2011年11月 のアーカイブ

93 スパコン「京」誕生物語 (その2)

2011年11月15日 火曜日

今年6月ドイツで開催されたスパコンの学会で「京」は初めて世の中にデビューしたわけだが、関係者の注目を集めたのは、その演算性能を表す8.16ペタフロップスではなく、また実行効率93%という数字でもなかった。もちろん、この二つの数字は、これまでのスパコンでは考えられない画期的なものであるが、関係者が注目したのは、「演算時間28時間」だった。つまり、「どうやったら、連続28時間も動くのだ?」ということである。

近年、スパコンの競争は従来のコンピューターメーカーだけでなく、大学や研究機関も参入してきて競争が激化してきている。まさに、その性能競争の様相はF1レース、そのものである。元来、F1は一般道路は走れない、そして長時間安定して走るのも無理である。数万から数十万のプロセッサを搭載したスパコンは、長時間動かしているうちに、どれかが壊れる。そしてダウンする。だから、一昼夜以上連続して動くなど考えられないのだろう。だとすると、それは商用機には出来ない。商用機は、あくまで信号もあり、時に陥没もある一般道路を走らなければならないからだ。

そしてスパコンの性能競争は、瞬間的な最高速度ではなく、平均速度で競われる。考えてみてほしい、飛行機の平均速度には、離着陸時の速度も含まれるのだ。そうすると平均速度を早くするには、遅い速度の離着陸時間の割合を少なくするために水平飛行の時間をできるだけ長くするほうが良い。「京」は、そのために1000万次元の行列演算を対象に選んだ。その結果、計算時間が28時間かかったというわけである。ところが、IBMや富士通以外のスパコンでは、なかなかこれが難しい。F1スパコンでは、こんなに長時間連続して動けないからだ。

では、IBMや富士通は、なぜ絶対ダウンしないスパコンが出来るのか?それは、絶対にダウンしないことが要求されるメインフレームのテクノロジーを用いているからである。壊れそうになった、あるいは壊れたプロセッサからは、自分から使いもになりそうもないという信号を出してもらうのだ。そして、それらをシステムから切り離して全体に影響が出ないようにする。メインフレームでは、当たり前に行われている構造をスパコンにも適用しているからである。つまり、スパコンをF1仕様ではなくて、一般の商用車の仕組みで作っている。

もう一つ、一般のスパコンユーザーはアプリケーションソフトは自分では開発をしない。一般に売られている商用の流通アプリケーションを使う。企業は、大学が開発した無償のソフトウエアは絶対に使わない。アプリケーションソフトは保守や定期的なバージョンアップが重要であり、その保証がない無償のアプリケーションは恒久的には使えない。即ち、タダより高いものはないというわけだ。さて、アプリケーションベンダーは、特殊な構造のプロセッサを極端に嫌がる。このスパコンの世界では、Intelのx86、IBMのPower、そして、かつてのSunMicrosystemsが開発したSPARCの3種類だけが認められている。富士通は、そういう意味でスパコンに供するプロセッサとしてSPARCを使っている。

かつて、富士通はSPARCを米国シリコンバレーで開発しようと一大拠点を作ったが大失敗をした。当時の経営者は、「プロセッサを開発するなら本場のアメリカだ」と思ったに違いない。しかし、シリコンバレーという土地を選択したことが大間違いだった。シリコンバレーには、じっくりと腰を落ち着けて開発するという地味な仕事に向いているエンジニアは殆どいない。大体が、口八丁の山師である。それが証拠にインテルは世界中に複数のプロセッサ開発拠点を持っているが、シリコンバレーで出来上がったものには駄作が多い。高速プロセッサはオレゴン州のポートランド、省電力プロセッサはイスラエルのハイファで秀作が作られる。この富士通の大失敗を救ったのが、今回、日経BPで日本のリーダー100人に富士通から選ばれた井上愛一郎である。

