本日、富士通の社長、会長を務められた山本卓眞氏の訃報が発表された。 昨年12月4日に脳梗塞で倒れられ、入院療養されておられたが、1月17日 肺炎で、ご逝去されたとのことである。葬儀は既に、ご家族で執り行われ 、来る3月9日に帝国ホテルにて、お別れ会が催されると伺っている。享年86歳で あった。
私は、昨年11月30日に富士通川崎工場本館20Fのサロンで東大電気電子 工学科の新人歓迎会で山本さんとお会いしている。いつもと変わらず、 姿勢正しく凛として乾杯のご挨拶をされたのが、今でも印象に残っている。その 4日後に倒れられるとは想像もつかないほど、お元気なご様子であった。
山本さんは、だいたい86歳には見えなかった。私は、山本さんに対しては 前の社長としてよりは、生き残りの特攻隊パイロットとして敬意を表して いた。山本さんとは、その思想信条は必ずしも同じではないが、「やはり、一度、 死を覚悟した人には勝てないな」と思い、敢えて正面から論争することを 避け、「いや、ごもっともです」と言う言葉が自然に口に出てこざるを 得なかった。まさに富士通におけるラスト・サムライであった。
山本さんが社長として、一番苦労されたのは、あのIBM紛争事件である。 それでも、私が「あの時は、大変でしたね」と申し上げると、「いや、 私は何もやっていない。全て鳴戸に任せていたんだ。あいつが一番大変だ った。私は後ろから応援してただけだよ」とご自身のご苦労については 一切語らなかった。
山本さんは陸軍士官学校を卒業後、入隊され、戦争終結後に東大の第二工学部 の電気工学科に入学されている。昭和24年に東大を卒業され富士通の前身で ある富士通信機製造株式会社に入社された。当時は大学の先生が行けという 会社に就職したらしいが、当時の富士通信機製造は、吹けば飛ぶような、ち っぽけな会社に、よくも入ろうと思ったものである。余程の就職難だったのだろ う。今の学生たちが、寄らば大樹の陰と大企業に就職したがるのとは大違い である。
私は山本さんに、「どうして富士通に入ろうと決めたんですか?」と聞いた ことがある。そうしたら、山本さんは次のように答えられた。「大学の 先生が行けと言うから、武蔵中原の本社に見に行ったんだ。当然、本社事務 所は一番立派な建物だろうと思って、只一つの鉄筋コンクリートの立派な 建物に入ったら、そこは事務所ではなく病院だというじゃあないか。この会社は変わった会社だなと思った。それで入ろうと決めたんだよ」と仰った。戦争を経 験した方には病院はオアシスである。それを大切にする会社は立派な会社だ と思われたのだろう。
私が富士通に入社して最初に山本さんにお会いしたのは、大学の同窓会の会 費を集めに行ったときである。それは新人の仕事であった。当時の山本さん はソフトウエア事業部長として大部屋の中に広いスペースを取った一角に お一人で座っておられた。こちらも新人だったが、なんかとても偉そうにし ているのだ。その時は、何で、この人はこんなに偉そうにしているのか?と 思ったが、実は軽口も叩ける好々爺だと後で知った。その後、直ぐに社長に なられたのだが、何しろ私とは歳が違いすぎる。山本さんが入社されたのは、私が 2歳の時だからだ。あまり歳が違うので、向こうも私を子供扱いだ。だからこそ、 何でも言えるし、また何を言われても怖くはなかった。それは、社長、会長 を辞められた後も、つい最近まで続いていた。
山本さんが社長時代に言われた一番傑作な言葉は、「君たちは良く寝ている か? そうか、良く寝ているか! それは結構なことだが、本当は寝ている 暇があるのか? 君たちが寝ている間に、アメリカでは、どんどん研究開発 が進んでいるんだぞ。大丈夫なのか?」と、それを真顔で言うのだから、腹 が立つと言うより、呆れるのを通り越して、逆に、なんとも可愛らしいのである。 今なら、パワーハラスメントにもなりそうだが、当時は、「よく言うよ!」 で済まされた時代であった。
そう、80歳になられる直前か、80歳丁度の時か、ご一緒にゴルフを回らせて 頂いたことがある。なにしろ軍隊で鍛えた身体は、背筋が真っ直ぐだから軸 がぶれない。当然、打った球は真っ直ぐ飛ぶ。凄いなと思って、山本さんの クラブを見たら、アイアンのシャフトが全てスティールである。当時、漸く カーボンシャフト全盛の時代から筋力のある人はスティールに変えていた時 代であった。思わず、「スティールシャフトで打たれているんですか? 最新のトレンドですね。お若いですね!」と申し上げたら、「馬鹿野郎! 俺は大昔からクラブを買い替えていないだけだ。こんなものに大金を投資す るのは大ばか者だ!」とまたもや叱られてしまった。
つい最近も、汐留の本社のエレベーターで、ご一緒した時に、「最近の 日本の総理大臣は何だ! もっとまともな奴は出てこないのか?」と私に 仰るので、「そうですね!中曽根さんのような立派な総理大臣は、もう出て 来ませんね」と例の軽口で、お答えした。それが失敗だった。「何を言って いるんだ、お前は! あんな中国からちょっと言われて靖国の参拝をやめて しまう奴が、何が立派なんだ!」。ああ、また失敗してしまった。どうも、 波長が合わない。でも、仕事とは全く関係のない話なので、いくら叱られて も、こちらも全く腹が立たない。「いや、申し訳ありません。」と、エレベ ーターから先にお見送りするだけであった。
山本さんがソフトウエア事業部長だった、同じ時期に、同じ建物の別なフロア に、当時、数値制御事業部長だった稲葉清右衛門さんが居られた。この数値 制御事業部が後のファナックとして富士通からスピンアウトする。そう言え ば、この稲葉さんもラスト・サムライの一派である。富士通が、曲がりなり にも、現在、無借金経営が出来ているのも、所有していたファナック株の売 却益のお蔭である。稲葉さんも、東大工学部の造兵学科卒で、こちらは 技術力で戦争をするために勉強した学徒であった。幸い、稲葉さんは、今も 大変お元気と伺っている。
山本さんと稲葉さん、お二人とも青春時代の熱き血潮を日本が戦争に勝つこ とに注がれたが、結果的には壊滅的な敗戦によって大きな挫折を味わうことになった。 この悔しさを実業界でリベンジを果たそうと山本さんはコンピュータ本体で 、稲葉さんはロボットで、それこそ命を賭けて経営にあたられてきた。そして、今、順調に世界制覇を 果たしつつある稲葉さんはともかく、特に山本さんは、未だ心残りのことも 数多くあったに違いない。それでも、山本さんが日本の情報処理産業の発展 のために果たされた功績は限りなく大きい。心より、ご冥福をお祈りしたい。