2012年1月 のアーカイブ

113 山本卓眞氏の思い出

2012年1月30日 月曜日

本日、富士通の社長、会長を務められた山本卓眞氏の訃報が発表された。 昨年12月4日に脳梗塞で倒れられ、入院療養されておられたが、1月17日 肺炎で、ご逝去されたとのことである。葬儀は既に、ご家族で執り行われ 、来る3月9日に帝国ホテルにて、お別れ会が催されると伺っている。享年86歳で あった。

私は、昨年11月30日に富士通川崎工場本館20Fのサロンで東大電気電子 工学科の新人歓迎会で山本さんとお会いしている。いつもと変わらず、 姿勢正しく凛として乾杯のご挨拶をされたのが、今でも印象に残っている。その 4日後に倒れられるとは想像もつかないほど、お元気なご様子であった。

山本さんは、だいたい86歳には見えなかった。私は、山本さんに対しては 前の社長としてよりは、生き残りの特攻隊パイロットとして敬意を表して いた。山本さんとは、その思想信条は必ずしも同じではないが、「やはり、一度、 死を覚悟した人には勝てないな」と思い、敢えて正面から論争することを 避け、「いや、ごもっともです」と言う言葉が自然に口に出てこざるを 得なかった。まさに富士通におけるラスト・サムライであった。

山本さんが社長として、一番苦労されたのは、あのIBM紛争事件である。 それでも、私が「あの時は、大変でしたね」と申し上げると、「いや、 私は何もやっていない。全て鳴戸に任せていたんだ。あいつが一番大変だ った。私は後ろから応援してただけだよ」とご自身のご苦労については 一切語らなかった。

山本さんは陸軍士官学校を卒業後、入隊され、戦争終結後に東大の第二工学部 の電気工学科に入学されている。昭和24年に東大を卒業され富士通の前身で ある富士通信機製造株式会社に入社された。当時は大学の先生が行けという 会社に就職したらしいが、当時の富士通信機製造は、吹けば飛ぶような、ち っぽけな会社に、よくも入ろうと思ったものである。余程の就職難だったのだろ う。今の学生たちが、寄らば大樹の陰と大企業に就職したがるのとは大違い である。

私は山本さんに、「どうして富士通に入ろうと決めたんですか?」と聞いた ことがある。そうしたら、山本さんは次のように答えられた。「大学の 先生が行けと言うから、武蔵中原の本社に見に行ったんだ。当然、本社事務 所は一番立派な建物だろうと思って、只一つの鉄筋コンクリートの立派な 建物に入ったら、そこは事務所ではなく病院だというじゃあないか。この会社は変わった会社だなと思った。それで入ろうと決めたんだよ」と仰った。戦争を経 験した方には病院はオアシスである。それを大切にする会社は立派な会社だ と思われたのだろう。

私が富士通に入社して最初に山本さんにお会いしたのは、大学の同窓会の会 費を集めに行ったときである。それは新人の仕事であった。当時の山本さん はソフトウエア事業部長として大部屋の中に広いスペースを取った一角に お一人で座っておられた。こちらも新人だったが、なんかとても偉そうにし ているのだ。その時は、何で、この人はこんなに偉そうにしているのか?と 思ったが、実は軽口も叩ける好々爺だと後で知った。その後、直ぐに社長に なられたのだが、何しろ私とは歳が違いすぎる。山本さんが入社されたのは、私が 2歳の時だからだ。あまり歳が違うので、向こうも私を子供扱いだ。だからこそ、 何でも言えるし、また何を言われても怖くはなかった。それは、社長、会長 を辞められた後も、つい最近まで続いていた。

山本さんが社長時代に言われた一番傑作な言葉は、「君たちは良く寝ている か? そうか、良く寝ているか! それは結構なことだが、本当は寝ている 暇があるのか? 君たちが寝ている間に、アメリカでは、どんどん研究開発 が進んでいるんだぞ。大丈夫なのか?」と、それを真顔で言うのだから、腹 が立つと言うより、呆れるのを通り越して、逆に、なんとも可愛らしいのである。 今なら、パワーハラスメントにもなりそうだが、当時は、「よく言うよ!」 で済まされた時代であった。

そう、80歳になられる直前か、80歳丁度の時か、ご一緒にゴルフを回らせて 頂いたことがある。なにしろ軍隊で鍛えた身体は、背筋が真っ直ぐだから軸 がぶれない。当然、打った球は真っ直ぐ飛ぶ。凄いなと思って、山本さんの クラブを見たら、アイアンのシャフトが全てスティールである。当時、漸く カーボンシャフト全盛の時代から筋力のある人はスティールに変えていた時 代であった。思わず、「スティールシャフトで打たれているんですか?  最新のトレンドですね。お若いですね!」と申し上げたら、「馬鹿野郎!  俺は大昔からクラブを買い替えていないだけだ。こんなものに大金を投資す るのは大ばか者だ!」とまたもや叱られてしまった。

