:原題 The Most Human Human」の 著者である、ブライアン・クリスチャンは、人間にとって機械に負ける 危機となった2009年のチューリング・テストに人間(さくら)として 参加してチューリング予言の実現阻止に向かう決意を持って立ち向う。 ブライアンはブラウン大学でコンピュータサイエンスと哲学の学位を取得、 ワシントン大学で詩の美術で修士号を取得したジャーナリストである。 彼は、過去のチューリングテストで行われた質疑・応答を全て調べて 最も人間らしい人間として、そして、どの機械よりも人間らしく振る 舞えるように自分自身を特訓した。

それが、実は、そう簡単ではないことを、この本は物語っている。 1965年MITのワイゼンバウム教授が開発したセラピスト・ボット 「イライザ」の原理は単純で、ユーザが入力した言葉からキーワード を抽出し、適当な文章を加えて返すだけだ。そして、分からなくなると 「もっと話を続けて」と極めて汎用的な言葉で会話を繋ぐ。それは、 たった200行のプログラムだった。ところが、「イライザ」と会話した 人の多くが人間だと信じ込み、ワイゼンバウムが幾ら否定しても、 誰もコンピュータだとは信じなかった。

中には、数時間も「二人きり」でイライザと話をして有意義な治療を 受けたと喜んで帰っていった患者もいたのだった。ワイゼンバウムは 、自分が開発した、このイライザに大きな怖さを感じて、これ以降は 人工知能開発の猛烈な反対者になった。しかし、時すでに遅く、米国 の医学界は、イライザはセラピスト不足に悩む精神医療センターで大 きな役割を果たすだろうと大きな期待を寄せたのだ。つまり、セラピ ストは、聞き上手であればよく、話し上手である必要はない。そして、 いつまでも相手をしてくれる忍耐強さが必要で、それこそはコンピュ ータの最も得意とする能力だと言うわけである。

そして、もっと滑稽な話がある。このチューリング・テストを一 般的な競技大会に仕立てあげ、「ローブナー賞」をローブナーと共同 で設立したカルフォルニア大学サンディエゴ校のエブスタイン教授は 2007年にオンライン出会いサイトで、あるロシア女性と知り合った。 そして4か月以上もの間、彼女と熱いラブレターを交換したのだった。 しかし、何かしっくりこないものを感じて調べたら、やはり、その女 性の正体はコンピュータプログラムだった。永年、チューリング・テ ストの審査員である大学教授ですらコンピュータにすっかり騙された のだ。

涙ぐましい努力の結果、著者は、最終的に、このコンテストで「最も 人間らしい人間」としての最優秀賞を獲得した。その勝利の後で、著 者ブライアンは、さらに考えこんでしまう「我々は、本当に機械より 人間らしくあり続けられるだろうか?」と。少なくとも、相手のこと を心から思いやるような優しさや、全てを受け止める寛容さなど、相 当、努力しないと「機械より人間らしい人間」であり続けることは、 かなり難しいと悟ったのである。

154  第100回USオープン

2012年7月18日 水曜日

一昨日、猛暑の厚木国際CCでの大学同級生ゴルフコンペに参加した。 毎年、年に2回、永久幹事の日立の景浦さんと永久副幹事の富士通研 究所(現早稲田大学教授)の津田さんが音頭を取って頂き何とか 開催出来ている。この日の暑さも並大抵ではなかったが、幸い風が強 く何とか全員クラブハウスに生還できた。真夏の猛暑ゴルフは、ス コアよりも、これが一番大事なことである。

スケジュールは、当然のことながら最も多忙な現役である日立製作所 社長の中西さんに合わせている。中西さんの予定は、大体、半年前に 日取りを頂くのだが、その間に、いろいろ多くの予定も入るだろうに、 毎回、何とか都合をつけて参加して頂いているのは中西さんの律儀な性 格に違いない。私と中西さんは、シリコンバレー駐在期間がすれ違っていて、同時期 に居たことがない。だから、サニーベールの日本料理屋、瀬戸で何回 か食事をしたことはあるが、残念ながらシリコンバレーで一緒にゴルフをしたこ とはない。一昨日も、シリコンバレーでのゴルフの話、特にぺブルビ ーチの思い出話に花が咲いた。

私は、3年間の駐在期間に、合計10回ほどぺブルビーチでプレー したことがあるが、何といっても、一番思い出に残っているのは、 自分でプレーしたことより、2000年にぺブルビーチで行われた第 100回USオープンでタイガーウッズの追っかけをしたことである。本来、第100回USオープンは順番から言ってぺブルビーチの開催 ではなかったのだが、2000年という千年紀と第100回が重なる というので米国で最も人気のあるぺブルビーチで開催ということに なった。私は、これまでプロゴルフの試合を生で見たことがなかった が、米国滞在中に、こうした稀有のチャンスに恵まれたのだから、是 非、行ってみたいものだと思っていた。

