2012年1月 のアーカイブ

110 もしも、もう一度原発事故が起きたなら

2012年1月18日 水曜日

Facebookの友達で福島県伊達市にお住いの主婦の方からの疑問 である。「もしも、もう一度原発事故が起きたなら、一体誰がど のように私たちに知らせてくれるのだろうか?」という極めて重要な疑問である。

要は、政府も県も、「あの原発事故は収束したので、もしもの ことは、もはや考えなくても良い」ということなのだろうか?  とにかく、伊達市民には、それに関して何の連絡もないという。 多分、福島県民全員に対してそうなのだろう。

3月12日に起きた爆発事故の時でさえ、原発周辺の人々に 対して避難の指示は車を走らせての口伝えだったという。 ましてや、60キロも離れた伊達市には、その後も、何の知ら せもなかったのだ。それで、結果的には直ぐお隣の飯館村は 全村避難指示となってしまった。それも、事故から何か月も 経ってからだ。

火事は消防車のサイレンでわかる。地震は携帯電話のエリア緊急 連絡情報でわかる。確かに、肝心の原発事故は、どうやって教え てくれるのだろう。最悪の時は、250キロ圏内まで避難する必 要があったと述べた細野原発担当相。正直に言ってくれたのは、 大変ありがたいが、250キロ離れた人たちは、一体、どうやって 原発事故を知るのだろう。もちろんTVは停電で使えないという 前提である。

政府は、未だに、緊急警報を出すことで、国民が大パニック になることを心配しているからだろうか? 9.11同時多発 テロやハリケーン・カトリーナで、人間は大災害に遭遇した時には パニックにはならないことが、もう既に証明されている。神様は、 人間に対して、本当に恐ろしい状況に遭遇したときには冷静に なるような生体メカニズムを埋め込まれたのだ。むしろ、9.11 でもカトリーナでも、その異様な冷静さで多くの人々が命を落と してしまったのだ。本当は、もっとパニックになれば命も助かった ものを。

それとも、再び、あの福島第一原発が事故を起こすことなど、 全くの想定外だったとでも、言い訳するのだろうか? たしかに、 あらゆる想定外の事象を想定内に持ち込むことはコスト的にも合わないし 、無用に人心を乱すだけである。しかし、世の中に絶対にない 、絶対に起きないなどということはあり得ない。

ブラックスワンは、この地球上のどこかには必ず居るはずだ。それも、 想定外に頻繁に巡り合うと言われている。一度起きたことが、再び 起きることはあり得ると思った方が良い。再び事故を起こさないための 万全の措置をとることは当然だが、それ以上に、万が一、事故が起 きたときの対処方法を考える方が遥かに現実的である。原発事故が 、万が一、もう一度起きた時に、どのように住民にそれを知らせるか、 今からでも考えることは決して無駄ではない。

一旦、休止した原発でさえ、既に、大量に貯蔵した使用済み核燃料で 事故を起こすことは十分にあり得るのだから。日本中の、全ての町や 村に共通する議論である。

109 震災復興について

2012年1月17日 火曜日

今日、2012年1月17日は阪神淡路大震災が起きて17年目にあたる。 あのように悲惨な大震災が20年も経たないうちに、また起きるとは一体 だれが想像しただろうか? その阪神淡路大震災が起きた翌日から医師と して救助活動に従事した私の弟は2週間後に廃人のようになって帰ってきた。 それから半年間は、肉体的にも精神的にも元の元気な状態には戻れなかった。 「一体どうしたんだ?」と私が尋ねても、「兄貴、俺は神戸で地獄を見た」 としか答えなかった弟。倒壊したビルや家屋の中で、TVでは放映できない 悲惨な地獄絵図を見たに違いない。

今日、Facebookの中で、石巻で在宅医療チームを率いる武藤医師が、 「雪が降って来ると、あの日を思い出して泣き出す子供たちが多い」と語っ ていた。真っ黒な山のような津波に襲われた子供たちも、私の弟と同様、 あの日、地獄絵図を見たに違いない。幼い心の中に拭い難いトラウマと なってしまったことが何とも痛ましい。いまだに命だけは取り留めた多くの被災 者達が、心のケアを必要としている。そして、その心のケアに従事している 方も、また被災者であり、ケアの仕事の中で、自らも、フラッシュバック を起こして苦しんでいる。

そうした現地の痛みは、やはり東京から被災地に行ってもなかなか簡単には 理解できるものではないだろう。私は、何年間もの間、毎月アメリカに出張して、 アメリカのことは何でも知っていたつもりだったが、いざ、アメリカに住んで みると、アメリカのことを何も知らないことに気が付いた。出張に行くこと と住んでみることは大違いなのだ。「河北新報のいちばん長い一日」という 本を読んで、永年、被災地に住み、このたび被災者となった記者が書く記事の 迫力に圧倒された。何人も、涙なくしては最後まで読み切れない本である。

