日本が太平洋戦争に負けて2年後、1947年10月に私は生まれた。そして幸運にも、この10月に77歳(喜寿)を迎える事になった。生まれたのは伊勢原市で、2歳になって父親の勤務地の関係で神奈川県平塚市に移り住んだ。その我が家のすぐ裏にあった平塚工業高校は、私が小学校を卒業するくらいまで、空襲で爆撃を受けたままの状態だった。旧平塚市は海軍の火薬工場があったせいで、市街地は9割以上が空襲で破壊された。丁度、現在のガザ地区のような状態だったと思う。そこに、戦後、帰還した兵士たちが結婚して我が家を、その爆撃跡に建てたのだ。私の両親も、そうして貧しいながらも、苦労しながら、子供達を育てて一家を営んでいた。
「喜寿」というのは、本来、めでたい話だと思うが、現在、世界の日常で最も話題になっているのはウクライナとパレスチナの醜い戦争である。両方とも、戦争を続けることが政権を維持するための方策であることを世界中の人々が理解しているのに誰も何も出来ないでいる。本当に無念でならない。ウクライナを侵略しているプーチン大統領の様子を見ていると、これまでロシア民族は、このようにして領土を拡大していったのだと素直に納得する。数学者を志望していた私は、大学の教養課程で友人たちと一緒にロシア語を第三外国語として履修し、線形代数の書物をロシア語で輪講していた。皆、本当に優秀であり、「この人達と机を並べて一緒に数学を勉強することは私にはちょっと難しい」と考えるに至り、数学者になることを断念した。
ロシア人は、フランス人と同様に数学など純粋な学問には強いが、具体的にモノを作るエンジニアリングに対しては、あまり関心がなかったように見える。例えば、IT関連のデジタル技術については、ソビエト連邦崩壊前には、タタルスタン共和国のカザンが開発の中心都市だった。富士通も一時、カザンにロシア支社を持っていた。同様にソ連邦崩壊前のロシアにおける半導体産業については、東ドイツのザクセン州ドレスデンが開発・製造の中心地だった。今や、ドレスデンは台湾のTSMCが欧州における製造拠点を築こうと巨額の投資をベースに建設を進めている。さらに、ロシアは、航空・宇宙産業についてはドイツ占領の際に、V2ロケット技術者を手中に収めて、具体的な開発拠点をウクライナにおいた。ソ連邦崩壊の時に、当時ウクライナにいた数千人の航空エンジニアがアメリカにわたりボーイング社に移転したと伝えられている。
プーチン大統領がウクライナを傘下に収めたいと思っている最大の理由は、このウクライナに多く居るSTEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)人材だと考えられる。ロシアが将来、米国や中国に対抗していくためにはウクライナのSTEM人材が必要だと考えウクライナをロシアの属領にしたいと考えたに違いない。日立が「Lumada」を強化するために一兆円を投じて買収したシリコンバレーにあるソフトウエア企業である「グローバル・ロジック社」はキエフ郊外に5ヶ所の開発拠点を持ち7,200人の開発人員を抱えている。つまり、グローバル・ロジック社の実態はウクライナ人がシリコンバレーに移住して作った会社だと思った方が良い。日立は、本当に良い会社を買った。
さらに興味深い話がある。2011年、ドイツのSAP, Siemens , VW, Boschの4社が中心となって第4次産業革命を実現するための中核技術となる自律分散処理(IoT)を含む「Industrie 4.0」を発表したときのことである。私は、この時、ミュンヘンに行ってSiemensのエンジニアと懇談した時の話が忘れられない。そもそも「Industrie」はドイツ語である。つまり、これはドイツ政府がドイツの製造業の発展を期したものであり、IoTの世界標準を目指したものではないということなのだ。ドイツは、アメリカや中国、日本に対抗する製造業の中興を目指すには、製造業の作業員を、いつまでも中東からの移民を頼りにしていては、将来世界一になる中国には絶対勝てないと考えた。さりとて、東欧の人々だけでは頼りない。もっと強靭な人達とIoTをベースに密接な仲間として分担製造をしていきたいと考えた。
