2012年5月 のアーカイブ

142 ハルビン旅行記(その1)

2012年5月23日 水曜日

中国の9つのTier-1重点大学であるハルビン工業大学ビジネススクールにて講演をさせて頂く機会を得て念願のハルビンを初めて訪れることができた。冬季にはマイナス40度にもなる厳寒の地も、5月を迎えると街中が、ハルビンの市花であるライラックの花が満開となり、その品の良い香りが心地よい気持ちにさせてくれる。それでも、毎年5月初旬に満開を迎えるのに、こうして5月下旬になって漸く満開となるのは、今年の春の訪れが遅いのだという。

初めてのハルビン訪問に際して、講演をするハルビン工業大学以外に紹介されたのが、ハルビン電機が誇る世界最大のタービン工場と、731部隊跡地の資料館だった。特に、731部隊跡地には「本当に行かれますか?」という質問が事前にあった。つまり、「お嫌なら別な訪問場所もありますよ」ということだったと思う。そういえば、私自身、731部隊に関してきちんとした歴史教育を一度も受けたことが無いし、自分で勉強したこともない。漫然と浮かんでくるキーワードは「化学兵器」、「細菌兵器」、「人体実験」というものだけである。もちろん、森村誠一の「悪魔の飽食」も読んだことがない。

ただ、この森村誠一氏の著作も含めて731部隊の存在までも含めて、一部あるいは全てがでっち上げという極端な議論があることもうすうすは知っている。だから731部隊について殆ど何も知っていない私が、このコラムで、その真偽について語る資格もないし、そのつもりもない。今回、731部隊跡地に作られた資料館を見学した感想だけをただ淡々と述べていきたい。

私が想像していた731部隊の場所とは人里離れた荒涼たる僻地にあるものとばかり思っていた。いや、当時はそうだったのかも知れない。なにしろ、現地の方に聞くと、当時は上空を飛行機が通過することも禁じられているばかりか、近くを通る鉄道も、731部隊があった場所の前後30キロは窓のカーテンを閉じて外部を覗くことさえ禁じられたのだという。

しかし、その後、ハルビン市街が広がったためだろうと思われるが、731部隊の跡地の周囲は高層アパートが林立しており、敷地の壁のすぐ脇まで生活の場が隣接していたのだ。それだけではない、敷地後方は壁も一部なくなっており、アパートの住民は731部隊跡地を自由に出入りしているのである。さながら、その敷地は、私たちの町の中にある都市公園的存在のように見えなくもない。

731部隊は日本の医学界でも最優秀の医師ばかりが集められたという。実際、戦後、このハルビンから日本に戻った医師たちは、皆、日本の医学界の重鎮に就いている。8月15日のポツダム宣言受諾により日本が降伏すると同時に、この敷地の建物は本館を除いて全て爆破され、一部の医師はソ連軍に捉えられ尋問のためソ連軍の捕虜収容所に監禁されたものの、残りの殆どの医師たちは、あの混乱の中、既に周到な準備をしていたとしか言えないほど俊敏な撤退を成し遂げ、8月21日には全員門司港に帰国しているのだ。

なぜ、そんなことが出来たのだろうか?そして、731部隊の存在が、未だにでっち上げだとか言われるほど、これほど秘密のベールに包まれているのは何故だろうか? そうした俊敏な動きや、その後の情報隠匿、関係者の身辺警護まで含めた一連の活動が、既に力尽きた日本政府や日本陸軍の出来るワザとは到底思えない。つまりは、連合国の中で、日本を占領する実質アメリカのGHQが、将来冷戦の敵国となるソ連や、5年後に朝鮮半島で肉弾戦を行う中国に対して731部隊が得た知見を絶対に渡したくなかったからだと思われる。

第二次世界大戦勃発のずっと前から、現在に至るまで、化学兵器や細菌兵器は国際法上禁止されているにも関わらず、常に各国の軍事研究の対象だった。当然、アメリカは日本軍が、このソ連国境近くのハルビンで生物化学兵器の研究活動を行っていることは知っていたにちがいない。だからこそ、全力で、その研究員達を、ソ連や中国から保護し、いち早く日本に帰還させたのだろう。もちろん、極東軍事裁判において彼らを免責する代わりに、彼らから研究活動成果の全てを取得し、また一切口外することを禁じたのであろう。だから、戦後に生まれた私が、731部隊に関して正規に何も教育されていないのも、また何も知らないのも、決して不思議なことではない。