その河北新報社が、正月3日の社説で、東北再生への提言について論じている。 まさに今年を東北復興元年として新たな気持ちで生きていこうという趣旨で 書かれているが、東京で論じられている浮ついた理想論では全くない。やはり、 東京発の全国紙では論じられない、地元紙ならではの地元密着型の復興論と なっている。まず、復興の基本理念は①「おこす」:創造的な発想、 ②「むすぶ」:人や地域のきずな、③「ひらく」;グローバルな視野と、3つ のポイントで纏められている。

そして、何よりも重要なことは、「制度を地域に当てはめる」というTOP ダウンの発想ではなくて、住民一人一人の多様なニーズを支援し生活再建を 助けていくという逆転の発想が重要だと説く。地勢や伝統文化、産業構造も それぞれ異なる被災地において、一番大事なことは共助の精神で結ばれた コミュニティーの再建だというのである。こうした多様性こそ、東北再生の エンジンにしていくべきだと主張する。

特に、最も津波の被害が大きかった三陸沿岸地域の主産業は、やはり水産業 である。それも、単に魚を獲るということでは町の雇用は満たしきれない。 加工・流通を伴う水産都市としての6次産業化を図らなければならない。現実、 三陸各地の水産加工業の原料の大半は海外からの輸入水産物であった。基本 理念の中にある「グローバルな視野」は単なるお題目では済まない現実がある。

そして、将来の脱原発に向けてのエネルギー政策としても、多様性の概念は 活きてくる。東北地区は、日本の中でも風力、地熱、小水力、木質バイオと いった再生可能エネルギー源が豊富にある。これらのエネルギー源を利用して 各地域に適合した多極分散型での地産地消エネルギー政策をとって行くべきだ と河北新報は提言をしている。

そして、最も重要な提言は、こうした地元住民が望む自立的な復興を果たす には、この東北に、県境をまたぐ、もう一つの「政府」が必要だと説く。 名付けて「東北復興共同体」と呼んでいる。そう、もはや日本政府には地方に ばら撒く余剰の財源など持ち合わせていない。永田町、霞が関を中心とした 中央集権で全国の地域を指導していく体制には限界が来ている。

そして、私が、今、所属している内閣府の規制・制度改革分科会、エネルギー WGにおいて、誰が一番規制改革に後ろ向きかと言えば、それは霞が関では なくて実際に許認可権を持っている地方自治体であることに驚かされる。 霞が関は、局長通達、課長通達で、規制の法律など、如何様にも例外を作る ことが出来る。しかし、最後は地方自治体の担当者や首長が、「NO」と 言えば終わりである。だからこそ、霞が関の官僚がせっかく「特区」など 作ってもそれが「猫に小判」に終わることが多いのが現実だ。

河北新報が論じるように、世直しは、地方が、自立的に「改革の志」を持た ない限り、現実のものとはならないのだ。東北の復興のためには、東北の地に、 東北の人々による、東北のための「政府」を作らないと、本当の復興は出来 ないと私もそう思う。

108 下山の思想

2012年1月12日 木曜日

五木寛之氏の最新著作である「下山の思想」を読んで感じ入ったことを書いてみたい。 とかく、こうした論調で講演をしたり、本を書いたりすると「あいつは暗いな」と言う 否定的な批判を受けるので、とかく、から元気に前向きに論ずることが好しとされる。 昨年3月11日の東日本大震災の後は、とくにそうした後ろ向きの議論に封印がなされて きたように思われる。

しかし、現実を直視しないで、ありもしないユートピアを論じられても、もはや民衆は 簡単に踊らされることはない。この本の冒頭に、五木さんが解説されていた「民」と 言う字の語源を知って大きなショックを受けた。「民」と言う字の元の形は目を針で刺す さまを描いており、目を針で突いて見えなくした「奴隷」のことを言うのだそうだ。「王」 が「民」に処する様とは、そういうことらしい。そう考えると、「民主主義」とは一体 何だ? 「国民」とは、「市民」とは何だ?と、全てが引っ掛かる話になってくる。

さて、この「民」の語源の解説で、五木さんが言いたかったことは、いつも真実は国民には 知らされていないということだ。為政者だけが真実を知っていて国民はいつも騙されている。 だからこそ、国民は調子のよいメディアに騙されることなく厳しい現実を直視することが 重要だと五木さんは言う。「景気がよくなる」などと言うことは、もはや、この日本では 起こりえない。経済が循環的に変動するという定常状態は、とっくの昔に失われているからだ。

五木さんが、この「下山の思想」を書かれていた時期とちょうど同じ時期にアメリカでは タイラー・コーエンが、あの大ベストセラーとなった「大停滞」を書いていたことになる。 この本で、コーエンは五木さんと全く同じことを言っている。つまり、未曽有の速度で高度成長を遂げた 日本が世界で最初に大停滞を経験することになったのだと。日本の失われた20年を嘲笑した ヨーロッパとアメリカは、今、まさに日本が経験した「大停滞」を経験し始めるのだと。 つまり、成長の後には、成長の原動力となった果実が失われて、どんな国家でも経済が停滞 せざるを得ないのだという。そして、その「大停滞」は、新興国であるBRICでも始まって いる。

