「京」の誕生には、本当に多くの方にお世話になった。その中で、今日は、文部科学省 情報科学技術委員長、次世代スパコン戦略委員長として「京」の応援をして頂いた慶応大学名誉教授 土居範久先生と、次世代スパコン開発計画を最終的に決定頂いた、前内閣府総合科学技術会議議員で、現在、芝浦工大の学長をされている柘植綾夫先生について、お礼の意味も込めて、その思い出を振り返ってみたい。
まず土居先生とは、私が文科省の情報科学技術委員に選任された時に、委員長をされていた先生に初めてお目にかかった。人生というのは不思議な縁である。土居先生は、私の息子が慶応大学で卒業論文を書くときの指導教官で、息子は何度も、土居先生のご自宅にお招きを受けていた。息子に言わせると「土居先生は、人生最大の恩人」と言っているが、私も全く異存がない。なぜなら、あれだけグータラな子供だった息子が、会社に入ってからは徹夜も辞さない仕事人間になったほどに育てて頂いたのは、土居研のサーバー管理を先生から任されて、昼も夜も、一日中研究室に入りびたりになって働くようになってからである。
土居先生は、国がICT分野の研究開発方針を決めることに大変大きな影響力をお持ちではあるが、ハードウエアに多額の研究費を投入することには必ずしも同意されていなかった。日本は、国家としてソフトウエアの研究開発に、もっと軸足を移すべきだという主張をお持ちだった。私も、全く同じ意見であるが、そうした考えからいけば、1,000億円という巨額の開発費をスパコンというハードウエア及びそれを格納する建築物に投入すれば、総額の予算が限られている中で、ソフトウエア開発に投資される研究費は減額されるだろうという懸念をお持ちだった。
それが変化しだしたのは、神戸に設置される予定の次世代スパコンを、どの研究機関に使って頂くかを決める次世代スパコン戦略委員会を開催してからである。私も一緒に、その委員会に参加させて頂き、大変、感銘を受けたので、土居先生も同じ思いだったに違いない。なにしろ、日本中から100を超えるスパコンを使って研究を行っている機関から、プレゼンテーションを聴いた。ヒアリングはトータル100時間を超えただろうか。私の実感は、第一は、日本には、スパコンを使って、これだけ素晴らしい研究を行っている研究機関が、こんなに沢山あるのかということ。第二は、スパコンの利用は、これほど広い分野にまで普及していたのかということ。そして、最後の、これが一番大事なことのだが、研究者達が「世界一のスパコンで世界一の研究をしたい」という情熱がひしひしとプレゼンテーションから伝わってきたことである。
もちろん、その頃は、確かに建物は神戸に建築中だったが、肝心のスパコンは未だ未完成で、世界一をとれるかどうかなど、全くわからない時である。それでも、研究者達の情熱は熱気に満ちていた。やはり、研究というのは才能と地味な努力が重要だが、それに加えて「情熱」がなくては成就しない。「世界一のスパコン」というのは、「そこでは世界一の研究が出来る」という克己心に繋がるのだろう。こうした熱い情熱に接した土居先生は、ハードウエアというのは、確かに「ソフトが無ければ、ただの箱」に過ぎないけれども、それが、「世界一」という冠がつけば、これほどに研究者達の情熱を引き出す「場:プラットフォーム」として極めて有効なのだと思われたに違いない。私も、同席していて、全くそのように思った。
そして、忘れもしない米国オレゴン州ポートランドで開かれたスパコンの学会SC09。前日の仕分け会議で、次世代スパコン開発計画は全面的に見直しとの結論が出され、あの名言「なぜ世界一でないといけないんですか?」が発せられた翌日である。私たちは、SC09の開会式前夜祭で、夜7時に日本からポートランドの会場に到着する土居先生を待っていた。先生が到着するとすぐ、簡素なディナーパーティーを始めたのだが、その食事中に土居先生の携帯電話が鳴った。先生曰く、「明日、日本に帰らなくてはならなくなった」。何と、土居先生はポートランドに到着して6時間後の翌朝の午前2時には、朝5時発の飛行機に乗られるためにホテルを離れられたのだった。
多分、日本に到着してから日本学術会議の幹部でもあられる土居先生が音頭を取り、まとめられたのであろう。野依先生を始め、ノーベルを受賞された先生方が、こぞって記者会見されて、次世代スパコンの開発計画を遂行されるよう、応援演説をして頂いた。未だに、土居先生は詳しくは仰らないが、あの携帯電話は、その電話だったに違いないと思っている。
次の大恩人は、柘植綾夫先生である。柘植先生は三菱重工業で常務取締役CTO(最高技術開発責任者)から内閣府総合科学技術会議 議員になられた。総合科学技術会議は小泉内閣が創設した日本の科学技術予算の最高決定機関である。議員の多くは学者で、柘植先生のように民間企業から就任される方は少ない。巨額の開発費用をかけることとなった次世代スパコンが科学技術の発展だけでなく、民間分野での産業育成については、どのような役割を果たすかなどという課題の検討は、民間企業出身の柘植先生に多くが委ねられていた。
後になってから、柘植先生から伺ったことではあるが、柘植先生が議員に就任するとすぐに、何人もの政治家から、早くスパコンの計画を承認するよう圧力がかかったのだという。柘植先生は、民間出身だからこそなのかも知れないが、「ここで安易に政治の圧力に屈してはいけない」と思われたらしい。そのため、ご自身で、各方面へ出向いて、かなりの詳細レベルのヒアリングを行われた。私も、何度もご説明に伺った記憶がある。それで、ご自身が納得しきってから、最終的に「GO」の決定を下された。
ご自身で徹底的に調べられた後の柘植先生は、私たちがビックリするほどの強力なスパコンのサポーターになられた。つい先日の、文科省主催の「次々世代スパコン開発」のキックオフ集会にも、既に芝浦工大学長になられた柘植先生に基調講演をして頂き、私も、柘植先生に続いて講演をさせて頂いた。柘植先生とは、今でも、時々、芝浦工大の学長室でお会いするが、「日本の大学改革は芝工大から」という強い意志を持って大変精力的な活動をされている。