井上は、元来、メインフレームのプロセッサ開発の仕事に従事してきた。そして、井上は東大を卒業後、一度化学メーカーに就職をしている。しかし、プロセッサ開発を生涯の仕事にするべく、富士通に中途入社した。日本にはプロセッサを自社開発しているのは富士通1社しか無かったからだ。井上は、ゼロベースからSPARCを作るのは無駄な仕事と決めつけ、自分がこれまでやってきたメインフレームのプロセッサの命令セットを変更してSPARCを作ってしまった。メインフレーム向けからSPARCへの変更量はプロセッサ回路全体の僅か数パーセントに過ぎなかった。しかも、アメリカで5年以上もかかって開発してきたSPARCプロセッサの性能を遥かに上回るものを作ってしまったのである。裏を返せば、富士通のメインフレームのプロセッサは、世界的に見ても、そう捨てたものではないということだ。この井上の発想は富士通の経営戦略に大きな光明をもたらした。メインフレームとUNIX向けプロセッサの共通開発が可能になったからだ。富士通は、メインフレームの開発を止めるわけにはいかない。そして、その開発作業の中でUNIX向けのSPARCも一緒に開発出来てしまうというわけだ。

そして、スーパーコンピューター「京」が、演算性能10ペタフロップス、実行効率93%という前人未到の性能に到達できたのは、井上の二つの挑戦があった。一つは、TOFUと呼ばれる6次元メッシュ/トーラスのインターコネクトである。8万個にも及ぶ膨大な数のプロセッサを効率よく動かすには互いの会話が高速かつスムースに行うためには特殊な高速バスを必要とする。特に、このTOFUは、自分が会話したい相手のプロセッサと最短距離で結合することができる。こうしたバスの仕組みはプロセッサ単体の性能以上にスパコン全体の性能に大きく関与する。そして、この仕組みは市販のプロセッサでは、やはり実現出来ないのだ。

もう一つ、井上が挑戦したプロセッサの新たな仕組みがある。一般的に、1、000人月の仕事があったとする。例えば建築の仕事だと思ってほしい。大体、1、000人月というのは100人で10か月と思うだろう。それが大体世の中の常識だ。それを1、000人集めてきたら1か月で出来るのか? いや、もっとわかりやすく言えば10,000人集めてきたら3日で出来るのか? そして、もっと100,000人集めてきたら2時間半で出来るのか? 一体、何を馬鹿なことを言っていると思われるだろうが、現在のスパコンというのは、そういうことをやろうとしているのである。大体、100人でやる仕事に10,000人も連れてきたら、仕事の段取りを決めるまでに何日もかかって、そのオーバーヘッドの方が本来の仕事を上回ってしまうだろう。

スパコンも全く同じことが起きる。スパコンの性能を高めようと膨大な数のプロセッサを搭載すると性能が上がるどころか、むしろ下がってしまうのだ。それは実行効率でわかる。「京」の実行効率が93%というのは驚異的な数字である。遊んでいるプロセッサが7%しかないということだ。だから、仮に電力事情と冷却能力が許せばプロセッサの数を増やせば性能はまだまだ上がる。今回のSC11で第二位のスパコンの実行効率は50%近くしかない。これは搭載したプロセッサの半分が遊んでいるということだ。こうなると、プロセッサの数を、これ以上増やせば増やすほど性能が落ちるということである。

一体、井上は何をしたのだろうか? プロセッサの数を減らして見せたのだ。つまり、アプリケーションに対して、8万個のプロセッサを1万個しかないように見せるような工夫をしている。こんな工夫も、市販のプロセッサではサポートしていない。日本のスパコン技術は、欧米のように腕力だけではない、日本特有の緻密で繊細な工夫が随所に凝らされている。

92 スパコン「京」誕生物語 (その1)

2011年11月15日 火曜日

昨日、米国シアトルで開催中のスーパーコンピューター学会SC11にて発表された世界スパコンランキングTOP500の中で、日本の「京」が、今年の6月に引き続き第一位に輝いた。性能も、その名のとおり毎秒1京回以上の演算能力を発揮、命名に恥じない性能を出すことができた。今でこそ、多くの国民の方々に祝福される快挙となったが、ここまでに至る道は苦難の歴史であった。毎年、米国で開かられるSCXXには、そう何年前からだろうか? SC06、SC07からSC09位まで毎年参加してきたが、かつて、NECが開発した地球シミュレーターで世界を驚かせた日本の勢いは既になく、IBM、クレイなど米国勢一辺倒の中で大変寂しい思いをした記憶がある。