その1番の仲間が、多くのSTEM人材を擁するウクライナだったのだ。つまり、「Industrie4.0」はドイツとウクライナの密接な連携を容易にするためのプロトコルなのだ。ドイツは、ウクライナを早くEUの仲間として迎えて、ドイツと連携するEUの中核国家にしていきたいと考えた。2014年にロシアがクリミアを占領し、これをきっかけにウクライナをロシア連邦に囲い込みたいと考えたのは、ドイツの目論見をいち早く破綻させたいと考えたからであろう。ロシアは、ドイツに対抗するためにウクライナを手中に収めたいと考えている。しかし、プーチン大統領は大きな過ちを犯してしまった。このロシア・ウクライナ戦争が一旦ロシア有利に終戦を迎えたにしても、ウクライナ人はロシア覇権の中で、もはやロシアの言うなりに仕事をするとは思われない。
これから若い人々は、デジタル技術の発展のもとで、自由な発想で生き方を考えるようになるだろう。東欧では、多くの若い人たちが低迷する自分の国を捨てて西欧やアメリカへ移住している。中国でも、富を蓄えた人々、あるいは富を求める人々がアメリカへの移住を必死になって考えている。彼らは、まずエクアドルに行き、メキシコを経てアメリカへ入るといった危険なルートでも全く厭わない。それが無理なら、中国の妊婦がグアムに移動し、グアムで出産をして生まれた子供のアメリカ市民権を取得させるということも人気を得ているらしい。ロシアや中国では、少子高齢化の進展で、人口低減が起き将来の経済発展が従来通りのストーリーで見込めない中、若い人たちは覇権主義者たちが描く夢とは全く違う夢を追いかけている。彼らに、衰退する国を背負って成長に向けて頑張るという意識はもはやない。彼らは、自らを正当に評価してくれる国があるなら、世界中、どこへでも飛んで行く。
本日、10月8日トロント大学教授を務められたジェフリー・ヒントン氏が、ノーベル物理学賞を受賞された。ヒントン先生は1947年12月6日の生まれで私と同い年で、今年77歳の喜寿を迎えられる。ヒントン先生は、1982年に人間の大脳でニューロンが学習するメカニズムを定義する逆誤差伝播法(バック・プロパゲーション)による方程式を発見された。長年の間、この手法が大きく評価されることはなかったが、トロント大学のチームは、この方程式を使ったディープラーニング(深層学習)を用いて、2012年の画像認識コンテストで圧倒的な優位で優勝した。私は、この事件を「AIのビッグバン」と呼んでいる。この時以降と以前ではAIの研究手法が全く変わり、全てのAI研究者は逆誤差伝播法(バック・プロパゲーション)を用いたディープラーニング(深層学習)に集中するようになった。
私は、1970年大学を卒業し、富士通にはAIの研究者として入社し、以来20年間、文字認識、音声認識、画像認識などの製品開発におけるAI開発に従事した。私がAI研究を断念した1990年当時、AI研究は「暗黒の時代」と言われた時期で、乳母車に乗っている幼児にも勝てないレベルだと思っていた。2歳にも満たない赤子が猫を見て「ニャンニャン」、犬を見て「ワンワン」と判断できるレベルに、当時のAIの能力は勝てない「人間とは程遠いレベル」にあったからだ。しかし、ヒントン先生はAIの研究を止めるという判断した英国の大学を辞めてカナダへ移住し、40年にも及ぶ長期間に自身の研究を成し遂げるという信念を貫いた。
ヒントン先生がノーベル賞を獲得されるのは、誰もが必然と考えていたに違いない。しかし、ノーベル生理学賞・医学賞ではなくて、ノーベル物理学賞を受賞されたのには私も驚いた。ひょっとしたら、ノーベル賞委員会は、逆誤差伝播法(バック・プロパゲーション)を用いたディープラーニング(深層学習)手法は、神が造られた人間の頭脳を模したものであり、人間の頭脳そのものとは違うものだと言いたいのかと思ったりする。ヒントン先生にとっては、人工知能の可能性を否定した英国を捨てて、カナダへ移住されたこと自体が人生の大きな賭けだったのだと思う。
しかし、昨年Googleを辞められたヒントン先生が、今、最も危惧しているのは、AIが戦争の道具に使われることである。これまで長い歴史で築かれた知識を累積し、個々の人間は、とてつもない知恵を得ることになったが、他国に侵略を続けているロシアやイスラエルの首長の言動を見てみると、本当に人類は賢くなったのだろうかと訝しくなる。こうした中で、戦争に特化されたAI兵器がもたらす結果は恐ろしい物になるだろう。私自身は戦争を直接は知らないが、両親から戦争の残酷さを何度も聞き、身近に沢山の空襲の跡地を見てきた。今の日本の若い人たちには「戦争とは地球の裏側で起きている悲劇」としか捉えられていないかも知れない。今後、AIが戦争に使われるかも知れないという恐怖の中で、「何があっても戦争だけはしない」という決意を持っている指導者を選んでほしいと願う。