五木さんの巧みな比喩は、「目指すべき頂を制覇して、次の頂をめざすには、一度下山する しかないはずだ。そして、安全に下山することは、登山することより難しい」と言っている。 日本人と日本国は、あの失われた20年の間に、一度も下山することを試みることはなかった。 ありもしない空中の楼閣にある幻の頂を目指して、ひたすら上り続けようとしたのである。 まさに、目を針で突かれた奴隷のように、未だ先に、もっと高い頂きがあると信じ込まされて 鞭を打たれて上る努力を強いられたのだ。その結果が、年間3万人以上の自殺者が、ここ何年 も続く希望の見えない国となったと言う。それよりも、皆で、ゆっくりと穏やかな気候に恵ま れた麓に向かって下りて行けば、今よりも多少は貧しくなったかも知れないが、幸せなコミュ ニティを構築できたのではないか?と疑問を呈している。、

五木さんは、中学1年の時に満州から引き揚げて来られ、戦後の貧しい時期を経験されている。 私も、戦争直後に生まれたので、幼い子供のかすかな記憶として焼け野原の景色が脳裏に焼き 付いている。私たちは、皆、貧しかった。皆が貧しかったので、貧しいことが恥ずかしくなか った。子供たちの衣服は修理の継ぎはぎだらけのパッチワークで、それが洒落た文様にもなっ ていた。しかし、皆、貧しかったが、決して不幸せではなかった。幸福とは何だろうか?と もう一度考えてみるのも「下山の思想」の大事なテーマかも知れない。

五木さんが言う「下山」やコーエンが言う「大停滞」といった、これまで禁句とされた現実を 直視する言葉を使って議論をすると、もっと良い施策が見えてくるかも知れない。 日本のことを言うと差し障りがあるので、アメリカの例で話させて頂ければ、もはや証券市場 、株式市場の未来が全く見えなくなっている。新規上場は殆どない。優良な企業は潤沢な資金で 自社株を買い取り、株式市場は縮小するばかりで成長するエンジンを失っている。だからこそ、 アメリカと欧州の証券取引所が合併をするわけだ。お互いに将来があるなら、競うことはあっても 合併など考える筈がない。そして、もし資本主義経済の本丸である株式市場、証券市場が 「大停滞」する状況になってくると、国の経済運営は一体どうなるのだろうか?

経済の専門家の本を読むと、世界は20世紀後半にケインズ経済からフリードマン経済に転換し て大発展を遂げたのだという。アメリカしかり、中国しかり、世界は、その経済運営を神の見えざる手 に委ねるという市場原理主義経済で、目覚ましい発展を遂げた。それが21世紀になって、 アメリカのリーマンショック、欧州のソブリン危機と、次々と未曽有の経済危機が世界中を 駆け巡っている。そうした危機に対しての経済運営の指針を、人々はカール・ポランニー に求め始めているのだそうだ。つまり、これからは、「ポランニー経済」が主流となるらしい。

さて、「ポランニー」って誰だ? そう思って、いろいろ本を読み始めたら、ポランニーを 知るガイドブックとなっている「経済の文明史」を纏められたのは、なんと玉野井芳郎先生 だったのには驚いた。玉野井先生は、日本におけるポランニー研究の第一人者であった。 私は、東大の駒場で過ごした教養学部時代に玉野井経済学をとった。玉野井先生の授業は、 いつも満員で、はやく教室に行かないと座るところもない。なにしろ立ち見の受講者が出るの は東大の駒場では玉野井先生くらいだったろう。教室だって、1,000人位入る階段型の大教室 なのにだ。原因は、他大学の無断聴講生である。特に、お茶大や、日本女子大、東京女子大 など女子学生が沢山来ていたような気がする。だから、男ばっかりの東大生にとっては余計 人気が出たのかもしれない。

玉野井先生は、多分、私たちにポランニー経済学を講義されていたに違いない。ある意味で、 猫に小判、豚に真珠だったかも知れない。しかし、経済学について何の知識もない青臭い 若き学生たちに、玉野井先生は、実に面白く興味深く講義をしてくださっていた。しかし、 私たちが卒業してから10年もしないうちに、東大を定年退官された直後に玉野井先生は 未だ若くして、お亡くなりになった。もっと長生きをされて、世にポランニー学徒をもっと 沢山輩出されていたら、日本も、あの失われた20年間を「下山の思想」でゆっくりと降りて 行ったのかもしれない。いや、今からでも遅くはない。皆で、安全に、桃源郷のような 穏やかで幸せな麓の村を目指して、一緒にゆっくりと下山していこうではありませんか。