つい最近も、汐留の本社のエレベーターで、ご一緒した時に、「最近の 日本の総理大臣は何だ! もっとまともな奴は出てこないのか?」と私に 仰るので、「そうですね!中曽根さんのような立派な総理大臣は、もう出て 来ませんね」と例の軽口で、お答えした。それが失敗だった。「何を言って いるんだ、お前は! あんな中国からちょっと言われて靖国の参拝をやめて しまう奴が、何が立派なんだ!」。ああ、また失敗してしまった。どうも、 波長が合わない。でも、仕事とは全く関係のない話なので、いくら叱られて も、こちらも全く腹が立たない。「いや、申し訳ありません。」と、エレベ ーターから先にお見送りするだけであった。

山本さんがソフトウエア事業部長だった、同じ時期に、同じ建物の別なフロア に、当時、数値制御事業部長だった稲葉清右衛門さんが居られた。この数値 制御事業部が後のファナックとして富士通からスピンアウトする。そう言え ば、この稲葉さんもラスト・サムライの一派である。富士通が、曲がりなり にも、現在、無借金経営が出来ているのも、所有していたファナック株の売 却益のお蔭である。稲葉さんも、東大工学部の造兵学科卒で、こちらは 技術力で戦争をするために勉強した学徒であった。幸い、稲葉さんは、今も 大変お元気と伺っている。

山本さんと稲葉さん、お二人とも青春時代の熱き血潮を日本が戦争に勝つこ とに注がれたが、結果的には壊滅的な敗戦によって大きな挫折を味わうことになった。 この悔しさを実業界でリベンジを果たそうと山本さんはコンピュータ本体で 、稲葉さんはロボットで、それこそ命を賭けて経営にあたられてきた。そして、今、順調に世界制覇を 果たしつつある稲葉さんはともかく、特に山本さんは、未だ心残りのことも 数多くあったに違いない。それでも、山本さんが日本の情報処理産業の発展 のために果たされた功績は限りなく大きい。心より、ご冥福をお祈りしたい。

112 夢の再生可能エネルギーは海にある

2012年1月25日 水曜日

今年度も規制制度改革分科会に参加させて頂き、特にエネルギーWGにて再生可能エネルギー(以下再エネと略)の推進を阻む規制の緩和及び改定についての議論を行っている。先週から始まった関係省庁ヒアリングでは、これまで閣議決定された内容について、その進捗状況を各省庁から伺っている。はっきり言って、殆ど省庁において、顕著な進捗が見られない。この日本という国は、国家として極めて重要な位置づけにあるはずの「閣議決定」までもが官僚たちに全く無視されているか骨抜きにされている。

再エネ推進を阻害している関係法案は、森林法、農地法、国有林法、電気事業法、工場立地法、河川法、建築基準法、自然公園法、温泉法、廃棄物処理法の10本の法律である。先日、各再エネ推進団体から事情聴取した限りでは、どれも日本を滅ぼす悪法としか言いようがない。もともとの立法精神は、日本が世界に誇る美しい自然を守る法律であった。もちろん今でも、その役割を果たしている。

原子力発電が日本の電力の大半を担っていた時代には、こうした自然には人工的な手を付けないで、これまであるがままの姿で保全させることは大事な意味を持っていたに違いない。しかし、原子力発電が、その事故によって放射能汚染という人類存亡の危機に陥れることが、判った以上は、その代替手段として再エネを用いたエネルギー政策を推進せざるを得ないわけだが、残念ながら、どの再エネも何らかの形で自然に何らかの影響を与えることは避けられない。特に、美観といわれると、これは人工物である限り、それ自体が美観を損ねると言われれば何もできない。

案の定、国土交通省河川局はドイツでは5,000か所もあると言われる、小水力発電に対しても閣議決定に真っ向から反対する。小水力発電は取水するわけではないのに、水利権に対して従来通り極めて保守的である。彼らの論理は「特区を作れば何でも簡単な手続きで出来るようになる」と主張する。大体、特区自体が簡単には認められないのにである。「東日本は、今、特区が簡単に認められるから、それでやれ」と言う。しかし、今の日本で電力が足りないのは東日本ではなくて、原発依存度が高かった西日本なのだと言えば、「所詮、小水力で原発の代替など出来るわけがない」と捨て台詞を吐いて帰って行った。