そんな中で、もう一度、日本勢として世界一のスーパーコンピューター開発に挑戦してみようという機運を最初に作られたのは財務大臣、科学技術庁長官を務められた尾身幸次先生であった。尾身先生は、NPO法人STSフォーラムを主催していることで、世界中の研究者に、その名が知られている。STSフォーラムとは、The Science and Technology in Society (STS) forumのことで、毎年、世界中から5,000人もの第一級の研究者、科学者、経営者、政治家が京都に集まって議論をする日本最大の国際科学技術フォーラムである。その主催者が尾身先生で、政権交代後も開会式には総理が出席し、開会の辞を述べる慣わしである。

その尾身先生のお考えに賛同したのが、富士通の社長、会長を務めた、秋草富士通相談役であり、私は、まず、秋草さんによって、この世界に引き込まれた。最初は、あちこち、一緒に同行して下さったが、途中からは「もう、お前、一人でやれ」という感じで任された。尾身先生は、「再度、スパコンで世界一を!」という意志は、お持ちだったが、富士通は全く信用していなかった。やはり、巨額の損失を覚悟して「地球シミュレーター」の開発を請け負ったNECの方を信頼していたのだ。「富士通は採算が合わないと見たら、きっと逃げる」と思われたのだろう。事実、地球シミュレータープロジェクトでは、富士通は逃げた。そして、今回の「京」プロジェクトでも、富士通は結果的に巨額の損失を出した。しかし、この損失は「投機」ではなく「投資」であると私は考えている。それは富士通自身への将来の投資だけでなく、日本の科学技術発展への投資でもある。そういう綺麗ごとが言えるのも、こうした一時的な損失に耐えられるだけの財務状況があっての話であり、やはり健全な経営があってこその社会貢献である。

これから、尾身先生をはじめ、何人かの恩人の方々を、ご紹介したいと思っているが、この「次世代スーパーコンピューター」開発プロジェクトは、最初から苦難の歴史であった。それは、この国家プロジェクトが関係者に対して何の利権も生まないばかりか、世界一を奪取するという目標のリスクが大きすぎて、政治家は自らの政治生命に関わるリスクがあり、官僚も出世の階段を踏み外す恐れがあることから、殆ど誰も積極的には賛成をしなかった。それは、富士通社内でも同様である、こんなに損失を出してまで、「何で世界一でないといけないのか?」という議論は、後に有名になる「事業仕分け会議」だけでなく、富士通社内の経営会議でもあった話である。

思えば、このスパコン「京」が誕生するまで、随分と時間がかかったものである。どうやら、このスパコン開発計画が国家プロジェクトになりそうだとの感覚を私が持ったのは、小泉政権の時だった。当時、富士通の会長だった秋草さんと二人で、首相官邸に行き、細田官房長官に国家プロジェクト立ち上げの、お願いに行ったときに、「これは本当に始まるかも知れない」という感触を漸く持つことができた。細田さんは、政界きってのIT通で、ご自身でパソコンを自作されるほどのパソコン・オタクである。だから、「スパコンの話はわかりました。総理とも良く相談してみます」とすぐに同意を頂いた。

むしろ細田さんからは、「これからも、ずっと日本でパソコンを作り続けてくださいね」と、逆に、お願いをされた。富士通のパソコンの主力工場は島根県斐川町にあり、正確に言えば、細田さんの選挙区ではないのだが、隣の出雲市は細田さんの選挙区である。その出雲市から富士通のパソコン工場に通っている方が数多くいらっしゃるのだった。ここで、私は、細田さんに、「島根県の方々には車通勤の利点を活かして、大変、変則的な勤務体系をお願いしており、それを快く受け入れて頂いて感謝しています。」とお答えした。細田さんは「工場を日本に据え置くために企業と地元の従業員が、どのように協力しあっていけば良いか、よく話し合って下さい。」と言われた。政治家の方々の最大の関心事は、やはり雇用の問題である。