しかし、あまりに突然に急遽帰国したために、731部隊の研究施設の破壊は全く不完全だったようだ。本館は、全て当時のまま残されているばかりか、実験棟が施設の地下にあったため、爆発で破壊された上部の建物の瓦礫の下に、あらゆる実験器具や資料が当時の姿を留めたまま埋設されていたのであった。この資料館は、殆ど無傷で残された本館の建物の中に瓦礫の中らから掘り起こされた当時の実験を想起させる莫大な資料が展示されることで構成されている。まさに圧倒されるほどの量の展示物である。

こうした資料が、果たして、本当に、この敷地の地下から出てきたものなのか? あるいは、この資料に貼付されている説明資料が、正確に事実を語っているものか? 多分、いろいろな議論が、今なお、この資料館についても存在するのかも知れない。ここでも、私は、その議論には与したくはない。やはり、この731部隊の存在に関心のある方は、このハルビンの資料館に実際に来て、ご自身の目で、これらの展示物が真実のものなのか、でっちあげのものなのかを確認されるしかないだろう。

さて、この資料館を見て、私が真っ先に想起したのは「オウムの地下鉄サリン事件」だった。彼らは、東京都心の地下鉄で行う前に松本で事前に人体実験をしている。731部隊が撤退してから、未だ、たった50年しか経っていない。化学兵器、細菌兵器、そして核兵器も含めて非戦闘員の大量虐殺を行う兵器の開発の歴史は、未だに終わってはいない。人類が、もっと賢くなるためには、やはり何人も過去の歴史から目を背けてはならないと思う。

141 防衛大学校長 国分良成先生

2012年5月15日 火曜日

国分良成先生は、本年4月から第9代防衛大学校長に就任された。昨年までは、 慶応義塾法学部長として、また「戦略的互恵関係」という今日の日中対話の基 本原則をお創りになった日本における中国研究の第一人者であった方が、突然 防衛大学校長に就任されたのだから、当然大きな話題になっても致し方ない。 昨晩は、日本における中国経済研究の第一人者である当社の柯隆主席研究員、 国分先生の教え子で、現在、慶応義塾中国研究センター研究員である 江藤名保子先生とご一緒に、国分先生の「防衛大学校長としての思い」に関し て、大変良いお話を伺うことが出来た。

私は、かねてから機会あるたびに国分先生のご講演を熱心に聴いていた。そして、 講演を聞くたびに「なるほど、そういう背景があったのか!」と納得することが できた。こと、中国に関しては表面的な事象だけで本質を捉えることは極めて 難しい。しかし、その大きさ故に、ちょっとした政策変更が世界に重大な影響 を与える中国に対して、日本のマスコミは必ずしも正しいメッセ―ジを伝え きれていない。今回の、日中韓の首脳会談においても、ある一流新聞は極端に 左傾化した報道を、また、別な一流新聞は極端に右傾化した報道をしており、 正しく中立的な報道をしているメディアは数少ないと国分先生は解説している。

私ども富士通総研の理事長である野中郁次郎先生もUCバークレーを卒業され、 南山大学の教授から防衛大学教授を経験されている。野中先生は、その後、 上司であり防衛大学校長であった猪木正道先生の推薦で、一ツ橋大学の教授 に就任されてから、世界的な学者として名声を馳せられようになられたが、 「防衛大学校時代の経験は、その後の学究生活に大変有意義なものであった」 といつも語られている。私どもも、野中先生から何度も聞かされるのは「毛 沢東の軍事戦略」であり、「米海兵隊の戦略」である。現在、当社で野中先 生が取り組まれている「実践知研究活動」も、何事も「実践」をベースに考 える防衛大学校時代の研究経験から発しているものと思われる。

さて、マスコミは「現代中国研究の第一人者が、なぜ防衛大学校長に?」と いうコンテクストで考えを巡らしているようだが、昨晩の国分先生のお話を 伺う限り、それは全く関係ないということらしい。要は、国分先生は人生の 第一ステージを「中国研究」に注がれ、第二ステージは「日本の国防に携わ る人材育成」に全力を注ぎたいということのようである。先代の五百旗頭校 長からの推挙があったものの、受けるかどうか、思案にあぐねていた国分先 生の最終的な決めては、あの3月11日の東日本大震災だったという。私も含 めて、あの日を境に人生の目的を変えた方は沢山おられるに違いない。

さらに、国分先生が防衛大学校長に就かれる決意をした背景には、もっと 大きなコンテクストがあった。それは、防衛大学校と慶応義塾の間に築 かれた切っても切れない深い縁にある。一見すると、慶応義塾と防衛大学校は 対極の関係にあるように見えるが、それは正しい見方ではない。戦後、 宰相吉田茂は、民主国家日本に相応しい士官学校を設立すべく、当時の慶応 義塾塾長だった小泉信三に相談した。吉田茂も小泉信三も、あの太平洋戦 争には反対だった人物である。