次の環境省国立公園課も同じ調子である。とにかく国立公園内には、地熱発電所も、風力発電所も一切作らせないという頑なな態度である。彼らは既に閣議決定が出ているのに抵抗するわけだ。最後には誇りに満ちた顔で、「尾瀬が原を水没させなかったのは日本の環境行政の英知だ」と抜かしおる。確かに、チェルノブイ原発周辺の立ち入り禁止区域は、動植物の天国で、素晴らしい自然公園になっているという。環境省は、まさか日本中が放射能汚染地域になれば良いと思っているのではないかと疑わざるを得ない。人間が関わる限り、何らかの自然破壊は起きるのだ。問題は、その程度である。

こうした議論を続けていると、狭い国土しかない日本で再エネなど振興できるのだろうか?と失意せざるを得ない。どこかで何かしようとすれば、必ず既得権者との争いが起きる。そして、自然擁護者との戦いもある。例えば、風力発電のアセスメントには、日本野鳥の会まで入っているのである。まあ、環境省の話を聞いていると、彼らこそ、生粋の原発推進論者だったのではと思わざるを得ない。放射能は美観も損なわないし、CO2も出さないし、ごく一部の地域の人が我慢すれば原発は莫大なエネルギーを出す。森林も山も川も、事故を起こさない限り汚染することはない。こういう論理なのだろうか?

一昨日、大学時代のクラス会があった。私たちのクラスは電気電子工学科だったので、エネルギー問題に対する関心は高い。当然、東京電力に勤務していた者もいる。その中で、企業を早くに退職し大学の先生になった友人が大変興味深い話をし始めた。

地球上の人類には3種類のエネルギーが利用できるのだという。太陽エネルギーと核分裂エネルギーと地殻(マグマ)のエネルギーだ。従来、最も有望視されていた核分裂エネルギーは、どうもだめだ。そうなると太陽か、マグマだが、太陽の方が圧倒的に量が多いという。しかし、その中身は太陽光や太陽熱ではなくて、海中に蓄えられたエネルギーだと言うのである。その最たるものが海流だという。幸い、日本は世界最大の海流である、黒潮が近海を流れているので、最も恵まれているのだと友人は主張する。但し、黒潮も近いとはいえ、日本の沿岸から少し離れているので送電線を張るのは大変だから、一度水を電気分解して水素エネルギーに変換して輸送すれば安価にエネルギー運搬が出来るという。この黒潮だけで、他の再エネなど無くても十分間に合うのだという。

さて、この話はどっかで聞いた話と似ているなと思った。そうだ、今月13日に会津大学復興フォーラムで東大生産技術研究所の木下先生から海洋エネルギーを用いた発電について面白い話を伺った。先ほどの黒潮の話と似たようなストーリーである。但し、この木下先生の話は単なるアイデアではない。英国で既に具体的に計画されている話である。英国政府は英国の沿岸を幾つかの区域に分けて、携帯電話同様、海洋区域のオークションを行っている。英国では潮力発電は既に夢物語ではないのである。

木下先生は東大を卒業後英国のサザンプトン大学で海洋学を学ばれている。会津大学の角山学長によれば木下先生は、まさに会津を含む福島復興のシンボルなのだという。それは、木下先生が、幼少時代を白虎隊に参加し、その後、明治政府の圧力にもめげず、東大総長を2度も務められた山川健次郎先生のひ孫にあたられるからだそうだ。

その会津の歴史は、ともかくとして、木下先生の話は雄大で、夢があっていいなと思ったのは私だけではないだろう。狭い日本の国土で、国交省河川局や環境省の国立公園課や廃棄物処理課と話をしていても、論理が矮小で面白くもなんともない。もう再エネに関して地上の話はやめたくなった。霞が関から外海へ出よう。日本近海の黒潮を取り込んで日本のエネルギー問題を一気に解決できたら、きっとスッキリするだろう。今後は、こうした前向きの議論をしたい。

111 もし3.11大津波が湘南海岸を襲ったら

2012年1月23日 月曜日

昨日、平塚の西海岸で一人暮らしをしている母を慰問した。今年、米寿を迎えるが 、相変わらず意識ははっきりしており、3食は自分で作ったものでないと気が済ま ないらしい。母は、時々、携帯メールで自分の近況を伝えてくるので、こうしてメールが使えるうちは、 認知症の問題も全くないとは言えないが、未だ深刻な状況ではないと思っている。

今回の訪問で、実家のすぐ傍の電信柱に真新しい海抜表示の金属プレートが貼られて いるのに初めて気が付いた。これによって、実家は海抜5.8mであることが判る。 そこから北へ、150mほど登ったところが、広域避難所でもあり付近の最高海抜を 有する平塚工科高校で、そこには海抜8.2mとある。さらに、そこから北へ500m ほど下ったところに東海道線が走っているが、それは多分、私の実家よりだいぶ低い ので、海抜5mにも満たない。