首相官邸に行ったのは、この時が最初で最後である。官房長官室は首相の執務室の隣で、大変立派な部屋だった。二階の長官室から階段を降りてくると十数人の官邸記者クラブの人たちに取り囲まれ「今日は、何の用ですか?」と詰問された記憶がある。もちろん、「今日は、パソコンの話です。」とお答えをした。嘘でも何でもない、真実である。首相官邸と名のつく場所には、この日以外には、インドのマンモハン・シン首相に、当時の甘利経産相と「デリー・ムンバイ産業回廊」の話で会いに行ったときしかない。二重三重にもボディー・チェックがあり、厳しいのはどこも同じだ。

細田さんは、自民党IT議連の幹事長をやっておられたが、その時の事務局長が、現在、自民党政調会長をされている茂木先生だった。スパコン・プロジェクトでは、茂木先生にも大変、お世話になった。茂木先生は、私たちが作成した資料に、ただ口頭で批評されるのではなくて、実際に赤鉛筆で修正をされるのだから凄い。さすが、元マッキンゼーの第一級のコンサルタントである。東大からハーバード大学を卒業されて入社したマッキンゼーで茂木さんが最初に手掛けた仕事が「NTT分割」だというのだから、何とも言いようがない。私は、何度も議員会館にお邪魔して茂木先生の指導を受けたが、これほど優秀なコンサルタントは日本には居ないのではと思うほどだった。

そして、この「京」は10ペタ・フロップスの性能を意味するわけだが、これを命名したのは、もちろん政治家である。確か、財務官僚出身の後藤先生だったと思う。私は、最後まで、この10ペタという目標に抵抗し続けたのだが、「京」と命名されて観念をした。私たちが、完全にコミットできるのは1ペタで、多分出来るだろうと思っている性能も、せいぜい5-7ペタが限界で10ペタは、ちょっと、どう見ても無理と主張し続けていたのだった。それを私たちに説得したのが理研の姫野先生で、「富士通は7ペタで結構、NECが3ペタを受け持つので、両社合わせて10ペタにしましょう。」と何だか玉虫色の決着だった。それでも、私たちは、NECが3ペタを受け持ってくれるのなら、何とか頑張れば出来るかも知れないと思い決断に踏み切った。

しかし、何が起きるかわからないものである。NECが途中で撤退したのだ。NECの開発者の方々は、さぞかし無念だったと思う。富士通の社内でさえ、「こんなにリスクが大きくて採算に合わないプロジェクトは撤退したらどうか? NECの経営判断は極めて正しい。」という人たちの数も決して少なくはなかったからだ。しかし、私たちは焦った。「富士通単独で、どうやって10ペタ出すんだよ?」という不安で一杯だったからだ。

(続く)

 

91 セカンド・エコノミー

2011年11月14日 月曜日

イタリアでは国債金利が7%を超えて、さすがの強気のベルルスコーニ首相も退陣した。アイルランド、ポルトガル、ギリシャでも国債金利が7%を超えると大騒ぎになった。さて、なぜ7%なのか? どうも金融業界の方に伺うと、7%複利では10年で金利総額が元本を超えるらしい。論理は極めて単純で分かり易い。7%というのは、それだけ大変な金利らしい。確か、私も35年ほど前に、最初に持ち家を買うときは7%位の金利だったような気がするが、毎年、どんどん給料が上がる高度成長とインフレが重なった時代だったから、大して気にはしなかったのだろう。

さて、このイタリアは、なにしろG7のメンバーであり、ギリシャとは比べ物にならない規模の国なので、さぞかし大変なことになったと思ったが、実態は、ギリシャとは随分違うらしい。つまり、イタリアは地上経済の2倍もある大規模な地下経済を持っていて、本当は、とてつもなく豊かなのだという。表面上の統計数字では、イタリアの一人あたりのGDPは日本より僅かに少ないのだが、実体は遥かに多いと言うことか? そして地下経済では税金を払わない、つまり徴税されないので国家財政が破綻したのだという。世界で一番早く全家庭に普及を済ませた電力のスマートメータも、本当は盗電を防止するのが主目的だというからイタリア国民の逞しさがわかる。

日本でも、地下経済ではないが、パチンコ産業は30兆円にも及び、今、TPP問題で揺れている農業の生産額全ての5倍を超える。東京都の石原知事が、公営カジノをやりたいという理由が良くわかる。東京湾の真ん中に国際的なカジノを作れば、東京都の財政は、今後100年は安泰で、何の苦労も要らないだろう。このように、経済活動は、メディアを含む多くの人が見えないところで、大きな潮流が動いている。静かに、着実に動いているから、表面に出た時には、人々が驚くような規模と力を持つに至り、もはや、どうにも抗することの出来ない勢力となり、それが時代の変化へと繋がっていく。