吉田総理から依頼された小泉信三は、慶応義塾の法学部教授だった槇智雄先 生を防衛大学校初代校長に推挙した。この槇校長は英国オックスフォード大 学の出身で、防衛大学校に以下の3つのことを基本理念と定めた。即ち、1) 近代民主主義思想、2)科学的思考、3)武人としてのジェントルマン精神 である。槇校長は12年間の防衛大学校長生活において「服従というのは意味が 解らず暴力によって行われるなら奴隷になるしかないが、自分自身の信念に おいて行われるのであれば崇高なものになりうる」とヨーロッパの自由主義 思想の神髄を説き続けた。

そして、国分先生が防衛大学校長に就かれる決意をされたのは、この小泉信 三塾長と慶応義塾法学部の大先輩である槇先生の影響だけではなかったのだ。 国分先生の恩師で、先生を中国研究の道に導かれた石川忠雄元慶応義塾塾長 の存在がある。石川塾長は、中国政治史の研究者で、特に中国共産党研究の 草分け的存在で、その教え子には国分先生のほか、あの橋本龍太郎元首相も いる。結局、4期16年の長きに渡って慶応義塾塾長を務められ、慶応湘南藤沢 キャンパス(SFC)の創設など数々の大改革をされた。

そして、国分先生が心酔する石川先生も、防衛大学校長への推薦を受けたこ とがあり、その道に進むことも真剣に考えておられたのだという。結局、 石川先生は、そのすぐ後に塾長に就かれることになったのだが、国分先生と しては、尊敬する石川先生がなったかも知れない防衛大学校長に就くことに は運命的なものを感じられたに違いない。慶応義塾と防衛大学校は、こうし て何代にも渡って密接な関係を築いてきた。

こうして後半生を防衛大学校長の職に捧げることに決めた国分先生の着任式の 挨拶は「我々の役割は、日本というかけがいのない祖国とそこに住む人々の 独立と平和と安全を、最後の一線で守り抜くことです。サッカーで言えば、 我々はフォワードではなく、ゴールキーパーです。ゴールキーパーは試合の 全体を細やかな目で見ていなくてはなりませんし、いざとなれば最後の砦と なります。要するに、自衛隊、そして防衛大学校が気を緩めたら。そして 万が一でも諦めでもしたら、日本は終わるということです。我々は日本と日 本人を支えるのが仕事です。」であった。

今回、私は、東北の各被災地を歩き、自衛隊に対する住民の感謝の言葉を沢 山聞いた。イザという時に役に立つ人々が、「本当に価値のある人達」である。 国分先生は、これから数多くの「本当に価値のある人達」を世に送り出される に違いない。

140 原発問題を考える(その3)

2012年5月7日 月曜日

福島第一原発事故の勃発によって、日本で新しく原発が建設されることは 殆ど考えられなくなった。しかし、70億人を超える世界の人々の 健康で安全な暮らしを支えるには原発はどうしても必要である。我々は、 このジレンマをどうして解決したら良いのだろうか? JICAの前理事 長だった緒方貞子さんは、日本で受け入れられない原発を途上国に輸出す るというのは如何なものか?と疑問を呈しておられるが全くもっともなこ とである。

私は、元々、人類は、未だ原子力という猛獣を十分に飼いならす技術を持 ちえないまま、無理やり家畜として役に立てようとしたのではないか? という疑問を以前から持っていた。今回の福島第一原発事故で見られた ように、原子炉はいつも強制的に電気の力で冷やし続けなければならない のである。「全電源喪失」という事態は、自身で電力を製造している原発 にとっては致命的な問題であった。もう一つは、原発が一度暴走すると、 もはや誰も近づくことが出来ないということである。ただ、事態が進行する のを遠くから見守るしかない。そして、今も解決が付いていない難しい課 題である使用済み核燃料の処置という、いわば三重苦の問題を原発は開発 の当初から抱えていた。

これを整理すると、第一が「強制冷却」の必要性、第二が放射線障害の 問題により、人手による「保守点検修理」が極めて困難だということ。 第三は、「使用済み核燃料処理」の問題である。こうした問題が、技術的 に未だ解決がついていないまま、いわば見切り発車したことが、今回の 原発事故で大変な悲劇に繋がった。さて、人類は、こうした原発が抱える 本質的な課題を、その英知を使って解決できないものだろうか? 実は、 それが、ありそうなのだ。もう、原発はコリゴリと言う方も多いと思うが、 人類は、もはや原発なしで70億の人口を養うことは不可能である。