私の実家は、相模湾から500mほどしか離れていないので、私の犬との散歩はいつも 海だった。昼間、学校で嫌なことがあっても、犬と海岸を散歩していると、その雄大な 景色を見ている間に全て忘れることが出来た。真正面には遠く大島の島影が薄らと見え、 左手には江の島から遠くに三浦半島、右手には富士山と箱根の山々と遠くに伊豆半島 が見える。藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮までの湘南海岸に共通する風景で ある。気候は温暖で、めったに雪など降らない過ごしやすい土地柄なので、だから 大将や大臣など偉い人が輩出しないのだと昔から言われてきた。

会社に勤めてからも、故郷にずっと住み続けたいと思っていたのだが、亡くなった父 親が、毎朝6時に家を出て帰りは深夜の1時ごろ帰宅する私の会社生活を見て、 「そんな生活をしていたら早晩死んでしまう。早く、この平塚を出て、職場の近くに 住め!」と、今から思うと貴重な遺言を残してくれた。それで、私は都心まで30分 で出られる横浜北部の田園都市沿線に住むようになった。

ちなみに私の小学校は、実家よりさらに海に近いところにある。大きな台風が来ると 小学生達は授業をそっちのけにして、海の方を見続けるのである。ときどき来る大波が 防風林を乗り越えて、さらに、あの箱根駅伝で有名な国道134号線を超えて、住宅地 の方まで海水を運んでくるのだから恐ろしい。私の同級生で、台風の時に海岸で嵐のさまを 見ていて波にさらわれて亡くなった者が3人もいる。

さて、この湘南海岸を、あの3.11大津波が襲ったらどうなるか? 間違いなく私の実家 は津波に流される。しかし、私の実家は「丘」の地名がつくほど、平塚の西海岸では、 ちょっと小高い所である。仮に、高さ10mの津波が襲ってきたら、避難所の平塚工科 高校でも、校舎の2階から3階まで登らないと安全は保障されないだろう。ましてや、 東海道線など、あの仙石線同様、完全に流されて崩壊する。そうだ、平塚の東海道線の 南側の海岸は、あの仙台平野の海岸地帯に起きたのと同じ悲劇が繰り返されるだろう。そして、 それは平塚だけではない。同じ地形をした、藤沢、辻堂、茅ヶ崎から大磯、二宮まで 、首都圏の一等住宅地である湘南海岸は全滅だ。

一体、それは本当なんだろうか? 単なる私の取りこし苦労ではないのか? そうした 不安を夕方のNHKテレビが確定的なものにした。平塚市は、3.11大津波と同じ規模までとはいかないが、 高さ10mの津波が相模湾から平塚沿岸部を襲ったらどうなるか?というシミュレー ション映像を東海大学の協力を得て作成し、市民ホールで市民に公開したのだ。NHKの 報道は、私の懸念が、単なる妄想ではなくて現実に起きる可能性を持っていると報じて いた。つまり、東海道線以南の海岸住宅地は全て津波に流され、東海道線も 崩壊、津波はさらに北上して市役所までもが浸水すると言うのである。だから、平塚市 は海岸部の全域の電柱に海抜表示をして、自分の地域の危険度を自ら把握するよう警告 を発したのだ。

さて、これで私は考えた。確かに、今回の東日本大震災は、三陸のリアス式海岸という 特殊な地理環境だけでなく、仙台平野から千葉の九十九里沿岸まで、なだらかな一般的な 海岸線にまで、津波の大きな被害を及ぼし多数の犠牲者が出た。それは、どういうことだ ろう? こうした大津波の被害は、日本全国の海岸線、即ち、日本の人口の8割から9割が住 む太平洋沿岸住宅地に直接関係してくるということになる。

「あんな海のそばの低地に住んでいるから危ないのだ。もっと高台に住まないと!」と、 今回の大震災で起きた津波の被災者のことを冷ややかに見ている方は少なくないだろう。 「あなた、あなただって同じなんですよ! 今回の津波被害は、あなたも無縁ではないの ですよ!」とNHKニュースは湘南海岸の住宅地に住む人たちに警告しているのだ。

風光明媚で温暖な気候、これほど住みやすい海岸地帯を引き払って山麓の高台に引っ越し したいと、今の湘南海岸に住んでいる人たちはすぐさま思うだろうか? きっと、そうは 思わないだろう。それは、三陸沿岸や仙台平野に住む人たちも全く同じ気持ちなのだ。そうして 自らを被災者と同じ立場に立って考えると、私たちは、もっと優しい気持ちで被災者の方 々に向かい合えるかも知れない。