さて、このたびマッキンゼー・レポートに掲載されたブライアン・アーサーの「セカンド・エコノミー」という論文は、ICTを仕事としている私には、少しショックだったので、ここに、ご紹介したい。うすうす、そうではないかと言う気はしていたが、こうして数字ではっきり示されると、やはりドキッとする。チュニジアから始まって、エジプト、リビアなどの北アフリカ地域から英国、そして米国へと、世界中で起こっている高学歴の若者達が起こす暴動や反乱が、何に根づいているのか示してくれているような気がしてならない。

1850年、南北戦争の10年前のアメリカは、今、話題のイタリアよりも小規模の経済しか持ちえなかった。それが、40年後にはアメリカは世界最大の経済大国になった。その一番の要因は大陸横断鉄道だったという。工業と鉄路がアメリカを巨大な国へと押し上げた。そのアメリカを、さらに強固にしたのは、今から20年前に始まったインターネット革命だという。その前には、飛行機に乗るときには空港のカウンターに行って、係員と様々なやりとりをして、ようやくボーディングチケットを手に入れたのが、今では、マイレージカードを機械に入れるだけ搭乗手続きは全て完了する。そして、そのカードが機械の中に入っている数秒の間にも、そのカードは世界中の、沢山のコンピュータとネットワークを経由して会話し、搭乗券を出す前には、顧客のあらゆる情報を既にチェックし終わっている。

オランダのロッテルダムの貨物船の積み荷の輸出入手続きにしても、昔は、どれだけ多くの伝票と人手を介して仕事が進められたものだったろう。今や、積み荷に張られたRFIDチップを機械がスキャンするだけで、その全ての手続きが完了してしまう。これも、港の運輸業者の目には見えないところで、沢山のコンピューターが仕事をしているからだ。つまり、空港や港湾は、今の世の中で起きている、ほんの僅かな例だが、地上で営まれていた仕事や経済において、インターネットが普及し始めた1995年から年率2.4%の比率で生産性が伸びている。そして、その分だけ地下の見えない経済は規模を拡大している。ブライアンは、この見えない世界の経済をセカンド・エコノミーと呼んでいる。もっと分かり易く言えば、この2.4%の生産性向上が地上の物理的な実体経済の仕事をセカンド・エコノミーは毎年2.4%づつ奪っているということになる。

農業は大規模な機械化によって、その就業人口を大きく減らした。そして農業従事者は工場へと移った。それから、ロボットや自動機が工場で必要な仕事を大幅に減らしたが、機械では出来ない、まさに人でしか出来ないサービス産業へと多くの人たちが移動した。しかし、今、デジタル革命は、人でしか出来ないはずだった多くのサービス業の仕事を奪っている。そして、その仕事は二度と人には戻ってこない。年率2.4%で成長するセカンド・エコノミーは30年で、地上の実体経済と同じ規模になる。つまり、2025年には、地上の物理的な経済と地下のセカンド・エコノミーとが同規模になる。

ブライアンは、これまでの経済学の基本原則だった「収穫逓減の法則」は、インターネットを利用したデジタルエコノミーには当てはまらない。むしろデジタル・エコノミーは物理的な限界がないので、「収穫逓増」すると主張した最初の経済学者の一人である。一見、悲観的に見える、このセカンド・エコノミー論であるが、私たちは、既に、首までとっぷりとデジタル・エコノミーに漬かって暮らしている。むしろ、この「収穫逓増」の利点を、どう人類の幸せに活かしていくのかが、今、まさに問われている。ジャスミン革命は、遠き北アフリカだけの革命ではない。高学歴化した社会に押し寄せるデジタル技術は、巨大なセカンド・エコノミーを創出する。これを、どう次の世代の若者たちの未来に活かすかを考えるときが来ている。そのためには、従来の社会の枠組みや規制を大きく見直す必要があるように見える。若者達よ立ち上がれ! 君たちの時代を、既得権ばかり大事に守ろうとする、今の老人達に任せていてはいけない。