そのうちの一つが、PBMR(ぺブルベッドモジュラーリアクター) という長たらしい名前の原子炉である。この原子炉の最大の特徴は、 原子炉の燃料の形を「燃料棒」から「燃料ボール」に変えたことにある。 このPBMRは、二酸化ウランのボール型燃料とヘリウムガス冷却材を 用いる小型炉で、冷却材がなくなった場合でも、逆に温度上昇で核反応 が抑えられて炉心溶融が発生しない。そして、核燃料がボール状なので 、自分でコロコロを転がるため、炉の下部を解放してやれば、勝手に 分散してバラバラになるため臨界状態を脱することができる。このタイ プの新型原子炉は、実は1960年代からドイツで開発されて実験炉ま で建設されていたが、あのチェルノブイリ事故が起きて、ドイツ政府は 開発を中止した。その後、南アフリカが、この技術に目を付けて199 9年に合弁会社を設立、2020年の運転開始に向けて動き出し、世界進 出を目指している。

もう一つは、ビル・ゲーツが出資者となって開発を行っている、TWR (進行波炉)である。ビル・ゲーツは自らの資産で創設したビル&メリ ンダ・ゲーツ財団の主として人類救済のためのイノベーション創出事業 を多数行っている。マラリア撲滅のための創薬、食料確保のための遺伝 子組み換え作物の開発、そしてエネルギー確保のための次世代原子炉の 開発などである。マラリア撲滅に関しては、創薬だけでなく、マラリア 原虫を媒介するハマダラ蚊を根絶やしにする技術開発を行っているのだ。

それも人体に副作用を及ぼす恐れのある殺虫剤などを使わないで、ハマ ダラ蚊をレーザー銃で撃つという、トンデモナイ発想で技術開発を行い 、このたび実用化に漕ぎ着けた。ハマダラ蚊をカメラが発見すると、飛 んでいる蚊にレーザー銃の照準を合わせて見事に撃ち落とすのである。 何だか楽しそうなプロジェクトだが、これを見事に成功させた。

遺伝子組み換え作物の問題は、賛否両論があり、特にヨーロッパでは 絶対に受け入れないという議論が大勢である。私も、ダボス会議で、 この遺伝子組み換え問題に関するパネル討論を聴講し、ビル・ゲーツの 主張を聞いたが、「遺伝子組み換えの議論をしている最中にも、今、世 界では何千万人もの人々が食料が足りなくて飢えて死んでいる」という 現実主義者の議論だった。ここでも、サンデル教授の「正義とは何か」 という議論が頭を持ち上げてくる。極めて難しい議論である。

さて、このビル・ゲーツが開発中の超小型原子炉は、ちょっと大きめの 家庭用冷蔵庫くらいの大きさだと思えば良い。この原子炉の燃料は、 劣化ウラン(U238)である。従来は核燃料を精製する際に廃棄物と して捨てられていた副産物を燃料とする。この廃棄物は世界中に大量に 貯蔵されているので資源として当分の間は困ることはない。そして、一 旦燃料に点火できさえすれば、燃料供給も、使用済み核燃料の除去もなし で、人類の時間間隔で言えば、ほぼ永遠に動き続けることができる。

さらに、米国の国益にも適う最大の利点は、このTWRは核燃料の精製 施設、再処理施設が不要、即ちウラン濃縮作業が要らないため核拡散防 止にも役立つというわけだ。そして、この原子炉は、いわば「使い捨て の原子炉」とも言える。だから、修理・点検・保守作業が一切要らない。 ゆっくり燃えるので、もちろん強制冷却も必要ないし、炉心溶融も起き ることはない。最後は、最終廃棄物処理場を見つけて廃棄するだけで ある。これは、今、我々が抱えている使用済み核燃料の廃棄問題と全く 同じで特に目新しい問題ではない。

こうした考え方は、従来から全くなかったわけではない。しかし、一般 的に「規模の経済学」という観点から、設備の稼働効率は規模が大きい 方が有利と言われてきた。しかし、最近の考え方では、原発は、定期的 な保守点検や、使用済み核燃料の廃棄処理から、原子炉自体の廃炉に至 るまで、そのライフサイクル全般を考慮に入れたトータルコストを考え ると、こうした小規模分散型の超小型原子炉の方が、むしろ有利だとの 結論にも至っている。

人類の課題を解決するためには、未だ未だ多くのイノベーションが必要 である。そして、我々は、まだまだ簡単に諦めてはいけない多くの課題解決の可 能性を抱えている。