そうこうしているうちにUS PGAから会社に電話がかかってきた。顧客接待用に入 場券を買わないかと言ってきた。一人分、4日間通しで3,000ド ルだと言う。この2000年は、私が会社再建に参加してから3年目 で、ようやく黒字になるかどうかの瀬戸際だったので、いくら顧客接 待用とは言え、とても3000ドルは出せなかった。1日分だけで 良いから分割して売ってくれないかと頼んだがにべもなく断られた。それで、がっかりしていたら、インド人のCIOであるビピンが、私の部屋に やってきて、「伊東さん、USオープンの初日の券を2枚手に入れた よ!一緒に行かないか?」と言ってきた。当たり前だが、初日は木 曜日で平日である。それでも、私は「行くにきまってるだろ!」 と答えて、お礼にビピンをぺブルビーチがあるモントレーまで私の車 に乗せていくことにした。

さて、サンノゼからモントレーまでは101を車で南に下って1時間 半ほどの距離である。朝5時半に自宅を出発し、ビピンをピックアッ プして未だ暗い101をひたすら走った。ぺブルビーチに着く前に、 指定された駐車場に車を預けて、バスに乗り換えて朝7時過ぎにゴル フ場に到着した。ゴルフ場には、前回のUSオープンで優勝した4日 後に飛行機事故で亡くなったペイン・スチュアートの遺影があちこち に飾られていた。何ということだろう。この年のUSオープンはディ フェンディング・チャンピオンが居ないのだ。

この日の、お目当てのタイガーウッズは朝一番のスタートだと聞いていた ので、こんなに早く来たのだが、8時のスタートまで、まだ1時間ほ どあり、何もすることがない。ビピンと一緒に練習場に行ってみよう ということになって行ってみて驚いた。そこには、今まで、見たこと もない光景が広がっていた。もちろん、ただ一人黙々と練習していた のは、我らが憧れのタイガー・ウッズである。

普通、ゴルフ練習場と言えば、緑の芝の上に白いボールが一面に散在 しているものではないか。ところが、私たちが見たのは、緑一面の芝生 の上に、100、150、200、250ヤードに立てられたポール の周りにボールで築かれた半径1メートル程の「白い円板」だった。 プロは出鱈目にボールを散在させないのだ。タイガーは何と200ヤ ード、250ヤードですら半径1メートル以内に落とす精度でボール を打っている。それも、一人で黙々と。

私は、この日のために、ニコン製の大型双眼鏡を買って行った。なに しろ、10,000人ほどのギャラリーが全てタイガーの組に着いて 回るのだから、そうした群衆と一緒に18ホール全部見るというのは とても大変なことである。私たちは、最初にティーショットが落ちる 場所に陣取るのだ。そして双眼鏡でティーショットを見る。次にセカ ンドショットを見たら、グリーンまで全力疾走してパットを見る。 パットを打ち終わったら、もう次のホールのティーショットが落ちる 場所まで全力疾走である。

このように、ゴルフ観戦も命がけのスポーツである。途中で、私たち と全く同じパターンでタイガーの追っかけをやっている日本人に気が 付いた。そう、あのジュニア選手育成で有名な坂田信弘プロであった。 そして、生で見るタイガーはTV観戦では見れない幾つかの驚きを私 たちに与えてくれた。大体、USオープンは世界の強豪しか出場できな いのにタイガーと一緒に回っているプロたちがアマチュアにすら見え るから不思議である。タイガーの全盛期は本当に別格の強さだった。

名前がウッズなのに、18ホール中、ウッドを使ったのは、たった 3ホールであった。後は、全てアイアンでのティーショットである。 だから、当然、ティーショットの飛距離は3番目か4番目である。 ところがである。いつも、ティーショットが落ちる場所で見ている私 達は、とんでもないことに気が付いた。タイガーのティーショットは いつも、フラットでセカンドが一番打ちやすい場所に落ちている。つ まり、ティーショットをピンポイントで落としているのである。 スタンフォードの学生だったタイガーにとってぺブルビーチは、自分 の庭みたいなものである。どこに落としたらセカンドでグリーンを外 さないか、誰よりも一番良く知っていたのだ。

そして、次に驚いたのが、他のプロが打っているときに待っている 姿勢である。それこそ、微動だにしないのだ。良く、待ち時間に素振 りなどしているプロがいたりするが、タイガーは全く動かない。まさ にリズムを変えないよう呼吸を少しでも乱さぬよう心がけているよう に見えた。未だ若い時であったが、既に王者の風格であった。そして、 18ホールを終えて5アンダー、ダントツのトップで初日を終えた。 もちろん、この記念すべき第100回USオープンでタイガーは4日 間を首位で通し、完全優勝を遂げた。

凄いものを見た。私にとって最初で最後のプロゴルフ観戦だったが、 世界一のプロの凄さをまざまざと、この目で見られたのは、まさに 感動そのものだった。本当のプロフェッショナルというのは、試合 前から違う。朝早くから一人で黙々と練習する。そして、ティーシ ョットはドライバーを使うものだという常識すらも打ち破る。競争者 がプレーしている最中は、そのプレーを静かに、そして敬意を持って 真剣に見守る態度。その全てがプロフェッショナルであった。